これまでの日本の精神医療の歴史記述の枠組みにおいては、ある制度の是非を論ずる視点が前面に出ることが多く、その制度の中の「格差」が問題にされることは少なかった。たとえば、呉秀三『精神病者私宅監置の実況及び其統計的観察』(1918)は、私宅監置のうち、不良のもの、甚不良のものだけでなく、佳良のもの、普通のものもあったことを認めている。それにも関わらず、私宅監置制度全体を「わが国十何万の精神病者は実にこの病を受けたるの不幸の外に、この国に生まれたるの不幸を重ぬるものというべし」と批判する。あるいは、近年の成果だと、兵頭晶子『精神病の日本近代』(2008)は、「治癒可能な病から危険かつ不治の病へ、あるいは取りつかれる身体から監禁される身体へ―このように、狐憑きの意味が大きく書き換えられたとき、病者をめぐる処遇も大きく変化した。民間治療場での治病や一時的な監禁の代わりに、精神病院への収容や恒常的な監禁が取って代わったのである」(34)として、近代における監禁制度を批判する。いずれも、ある時代やある制度を一つのものとして批判し、その内部の複層性を問う方向に議論を進めていない。
しかし、呉や兵頭が問題にしている戦前期日本の精神病院の患者は、単一の集団ではなく、大きく分けて、公費・私費という二つの集合で形成されていたものであった。当時の精神医療・精神病患者へのケアは、患者の家族を別にすれば、主として精神病院によって担われており、精神病院は圧倒的に私立が多かった。1940年の状況を例にとると、府県立が7院で2,500人の患者、私立が152院で17,000人の患者をみていた。これらの私立病院のうち約半数は、精神病院法(1919)で定められた制度である「代用病院」であり、私費の患者だけでなく、公費の患者を受け入れて公立精神病院の代わりをする機能を持っていた。代用でない私立病院も公費患者を受け入れ、公立の精神病院も私費患者を受け入れていた。全体で、公費の患者と私費の患者は、それぞれ約一万人ずつであった。すなわち、日本の精神病院は、公費・私費という、財源を異にする二つの種別の患者を収容しており、「戦前の日本の精神病院における精神医療」というのは、公費患者に対するものと、私費患者に対するものの二種類が複合したものであったと捉えたほうが、より適切に実態を把握することができる。