原武史『可視化された帝国』(東京:みすず書房、2001)
精神医療の研究のヒントを求めて、近代の天皇の行幸を素材にして「視覚的な権力」を論じた書物を読む。素晴らしいヒントをもらった。
精神医療の研究のヒントを求めて、近代の天皇の行幸を素材にして「視覚的な権力」を論じた書物を読む。素晴らしいヒントをもらった。
タカシ・フジタニが日本における「想像の共同体」の成立について論じた議論を批判して、新しい理解の枠組みを提示した書物である。フジタニは、日本における国民国家と想像の共同体の成立を論じる中で、明治初期の天皇による巡幸・行幸にふれ、これは時代遅れの仕掛けになっていったという。天皇の身体が動くことで、日本全国を領土として空間的な連続体として形成した仕掛けにおいては、違った時間に違った町や村を訪れるという形で、儀礼の中心が移動するから、別の町や村に住む人たちを、同時に、定まった点に凝集するのには不都合である。それにかわって、明治後期から中心的な役割を果たした「御真影」や帝都での儀礼やパジェントが、個人個人と空間を超えて同時的につながり合うことを可能にする仕掛けとなったという。
この議論は、明治後期以降も、天皇の巡幸・行幸や、皇太子の巡啓・行啓が頻繁かつ盛大に行われ、その演出が設計され、人々が熱狂的に参加したという現象を完全に見落としたものであり、本書は、この現象を主軸に据えて、「視覚的権力」を再構築しようとする。
明治後期から、当時の皇太子(のちの大正天皇)は、さかんに巡啓・行啓をするが、彼は、明治天皇とは異なった、きさくな性格の持ち主であり、積極的に一般民と会話をかわした。(トラホームが法定伝染病に入っていないのはなぜかと金沢医専の校長に尋ねたりしている。)天皇になってからは病気が進行し、当時の皇太子(のちの昭和天皇)が摂政となって、天皇のかわりに巡啓などをするようになる。この儀礼装置は、近代的なテクノロジーによって支えられていた。皇太子はさかんに活動写真にとられ、移動は鉄道を用いて行われた。鉄道は定められた時間に従ったため、列車が通過する時間には、線路の方角にむかって沿線住民が最敬礼するということも行われた。昭和になると、大礼にあわせて急ピッチで進められたNHKのラジオを用いて、さまざまな国家儀式の様子が報道され、国民はそれらにあわせて天皇の臣民として一体化した。
のちに青年将校として二・二六事件に加わった大蔵は、現実の天皇に、水を打ったように静かな会場で最敬礼したときに、これは間違っている、天皇を雲の上におく妖雲が存在する、この妖雲をはらったその日には、国民と一緒に天皇を二重橋の上で胴上げしようではないかと考えたという。
・・・天皇を胴上げ、ですか。私個人としては、見たことがないどころか、思いついたこともない儀礼で、自分が持っている天皇制への姿勢の形が、一瞬、おぼろげながら見えた気がしました。