ロンドンでレオナルドの大きな展覧会をしているから、イギリスのメディアはこの展覧会の評論で溢れている。TLSに掲載されたジュリアン・ベルの評論がよかった。
アルベルティ『絵画論』において、歴史画(historia)という格調高い絵画においては、その絵の中にある人物を描きこみ、その人物が、その絵を見る者に、この絵では何が起きているかを語り、自分の手を用いてそれを示すようにしなければならないとされている。絵画の中の人々が、自分たちの間で行っていることと、絵を見る人に向かって行っていることの双方が、うまく組み合わされて優れた歴史画が作られるという。絵画の中の世界を、見る人に向かって指し示す案内人とでもいうのだろうか。
ルーブルにある『岩窟の聖母』においては、この案内人の役をしているのは、右側の天使である。この天使は、私たちの方をむいて、幼児キリストが幼児ヨハネを祝福しているありさまを指さしている。しかし、この指は、それが示しているはずの場面に、私たちのまなざしを誘わない。むしろ、マリアの手と、キリストの頭の間にある磁場に介入するかのようである。のちに描かれたロンドンの『岩窟の聖母』においては、その指が消された構図になっているから、ルーブル版をある種の失敗と考えることもできるけれども、この「失敗」は、ある種の異様な迫力をもたせていると考えることもできる。 まるで、鑑賞者が、キリストの頭の上の空間に入って、その場に参加するような。