いわさきちひろは二度結婚しており、最初の夫は結婚後1年ほどで自殺している。二度目の夫は、共産党員として知り合った元国会議員の松本善明であり、彼との結婚生活の中でちひろの画業が花ひらいたが、最初の夫については断片的な記述しかない。『芸術新潮』2012年7月号の「いわさきちひろ特集」に掲載された橋本麻理の伝記から最初の夫のことを知り、ツイッター上の通信で資料を教えていただいた。『いわさきちひろ―知られざる愛の生涯』が最初の夫について比較的詳しく記述しており、ちひろの二人の妹のインタビューも掲載されている。
岩崎家は、父親は陸軍軍人、母親はもと女教師という中産階級の家庭で、子供は三人とも娘であったので、誰かが婿を取って結婚しなければならなかった。母親も婿取りであったので、長女のちひろ(「知弘」)が婿を取るのが自然な流れであった。相手は専修大学を出て東洋拓殖に勤めていた青年で、眼鏡をかけたおとなしいインテリ風の人物であった。青年がちひろに惚れて、ちひろの両親もこれを歓迎し、ちひろも「外国に行けるなら・・・」という条件を出したところ、意外に簡単に大連に勤務することになり、1940年に盛大な結婚式を挙げたあと二人は大連に行って社宅で暮らすことになった。この結婚も最初は二人の間は冷たいが、結局はうまく行くだろうと両親は思っていたらしい。しかし、ちひろはこの新郎を決定的に嫌っていた。初夜のあとは涙を流し、「そばによってきても鳥肌が立つ」と妹たちに口にしていた。寝室も別にしていた。新婦に拒まれ続けた夫は、1941年に毒物を飲み、社宅のかもいで首を吊って死んだ。ちょうど1年ほどの結婚生活であった。ちひろの両親は、夫は肝硬変で死んだことにしてこの事態を処理した。もともとは秘密裡に処理されたことだが、ちひろがこの事態を人に話すようになったので、遺族もこの事実を口にするようになった。
もともと秘密に処理された事件であり、私が読んだ証言はすべてちひろの妹たちからなどだから注意しなければならないけれども、次のことが整理できる。
1. もともと二人の間には恋愛感情はなかったこと。しかし、ちひろは、当初は外国に行けるなら結婚すると言っていたこと。それが、結婚後には「そばによってきても鳥肌が立つ」という激しい嫌悪に変わったこと。
2. これは妹たちの証言だが、ちひろと夫の間には性交渉はなかった、夫は紳士であって、腕力を用いてもちひろと性交するようなことはなかったこと。
3. 夫が性病をわずらっていたこと。性病になった時期については、妹たちは、夫はちひろに愛されなかったので、遊里で遊んで性病にかかったのだろう、そして急速に手遅れになったのだろうと言っている。夫は、一度東京に帰って病院に行っている。
1. もともと二人の間には恋愛感情はなかったこと。しかし、ちひろは、当初は外国に行けるなら結婚すると言っていたこと。それが、結婚後には「そばによってきても鳥肌が立つ」という激しい嫌悪に変わったこと。
2. これは妹たちの証言だが、ちひろと夫の間には性交渉はなかった、夫は紳士であって、腕力を用いてもちひろと性交するようなことはなかったこと。
3. 夫が性病をわずらっていたこと。性病になった時期については、妹たちは、夫はちひろに愛されなかったので、遊里で遊んで性病にかかったのだろう、そして急速に手遅れになったのだろうと言っている。夫は、一度東京に帰って病院に行っている。
ここから先は私の推測だけれども、夫が性病にかかった時期について、妹たちが言っていることが違うのかもしれない。夫は実は結婚する前から性病にかかっていて、それを何らかの理由でちひろが知ることとなり、そのためにちひろが嫌悪感とともに激しく拒絶するようになった可能性もある。真面目そうな夫だから、自分で言ったのかもしれない。この時期は、話題を呼んだ『良人の貞操』(1937)の古屋信子を筆頭に、夫の性病が激しく批判され、優生学の効果もあって、結婚前に性病に罹っていないかどうか健康証明書を交わそうという動きもあった。性病系の医学書を少し読めば、似たような例を見つけることができるだろう。自殺の原因に梅毒が上がるのはむしろ欧米だけど、日本でもそのくらいがあっても驚かない。結婚から梅毒を排除しようという声が高まっていたのは、国家的にも医学的にも女性の地位向上の点でも一致していた。そう考えると、ちひろの激しい拒絶も、二人の間に性交がなかったこと、梅毒と夫婦の不和と子供ができないことなどを苦にした夫の自殺というのも、医学史家的には納得できる。もちろん、そのままのストーリーでも納得できないことはないけれども。でも、「あなたがそばにくるだけでぞっとするからあなたとは寝ません」という台詞には、好き嫌い以外の根拠が必要な気もする。この時代の妻がこれほど強硬に出るためには、何かの武器が必要だったようにも思う。