精神医学史のヒストリオグラフィの中で、「患者の歴史」と呼ばれているものがある。ロイ・ポーターが『狂気の社会史』で素描してから脚光を浴びた手法で、非常に興味深いけれども、学問として取り扱うのも難しい。自分で記録を残したり、人々の記録の対象になった人々、基本的には有名人の精神病患者が対象になる。それらの人々の精神病を列伝的に並べると、確かに色々な意味で面白い本になるかもしれないが、洗練された深い歴史を書く方法ではない。いくら社会史や文化史の方法を使っていたとしても、精神医学者たちが行う遡及的診断や病跡学をまとめたものと、同工異曲といってよい。それでも、自分が専門としている時代だけではなく、過去の有名な患者について広く知っておくことは必要であるし、できれば深い知識もあるといい。そのような目的で、過去の有名な人物の精神病についてはメモしておくようにしている。
『日本残酷物語2』を眺めていた時に見つけた謝花昇(じゃはな・のぼる)という沖縄の明治期の人物も、もっと詳しく知ろうと思った過去の有名人で精神病にかかったものである。沖縄には「しまちゃび」という言葉があり、これは「離島苦」という意味であるという。中国や日本(「大和」)に較べて、自らを後進・弱小・周縁の存在であるという意識を特徴づける言葉であった。近世には、中国との冊封関係を保ちながら、薩摩藩の植民地のように扱われて、中国に対しては中国風に振る舞って薩摩への従属を隠し、薩摩藩はこまかい指導と支配を及ぼしながら、江戸上がりの時にはむしろ中国風に振る舞うことを命ずるなど、アイデンティティが浮遊するような政治空間に置かれた。
明治に入ってもこの旧制は存続を続けた。鹿児島県の出身者は、まるで植民地のように沖縄県の知事や官吏に赴いた。その中で、沖縄出身の唯一の官吏が、謝花昇であった。謝花は、1865年に生まれ、1882年に沖縄から東京に留学して、1891年に東京農科大学を卒業して沖縄県で働き始めた。唯一の沖縄出身者というだけではなく、彼は貧しい農家の出身で、その英才ぶりは「二重の瞳をもつ」という言葉で評された。例外的に傑出した知性によって社会的に上昇した先が、自らの土地と階級を開明の名のもとに収奪する沖縄県の行政であったというわけである。謝花は知事と対立し、県政を批判して結局は1898年に辞職に追い込まれた。それから短い期間であったが、「沖縄倶楽部」を基盤にして、参政権の獲得叫ぶなどの運動を行った。しかし、1901年に突如として発狂して、それから7年間、生ける屍として苦しんだのち、回復することなく1908年に没した。
調べてみたら、色々な本も出ているようなので、謝花の精神病についてもっと調べて、頭に入れておこう。『日本残酷物語』では、県知事との苦難の闘いが心身をむしばんでいたというような書き方がされているが、そのあたりのことも、もっと詳しく知っておこう。