対応に苦慮した戦時神経症の患者に対して櫻井が持っていた最終兵器とよべるものは、けいれん療法、それも電気けいれん療法であった。1930年代から、精神疾患を治療する方法として、インシュリンやカージアゾルを処方して痙攣をおこす方法が脚光を浴びていた。それと同じ原理に基づいて、電気けいれん療法は、1938年にイタリアのチェルレッティが率いるローマ大学のチームが開発し、日本ではほぼ同時期に九大の安河内・向笠が、チェルレッティとは独立に開発した。これらの一連の療法は、使われなくなった現在では野蛮で暴力的に見えるが、それまで不治であると信じられていた精神分裂病に治療可能性の希望を吹きこんだ、重要な転機となった治療法であった。
九大チームは、分裂病以外の疾患にもECTを用いて、神経症やヒステリーに対しても有効であることを示した。これは、患者を昏睡に至らせるような有力な治療法であるという暗示、また痙攣後の意識混濁状態での暗示が有効であると思われていたこと、これが患者に対する威嚇の方法となること、医師に対して信頼と畏怖の念を持たせることができるという心理的な要因によるものとされた。櫻井は、これらに加えて、ECTは神経症の疾患としての本態にも作用すると推察している。つまり、暗示、威嚇、本態への効果という三つの効果をもつ三つ又の槍のようなものとしてECTを考え、ヒステリーや神経症の多様な構成にはたらきかけると考えていた。たとえば、症候において意識的なものがあって、詐病のように症状を大げさにしている場合には、威嚇的な効果が作用する。
単なる ECTでは効果がない場合でも、この患者を精神科特殊病棟に入れて、衝撃をかんじざるをえぬような環境に押し込むと、自己の願望を達成することは到底不可能であるとさとる。その上での映連療法は、強い威嚇の力を持っている。ある患者は、歌手になりたい、三浦環に紹介してほしいという願望を持っている一方、実家では両親が彼が望まない女性との縁談をすすめており、除隊されると、この縁談を受け入れなければならない。だから、彼は除隊処分にされるといわれると、むしろ症状をぶりかえらせ、ついには古典的な症状である「ヒステリー弓」をつくって、頭と足を支点にしたみごとなブリッジを描く。いわば、患者はヒステリーの究極の古典的な症状を発して、治癒と治療を拒絶する姿勢に出たのである。
症状は固定されてしまい、もはや通常の治療手段は使い尽くしてしまった。櫻井はここで「思い切った策」をとり、精神病棟への収容と電気ショックをもちいる。その結果、あずき豆ほどの大きさで3ミリの深さの皮下貫通の銃弾ではじまって、756日という法外な期間にわたったこの患者の治療は終了した。この症例は、治療されてその状態から脱却することを恐れている。そのような意識の偏向が存在する。これを変化させるのが威嚇であり強圧である。その脈絡の中での電気けいれん療法であった。(続)
画像はポール・リシェの『大ヒステリー・ヒステリー性てんかんの臨床的研究』(1881) からとった「ヒステリー弓」