欧米の戦争神経症の議論と、日本のそれを大きく隔てる違いの一つは、それが公衆による議論の対象であったか否かという違いである。
第一次世界大戦期のヨーロッパの交戦国において、1914年の7月に戦争がはじまって数か月のうちに、戦争神経症は公衆が注目するところとなった。イギリス軍においては、同年の12月には、フランスに設置された病院において多数の兵士が神経症的・精神的ショックの状態にあることが観察されて、新しい「疾患」の存在がクローズアップされたが、これらの情報はすぐにマスメディアによって国民が知るところになった。1915年には『タイムズ』のような大手新聞をはじめ多くのジャーナリズムが「シェルショック」の深刻な影響を取り上げるようになった。マスメディアや国民にとって、勇敢な男性の兵士たちが、壊れた自動人形のような痙攣や麻痺や硬直などを起こしていることは衝撃的なニュースであったし、しかもそれが砲弾の爆発の影響であるという当時信じられていた説明は、兵器中心の想像力の世界に簡単に適合した。この国民的な知識を背景にして、1915年にはシェルショックの将兵の扱いが議会で議論された。神経組織への物理的な影響を軸にした病因論はすぐに否定されるが、戦争神経症の問題は、当初はマスメディアと政府における「シェルショック」の問題として現れた。イギリスの医者たちはもちろんこの状況をいとわしいものと考え、ある医者の考えでは、「シェルショックの問題は、 [臨床医学の]外部の人々、すなわち一般の人々によって奪い取られて、それに対する医療と専門職の方針が、一般人の意見に従わなければならなくなった」としている。 (Shepard, pp.27-29, & 31)
日本陸軍が戦争神経症の対策に本気で取り組んだことは評価されなければならない。昭和12年に計画され、昭和13年には国府台を中心とするシステムを作り上げたスピードは効率的であったし、病床も常識的にいって、充足の範囲にあった。召集した医師の数と質と研究・治療の成果も、総力戦のための動員にふさわしい質が高いものであった。
しかし、日本の戦時神経症は、公衆の議論の対象にならなかった。戦中には新聞記事もないし、その治療と処遇について第一次大戦時のドイツのように、外部から介入や批判がある状況ではなかった。これは、陸軍が情報を統制したということもあるが、それと少なくとも同じくらい閉鎖的だったのは、応召された精神病医たちである。 彼らは、戦中は論文の行間に陸軍への批判をにじませ、戦後ははっきりと批判した。 それにもかかわらず、彼らは、一般大衆が戦時神経症の問題に口をはさむことを忌避していた。彼らにとっては、戦時神経症の治療は、陸軍内部の問題として、「白衣の勇士」としての慰問などがない空間で、厳しい軍規の中で行わなければならなかった。戦時神経症の処遇を社会の問題とすることに、医師たちも抵抗していた。