ハックスリー『素晴らしき新世界』の末尾に、私をとても不安にさせて、胸から腹のあたりにまるで生き物がいるかのような不快感を覚える部分がある。痛みと鞭打ちの個人性と集団性について、嘔吐感を催させる、まさしくポルノグラフィックな部分だと思う。
ハックスリーの『素晴らしき新世界』は、「すべてがすべてのため」という原理のもと、性と生殖と感覚が万人にむけて平等に分配されているディストピアである。そこに、性と生殖、なかんずく愛は個人のものであり、一対一で個人と個人の間で起きるべきだと信じている「野蛮人」がやってくるという設定である。「野蛮人」である主人公は最後まで性と愛は個人のものだと信じているが、彼が惚れた女性は新世界人だから、個人的な愛と性こそが野蛮だと思っている。そのような超えられない壁があり、その他にもいろいろあって、彼は彼自身を悔悟のために激しく鞭打つが、この場面が新世界人によって映画に撮られた。この社会では映画は「触感映画」で、おそらく鞭打ちの感覚を共有できるということだろう、新世界で大人気の作品になった。その映画を観た大衆が、彼が隠遁している場所を訪れて「主演俳優」である彼のまわりに群がり、「鞭打ちを―見せろ―鞭打ちを―見せろ」と異口同音に一致共和の官能的な合唱をする。そして、大衆の監視のもとで、彼は、自分自身と自分の恋人を鞭打ちながら、大衆にもそれが感染して、大衆も互いに殴り合いながら官能の究極に高まっていく―という話である。
『素晴らしい新世界』の中で、最も絶望的で不快感と不安を催させる場面だと思う。鞭打ちが持つ「痛み」と「悔悟」というもっとも個人的・私秘的な要素が、大衆に奪われて万人のものになり、それが共感される官能の陶酔になる。この部分を読むと、ポルノグラフィーに対する考えが大きく変わるというか、何かが凝固したかのような嫌悪感を持つようになると思う。