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Channel: 身体・病気・医療の社会史の研究者による研究日誌
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ハインリッヒ・シッパゲース「アラビア医学とその治療学の人間性

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ハインリッヒ・シッパゲース「アラビア医学とその治療学の人間性」H. テレンバッハ編『精神医学治療批判―古代健康訓から現代医療まで』木村敏・長島真理・高橋潔訳(東京:創造出版、1982)、47-77.
医学が常に直面してきた理論と実践について、アラビアの医学が寄って立った「古典的な均衡」を紹介する論文である。私はアラビア医学について何も知らないから、シッパゲースが言っていることが正しいかどうか、特に1840年代以降の医学と対比した時の位置づけについては分からない。しかし、この論文は、思想と深く融合したアラビア医学が繰り出す深淵な洞察を美しく描くことに成功している。これまで知らなかったが、一読に値する論文である。

第6回アジア医学史学会プログラム(仮)

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The Sixth Conference
for the Asian Society for the History of Medicine

13-15 December 2012
Keio University (Hiyoshi Campus)

13 December 2012
15.00 – 17.00 Graduate Sessions

Motoyuki GOTO, “Reconsider the historical meaning of the Mental Patients’ Custody Act and its actual practice of public confinement”
Eri NAKAMUA, “War Neurosis in Imperial Japanese Army: The Politics of
Inclusion and Exclusion under All-out War System”
Toshika ODA, “Missionary Medicine in Early Modern Korea: Religion, Modernity, and the Construction of Hybridity”
Tetsuro TANOJIRI, TBC
TBC, “Goto Shinpei and the Expansion of Biopolitical Power”



14 December 2012

9.00-10.00 Opening Remark and the Presidential Address
Akihito Suzuki (Keio University)
“Empire, Eugenics and the Psychiatry of Population in Japan 1930-1945”

10.15-11.45 Session 1
Iijima/Tropical Medicine (1-A), Hirokawa/Hansen (1-B), Nakao/Pollution (1-C) , Oberlaender/German-Japanese (1-D), Li/Tropical Diseases (1-E)

12.00-13.00 Plenary 1
Kosuge Nobuko (Yamanashi Gakuin University)
“Radiation and the nation: how can we heal the Japanese deep traumas after the nuclear disaster at the Fukushima Daiichi nuclear power plant?”

13.00-14.15 Lunch Break

14.15-15.15 Plenary 2
Alfons Labisch (Duesseldorf)
“Social history of medicine today - a classic approach beyond the turns of the turns”

15.30-16.45 Session 2
Shin/Traditional Medicine (2-A), Kim/Modern Korea (2-B), Yoshinaga/Psychiatry (2-C), Yamashita/Nursing (2-D), Chua/Medicine in the Philippines1 (2-E)

17.00-18.30 Session 3
Ichikawa/Treaty Ports (3-A), Daidoji/Traditional Medicine (3-B), Chua/Medicine in the Philippines2 (3-C), Kim/Colonial Korea (3-D) Chen/Diplomacy (3-E)

19.00-.21.00 Buffet Party, Taniguchi Medal and Japanese Dance

15 December 2012

9.00-10.30 Session 4
Yongue/Business (4-A), Kim/Space (4-B), Kubo/Traditional Medicine1 (4-C), Lee/Women (4-D)

10.45-11.45 Plenary 3
Susan Burns (Chicago)
TBC

11.45-13.00 Lunch break

13.00-14.00 Plenary 4
Mark Harrison (Oxford)
“Risk and Security in the Age of Pandemics”

14.15-15.45 Session 5
Hashimoto/Psychiatry (5-A), Liu/Epidemics (5-B), Nakamura/Different Systems (5-C), Chen/Health (5-D)

16.00-17.30 Session 6
Nagashima/Public Health (6-A), Wu/Medicine and Development (6-B), Jeong/Colonial Medicine (6-C), Hogetsu/Health (6-D)


17.45-18.45 General Discussion The Closing Address and Welcome from the New President

川添裕『江戸の見世物』

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川添裕『江戸の見世物』(東京:岩波書店、2000)
木下直之『見世物としての芸術』には、明治期の医学史の人体模型の作成には生人形(いきにんぎょう)の技術が活躍したという話が詳細にされていて、ゲーテの研究者で医学史を研究している石原あえかさんとハンセン病の病理模型の話をしていた時に、この書物にも「生人形」(いきにんぎょう)についての記述があると聞いたので目を通した。江戸学にふさわしい広く深い学識に基づいた内容が、まさに江戸の見世物の口上のような軽妙な口舌で語られており、「博識は楽しい」ということを実感させてくれる、非常に優れた新書である。

生人形は幕末から明治にかけて大人気を博した見世物で、肥後熊本の松本喜三郎らが細工した人形を用いて興行したものである。大阪・江戸での初興行はそれぞれ安政元年から二年である。その後、このタイプの生人形の見世物は爆発的に流行する。それらはいくつかの要素を含み、手長(てなが)、足長(あしなが)、無腹(むふく)、穿胸(せんきょう)などの異形の怪物たちを展示するという、ある意味で異常な他者の存在を造形し展示すること、鎮西為朝を主人公にした主題、それからマダム・タッソーのような同時期のニュースに題材をとった人形などが大人気となった。魅力の重要なポイントは、人形の肌の仕上がりが写実的で生々しい現実感があったことで、「ヴィーナスの化粧室」の主題のように、吉原の遊女が「内証」と呼ばれる空間で胸をはだけて化粧をしているエロティックなシーンも作られていた。別料金を払って遠眼鏡を借りて、望遠でみて楽しむこともできたとのこと。遊女のプライヴァシーと視覚的な道具と見世物とジャーナリズムと権力が組み合わされて、いろいろな定型的な学問的解釈ができる現象だが、とにかくなんて面白い史実なんだろう。

舶来動物の見世物を論じた章で、1824年にラクダの雌雄が一頭ずつ見世物になったことが記されており、そこで売られたラクダ・グッズの広告の分析で、ラクダの尿が色々な薬になるとされたこと、これはアラブの民間療法につながること、ラクダは「赤い」のでその絵を貼ると子供の痘瘡が軽く済むことなど、医学医療のトリヴィアも知った。

東京の空襲と精神病

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植松七九郎・鹽入圓祐「空襲時精神病―第一篇 直接空襲に基づく反応群」『慶應医学』25巻、2,3号(1948), 33-35.
昭和19年11月から翌年8月までの東京で空襲の際に発し、空襲に直接的に関係する精神疾患で、主として心因反応によるものを扱う。この9か月間の東京で、植松の慶應精神科のチームが集めた患者は17人(男6人、女11人)である。これらの心因反応はクレッチマーのいう「原始反応」が多い。これは、東京がすでに「銃後」ではなく「戦場」になっていたからだというのは、本質を突いた議論である。

しかし、ある意味で驚くべき議論は、この症例の数についての議論である。植松らが患者を集めたのは、すさまじい空襲にさらされた東京であり、8か月という長い期間にわたって患者の収集が行われた。植松自身が「数百万の戦災者と数十万の死傷者を出した」と書いている。その中で、彼らのチームが16例という数の症例しか集めていないということは何を意味するか。植松は、これは大海の一滴であるとは思っていない。この調査はかなり広範にわたり、慶應神経科と松沢病院、そしていくつかの私立の精神病院の協力を得て行われているという。三鷹の中島飛行機工場の爆撃においても、太田の工場、八王子を壊滅させた空襲においても、それらは心因反応の精神疾患をほとんど起こさなかったという。それは空襲において、確かに身体的には疲労していたかもしれないが、疾患への逃避も賠償への要求も不必要で無意味であり、心因反応を起こすメカニズムがなかったからだという。都民は自らの手で一身一家を守る必要があり、個人間の対立意識よりもむしろ共同社会的精神があったという。そこには敗戦の意識はつゆほどもなく、精神的緊張を持続しえたという。また、神経症になるような候補者がいちはやく危険区域から疎開していったからであるという。

植松の議論はつまりこのようになる。東京の空襲のあとの心因反応はごく少なかった。東京都民は心因反応にいたるような構造のもとで生活していなかった。そこには精神的緊張と共同体精神があった。私には、この議論の妥当性を云々する資格はない。いくら信じがたいことでも、東京空襲では本当に16人の心因反応の精神疾患の患者しか出なかったのかもしれない。重要なことは、植松がそう信じようとしているということである。たぶん、もっと複雑なのだろうけれども、ここでは、植松七九郎が、戦争のイデオロギー・総力戦の心理的な体勢を使って考えていることが重要である。植松によれば、東京都民は、あれだけの空襲のあとでも緊張した心を保っており、心が失調して荒廃していく精神的な敗戦の道を歩いていなかった。そして、この論文を1948年に出版したということに、植松にとってまだ戦後の理論への切り替えができていなかったことを意味する。

ヤング『PTSDの医療人類学』

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アラン・ヤング『PTSDの医療人類学』中井久夫・大月康義・下地明友・辰野剛・内藤あかね共訳(東京:みすず書房、2001); Young, Allan, The Harmony of Illusions: Inventing Post-Traumatic Stress Disorder (Princeton, NJ: Princeton University Press, 1995)
必要があって、アラン・ヤングのPTSDの医療人類学の研究書を読む。原著が1995年、翻訳が2001年と、専門書のわりにはスピード感がある翻訳だった理由は、やはり訳者の一人である中井久夫の力もあって、阪神淡路の大震災の後にPTSD概念が日本でも定着したせいであろう。学生に翻訳を配った後で英語をチェックしたけれども、どうしても日本語訳だと原文の雰囲気がつかめない。複雑な問題だと思うけれども、一つの理由は、英語の学術的な文章における文体の変化に、日本語の学術的な文章の文体がついていっていないことなのかなと思う。ヤングの書物を英語で口に出して読んでみると、読むにつれて論理の要素が小気味よく現れて展開していくのがよく分かるけれども、それを訳した日本語には、「時系列の上で展開する議論」の感覚がなくなり、重要なフレーズを平面上から探して論理を組み合わせる感じになる。私が翻訳したときには、それを避けるために、口頭で読みながら訳文を作ったけれども、少しは分かりやすくなったかしら。

ヤングの書物のポイントはそんなことではなくて(笑)、苦痛の記憶の新しい型の誕生の話である。近現代には新しい型の苦痛の記憶がもたらされた。これは外傷性という発生源を持ち、抑圧と解離につながっている。この最も有名なものがPTSDという疾患と関連した場合である。この記憶は古代からあると主張する学者もいるが、ヤングのこの書物での重要な議論は、これは近現代に特徴的なものであるという。その理由の一つが、近現代に自我の概念の中核に「記憶」が位置するようになったということである。キリスト教の人格概念を対照させると、人格概念において重要なのは不滅の霊魂である。個々人が自身について持つ人格概念・周囲がある個人に期待する人格概念において、その不滅の霊魂が最後の審判の日にどうなるかが重要である。そこでは記憶は副次的な役割しか果たさない。しかし、近現代においては、ロックの自己同一性の概念が示すように、記憶が自己の中心となる。自分の人生で起きた事件を憶えていることが、自己を作るようになる。PTSDの苦痛の記憶は、霊魂不滅にかわって記憶が自己の中心になったという近現代の大事件と深く結びついている。(ちなみに、キリスト教の霊魂不滅概念を対照させたのはヤングその人ではなく、ハッキングの議論を組み合わせた私のまとめですから、ご注意ください)

19世紀になると、記憶概念は拡張され、行為と身体状態(自動症やヒステリー性痙攣)を含むことになる。これは、記憶が当人にはそれと意識されることなく、隠匿や遮蔽されて存在している新しい考えである。その記憶は専門家の助けによって明らかにされて、病気や障害が治療される過程に位置づけられる。精神医学と心理学は、近現代の個人の人格の中枢である記憶に関与する学問であり医療になる。

この記憶と自己の概念の中で神経症を捉えるモデルはもちろん素晴らしいが、基本的なアンバランスの問題もつきまとう。17世紀末から21世紀までの300年間についての大きな変動を背景にしたうえで、実際に吟味するのはPTSD系の神経症に関する議論となる。ヒストリオグラフィの装置としては、数世紀単位の最も大がかりな装置の上で、小さな精密機械が動くのを示すことになり、大がかりな装置の力が良く見えずに、補償の問題や近代兵器の問題などの、重要だけれどもより小さな問題が前面に出てくる印象を持つ。

モリエール『病は気から』

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モリエール『病は気から』


モリエール『病は気から』は、1673年に上演されたモリエール最後の作品であり、自分が病気だと思い込んでいる中年男を主人公にした喜劇である。モリエールの作品には当時の医師に対する激烈な風刺を含んだものが多いが、『病は気から』にも、伝統守旧的な姿勢の医師が、どんな症状でも原因を胸のせいにして、どんな病気でも治療は浣腸、そして無意味なことでもラテン語をもっともらしく言うと博識なる医者の仲間に入れてもらえるという、非常に印象的な当時の医師への風刺が描かれている。医学史の研究者としては、一度は上演を観ておかなければならない作品である。

今回の静岡のSPACの公演は、モリエールの原作そのものではなく、セリフも設定もだいぶ付け加えたり変更したりしたもので、いわゆる「歴史的な演出」ではなかった。しかし、付け加えたり変更したりということも含めて、素晴らしい舞台に仕上がっていたと思う。何よりも重要な点は、この喜劇がモリエールの最後の作品であり、上演中にモリエールが舞台上で血を吐いて死んだという史実を作品の中に織り込んで、<『病は気から』をモリエールが演じている作品>というメタレベルの層を付け加えたことである。こう書くと難しそうな上演のようだけど、お芝居はばかばかしいほど楽しい。

30年くらい前に買った薄い岩波文庫を引っ張り出して読んでみたら、冒頭では音楽やバレエがはさまれていることを知って、へええと思っていたところ、11月23日に王子で音楽つきで歌となった『病は気から』が上演されることを知った。


静岡県の演劇関係を担っているSPACという団体の芸術総監督は宮城聡という人物だが、複雑な経緯を略すと(笑)、大学時代の同級生だった。彼が率いていた<冥風過劇団は>駒場小劇場や矢内原公園に張られたテントでインパクトがある作品を上演しており、私や村松真理子や鈴木泉や納富信留たちは彼の芝居を観ながら昭和後期の学生生活を送っていた。SPACの公演に行くと芸術総監督としてドアの脇に佇んで、観客に微笑みを向けている宮城さんを見ると、あの時代の空気が少し帰ってきて、そのせいで自分も年を取ったのだなあと思う。まあ、今回の『病は気から』でも宮城のアホででたらめでけれども鋭い笑いは昔と全然変わらないけど(笑)。何がポン・ヌフだ。フランス語の単位なんかどうせ一つも取っていないくせに(爆)

「五天竺図」法隆寺秘宝展

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「五天竺図」法隆寺秘宝展
年を取ると仏教美術や古美術が有り難くなるものだが、今年の法隆寺秘宝展には「五天竺図」が出展されていた。大蔵経を求めて唐から西域を通ってインドに旅行した玄奘の足跡を記した世界地図である。卵型をした図にインドの諸国が描かれ、その図の右端には海の向こうに日本も描かれている。玄奘の『大唐西域記』は中世の法隆寺の僧たちに愛読され、それからこの地図・世界図も描かれたという。同じ時期には、ヨーロッパにおいてもエルサレムを中心にしたO-T型という世界地図が描かれていた。この地図は特にイングランドにおいて多く描かれたという。こういうことを分析する訓練を受けていて、時間が十分にあったら、中世の日本とイングランドの二つの地図をくらべてみたいなあと思うけれども、もう、そういう研究もあるんだろうな。

画像は五天竺図と、ヘレフォードのマッパ・ムンディ。

フレデリック・フォーサイス『アヴェンジャー』

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フレデリック・フォーサイス『アヴェンジャー』
昭和生まれでイギリスかぶれだから、ミステリーはジェームズ・ボンドとフレデリック・フォーサイスで事足りている。他にも読んでみたい作家はいるし優れた作品はたくさんあるだろうけれども、どの作品でも安心して楽しめ、何回でも読むことができる作家になかなか出会わない。そういう作家を見つける能力は10代から20代にかけて築かれて、年を取るとその時期に形成された能力を稼働しながら本を読むのだろう。より正確に言うと、10代から20代にかけて集中的に読んだ作家が読書の趣味を作り、その趣味で一生を過ごすといってもいいのかもしれない。だから人間は老いると読書の趣味がずれて年寄り臭くなるのだろうか。年寄り臭い読書の趣味になるのは少し悲しいけれども、流行に合わせて自分が好きでない本(たとえば『ダヴィンチ・コード』)を楽しんでいるふりをするのはもっと哀しいから、黙ってフォーサイスやボンドものを読んでいる。

『アヴェンジャー』は、初めて読む作品だが、やはりフォーサイスらしいお話で、ベトナム戦争―旧ユーゴスラビアの内戦―アフガニスタンのアルカイダを背景にして、南アメリカのバナナ・リパブリックの個人の要塞を吸収する国際スパイものである。もちろん暴力であり苦痛であり闇の世界であるが、その中での「ビジネス」の雰囲気を持っているのが特徴である。フォーサイスの他の作品も、『ジャッカルの日』のドゴール暗殺であれ、『戦争の犬たち』のアフリカの小国でのクーデターであれ、主人公たちは国際的な舞台における複雑な仕掛けを操作するビジネスに携わっている。特製の銃、パスポートの偽造、通信の授受といった一つ一つの仕事が、それぞれの国で行われて、それらがまとめられて国際的なプロジェクトになり、何か大きな仕事が成し遂げられるという構造である。実際に国際的なビジネスをしているビジネスマンだけでなく、私たちのような学者にとっても、身につまされる気分になりながら、現実の生活にはない爽快さや達成感を味わうことができる話になっている。

医学史研究会(11月16日5時―)

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医学史研究会のお知らせ

11月16日(金)の5時から、慶應義塾大学・三田キャンパスで開催される Lei 先生のセミナーについてご連絡いたします。

台湾の中央研究院のSean H-L Lei(雷祥麟)先生は、近現代の中国の医学史研究の中で重要な論文を多く出版されてきました。英語の論文も多く、近代化と伝統医学の交差についてのLei先生の考察は、伝統医学の歴史の捉えなおしの基軸になっています。業績などは以下のサイトをご覧ください。


このたび、日本薬史学会の大会のための来日に合わせて、Lei 先生に医学史研究会でお話をしていただけることになりました。非西欧諸国にとって19世紀の西洋文明の象徴でもあった蒸気機関を軸にして、中国伝統医学が近代に変貌していくときの概念形成を論じてくださいます。伝統医学史の新しい捉え方と科学史研究の新しい手法が融合したお話をいただけることと思います。 皆さまのお越しをお待ちしております。

日時:11月16日(金)17:00~19:00
場所:南校舎1階 415教室

Sean H-L LEI
Institute of Modern History
Academia Sinica, TAIWAN

Qi-Transformation and the Steam Engine
Incorporation of Western Anatomy and Re-conceptualization of the Body
in the Nineteenth Century Chinese Medicine

Abstract
Tang Zonghai (1851-1908), the widely-acclaimed first proponent of
medical eclecticism in the late Qing period, invented the famous
formula: ‘Western medicine is good at anatomy; Chinese medicine is
good at qi-transformation.’ While it is well-known that Tang coined
the concept of qihua (qi-transformation) and thereby created a
long-lasting dichotomy between Chinese and Western medicine, it is
little known that Tang’s conception of qi-transformation was built
upon and therefore heavily influenced by a newly imported technology
from the West, namely the steam engine. Based on this important
discovery, this paper traces three interconnected processes:the
introduction of steam and the steam engine into China;the invention of
qi-transformation, which served as the crucial tool for both
boundary-drawing and communicating between two styles of medicine;and
the related transformation of the body in Chinese medicine.

対馬のコレラと明治日本のウォーターフロント

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久しぶりに感染症の記事を書く。『日本残酷物語』の第2巻「忘れられた土地」には対馬を扱った章があり、その中で、ある老人が明治40年におけるコレラの流行を語る部分がある。しばらく前にはコレラの流行のことをよく調べていたので、懐かしく読んだ。

ポイントは、日本におけるコレラの流行の変化である。おおざっぱにいって、明治以降のコレラは二層の類型で考えることができる。明治1877年の大きな流行以降は、日本においては漁業や水上交通などのウォーターフロントにおいて、コレラは常在から半常在の状態にあり、それが数年おきに大都市圏の人口集積地で大流行を起こすという状態が明治20年代末まで続いたこと。しかし、1897年の流行病予防法が定められると、それ以降は、人口がある程度集積している地域での流行を食い止めることができるようになったが、ウォーターフロントにおける半常在状態と散発的流行は大正期まで続いたこと。こう考えると、ウォーターフロントにおいてコレラが常在的な位置を占めたのはなぜだろうということになり、漁民の生活だとか漁村の地形だとか、色々調べた記憶がある。結局、この仕事は今までのところまとまった論文にすることができていないが、でも、きっといい議論ができそうな予感はある。

ここで触れられているのは、対馬のイカ釣りの船と漁村で明治40年にコレラが流行した時の様子である。当時は対馬のあたりでイカが獲れ、各地から漁船が集まってはイカを獲り、それを海上で開いて洗って処理していた。ところが、明治40年に、「琴」という港・村で、よそから来たイカ釣り船でコレラの病人が出ると、それが近くの船に移って死者が出た。同じようなパターンが賀谷、鴨居瀬などに広がった。よそから来たイカ釣り船が、近海でものを洗ったりイカを切り開いたりして、そこから対馬の島の漁村にコレラがうつるというわけである。この理屈に従えば、感染を予防するためには、近海の海の水は使ってはならない、イカを洗うのも沖に行ってからそこで洗えばいいということになる。そういっても近い海の水を使う愚かものがいるといけないから、ぼろ屑と石油を俵を買ってきて、ぼろに石油をしみこませて俵につめ、それに石をくくりついて海に沈めた。そうすると、ぼろに入っていた石油が浮き上がってきて海面に広がり、イカを開くことや洗い物などに使えなくなる。これが功を奏して、対馬ではコレラの発生を抑えることができた。これは、よそ者の船が病毒をもたらすのを防ぐことでもあった。よそ者の漁師は評判が悪かったという。

・・・これはこのコレラの流行を経験したある老人の物語である。まず、この「老人と海・防疫編」の話は、疫学的に言って成立するのだろうか?それが成立したとすると、日本の各地にある漁村と港が、コレラの流行の環となってウォーターフロントを形作り、そこでゆるやかな半常在ができているありさまが想像できないだろうか。

謝花昇の精神病

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精神医学史のヒストリオグラフィの中で、「患者の歴史」と呼ばれているものがある。ロイ・ポーターが『狂気の社会史』で素描してから脚光を浴びた手法で、非常に興味深いけれども、学問として取り扱うのも難しい。自分で記録を残したり、人々の記録の対象になった人々、基本的には有名人の精神病患者が対象になる。それらの人々の精神病を列伝的に並べると、確かに色々な意味で面白い本になるかもしれないが、洗練された深い歴史を書く方法ではない。いくら社会史や文化史の方法を使っていたとしても、精神医学者たちが行う遡及的診断や病跡学をまとめたものと、同工異曲といってよい。それでも、自分が専門としている時代だけではなく、過去の有名な患者について広く知っておくことは必要であるし、できれば深い知識もあるといい。そのような目的で、過去の有名な人物の精神病についてはメモしておくようにしている。

『日本残酷物語2』を眺めていた時に見つけた謝花昇(じゃはな・のぼる)という沖縄の明治期の人物も、もっと詳しく知ろうと思った過去の有名人で精神病にかかったものである。沖縄には「しまちゃび」という言葉があり、これは「離島苦」という意味であるという。中国や日本(「大和」)に較べて、自らを後進・弱小・周縁の存在であるという意識を特徴づける言葉であった。近世には、中国との冊封関係を保ちながら、薩摩藩の植民地のように扱われて、中国に対しては中国風に振る舞って薩摩への従属を隠し、薩摩藩はこまかい指導と支配を及ぼしながら、江戸上がりの時にはむしろ中国風に振る舞うことを命ずるなど、アイデンティティが浮遊するような政治空間に置かれた。

明治に入ってもこの旧制は存続を続けた。鹿児島県の出身者は、まるで植民地のように沖縄県の知事や官吏に赴いた。その中で、沖縄出身の唯一の官吏が、謝花昇であった。謝花は、1865年に生まれ、1882年に沖縄から東京に留学して、1891年に東京農科大学を卒業して沖縄県で働き始めた。唯一の沖縄出身者というだけではなく、彼は貧しい農家の出身で、その英才ぶりは「二重の瞳をもつ」という言葉で評された。例外的に傑出した知性によって社会的に上昇した先が、自らの土地と階級を開明の名のもとに収奪する沖縄県の行政であったというわけである。謝花は知事と対立し、県政を批判して結局は1898年に辞職に追い込まれた。それから短い期間であったが、「沖縄倶楽部」を基盤にして、参政権の獲得叫ぶなどの運動を行った。しかし、1901年に突如として発狂して、それから7年間、生ける屍として苦しんだのち、回復することなく1908年に没した。

調べてみたら、色々な本も出ているようなので、謝花の精神病についてもっと調べて、頭に入れておこう。『日本残酷物語』では、県知事との苦難の闘いが心身をむしばんでいたというような書き方がされているが、そのあたりのことも、もっと詳しく知っておこう。

第6回アジア医学史学会

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第6回のアジア医学史学会は、12月13-15日に慶應日吉キャンパスで開催です。 

12月13日には午後2時から学生セッション。
12月14日には朝の9時に開会して夜の7時まで。3つの全体講演と15のパネル・セッション。夕刻には懇親会、谷口メダルの授与、そして全体講演もされるマーガレット小菅信子による「藤娘」「手習子」のアトラクション。
12月15日には朝の9時に開会して夜の9時まで。二つの全体講演と12のパネル・セッション。

学会の公用語は英語になります。発表・質問・ディスカッションは英語でお願いいたします。
学会自体はご自由にご参加ください。懇親会はお一人あたり3,000円を頂きます。
もちろん飛び入り歓迎ですが、設備の準備や心構えなどがありますので、ご参加の予定の方は、以下のサイトから事務局までご連絡いただければ幸いです。


常石敬一『消えた細菌戦部隊―関東軍731部隊』

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常石敬一『消えた細菌戦部隊―関東軍731部隊』(1993)
関東軍の731部隊(石井部隊)の細菌戦と人体実験が日本人に広く知られるようになったのは、今から30年ほど前の私が高校生の頃だったと記憶している。森村誠一の『悪魔の飽食』がその問題をセンセーショナルに扱っていた。従軍慰安婦や南京大虐殺の問題についての意識も日本人の間に広く共有されて、このような問題に対して、現在とはかなり違う温度差があった時期であった。

常石敬一の『消えた細菌戦部隊』も同じころに出版された著作である。30年前の著作であるから、書き口や研究の仕方などに瑕疵はあるだろうが、それでもプロの科学史家が書いたこの著作は、いまだに基本的な書物であると思う。この文庫版には、米本昌平が書いた優れた解説も付されていて、これが貴重な資料になっている。ここで米本は、1980年代においてドイツでも日本でもほぼ同時に医学の現代史・20世紀史についての視点の転換があって、その過程を通じて優生学の批判をはじめ、戦争と医学の問題が正面から取り上げられるようになった事情を指摘している。

この本が基本的な重要な研究書であることは、その通りである。しかし、細菌戦問題や人体実験にかかわる日本の医学史の成果が、常石の一連の著作で打ち止めというのもさびしいことであると私は思う。もっとひろがりを持った問題であるように思えるのだけれども。

『精神病患者私宅監置の実況』の現代語訳

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金川英雄「見知らぬ世界へのどこでもドア―なぜ『精神病患者私宅監置の実況』を現代語訳したのか」
呉秀三・樫田五郎『精神病患者私宅監置の実況』は、もともとは『東京医学会雑誌』に連載され、1918年に単行本の形で出版された。呉秀三を教授とする東大の精神科研究室が行った大がかりな患者調査の報告であり、その対象は主として私宅監置された患者であった。私宅監置に関する調査としては、最大にしておそらく唯一の刊行された書物である。原書は復刻されており、現在でも入手可能である。

この書物が「現代語訳」されると聞いたときに、私たちの多くは虚を突かれたような感じがした。この難解な漢語調の文章で書かれた書物を現代語訳することがたしかに大きな意味を持っていることは言われればわかるのだが、その発想がなかった。もう一歩踏み込んでいえば、少なくとも私について言えば、この本を現代語訳する仕事は学術的に価値が低いと、頭のどこかで思っていたといってもよい。金川さんは、そういうアカデミズムのスノバリーで凝り固まっていることが自分で見えていない人文系の学者を尻目にして、この書物を現代語訳されたことになる。いやはや、恐れ入りました。

その結果、この書物は、現在ちょっとしたブームになっている。精神医学史という小さな世界にとっては、おそらくもっとも重要な古典が突如として人々に読まれるようになるという、巨大な転換点になろうとしているといってもよい。先日の学会では、医学書院のブースで本書がまるでタイルのように敷き詰められて、飛ぶように売れていた。同じ医学書院の『Medicine 医学を変えた70の発見』も並べられていたが、それに手を伸ばすひとなど一人もいなかった(笑)

橋本明先生と話したのですが、次は漫画化ですね。いえいえ、冗談ではありません。私たちは本気ですよ。 

男子ヒステリー論(1932年)

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中脩三「特に男子に於ける『ヒステリー』性強迫思考に就いて」『実地医科と臨床』vol.9, no.9 (1932), 747-760.
中脩三は九大の下田光造門下の俊英の一人で、台北帝大の精神科の教授をつとめ、戦後には九大や大阪市大で教鞭を取った。もっときちんと調べなければならない精神科医の一人である。

たまたま授業で同じ九大の櫻井図南男の論文を読んだときに、兵士の戦時神経症は当時の疾病概念では立派なヒステリーであるが、兵士をヒステリーと呼ぶことないことにすると書かれている部分があった。たしかに、戦時神経症を「ヒステリー」と呼ぶ習慣を日本ではついに定着しなかった。この呼称の選択の問題は、私にはまだ何も分かっていないけれども、面白い問題だと思う。それも含めて、日本の(男子)ヒステリー論を理解するためには、中脩三が昭和9年に書いている男子ヒステリー論を読む必要があるだろうというつもりで読んでみた。

もう一つ、ここでは「強迫思考」という言葉を使っているが、「強迫観念」という言葉は、私が読んでいる戦前のカルテの中で、患者によってしばしば使われている言葉である。精神医学用語の社会的広がりというのは、社会の心理学化などを論じるうえで重要な手がかりになる。「強迫観念」は医学の専門用語ではなく、人々がそれを通じて自己や他者の心とその問題を理解し経験していた言葉であった。

そういう意味で、非常な期待を持って読んだ論文であり、非常に面白かった。いくつかのポイントを列挙すると、まず、森田正馬を軸にして東洋流の精神医学を作ろうとしており、その中でのヒステリーと強迫観念論であること。フロイトやユングなどの精神分析系の強迫観念論は、精神徴候の説明には役立つが疾病の本質を理解するのには役に立たず、これは森田正馬の「東洋流精神療法」は疾病の本質を確認できる点において優れていると主張していること。第二に、「ヒステリー」という診断を男性にも使うために、その診断名がもつ強いジェンダー性を中和する仕掛けになっていること。つまり、ヒステリーという診断は女性の行動や性格を念頭において作られた症状の記述があって、なかなか男性には使われないが、実は男性にもヒステリーは数多く存在することを主張する。第三に、ヒステリーの男性への拡張とも関係があることだが、性格の問題と、青年期の人生の転機の問題に絡めて理解されていること。3人の患者の症例が問題になっているが、彼らの性格がもともと誇張的、飽き易い、虚栄的、競争心が強いなどの特徴を持っていること、また、このことは中流以上の家族の潔癖な心性あるいは「家風」と関係があること。つまり、男性ヒステリーは遺伝の問題でもあると同時に(図を参照)、家風の問題と後天的な性格の問題にもなったのである。それから、最後におそらく最も重要なのが、その治療の問題である。フロイト・ユング・アードラーらの精神分析系の治療は、患者に自己の徴候を客観視して自己統制をならさしめるなどの方法を採るが、これは莫大の時間と費用を要し、貧しい日本の患者にとっては現実的には不可能である。これは、宗教家の仕事であって、実地医家の仕事ではない。であるから、中が行ったのは、患者の自由を強制的に束縛してこれを監禁し、絶対に医療をしないことである。そう、医療を「与えない」ことが治療になるという。すなわち、患者の心的態度は、病人として扱われたがっており、これはあたかもモルヒネ中毒患者がモルヒネに頼るように、医師と薬に心理的に依存して病気となっている。だから、医師と薬物を禁断する監禁的な環境に置き、これを通じて患者を「天運にまかせる」「死んでも良い」という「悟り」の気分を起こさしめ、これが自発的な精神修養にいたるというのである。放置こそが医療だというのか。ううむ。

画像は、ある患者の家系の表示。知的にすぐれた個人と、「低脳」、そして「身長短」や「短期」が混在していることを示す。

九大の電気痙攣療法

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西川修・岩下良雄「種々の精神病に対する電撃療法の試み」『実地医家と臨床』vol.17, no.5 (1940), 57-64.
昨日に続いて九大精神科に関連する論文である。下田の時代の九大精神科の先進性を示すものは、『ドグラ・マグラ』のモデルになったということだけではない。重要な業績の一つに電気痙攣療法を、九大の安河内五郎と向笠広次がイタリアのチェルレッティとほぼ同時に発見し、その論文を1939年に出版したという史実がある。これについては、独立・同時ではなく、九大チームが第一発見者としての栄誉が与えられるべきであるという議論もある。詳細なリサーチはまだされていないと思う。

この西川・岩下の論文は、前年に発表された安河内・向笠を補ったものである。後者はまず精神分裂病に対するECTの奏功を研究したのに対し、西川・岩下は、躁鬱、麻痺性痴呆、ヒステリー、麻薬中毒者の不眠、老人性痴呆、そしてその他の精神病の29人である。これらの疾患に対しても、他の治療法と組み合わせることで、ECTは総じて効果を上げるというのが導きだされている結論である。麻痺性痴呆は、マラリア療法を行ったあとに躁状態が持続するが、それを速やかに鎮静するためにこれまではカルチアゾルが用いられてきたが、ECTにも同様の効果がありむしろ使いやすいという。一方で、あまりに過剰に実施することは効果をさげるし、電撃を繰り返すと刺激閾値が向上し、高い電圧や長い通電時間が必要になってくる。そして、苦痛の問題であるが、安河内たちは隔離した部屋で行えば患者は殆ど苦痛を感じないので何回でも実施できると主張しているが、やはり電撃で失神させるのであるから、常識的に考えても無痛ではなく、やはり苦痛を感じて嫌悪の情が田管理、時にはそれが精神的外傷になって心因性の症状を起こすこともある。(つまり、「外傷性神経症・ECT型」の患者を作ってしまったわけだ、君たちは 笑)

西川修については、本人の文章と絵画をつらねたウェブサイトがあり、おそらくご子息が管理されているのではないかと思う。
http://members2.jcom.home.ne.jp/nishikawaw/kitbmokuji.html

外傷性神経症(下田、1937)

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下田光造「外傷に基く精神障碍に就て」『実地医家と臨床』vol.14, no.4, 1937: 25-31.
昭和12年に第50回の福岡外科集談会なる会合で行われた講演である。福岡外科集談会というのは現在も続いている組織である。ネット上で調べると、東京にも「外科集談会」という組織があり、これにならって福岡に作られたものだろう。東京の外科集談会は自身のウェブサイトを持っており、それによれば明治35年に東大の外科を中心にして、ベルリンの組織「外科専門家自由協會」に倣って、エリートの外科医たちが講演をする会合組織として作られたものであるとのこと。下田の聴衆がどのような人々であったのか分かると手がかりが得られる。

外傷に基づく精神障碍を脳震盪性精神病と心因性精神病に分けたうえで、後者にさらに外傷性ヒステリーと外傷性神経症の二種類を立てる。そのうち、外傷性神経症のほうが重視されている。この疾病は補償を要求する権利があるという意識と補償の欲望によるものであると下田は決めつける。外傷を与えた責任者、すなわち会社、官庁、喧嘩の相手に何等かの要求をする権利があるという観念を持つ場合に、この病気は発病する。この観念は、災害補償が法的に施行されていない国家では持たれないし、また、低能者や女性などではこの観念がなく、常識を持ち工場法の一節くらいは理解できる男性でないとこの観念を持てない。また、この病気は公傷の際に発現するものであり、「責任者」なるものが存在しない外傷、たとえば天災や遊戯中の災害では本症は起きない。関東大震災のときにも、多数の恐怖性神経症が出たが、外傷性神経症はなかった。これは、それが天災であったため、責任者から補償を得る欲望が生まれなかったためである。この疾病と詐病の見分け方は非常に難しい。適当な医師のいない炭鉱においては、この疾病は相手にされないし、また、相手にされないとかえって治ってしまう場合すらある。しかし、長期の詐病は珍しい。この疾病を治療する唯一の方法は、一時金を与えて解雇すること、そして責任者との関係を完全に断つことである。一時金は法律の許す最低でよいし、もし金銭の授受なしで解決できるのならそれでもよい。本症を予防する方法は、補償の法律を改正して、外傷性神経症に補償を払わないことである。

下田の議論をそのまま並べたが、特に後半部分で、下田やその周辺の医師たちが経験している、労働者の外傷性神経症についての下田の意識が前面に出てくるのが読んでいるとありありと分かる。下田は、補償のメカニズムが欲求を生み出すことを非常に強調しているが、この判断を述べる部分は、下田らが外傷性神経症で苦労したことがにじみ出てくるような文体になっているし、これはおそらく北九州の労働者のそれ、例えば炭鉱労働者の外傷性神経症であろう。そのあたりの補償と雇用の問題が下田の概念を作っていたのだろう。だから、この外科医集談会で下田の意見を聞いた聴衆というのが気になるところでもある。

『芸術新潮』11月号より「縄文の歩き方」

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『芸術新潮』11月号より「縄文の歩き方」

『芸術新潮』の11月号で「縄文の歩き方」という特集が組まれている。橋本麻里さんがゲスト・エディターになって、縄文式土器や土偶などの長く愛好されていたものに、縄文人の暮らしや食生活などの面白い企画を添えたものである。土器や土偶などの造形や形象の美しいものを選ぶセンスに感服する。宗左近、柳宗悦、川端康成が集めた深い趣きの土偶、信楽の MIHO ミュージアムで行われている土偶の展覧会などは目を奪われた。これらの作人や、諏訪で出土した<縄文のビーナス>や<仮面の女神>と呼ばれるそれぞれの作品は素晴らしい写真で強い印象を与えたので、もう少しゆっくりその作品の説明を聞きたかった。全体に、考古学者が取った写真で土偶を観るのに慣れている私たちにとって、今回の、芸術作品として撮った写真を眺めるのは素晴らしい経験だった。縄文の生活の中にある意味での「美術作品」を織り込む今回の企画はとても優れたもので、きっと単行本化の話も出ると思うけれども、その時には、いくつかの傑作については、ゆっくり見て識者の意見を読めるようなフォーマットにしていただけると、もっと楽しいと思う。

MIHO Museum のサイトを貼っておきます。
http://www.miho.or.jp/japanese/index.htm

西洋の解剖図と中国医学

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http://www.lrb.co.uk/v34/n20/julian-bell/dont-look
イギリスには二つの大きな書評紙がある。Times Literary Supplement と London Review of Books である。イギリスの大学のコモン・ルームや日本の大学の英文科の研究室にいくと、コーヒーテーブルの上に置いてある二種類の書評紙である。TLSは短めの書評が沢山掲載されていて毎週刊行で、LRBは長い書評が10本程度掲載されていて隔週である。私はLRBのほうが好きだけれども、書き手も同じ書き手が多いし(科学史はほぼ必ずシェイピンが書いていた時期があった)、それに飽きてしまってTLSを半年くらい買ってみて、やはりLRBだなとそちらに帰るというのがこの10年くらいのパターンである。大事な記事はその時読んでいない方に掲載されるというジンクスまがいのものがあって、先日、友人にメールしたら、彼の本がTLSで一面にわたって大学者にぼこぼこにされた直後で、そのことを知らなかったし、実は、私が2006年に出した本がLRBで書評されるように友人が取り計らってくれたのは、ちょうど私がTLSに浮気していた時期だった。

これは10月22日号で、Hans Belting という学者が書いた話題作が英訳されてハーヴァードから出た。アラブの光学がヨーロッパ・ルネサンス期の遠近法に与えた影響を論じる書物であって、遠近法というのはヨーロッパに特有の見方・描き方であると思われているから、これは複数の文明の衝突や融合の大きな話に持って行くことができる。その野心的な書物を、好きな作家のジュリアン・ベルが評するという企画である。ベルは最終的には著者の考えからは距離を取りながら、にもかかわらずこの本を買って読んでみようと思わせるほど魅力的に意義深い議論をしている。もちろん、プロのルネサンス研究者ではないから、学問的な話ができるわけではないが、書評というもの、特に書評紙に書く書評は、ああいう風にも書けるんだなあと感心する。

この本の話の細かい点は措いておくが、概論はイスラムと西洋のそれぞれの文明における図像の意味の問題である。実は、先日、台湾の中央研究院の研究者の Sean Lei 先生のお話を聞いたときにも、この二つの文明における図像の意味の話に絡むものだった。Lei 先生のお話は、清末の中国医学の再生にかかわるもので、中国のエリート層の進士である医師が、当時の西洋からインスピレーションを得て、西洋の蒸気機関と解剖図を出発点にして、西洋を真似るのではなく中国医学の革新を企てたことについてのお話であった。彼が観たのは西洋の解剖図で『グレイズ・アナトミー』からの画像であり、これをもとにして彼は中国医学の「三焦」の実在性を論じる・・・という議論であった。その画像を掲げたが、身体内の空間の表現の方法として、胴体を縦断にした空間に模式的に臓器を配置するという手法は、実はグレイズ・アナトミーではあまり用いられない。1901年の復刻版をみたけれども、これはたしかにあまり用いられない空間表現法である。西洋の解剖では、中世の「カエル式」と呼ばれた方法以来、足を開いて正面を向いた身体の中に臓器を配するのが正当であり、胴体を縦断して横から見るのは少数派である。この手法が選ばれたのはもちろんこれが中国医学の「内景図」と呼ばれる臓器の所在を説明する図示の方法と同じであったからだろう。

縦断面図と正面図の問題、そこに実在を描くのか概念的な図を描くのかという問題、いろいろと深い問題に触れた素晴らしい着眼の講演でした。

戦前日本における精神分析への批判

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フロイトはアメリカを一度訪れたことがあるが、当時のドイツの大学教授やインテリの常として、アメリカを激しく軽蔑してそれを憎んでいた。しかし、フロイトの精神分析学が移植されてのちに世界の精神分析の牙城になったのがアメリカであるのは、歴史の皮肉の一例である。アメリカに精神分析をもたらした重要人物に、ホプキンスで教えたアドルフ・マイヤーがいるが、マイヤーのもとで精神分析を学んだのが丸井清泰で、彼は1919年から仙台の東北帝国大学の医学部精神科の教授となり、日本の医学界に精神分析を根付かせるのにおそらく大きな力があった。しかし、丸井が教えたのが東北の仙台であったことを考えると、これもミスマッチな場所の選択だった。精神分析は、もともとは世紀末ウィーンで生まれたものであり、コスモポリタンで爛熟した文化を背景にした新しい力がみなぎる街の富裕な階層の神経症との接触が重要であった。大正末から昭和戦前期にかけての仙台を蔑ろにするつもりは毛頭ないが、同時代の東京や大阪とは異なり、世紀末ウィーンとの距離は大きいように思う。仙台から一歩でると、その周りには精神病院もろくに存在せず、それ以上に、神経症に対して医者の治療を求める中産階級も希薄にしか存在しなかった。患者は神経症というより憑依性の精神病にかかりそうな状況だっただろうと想像している。この異質な環境でどう精神分析が行われたかというのは、それはそれで重要なテーマだと思う。

それと関係あるのかどうかは分からないが、丸井は神経症や気質の問題について、他の学者たちに果敢に論戦を挑む傾向があった。これらは当時の日本の精神医学界の各所に生じていた渦巻きが接触しては各々の形を鮮明に伝えれてくれる、面白いと同時に歴史学者にとって重要な記事になっている。その一つが、丸井が下田の躁鬱病の病前性格論に対して行った批判について、下田が答えたものである。それぞれ、精神神経学雑誌の44巻6号(1940)、45巻3号(1941)に掲載されている。下田が執着気質が躁鬱病の病前性格で主張したのに対し、丸井はアンビバレンツ、アンビテンデンツが重要だと思うが如何という問いを発した。それに対する答えの中で、下田がこう書いている箇所がある。「何れにしても、Ambivalenz, Ambitendenz なる語は、一定の精神状態を形容するに好都合な表現であるに過ぎず、その疾病の発生を説明する語ではないように私は思っているが、丸井教授は Ambivalenz をもって躁鬱病の Pathogenese を如何に説明しておられるのだろうか」

これは、下田 vs 精神分析という構造であり、疾病の見え姿を説明する装置としての精神分析由来の概念と、疾病の発生と本質を説明できる装置という対比がある。下田とその教室のメンバーが、特に精神分析との対比の中で自分たちの精神医学の理論の構造を説明したこの基本的な前提が、どういう経緯で作られたのか、時間がかかるけれども調べないと。
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