Quantcast
Channel: 身体・病気・医療の社会史の研究者による研究日誌
Viewing all 455 articles
Browse latest View live

デュボス『パストゥール』

$
0
0
ルネ・デュボス『パストゥール―世紀を超えた生命科学への洞察』トーマス・D・ブロック編集、長木大三・岸田綱太郎・田口文章訳(東京:学会出版センター、1996)

ルネ・デュボスはフランスからアメリカに渡った医学者である。専門は微生物学で、生態系や社会の中で感染症と疾患を考える方向を打ち出していたから、環境医学・社会医学と呼ばれる方向とも親和した。最もよく知られているのは、医療と社会と関係を深く論じた『健康という幻想』である。結核についての書物(『白い疫病』)もあるが、これは大家の筆すさびの趣きがある。たまたま Wikipaedia を調べていて知ったのだが、”Think globally, act locally” という成句はもともとはデュボスが作ったとのこと。

デュボスは1950年にパストゥールの知的伝記を書いた。デュボスの死後の1988年に、デュボスのオリジナルの文章に図版を数多く加え、さらにデュボスがパストゥール医学の環境・社会的な側面について書いた文章を一つの章として付け加えた新しい版が出版された。なお、日本語訳の書誌情報のどこでも表記されていないが、この版にはアメリカの優れた科学史家でパストゥール論を書いているジェラルド・ジェイソンが序文を寄せており、この序文がデュボスとパストゥールについて深い洞察を持つ素晴らしいものである。その中でジェイソンが「人々はこの簡潔でわかりやすいパストゥールの紹介を読みたいと思うだろう」と書いているが、まさにその通りであり、知的業績のコアの部分を取り上げた解説は必携である。訳文は悪くないけれども、英語版も買っておくことにする。

「座談会 被占領心理」(1950年)

$
0
0
丸山真男・竹内好・前田陽一・島崎敏樹・篠原正瑛「座談会 被占領心理」『展望』1950 年8月号、48-63.

1950年にGHQによる占領がちょうど5年になったこともあり、丸山真男と精神科医の島崎敏樹、それにドイツ、フランス、中国の文化や思想を研究する学者・知識人たちによる座談会が開かれて、そこで「被占領心理」が語られた。1950年の段階で当時の若きインテリたちが何を考えていたかが垣間見えて面白い。島崎は、随所に面白いことをいうが、総じて日本民族の非西欧型の心理を未熟さの枠組みで捉えて教科書的なことを言っている局面が多かった。これは、やはり戦争に負けて時間もあまりたっていないころだから、まあ分かる。 

しかし、座談の主人公はやはり丸山で、日本にとって占領されたということは何を意味するのかということを深く考えてきたことがよく分かる。島崎が、アメリカの日本占領は、日本にとって一方で抑圧であったと同時に解放でもあった、しかし戦前の日本による中国占領は、解放の修辞を伴っていたが実は抑圧であった、と語ることは、まったく正しいが教科書的である。それに対して丸山が、日本の民衆は占領を運命的なもの、なかば必然的なものとみて虚脱感と諦めをもって受け入れたという。島崎がそれを自由的態度の欠乏、他力的な生存の仕方、家族的な小世界よりも広い視野への無関心と決めつけるという流れである。

中村禎里『日本近世の生命観(1) 身体と生命』

$
0
0
中村禎里『日本近世の生命観(1) 身体と生命』(東京:私費出版、2012)
中村先生は日本の生物学史研究の第一人者であり、ルイセンコ論争、ハーヴィの血液循環から、狐や狸の民俗学まで多くの書物を出版している。この書物は生殖器の解剖学と生殖の生理学についての江戸期の人々の見解を細かにまとめている部分と、間引きや堕胎についての議論を研究者の議論からまとめている部分の二つから構成されている。多くの出版された文献にあたった本格的な概観で、持っているときっと役に立つと思う。私が知る限りでは、この書物は日本科学史学会に入会して中村先生個人にはがきでお願いするというのが唯一の入手の方法である。

念仏と狂気と往生

$
0
0
木曜日から土曜日まで続いた国際学会が終わった。日曜の午後は安楽椅子に座って、須永朝彦『江戸奇談怪談集』(ちくま文庫)をのんびりとめくってはうつらうつらする贅沢な時間を過ごした。その中で神谷養勇軒『新著聞集』の第十三「往生編」の「網曳利兵衛水に立終る」という小さな話をメモする。

阿波国・中郡の黒土村に手繰り網曳をなりわいとする利兵衛なる人物がいた。平生は狂人の様子で、単身無二の念仏者で、網を曳くにも口を閉じるひまなく称名を止めなかった。そのためか、他のものより魚を多く捕り、年を重ねても身体が能く動いた。利兵衛はある日親類をまわって、儂は今日往生する、この世の名残に盃を交わしたいと言った。聞く人は、例の狂気かと思いながら盃を取り交わした。利兵衛は親類に常に往生を唱えるように言い残したあと、海に立ち入ると、そのまま水中で立ち往生した。

この時代には精神病院はもちろん存在しないし、座敷牢はごく例外的な処置だから、精神病なり狂気なりと思われていた人物の大半は、隔離や拘束という処置をされていなかった。精神病の急性期は別にして、ある程度の安定的な状態に入ったものは、変わり者らしい行動をしながら平常の社会で単純な労働をすることができたこと、一方で周囲の人達は狂人に「話を合わせて」いたことがわかる。

この「話を合わせる」というのは難しい主題であると思う。一方でこれは相手の言うことを正直に取らない行為であり、軽蔑と無視を内に秘めて表面上で相手に合わせることである。いくらでも侮蔑的になる行為である。ただもう一方では、患者の世界観に乗りながらその行動を助ける行為でもあり、患者の状態を安定させ、大げさに言えば生活の質を高めるのになんらかの効果もあるかもしれない。逆にいうと、この「話を合わせる」ということは、狂人と分かったものと長いこと付き合うと自然発生的に身に着く態度なのかしら。

横溝正史「面影草紙」と人体模型

$
0
0
金田一耕介で有名な横溝正史が書いた作品には、医学、病気、遺伝の主題と深い関連を持つものが多い。凶悪な犯罪者の遺伝についての優生学的な発想も重要であるし、死体、病気、損壊された人体、障害を受けた人体についてのグロテスクな記述も当時流通していたイメージやその構成を示唆してくれる。医学史の研究者は、『獄門島』では精神病者の私宅監置が重要な背景であること、『仮面舞踏会』では色盲の遺伝と退化論が謎解きと鍵であること、「かいやぐら物語」「湖泥」でガラスの義眼が雰囲気づくりをする小道具になっていることは知っておいた方がいい。なぜ横溝作品に病気と医学のイメージが多用されるのかはもっと研究しないとわからないが、探偵小説の初期にはイギリスのコナン・ドイル、日本の小酒井不木など、医師の経歴を持つ作家が活躍したことは間違いなく直接の人的な理由になるだろうし、認識論的な話では、カルロ・ギンズブルクが言うように、徴候から診断と病気の確定にいたる医学の知のあり方と、証拠から真犯人を割り出す探偵小説の基本が類似しているという理由があるのは確実だろう。

もともとは別の短編(「蔵の中」)を読むつもりで買った同名の文庫に入っていた別の作品「面影草紙」(1932)からメモ。考えている問題とは関係がないので、今のところは単純な知識の断片にしか見えないが、少し調べたら面白い問題になるかもしれない。大阪の老舗の薬種商が舞台で、その薬屋は先祖伝来の「奇明丸」という名薬を売っていたが、日露戦争後に西洋化の波に乗って医療器械の商売を始めるようになり、その中の人体模型がストーリーの中心にある小道具である。その人体模型は、基本は骸骨であり、おそらくそこに内蔵の部品なども入っているのだろう。それについて、<このごろは島津製作所の一手専売のようになっているが、当時は方々に職人がおり、難波の大芳が作る模型は、本当の人間の骨だとされていた>という記述がある。横溝自身が薬学を学んだという経歴を持つから、薬種商が医療機器ビジネスへ拡大したこと、当初は職人が多くいたこと、島津製作所の市場支配に移ったことなどは、なんらかの事実を含んでいるのかもしれない。

横溝正史「蔵の中」と結核患者

$
0
0

イメージ 1

昨日は「面影草紙」の人間模型をメモしたが、もともとはこの文庫本『蔵の中』に収録された表題作の短編を読もうとして買った。「蔵の中」は1935年に雑誌『新青年』に発表された中編で、耳が不自由な美しい姉と美少年の弟の近親相姦的な思いを背景にした物語である。私が高校生の頃、角川から映画化されて、姉を演じたのが「ニューハーフ」であったことが話題になった。横溝自身が結核の治療のために信州で療養していたこともあって、結核患者の生活のあり方が全体の主題になっている。

姉の小雪は美しい少女だが生まれつきの聾唖者である。弟の笛二は14歳でこれも美少年であった。姉の生涯のために二人は日陰の生活にこもりがちで、東京は本郷の商家の蔵の中で千代紙やお手玉をしたり、錦絵や草紙などを見ては美しい姫や若衆が相手に似ているとはにかみながら示しあう時間を過ごしていた。小雪が喀血をして安房の海浜の療養所に連れて行かれるがすぐに死に、笛二もすぐに療養所に行って4年ほど過ごすが、はかばかしくないまま家に帰って蔵の中で過ごすようになる。そこから遠眼鏡で覗いた事件を描くありさまが、物語の中心になり、この部分もモダニズムの意識を持っていて面白い。

ここで取り上げたい主題は、物語の重要な背景が、結核患者が蔵の中にいるという状況である。手元にある山本茂実『ああ野麦峠』をチェックすると、飛騨の村では、信州の製糸工場の稼ぎにいった娘が結核になって帰ると、そのことを隠そうとして彼女たちを蔵の中やそれに類似した場所にいれたことが記してある。「どの部落にいっても一人や二人の肺病やみが納屋のようなところに閉じ込められていて、子供たちはそのそばを鼻を抑えて通った」「光もない倉の中で戸を開けたら異様な情景に一瞬ぎょっとした」というような記述である。結核患者を蔵や納屋など、屋敷の中で仕切られた暗い場所に閉じ込めることは一般的に行われていたことであり、結核キャンペーンの時に悪習として医者や政府に批判されていたことであった。

横溝は、強制的に閉じ込められ隔離されていることを強調しない。この姉弟の蔵の中の耽美的で変態的な世界は、ある種の強制隔離に起源をもちながら、隔離された先に独自の世界を発見している。この世間からの追放と、世間とは違う美意識の発見の主人公が肺病患者である。

画像は「蔵の中」のポスター。この映画で主演した松原留美子さんは、現在、宮崎留美子と名前を変えて、トランスジェンダー系の活躍をあちこちでされているとのこと。

横溝正史「真珠郎」と精神病質者の製作

$
0
0

イメージ 1

『真珠郎』は横溝正史の初期の作品。1936-37年の雑誌『新青年』に連載された。美少年で残虐で道徳心のかけらも持たない精神病質的な殺人者「真珠郎」が、医者によって遺伝と環境の双方を通じて製作されることが重要な設定になっている。「真珠郎」は無慈悲に人を殺す陰険な殺人者で、「人間ペスト」「人間バチルス」と呼ばれているから、精神科医がマッド・サイエンティストとなり、人間を製作・調教して残虐な精神病質者を作り上げる物語である。精神医学の歴史の研究者は、色々な種類の反感を抑えて(笑)、この作品は読んでおかなくてはいけない。

遺伝のほうは、悪の血を持つ血統の男で、本人も犯罪を重ねて最後には刑務所で狂死した人物を父親として、母親はサンカで美人だが白痴でうそつきで無節操で手癖が悪くて非常に残虐な女であった。二人を連れてきて目隠しをして真っ暗な蔵の中にとじこめ、二人が美しい二匹の獣のようにまじわって生まれてきたのが真珠郎である。一方で環境は、世の中から切り離して社会の道徳や世界の真善美から切り離したうえで、狂気と残虐と陰険を教え込んだ。真珠郎は蔵に閉じ込められて鎖でつながれ、外に出ることは厳禁された。蔵の壁は気が狂うように無秩序で派手なけばけばしい色彩で塗られ(軍艦のカモフラージュのようであったと説明されている)、そこには凄惨な責め道具が無数に置かれた。生き物を殺しては首を切り落とし、死体をぶらぶらさせてはけたたましい笑い声を立てると、主人の医師はそれを誉めるというしつけをした。こうして、悪を悪と思わない精神病質と白痴の血を両親からひきつぎ、社会から切り離されて隔離された環境でしつけられた真珠郎が連続殺人を犯すというストーリーである。ここには、まさに同時代の精神医学の主役であった優生学と精神衛生の歴史が刻まれている。そして、それと同じくらい面白いことが、この調教の過程がきちんと記録されているという設定になっていることである。「真珠郎日記」と題された数十冊のノートが医師によって残されており、生誕から20歳まで、一年に一枚の写真をつけ、そこの調教の結果が毎日日誌形式で記されたということになっている。これは、家族の成長アルバムのパロディでもあるだろうが、きっと症例誌の日誌のパロディでもあるのだろう。

ここには、精神病患者の隔離と優生学・精神衛生が倒錯した形で融合して、精神病者を作り上げる病理装置を作っている。諸外国に較べたら圧倒的に少ないが、精神病院が急速に増加して人々の想像力を捉えるようになった時期であり、優生学と精神衛生はまさに言説が花盛りの時期であった。その時期に人々の想像力を捉えた作品である。

画像は角川文庫の『真珠郎』の表紙。杉本一文の作品。

兵頭晶子「『双葉病院事件』をめぐって」

$
0
0
兵頭晶子「『双葉病院事件』をめぐって」『情況』2011年、6・7月合併号、152-156.

著者から論文をいただいた。福島第一原発の事故にまつわる精神科病院における患者の死亡問題に触れた短い記事である。福島第一原発と同じ大熊町に位置する精神科病院である双葉病院は、地震と原発での事故にともなって患者を移動させた。3月12日には大熊町役場から派遣されたバスで209人の患者を避難させ別の病院に無事転院させたが、それ以降(おそらく原発での爆発の後の)、14日以降に開始された自衛隊による搬送には病院職員の付き添いがなく、15日のある時間帯には98名の高齢重症患者が現地に置き去りにされた状態になった。この中には、一日の全栄養を輸液で補給されていた人々もおり、結局、搬送の途中・搬送後に21人が死亡するという事態が引き起こされた。

この「双葉病院事件」を歴史的に位置づけようと試みたのがこの論考である。著者が言っていることは二点であり、一つは、福島が東京などに電力を供給するための原発の立地だったことが象徴する高度に発展した地域と、そこに資源を供給する禎発展の地域の二つが分かれる格差状態である。兵頭はこれを表日本―裏日本の問題と重ね合わせている。もう一つは、近現代日本で形成された精神病者の隔離の問題であり、1900年の精神病者監護法にはじまり、兵頭によれば、2005年の心神喪失者等医療観察法にも連続している、精神病者の犯罪の危険に怯えて自分たちから遠ざける力の形成である。

この著者は私たちにとっての必読書である『精神病の日本近代』を出版した才能がある研究者であり、彼女が新たに取り組むことになった双葉病院事件の問題に歴史的位置づけは大きな期待を持てる。地域の格差、隔離の危険も重要な問題であるが、より直接的なヒントになるのは、隔離の問題そのものではなく、隔離下において造られる特殊な生命環境の問題だと思う。精神病院の患者は、依存の度合いが非常に高く、自分ではなく他人や介護者によって生きることが初めて可能になる環境であった。すぐに思い浮かぶのは、第二次世界大戦の末期と終戦における精神病院における患者の大量死の問題であり、戦前の精神病院の火災における患者の死亡の問題である。この論文はまだ速報的な性格だが、この著者の仕事であれば、注目するべき論点となる重要な仕事になると今から期待している。

横溝正史「生ける死仮面」「蝋美人」

$
0
0
横溝正史「生ける死仮面」「蝋美人」
横溝正史『首』(角川文庫)に収録されている二つの短編の医学的な背景についてメモ。
「生ける死仮面」は同性愛と男娼をめぐる短編。東京杉並に住む彫刻家が、上野の男娼であると思われた17,8才の美少年をアトリエに運び込む。少年はヒロポン中毒と肺の病気のためにすぐに死ぬが、死後もその死体を愛して、腐乱しかけた死体と寝ているのが発見されて事件が始まる。この少年を愛した女性が、おそらくヒステリーの一種なのだろうが、特殊な性格造形をもった人物として描かれているが、それが私の症例誌に出るある患者にそっくりで、大きなヒントをもらった。ついでにいうと、戦前の上野の男娼については、小峰茂之が大きな仕事を残している。

「蝋美人」は、当時の法医学がエロ・グロ系のきわどさと紙一重であったことを示唆する短編。法医学の天才博士が、身元不詳の白骨死体に肉付けする話を背景として持つ。その肉付けした死体が行方不明になった有名な女優に生き写しであったこと、それを銀座のデパートの「防災展覧会」で行ったこと、この「防災展覧会」は血みどろの殺人現場や鉄道わきの事故での生首の写真など、グロ趣味に迎合するものであったこと、法医学の天才は自分が再現した蝋人形を見世物屋に売ろうとしていること、などが重要であろう。この法医学の天才は、浅田一のような人物を思い浮かべればいいのかな。これが上昇したのも面白いが、現在の法医学はそういうものではなくなっていると思うけれども、そのようなきわどさから法医学が脱したように見えるのはなぜだろう? 

ギリシア医学と宗教的治療

$
0
0
東雅夫『世界幻想文学大全 怪奇小説精華』を読んでいたら、たまたま、その冒頭に置かれた作品が医学史の視点から見た時にとても重要だったのでメモをした。ルキアノスの「嘘好き、または懐疑者」という作品で、もともとはルキアノス『本当の話』の中に収録されている短い物語である。ルキアノスは2世紀の作家で、小説や風刺などに特徴があるとのこと。

ギリシア医学、特にヒポクラテス医学の特徴は、迷信や宗教的な儀式と距離を確保しようとしたことであると言われる。ヒポクラテス派の医師たちは、自らの医学を自然的なものだと特徴づけ、ある病気が神や霊によって引き起こされるという考え、それを祓い清めや神への供儀・祈りによって治療するというモデルと対比させた。この立ち位置を鮮明に語った著名なテキストが「神聖病について」であり、科学的・合理的なヒポクラテス医学のエッセンスであると考えられていた。近年の研究では、もう少しニュアンスがある見方が取られており、宗教的な医療との共存が強調されているが、ヒポクラテス医学には強く自然性を追求する態度と迷信から距離を取るベクトルがあったことは疑いない。

ルキアノスの「嘘好き、または懐疑者」が面白いと思ったのは、あたかもヒポクラテス派の「神聖病について」の鏡像のようなテキストだからである。もちろん全体としてはヒポクラテス派と言っていることは同じで、病気を宗教的・呪術的に説明することに対して高度に懐疑的な人物が登場して、病気を迷信や呪術のせいにする考えを批判するというのが全体的な理論になっているが、この呪文や儀式や宗教による治療病気の説明モデルを唱える者たちが次々と現れて、自分たちが経験した事例や呪文や儀式を語り続ける部分がテキストの大半を占めるから、結果的には、このテキストはほとんどが「嘘好き」と呼ばれる人々が語る超自然的な治療の物語で締められることになる。世の中にはこんなに悪徳があると詳細に列挙し続ける書物が結果的に悪徳の百科事典の機能を果たしたりするのと少し似ている。クラフト=エービングの書物も、もともとは性的倒錯は病気であるという議論だが、それがさまざまな性的倒錯の症例を列挙したので、むしろ性的倒錯を推奨する力すらあったのとも似ている。

つまり、ルキアノスの作品は、ヒポクラテス派の「神聖病について」で批判されている考えを述べる人たちが、次から次へと現れては、超自然的な病気や治療の事例を語り、その学説を述べているという形になっている。その意味で、「神聖病について」の鏡になっていると考えていいだろう。もちろん、注意しなければならない点もあり、ここでルキアノスが取り上げているのは、アリストテレス派、ストア学派、あるいはプラトン学派などの高度な知識人が語る迷信的な治療という設定になっているから、ヒポクラテス派が批判した対象とはずれるかもしれないのは当然である。しかし、少なくとも私は「神聖病について」と対応―対立するまとまったテキストを読んだことがないので、ルキアノスの記述は素晴らしかった。これが怪奇小説大全の中に入っていることを思わず忘れて、医学史の書物であるかのように気合を入れて読みふけった(笑)

学生時代に読んだ『神々の対話』を探したら、もちろん「文庫 L 」の場所にあった(ドヤ顔)から、未読山に移した。あとからゆっくり読み返そう。

兵頭晶子「民間治療場の日本近代」

$
0
0
兵頭晶子「民間治療場の日本近代―『治療の場所』の歴史から」『臨床心理学研究』50(2012), no.1, 2-14.
同じくいただいた論文を読む。

現在の日本における精神医療は精神病院が主軸になっており、先進国の中では精神病院の数が圧倒的に多い。この状況はしばらく前から反省されており、たぶん私が生きているうちには脱・精神病院の大きな転換が来るのかなと思っている。その中で、精神病院ではない医療をポジティヴに捉えるのが一つの大きな流れになっており、この著者もその一人である。どのようにして脱・精神病院するかをめぐっては意見の違いがあると思うが、この著者の方向は、過去の民間医療における地域と家族の参与にポジティヴな光を当てるものである。

近世の民間医療においては、山に行って薬用植物を取ってきて自家製の薬草を作り、温泉に行き、村に住む修験者に災厄除けや治療をしてもらうことが一つの標準であった。同じパタンが精神病者への民間医療に用いられた。眼病の治療に水がよく用いられたように、精神病者の潅滝があった。病者、家族は米を持参して自炊しながら祈祷をした。呉秀三に代表される精神病学は、この民間治療がある種の価値を持っていることも認識して、たとえば宮城県の定義温泉は理想的なものであると考えていた。しかし、その時に近代精神病学が読み込んだものは持続浴であり開放的な治療空間であった。水治療という媒介を経て、民間治療場を差異的に評価する尺度を得て、医学の監督を受けることで良好な治療所を作ることが大きな流れとなっていく。水治療や精神病院によって代替可能ではなかった、民間治療所の本質、すなわち地域の人々と家族が主体的に病者にかかわる治療の形は失われていったのである。なお、天皇の墓地や行幸などが民間治療場を閉ざす方向に向かうこともあった。

いわゆる地域医療というのは、長期滞在型の精神病院を閉鎖して、外来と地域にはりめぐらされた看護でケアするもので、欧米では1960年代から70年代にかけて急速に実現され、精神医療におけるコスト削減という政治的な右側からの関心と、患者の人権擁護や隔離反対、あるいは反精神医学という左翼からラジカルの関心が一致して実施されたものとして、皮肉交じりで語られる現象である。日本で地域精神医療の実現のために努力されている方々の真摯さに敬意を表すると同時に、歴史学者としては皮肉な思いもあって、欧米では精神病院が飽和してオルタナティヴを探す動きが確立した1920年近辺に、呉秀三が精神病院に夢中になったのと同じ現象が一世紀後にも起きるのだろうかという印象を持っている。そのあたり、現在よりももっと深みがある議論ができていいはずである。

通経薬と催淫・生殖

$
0
0
Evans, Jennifer, “’Gentle Purges corrected with hot Spices, whether they work or not, do vehemently provoke Venery’: Menstrural Provocation and Procreation in Early Modern England”, Social History of Medicine, vol.25, no.1, 2012: 2-19.

月経回復剤・通月剤は英語ではemmenagogue といい、広い地域において古代から存在している薬のジャンルである。この薬が処方され売られるときに、つけられた名称のもともとの意味としては、「月経を回復する薬」「止まったり滞っている月経を再び通じる薬」という意味の語が選ばれた。Emmenagogue は、ギリシア語の「月経を引き出す」という意味であるし、近世日本では「三十日丸」などという名称で売られた。ここまで書くと、少なくともこのブログの読者のほとんどが、「それはつまり堕胎薬のことであった」というつながりを期待するだろうし、同時代人も歴史学者も、そういうつながりを作ってきた。研究者によっては、結果的に、通経剤は堕胎薬の別名であるといわmばかりの研究をしているものもいる。このつながりを作ったヒストリオグラフィは基本的にはフェミニズムと言ってよく、女性が中絶する権利とその過去が歴史学者の重要な関心であったときに、「通経薬とはすなわち堕胎薬のことである」という思い込みが作られた。これはフェミニズムが作り出した研究上の歪みであった。

この論文が主張していることは、通経薬にはもちろん堕胎薬として使われることもあったが、それと少なくとも同じくらい、月経を出す薬としての利用も重要であったという当たり前のことであり、月経を出すということはつまりどういうことかということを分析した論文である。通経薬は、月経―生殖―繁栄という道筋を女性がたどるために重要な役割を果たしていた。つまり、月経から生殖という道筋と、堕胎という道筋と、二つの二方向・正反対の方向のために通経薬は使われていた。そこで組み合わせて用いられた下剤と温めは、性的に興奮させる催淫作用もあると考えられていた。タイトルの言葉は Felix Platter の言葉で、そのような関心をあらわしている。通経剤は、女性を催淫からはじめて生殖に至らせる薬でもあったのである。

生殖は少なくとも中絶と同じくらい重要であったことを示し、女性が自己決定してきたのは中絶だけであったわけではないことを私たちに思い出させる、いい論文だった。

長期持続の受療の歴史―近世イングランドの薬の輸入

$
0
0
Wallis, Patrick, “Exotic Drugs and English Medicine: England’s Drug Trade, c.1550-c.1800”, Social History of Medicine, vol.25, no.1, 2012: 20-46.
パトリック・ウォリスはLSEの先生で、17世紀から19世紀までの医療と経済について水準が高い研究を数多く出版しており、注目の研究者の一人である。この論文は、経済史の研究者の一つの持ち味である、ある指標を取って長いタイムスパンで分析する手法を使って近世イギリスの薬種の輸入を研究したものであり、少し前から待望していた研究成果である。この論文と、この系列で出てくるだろう一連の論文は、消費社会の成立と患者の受療行動の歴史についての最も重要な議論の基礎を作るだろう。必読の論文。

さてお楽しみの議論である(笑)いくつかの重要なポイントのうち、まずは薬の輸入の成長の時期について。データをそろえた1567年から1774年までについて、もちろん薬の輸入は急激に成長している。さまざまな標準化をしてみると、年商2,400 ポンドから23万ポンドに成長するから、ほぼ100倍の増加ということになる。最も大きな増加は17世紀中におきている。輸入した薬種が急増した時期は、これまでの研究でわかっている医療へのサービスの急増の時期とほぼ重なる。1620年から1690年にかけて、医療サービスは400-1000%の増加をしたというが、同じ時期に薬の輸入は10倍くらいに増えている。1700年くらいには、輸入された薬は特殊なぜいたく品でなく、人々に広く使われた薬になった。一方で、消費社会の到来と言われた1700年から1770年への変化はゆるやかなもので、2倍くらいの成長である。16世紀には北ヨーロッパ・南ヨーロッパからの輸入が100%だったものが、18世紀にはアメリカ・インドが75%くらいをしめる長距離貿易となった。輸入された薬の内実であるが、たしかに流行薬の盛衰はあるが、1600年から1800年にかけて、その大きな枠組みについて大きな変化はないという。17世紀の医療サービスの増大については、パラケルスス派の医学の役割が大きかったという議論がされている。しかし、同じ時期の輸入薬の増加にはパラケルスス派医学の影響を読み取ることはできず、ガレノスの医学・医薬の拡大にあたると考えたほうがいいという。

やや驚いたこと(成長の時期)、やっぱりと確認したこと(ガレノスの枠組み)の双方があるが、「長い持続」の受療の歴史のパイオニアになる仕事である。

「見世物」と19世紀両性具有研究のパラダイム

$
0
0
Mak, Geertje, “Hermaphrodites on Show. The Case of Katharina / Karl Hohmann and its Use in Nineteenth-century Medical Science”, Social History of Medicine, vol.25, no.1, 2012: 65-83.
今年の5月に Doubting Sex という19世紀から20世紀の両性具有についての大きな著作を出版した著者が、書物の出版とタイアップするかのように専門誌に論文を投稿したもの。非常に優れた論考で、Doubting Sex をすぐに注文した。

概念装置が非常に洗練されている。両性具有を、見世物とフリークの世界に生きているものと医学的な研究の対象という二つの世界にまたがる存在として捉えている。どちらも、自分の身体の異常を人に「見せる」という行為である。この二つの「見せる」行為がどのように深く構造化されてつながっていたかを示した論文である。

Katharina / Karl Hohman というのは、19世紀後半にもっとも有名であった両性具有であった。本人談によれば射精をすることもできたし月経もあった。女性を妊娠させたことすらある。1860年代から70年代にかけての数年間で、ヨーロッパの著名な医者たちを回って彼らの検査のために自分を提供した。15か月で10の都市を回り、1870年代にはNYにもいった。ロキタンスキーやフィルヒョウなどのスーパースターたちもカタリーナを検査した。検査した理由の一つは、この時期に、ガレノス流の熱冷―乾湿の二つの対立項の特徴が連続的に変わる中で作るバランスに自己があるという考えから、解剖と臓器が人間の自己を定めるという見方が勝利していたからであり、カタリーナの卵巣や精巣を確認することが重要だったからである。しかし、死体であればともかく、生きている人物であるから、腺の分析のためには触診や内診で観ることは難しかったし、訓練が必要であった。そのため、カタリーナを診察することは、実際にみたり触れたりして確認することが難しい研究対象について、ヨーロッパの医学者たちと同じ対象を自分も確認することになった。これは、ある意味で実験室のようにその結果を共有し、観察者の主観性を排除しようという試みであった。そこでは、カタリーナの主観的な記述もほとんど顧みられず、医者たちはカタリーナの臓器に興味を集中させて、カタリーナ自身が語った性欲だとか自己像についての記述は無視された。性の心理的な部分は学問の対象から外され、腺の解剖学が性の中核であると考える研究と観察の体制が作られた。


このように一流の医学者たちに精密に検査されたカタリーナは、「〇〇教授による検査済み」「男性性器と女性性器の双方を持つ」というような証明書を発行してもらうことができた。このような証明書(何冊も持っていたという)は、カタリーナがフリーク・ショーで堂々と見せることができたものであった。

熱帯生存圏の論文集から

$
0
0
杉原薫「熱帯生存圏の歴史的射程」杉原薫・脇村孝平・藤田幸一・田辺明生編『歴史のなかの熱帯生存圏―温帯パラダイムを超えて』(京都:京都大学出版会、2012), 1-28;脇村孝平「人類史における生存基盤と熱帯―湿潤地帯・半乾燥地帯・乾燥亜熱帯」杉原薫・脇村孝平・藤田幸一・田辺明生編『歴史のなかの熱帯生存圏―温帯パラダイムを超えて』(京都:京都大学出版会、2012), 53-78; 斎藤修「人類史における最初の人口転換―新石器革命の古人口学」杉原薫・脇村孝平・藤田幸一・田辺明生編『歴史のなかの熱帯生存圏―温帯パラダイムを超えて』(京都:京都大学出版会、2012), 79-107.

いただいた書物のうち感染症にかかわる部分を読む。書物全体の主題としては、文明や歴史の捉え方の変化にかかわるもので、この30年ほどのあいだに歴史学一般の中で一つの柱になった、人間社会や文明を自然に対抗して何かを作り上げるものと捉えずに、自然環境の中で生じるが自然そのものからは逸脱していくものと捉える発想に基づいている。環境史というのかもしれないし、生物的歴史学という人たちもいる。その手法を用いて文明を捉えなおす論文を集めた書物で、経済史の先生方が主力になっているから、面白い文明史になっている。医学史の研究者にとっては、脇村・斎藤の二つの論文は必読だと思う。

二つのメモ。一つは「ジャングル」という言葉の語源のトリヴィアも含むから覚えやすい。湿潤地と乾燥地では感染症の負荷が違う、マクニールの言葉を使うと「ミクロ寄生」の程度が異なる。湿潤地は生物が多様に繁茂するということは疾病や感染症についてもあてはまり、湿潤地では病気やその媒介者も多いのに対し、乾燥地では感染症が少ない。歴史的にいっても、インドとその周辺において、感染症は砂漠のような乾燥地を避けて伝播・分布していた。19世紀のコレラもそうであったし、マラリアもそのように分布していた。そこで「ジャングル」だが、その語源はサンスクリット語の「ジャンカラ」という語である。これはジャングルという語が持つ熱帯雨林のイメージとは全く正反対の意味を持ち、乾燥した土地という意味であった。湿地・沼地はアヌーパという。ジャンカラはまばらに灌木が生えた平坦な乾燥地で、アヌーパはガンジス川下流のベンガルなどを想像すればいい。両者の感染症の負荷の違いは人々はもちろん知っており、ジャンガラは健康でアヌーパは不健康という意味合いが付与されていた。

もう一つは斎藤先生の人口転換についての優れた解説論文である。「人口転換」というと、これまでは19世紀から20世紀にかけて起きた現象で、多産多死型の社会から少産少死型の社会に移行したことを言っていたが、近年、それに先立つもう一つの人口転換があったという議論が定着しており、その議論をまとめた論文である。農耕が始まる前の旧石器時代の人口や平均寿命などを測るのは私には想像がつかないくらい大変なことだと思うけれども、世界の多くの地域の多くの遺跡からのデータを総合すると、農耕開始の少し前から人口の減少が始まったが、農耕開始の直後から人口は劇的に増大したこと、一方で、平均寿命(ゼロ歳時平均余命)としては、旧石器時代には20代の後半から30歳くらいであったのが、農耕開始後は20代の前半くらいから25歳くらいに低下したことがいえる。それまでの中産中死の狩猟採集社会から、農耕による革命は、多産多死でトータルとしては増えていくけれども、死亡率が高い社会を生み出したことになる。俗受けする言い方をすると、繁栄と殺伐が背中合わせの社会ということである。これは、レヴィ=ストロースの「熱い社会」の特徴じゃないか。

横溝正史『髑髏検校』とストーカー『ドラキュラ』の精神病患者

$
0
0
『髑髏検校』
「髑髏検校」は金田一耕介もので有名な横溝正史が昭和14年に『奇譚』に分載した作品であり、ブラム・ストーカーの『ドラキュラ』(1897)を忠実になぞって、舞台を将軍家斉の江戸に移し替えた吸血鬼ものである。『ドラキュラ』が、中世と伝奇のトランシルヴァニアとヴィクトリア朝の大英帝国のロンドンを結んだゴシックであるように、「髑髏検校」は、九州の不知火の孤島にいる天草四郎の怨霊が爛熟した化政期の江戸に移動して吸血を繰り広げる物語である。ドラキュラと闘うのがヴァン・ヘルシング率いる医師たちだとすれば、髑髏検校と闘うのは鳥居蘭渓なる腕が立つ武士にして碩学の医師・蘭学者とその息子や弟子である。狼や蝙蝠や葫(ニンニク)などのアイテムもほぼ一致して使われている。基本的には、大胆な翻案と言ってもいいような作品だから、共通点を本気になって探せばたくさんあるだろう。

心に留めなければならないのは、多くの人はもう予想していると思うけれども(笑)、両者の物語で鍵になる役割を果たす精神病患者の問題である。『ドラキュラ』には、精神病医の医者が経営する精神病院に収容されているレンフィールドというキャラクターが登場する。ハエやクモや鳥などを食べて過ごし、「動物食狂」という病名をつけられている。レンフィールドはドラキュラがロンドンで機能するために選んだ人物で、最後には良心に従ってドラキュラを裏切って殺される。一方で「髑髏検校」でそれに対応する役は、鳥居蘭渓の長男で座敷牢に閉じ込められたことになっている狂人で、蜘蛛を飼ってそれらに蠅を与えたり、血を飲む嗜好を持っている。この狂人は髑髏検校の命により座敷牢から解放されて手下として働くが、最後には父親の鳥居に切り殺されるという設定である。ちなみに、私宅監置されている精神病患者が蜘蛛を愛好し血を飲むという設定は、横溝の戦後の作品である『幽霊男』にも用いられている。

外国の学会などで座敷牢や私宅監置の話を始める導入として使える話であると同時に、昭和14年の私宅監置についてのイメージの結晶を論じるときにも役にたつ。

これで、角川文庫の横溝正史の作品をすべて読み終えたことにする。他にもまだあるらしいが、もういい(笑)。江戸川乱歩も8巻本の全集を読んだので基本的な部分は読んだ。次は小酒井不木の作品群だが、これは、青空文庫経由で無料のKindle 版が数えきれないほどある。

キットラーと精神医療のメディア(媒介)

$
0
0
Winthrop-Young, Geoffrey, Kittler and the Media (Cambridge: Polity Press, 2011)
王子脳病院の症例誌分析をする中で、ある個所においては、20世紀前半についてのメディア論が本格的に必要になったので、メディア論を読む。フリードリッヒ・キットラーは、『グラモフォン・フィルム・タイプライター』[1986年]が翻訳されただけでなくちくま学芸文庫で文庫化されて「モダン・クラシックス」の仲間入りをした文学研究者・メディア論者である。奇矯な意見や難解な議論で悪名高いキットラーの入門書を志したのが本書で、イントロダクション、人生を概観した章、そして問題のメディア論を解説した部分を読んだが、私はとても分かりやすく読んだ。入門書のお手本のように魅力的に書けている。分かりやすく解説したあとで、「キットラー流にこれを言うと、『~~~』のようになる」という説明の仕方がいい。

20世紀前半の精神医療をみていると、メディア革命の大きな影響を受けていることがありありと分かる。基本的には、かつての医学書という「書いてある内容」が最も重要であったレジームから、写真や複製などのメディアを通じて「書いた作品そのもの」を取り込むことができるレジームに移動する時期であった。日本の精神医学教科書では、呉秀三らの本格的な教科書とともに新しいレジームへの移行が起きている。そこでは、患者の姿勢、表情、行為などはいうまでもなく、「何を書いたのか」という内容よりも、「どう書いたのか」を伝えようとする筆跡や書字作品の写真・複製が精神病の徴候として現れるようになる。

それとどう関係があるのか分からないが(笑)、精神病院というのは、膨大な書字記録を生産させ保存する空間である。特に重要で量も多いのは、患者についての症例誌である。一人一人の患者について入院時に作られて、それから一日ごとに医師と看護人によって日誌の記録が作られて蓄積されてゆき、最終的には一人の患者ごとにまとめられた資料である。同じ患者が複数回入院すると、過去の記録に新たな日誌を足してまとめることが行われる。この日誌は病院の中を持ち歩かれ、医師の回診の時には持参されて、おそらくその場で記録されたと思われる。患者の視点からみると、自分の行動や発言が記録されて症例誌に組み込まれているのを、日々目撃して経験しているということになる。

「狂気は、我々に語らしめる規則・プロトコル・制度について、強迫的に間断なく語ることである」とキットラーが言う。正常とは自分が言うことをコントロールできることであり、狂気は、それができないかわりに、自分を語らしめている何かについて場所と所をかまわず語ってしまうことである。この部分は憶えておこう。

アメリカの美容整形と日系移民

$
0
0
Haiken, Elizabeth, Venus Envy: A History of Cosmetic Surgery (Baltimore: The Johns Hopkins University Press, 1997)

美容整形の歴史についての最初の洗練された書物である。20世紀のアメリカとその影響圏を中心としている。「マイケル・ジャクソン・ファクター」と題された第5章は人種と美容整形の問題を取り上げている。アメリカ国内では1923年の Fanny Brice という著名なユダヤ人の女優が鼻を整形して派手なニュースを作りだした。1926年には、ボストンに住む日本人男性がアメリカ人女性と恋に落ちて、アメリカ人の両親を説得するために、顔を整形することを決意した。Shima Kito となのる人物は、日本人に特徴的な目とまぶたを整形し、上を向いていた鼻を直、たるみがあった下唇をひきしめて、日本名を英語にして William White と名乗った。これによって二人は結婚して幸福に暮らしたという記事である。ある医者は、1938年までに2万人の日本人が目の整形をした、日本人は目の形のせいで射撃者になれず、知能は高いのに航空事故を良く起こすと言っているが、これはおそらく根拠がない記事だろう。第二次大戦後、アメリカは日本の占領、朝鮮戦争とベトナム戦争と、東アジアと東南アジアに深くかかわることになり、アメリカ映画と雑誌は大きな影響を与えた。日本でも「十仁」という美容整形外科の医院がチェーンとなり、一日に1380件の美容整形を「エリザベス・テイラーのようになりたい」という女性にほどこしたこともあった。これは、韓国、ベトナムにも拡散し、なかには東京で手術をしたり、あるいはベトナムに支店を出すこともあった。この時期には、望ましからぬ容姿や願望をしているとノイローゼになり、美容整形はこの病的な精神状態から解放して人に幸福をもたらすという、精神医学・心理学的な正当化が行われるようになった。

生の顔だとノイローゼになり、美容整形が幸福をもたらすという決まり文句が、どうしてもぴんとこない。美容整形によって幸福になることは全く問題がない。私が気になっているのは、それは「美容整形が可能にした幸福」とともに生きなければならない一生を選択するということである。ううむ。

ドイツの精神病実地調査

$
0
0
Dilling, H., and S. Weyer “Prevalence of Mental Disorders in the Small-Town – Rural Region of Traunstein (Upper Bavaria)”, Acta Psychiatr. Scand. 1984: 69; 60-79.

1975年に当時の西ドイツでは精神保健についての報告が出されて、政策と人々が精神医療の全体像について持つ興味が高まった。しかし、西ドイツでは戦後は精神疾患の疫学研究はほとんど行われてこなかった。唯一の西ドイツでの先行研究は、1930年代にブルッガーが行ったものである。ブルッガーはテューリンゲン ‘Thueringen’ の地域の住民を対象に精神疾病の遺伝調査を行い、1931年から37年にその成果を出版した。面白いことに、西ドイツではそれ以降は精神疫学の調査はされておらず、この論文、すなわり1975年から79年に調査を実施して1984年に英語で出版されたものが、ブルッガー以来はじめての研究であるという。ドイツでは戦間期の優生学時代の精神病調査から半世紀ほど精神病調査がなかったのに対し、日本ではほぼ同時期から連続的に精神超調査が行われていたこと。この違いを念頭におくこと。

ポルトガルのコレラと幕末・明治日本のコレラ理解

$
0
0
Almeida, Maria Antonia Pires de, “The Portuguese Cholera Morbus Epidemic of 1853-56 as Seen by the Press”, Notes and Records of the Royal Society, (2012)66, 41-53.
ポルトガルは1832年にはオポルトがコレラに襲われて全国に広がり約40,000人が死亡した。1853-55年にも大きなコレラの流行に襲われた。その新聞ではコレラについての記事が盛んに出版された。同時期の科学技術についての記事1600のうち720程度がコレラについての記事であった。そこで問題になったのはコレラが感染するかという議論であるが、主流の意見としては、貧しい愚かなものたちは、よせと言っているのにキュウリ、スモモ、不熟の果物を食べるからコレラになるのだというものがあった。これは食養生と自律・克己の問題としてコレラを理解する枠組みであった。安政と明治の日本においてもほぼ同じ枠組みが用いられ、この枠組みに細菌説を追加する形で明治政府のオーソドックスな議論が作られた。ドイツから輸入されたの西洋型の医学、特にその精髄としての細菌学と、日本の伝統医学との断絶がよく強調されるが、個人サイドにおけるコレラの防疫についてはその断絶を強調するのは間違っている。食べてはいけない食べ物の種類まで西洋と日本は同じである。

この現象について少し大きな話をすると、やはり、ユーラシアにおける医学理論の共有という大きな特徴の話をしなければならない。ヒポクラテス・ガレニズムの西洋・イスラム圏、アーユルヴェーダのインド圏、そして中国医学の中国文化圏において、古代―中世―初期近代においてそれぞれの医学が維持されて交流があったため、相互の浸透や影響があった。それを通じて、各地において類似した部分が作られた。もちろん、ユーラシアの各地において独特な方法や重要な違いなどは存在したが、それと同時に、類似性を作る動きもあった。古代医学というのは、まったく水と油のように異なっていたものではなかった。西洋医学の独自の学説が臨床にとって重要になるのは、やはり1800年移行のパリの臨床医学革命以降であった。その後に生まれた細菌学においても、内容としてはそれほど異なっていたものではなかった。19世紀末から20世紀初頭の日本のコレラ防疫が、日本の伝統医学と同じ言葉で語られていたことは、長いタイムスパンで見た時のユーラシア医学の交流と共有のベースがあったことを示唆するものである。
Viewing all 455 articles
Browse latest View live