南方熊楠『十二支考』
大晦日から元日にかけて、南方熊楠『十二支考』の蛇の章を読んだ。この数年、この博物誌家が魔法のような該博な知識でその年の干支を論じた文章を読むのが年末年始の恒例の行事になっている。
十二支の中でも蛇という生き物は、民俗学からみて特に豊かな素材があるのだろう。他の干支よりも特に北條で縦横の文章になっているように思う。私にとっては、エデンの園での人類の誘惑があまりに大きいが、南方はそのようなありきたりの話題には触れもせず、多様な話題を世界各地のさまざまな資料から紹介する。特に面白く読んだのは蛇と邪視についての二つの議論である。
一つは蛇が持っている邪視の力である。「蛇に睨まれた蛙」というように、蛇が一睨みで他の生き物を無抵抗にして釘付けにしてからそれをたいらげるという話は世界各地にある。それがリスであることも空を飛ぶ鳥であることもある。これは恐怖というより「魅力」と呼ぶべきだと南方は言う。そして、蛇ばかりでなく人間界にもこのような力があるという。たとえば女が男に対してふるう力はその視線による魅力であり、「阿片に酔わされた女が踏み蹴られてもシナ人の宅を脱せぬごとく」とあるから、アヘン中毒にもその魅力がある。「動物心理学」という言葉を出しているが、ここには人間と動物が共有している死と無抵抗の魅力の主題が顔を出す。
もう一つは、蛇が何かを邪視から守るという主題である。蛇は宝を守る存在であり、ワーグナー『指輪』ではそれはドラゴンになっている。宝の蔵には蛇が絡みついたような複雑な文様が描かれるが、熊楠はこれを蛇が悪者の邪視から守る文様を描いたと論じる。強い視線の力によって封じ込められている宝をあらわにして奪おうとしている悪者に対して、複雑な文様は、それをなぞっていくうちに、その視線の力を消費させる。同じように、多数の物を目で追わせて数えさせるということも、目の力を使い果たさせる。複雑なパターンや多数性は、視線を消費させて何かを守る力を持つという。
現在の民俗学や人類学で、南方の議論が正しいのかどうかは別にして、これは、いずれも、生物が別の生物の精神に対して持つ視線のエネルギーという概念によって展開している考察である。動物における精神状態や未開民族における精神状態の研究から、現在の文明化社会においても見受けられる異常精神状態を考察する態度であり、進化論と文明の発展段階理論を使って、動物から文明化社会までを階差をつけながらひとくくりに論ずることができる視線の確立である。この装置を使って、20世紀の前半の精神医学は、性や死や恐怖を軸にして文明化社会の精神病や神経症を論じる枠組みを作り出した。
南方のエッセイは軽い読み物に見えるし、実際にその通りだが(笑)、使っている概念装置は私にとって主要な研究対象であった。