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Channel: 身体・病気・医療の社会史の研究者による研究日誌
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南方熊楠『十二支考』

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南方熊楠『十二支考』

大晦日から元日にかけて、南方熊楠『十二支考』の蛇の章を読んだ。この数年、この博物誌家が魔法のような該博な知識でその年の干支を論じた文章を読むのが年末年始の恒例の行事になっている。

十二支の中でも蛇という生き物は、民俗学からみて特に豊かな素材があるのだろう。他の干支よりも特に北條で縦横の文章になっているように思う。私にとっては、エデンの園での人類の誘惑があまりに大きいが、南方はそのようなありきたりの話題には触れもせず、多様な話題を世界各地のさまざまな資料から紹介する。特に面白く読んだのは蛇と邪視についての二つの議論である。

一つは蛇が持っている邪視の力である。「蛇に睨まれた蛙」というように、蛇が一睨みで他の生き物を無抵抗にして釘付けにしてからそれをたいらげるという話は世界各地にある。それがリスであることも空を飛ぶ鳥であることもある。これは恐怖というより「魅力」と呼ぶべきだと南方は言う。そして、蛇ばかりでなく人間界にもこのような力があるという。たとえば女が男に対してふるう力はその視線による魅力であり、「阿片に酔わされた女が踏み蹴られてもシナ人の宅を脱せぬごとく」とあるから、アヘン中毒にもその魅力がある。「動物心理学」という言葉を出しているが、ここには人間と動物が共有している死と無抵抗の魅力の主題が顔を出す。

もう一つは、蛇が何かを邪視から守るという主題である。蛇は宝を守る存在であり、ワーグナー『指輪』ではそれはドラゴンになっている。宝の蔵には蛇が絡みついたような複雑な文様が描かれるが、熊楠はこれを蛇が悪者の邪視から守る文様を描いたと論じる。強い視線の力によって封じ込められている宝をあらわにして奪おうとしている悪者に対して、複雑な文様は、それをなぞっていくうちに、その視線の力を消費させる。同じように、多数の物を目で追わせて数えさせるということも、目の力を使い果たさせる。複雑なパターンや多数性は、視線を消費させて何かを守る力を持つという。

現在の民俗学や人類学で、南方の議論が正しいのかどうかは別にして、これは、いずれも、生物が別の生物の精神に対して持つ視線のエネルギーという概念によって展開している考察である。動物における精神状態や未開民族における精神状態の研究から、現在の文明化社会においても見受けられる異常精神状態を考察する態度であり、進化論と文明の発展段階理論を使って、動物から文明化社会までを階差をつけながらひとくくりに論ずることができる視線の確立である。この装置を使って、20世紀の前半の精神医学は、性や死や恐怖を軸にして文明化社会の精神病や神経症を論じる枠組みを作り出した。

南方のエッセイは軽い読み物に見えるし、実際にその通りだが(笑)、使っている概念装置は私にとって主要な研究対象であった。

『素晴らしき新世界』

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Kass, Leon, “Preventing a Brave New World”, The New Republic, 21 June 2001.

ヒトのクローンに反対する生命倫理の古典的な論説であるが、それにオルダス・ハクスリー『素晴らしき新世界』についての捉え方が書いてあったのでメモ。このテキストはウェブ上で読むことができる。

『素晴らしき新世界』は1932年に出版された科学技術が進歩した先に広がる「暗い」未来を描いたディストピア小説である。それは、全体主義に対応するような邪悪な何かが作り上げるディストピアというより、人道主義と個人の幸福を願う態度が実現するディストピアであるだけに、現在の世界においていっそう現実味を帯びてくる。アメリカから見た20世紀というのは、ナチスや日本やソ連共産党という全体主義に対して、民主主義が闘って勝利した時期であって、そのように現在を捉える限りにおいては、オーウェル『1984年』のようなモデル、すなわち世界を支配する組織が科学技術と知識を独占して人々を洗脳して作り上げるディストピアを設定するのが説得力がある方法であった。しかし、冷戦がソ連と東側諸国の崩壊で終わった現在では、むしろアメリカと西側社会が選んだ道筋は、それはそれで別のディストピアにいたるという議論は説得力がある。最先端の科学知識は広く共有され、その中での自己決定の選択によって優生が選ばれることこそが、ディストピアではないかという問いかけである。ハクスリーが新たに読まれている一つの理由は、このあたりにあるのだろう。

陸軍病院で戦争神経症をみるのが楽しかった精神医

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櫻井図南男『人生遍路』(福岡:葦書房、1983)

九州大学精神科の著名な医学教授の自伝である。

一番重要なポイントは、昭和13年から16年にかけての国府台陸軍病院への応召を楽しいものと受け止めていることである。国府台に昭和13年春から応召、戦争神経症の患者を丹念にみて、陸軍病院の病床日誌は極秘だがそれをひそかに写し取ったこと。小泉親彦は当時は陸軍医務局長で、戦争によって引き起こされた精神疾患をあつめ、軍陣精神医学の研究を行った。練兵場に新しい病棟を立てたたが、これがぼろい建物で、あっというまに継ぎはぎだらけになったこと。北支から呼ばれた諏訪敬三郎が院長となり、活発な研究活動をリードしたこと。月に一度の研究会が開かれ、症例報告や抄録が行われ、精神医学関係の書籍も収集されて一通りそろうようになった。医師たちは諏訪を国府台医科大学の諏訪学長と冗談で呼ぶようになるほど、アカデミックであった。一方、そこに流入するようになった戦争神経症は櫻井を感動させた。櫻井たちは第一次世界大戦における戦争神経症をドイツの文献から十分に知っていたが、現実に目にするのはもちろん初めてであった。櫻井が観たことがない奇妙なヒステリーがあり、転換があった。それは「宝の山」であり、「汲めども汲めども尽きぬ宝庫」であった。これは、前線の病院などから一緒に送られた病床日誌とともに研究することができた。逆に、この患者たちが別の病院に転院するときには、病床日誌もそれに付随して送らなければならないので、必要なものは書写した。この経験をもとにして昭和16年に合計6編になる大論文を投稿したが、これはアメリカ軍の精神科の中枢であったメニンジャーが終戦後に国府台で研修をしたときに高く評価したものであった。

戦争の終わりごろになると、兵と将校の関係、軍と国民の関係も、かつてのような自信や規律がなくなってきた。それに歩調を合わせるように、神経症も変わってきた。戦争のはじめにはなかった無気力、疾病逃避が増え、詐病かどうかはっきりしないヒステリーも増えてきた。戦争末期になると、日本のあらゆる部分が、「でたらめで、投げやりで、卑屈になっていた」とあるが、神経症もその変化を蒙っていたと櫻井は感じていた。

それ以外にも重要な櫻井は、東京の開成中学―山形高校―九州帝国大学医学部と進み、セツルメント運動と共産党へのシンパで逮捕されたが復学して九大を卒業したのが昭和10年。昭和13年に国府台陸軍病院の精神科に応召され、その経験をもとに戦争神経症についての一連の優れた論文を書き、戦後は徳島大学教授を経て九州大学教授になった。

山形高校の歓迎ストームでガラスを200枚割られたこと、学生一同が出費したこと、山形で初めて喫茶店に入ったり映画を観たりして感動したこと。

九大で医学部の大学教授の権威主義に幻滅したこと、九大セツルメントに入ったこと、法学・文学の教授が気軽で率直で医学部の教授とは対照的で好意を持ったこと、筑紫保養院の院長となり、昭和21年に在院していた200人の患者のうち、年末に生き残ったのは18人で、ほかすべては飢餓などで死に絶えた。

講演会:日本の児童福祉の人類学

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あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願い申し上げます。

シカゴ大学で博士号を取得され、現在ハーバードで講師をしていらっしゃるキャサリン・ゴールドファーブ先生に、ご講演いただけることになりました。ゴールドファーブ先生は日本の児童福祉の現場で長期フィールドワークを行い、子供の発達や日本の家族、福祉の問題について鋭い視点で分析を行っている気鋭の若手人類学者です

Kathryn Goldfarb先生講演会

”Developing a modern body politic:
Japanese child welfare and the politics of the normal”

2013年1月15日(火)15時~17時
東京大学駒場汽ャンパス18号館4階コラボレーションルーム3

ご都合のよろしい方はぜひご参加ください。また、講演会につきまして広くご案内いただければ
幸いです。(なお、講演の概要につきましては、下記をご参照ください。

ちなみに、これは、石原先生の科学研究費補助金(基盤研究B)「精神医学の科学哲学:精神疾患概念の再検討」の後援で行われています。


Developing a modern body politic:
Japanese child welfare and the politics of the normal

Abstract:
Activists hoping to reform the Japanese child welfare system place
concepts of “normal” child development and national development in
parallel, so that delayed or developmentally disordered children within
the child welfare system are seen as reflections on the impoverished
developmental status of the Japanese state itself. While this discursive
practice may motivate policy change, representational practices of child
welfare activists themselves inadvertently contribute to the elision of
people whose bodies and developmental paths do not map onto easily
articulated policy goals. Further, activists’ citation of “normally” and
“abnormally” developed bodies and brains reifies the concept of “normal”
development itself. Early childhood becomes a screen for the projection
of representational desires, onto which policy problematics and
(inter)national representations of Japan itself are circulated.

明治期日本医学の洋医師たちのコネクション

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Nakamura, Ellen, “The Private Medical World of a Meiji-Era Japanese Doctor: Ishii Kend?’s Diary of 1874”, Social History of Medicine, 2012.
新進気鋭の日本医学史の研究者であるエレン・ナカムラによる転換期の日本医学の研究。主人公と素材は、幕末から明治の蘭方医であった石井謙道(1840-82)の1874年分の日記であり、方法論的な主題としては、国家の政策としてのトップ・ダウンの医学の西洋化だけでなく、西洋医学は医者たちの集団的な信念と行為によっても担われていたことを分析することである。これを、medical culture と呼んでいるが、この culture という言葉が深さと広さを感じさせて、探求用のアイデアとして優れた言葉だと思う。論文のコアは、日記に記されている内容、特に他の医者との交流と、治療の手法の分析を通じて、日本における転換期の西洋医学が、個人と集団の self-identification を通じて形成される過程を分析する部分である。日記には、長与専斎や同じ岡山の出身で適塾生の島村鼎甫などの適塾コネクションや、佐々木東洋などのポンペのコネクションを通じて、西洋医学の療法や薬などを得ている様子が描かれている。知識の伝達、薬や器具のマテリアル・カルチャーの共有、交友関係の提供などに渡って、「蘭学コネクション」が機能して明治初年の日本医学の転換を支えていたことが分かる。今泉みねの『名ごりの夢―蘭医桂川家に生まれて』でも大きく取り上げられているというから、家族ぐるみの付き合いがあったということでもあるだろう。

石井謙道は、恥ずかしいことに私は良く知らない人物だった。ポンペに学び適塾で学び江戸―東京で教えていた医師である。父親の宗謙は、シーボルトのもとで学んで美作勝山藩で医師であった。宗謙の家に一時期シーボルトの娘のイネが滞在していたときに、イネを犯して妊娠させたことで悪名が高い。謙道は、イネとはうまくやっていたとのこと。

米軍兵士の神経症とスクリーニングの妥当性

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Needles, William, “The Successful neurotic Soldier”, The Bulletin of the U.S. Army Medical Department, vol.4, no.6(1945), 673-682.
米軍のヨーロッパ戦線を中心に活躍してきた軍医が記した精神医学的な理由によるスクリーニングについての論考。この論考は、スクリーニングがうまくいかないこと、心理テスト的なものを行えば不適格になりそうな個人であっても、兵士として神経症を起こさない事例もあることを論じている。

戦争における精神疾患は、軍の経済合理性を著しく損なう。一年間の訓練をしてきた兵士を前線に投入した途端に三日で精神疾患を起こして後方に帰還させるというのは、資源の有効利用が絶対的な命題であった総力戦においては、まさに壮大な無駄使いであった。そのため、その兵士が戦争において健全な精神を保てるかどうか、兵役前のスクリーニングによって区別するべきであるという議論が現れた。これは、精神医学にとって大きな問題であった。疫学的な検査の実行可能性が問題になり、ひいては、精神医学の洞察を社会と人口に適用することができる可能性にかかわる問題であるからである。そのため、前線で精神的に健康であった兵士とそうでなかった兵士を較べて、精神的な特徴の分析を通じて適性と非適性を分けようという議論がされた。私はまだ読んでいないが、いくつかの重要な論文が出版されている。この論文は、その経歴をみるといかにも前線で失敗しそうであるが、それを切りぬけた兵士を集めて、彼らを紹介するという面白い企画である。父親は酔っ払いで家族に暴力を振るい、内気で女の子をダンスに誘うことができず、本人も仕事などがずっとうまくいかなかったが、意志によってそれを乗り越えた例などが語られている。

ここでは、子供時代の父親への従属や畏怖や恐怖と、軍における規律の関係との連関が語られている。敗戦後しばらくして日本の精神科医たちは、戦争神経症を軍における権威の問題と関連つけて、軍との距離を作り上げることに夢中になったけれども、これは同時に、アメリカ流の解釈への意図されない接近でもあったことに気づいて、少しがっかりする。

『カーマ・スートラ』とモダニズム文化

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McConnachie, James, The Book of Love: The Story of the Kamasutra (London: Atlantic Books, 2007).
カーマ・スートラとその英訳についての一般書である。買うべきではなかったけれども、読んだのは正解である。もともとは3世紀のインドの都市の洗練富裕層の性の快楽の教導書であったものが、19世紀にヴィクトリア朝の文化に対抗する文化の中で翻訳された。インドについての記述、バートンや彼の周りの翻訳者たちについては、大いに勉強した。

一番重要だったのは、バートンのヴィクトリア朝の性に対する反抗もてつだって、この古代インドの性愛のテキストにモダニズムの風貌が与えられたことである。1880年代の限定版の翻訳のあと、カーマ・スートラは一連のモダニズムの立役者たちに影響を与えた。たとえばセクソロジーのイヴァン・ブロッホ、あるいはハヴロック・エリスやウィリアム・カーペンター。そして、一番面白かった推論が、マリー・ストープスの『結婚愛』への影響の仮説である。ストープスは、性愛のマニュアルを結婚の中に位置づけた古典『結婚愛』において「本能だけでは十分でなく、技術も必要なのである」と言っているが、これこそ、カーマ・スートラの西欧の性愛のメインストリームへの応用ではないだろうかという推論である。なるほど。

今東光「弓削道鏡」

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今東光「弓削道鏡」『今東光代表作選集 第四巻』(東京:読売新聞社、1973)

今東光の短編「稚児」は、延暦寺が蔵する古文書で稚児との性愛の技法が書かれたものを読んで書かれたもので、『今東光代表作選集 第五巻』で読むことができる。その横にあった『今東光代表作選集 第四巻』に「弓削道鏡」という作品があり、少し読んでみたら面白かったので全部読んでみた。ポイントは二つ。一つは、真面目な日本史研究者は風説として苛立つだろうが、道鏡の巨根の問題を障害者の問題として捉えていること。男性器が大きすぎて、それに見合う女性がいなかったことを障害として捉え、そこから野心を別の方向に向けて僧として出世したというストーリーである。ちなみに孝謙女帝はそれに見合う女性器を持っていたという設定になっている。

もう一つは「看病僧」の問題である。この小説では、道鏡が看病僧として孝謙女帝に近づき、手や足を撫でさすっているうちに性行為にいたったという設定である。看病僧によるセラピーとしての「なでさすり」があったとは思い及ばなかった。きちんとして体系だった研究は読んだことがないが、西洋でも、修道女によるマッサージは、治療とエロティックな行為が混ざり合ったものとして用いられており、『トリストラム・シャンディ』においてトリム伍長が負傷して修道女にマッサージされる場面が描かれているし、19世紀のロンドンでは、医療を装って魅惑的な女性がマッサージをするサービスが存在して、問題として取り上げられている。近代日本でも、看病僧の手技に基礎を持つマッサージなどが、医学とその周辺で用いられたりした可能性があるのかもしれない。心にとめておこう。

井上俊宏『近代日本の精神医学と法』

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井上俊宏『近代日本の精神医学と法』(東京:ぎょうせい、2010)

精神科医が東大駒場の哲学の大学院で書いた修士論文を書籍化したものである。修士論文であるから決して新しい史実を発見したり新しい議論を組み立てたリサーチをしているわけではないが、出色の分かりやすさでまとめられた好著である。日本の精神医療がたどってきた経路について批判的な姿勢を保ち、どこがどのように問題だったのかということについての教科書的な優れた記述である。フーコーの権力論や生政治を解説して、それを通じて精神科医療の拡大を説明している一節が挿入されており、その部分が全体から浮いていることが欠点と言えば欠点で、それ以外は安心して読める一冊である。短いので標準的な教科書にもなる。

ピンク・フロイド Brain Damage の分析

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Winthrop-Young, Geoffrey, “Implosion and Intoxication: Kittler, a German Classic, and Pink Floyd”, Theory, Culture & Society, 2006, 23: 75-91.
昭和戦前期の精神病患者の症例誌を読むと、ラジオや電波などの妄想を語る患者や、それらの技術への不安が盛り込まれたものが多い。「理学的妄想」という言葉もあったほどである。いま進めている研究では、これらのメディア技術と精神病・精神医療の世界についての分析を盛り込もうとしている。

Pink Floyd のアルバム Dark Side of the Moon (1973) に、Brain Damage という曲があり、キットラーはこの曲について優れた分析を行っている。この曲は、若者の怒り、疎外、内に住む真の人間に対応できないことを描くものとして捉えられてきたが、キットラーは分析の方向を内から外に向けるかのように、規則と技術的な水準を論じて、この曲を「テクノ・アコースティックな」イヴェントとして捉える。最初のスタンザでは「狂人たちは芝生の上にいる」とうたわれ、ここでは歌と聴取者の間に空間はなく、モノラルな関係になっている。次のスタンザでは「狂人たちはホールに入る」とうたわれ、そこでは Hi-Fi とステレオになる。最後には、「狂人たちは私の頭に入る」となる。これは、ピンク・フロイドが初めてステージで用いたAzimuth Coordinator という技術となる。ここでは全角度から来て聴取者に侵入するもので、この技術を用いると、聴取者は、ステージの上で起きていることが自分の頭の中で起きていることと一体化し、脳内の変化が、外から来るものと同じになる。ここでは、幻覚が現実になるかのようになっている。 There is someone in my head but it’s not me と言われているように、批判的・反省的な距離を保つことができないまま、自分でないものが頭の中で語っているという状況になる。これこそが、talking machine や ヴェントリロクイになる精神病の症状である。「十分に発達したメディア・テクノロジーは狂気と区別がつかない」というわけである。

魅力がある分析だと思う。まずは、研究費の残りで、ピンク・フロイドのアルバムを買うことから始めないと。

精神病ケアとレジリエンス・リカバリー・社会正義

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Howell, Alison and Jujian Voronka, “Introduction: The Politics of Resilience and Recovery in Mental Health Care”, Studies in Social Justice, vol.6, no.1 (2012): 1-7.
20世紀の中葉から後半にかけて、欧米各国で脱精神病院化が起きた。精神病床の数は各国において激減し、長期収容型の精神病院の収容とは違うレジームが現れた。(その時期に日本の精神医学においては飛躍的な病床の伸びがあり、1990年代に安定して、現在でも減少はごくわずかである)

この新しいレジームのキーワードが、recovery & resilience であった。これらは精神病院に収容された元患者による批判、政治的な批判、そしてネオリベラルな政策である支出削減に対応したものであった。このキータームは、ある意味で精神医学者、心理学者たちによって取り込まれ、もともとは医学の権威の外で人々が生きることを可能にする仕組みであったものが、医学の中に置くための概念に読み替えられている。かつては、精神病を経験したものが、医学以外のシステムの中で生きるための概念が、現在では、再び医学のシステムの中に取り入れるためのものになっている。元患者の内的な生活を「命じられたように」管理する方法に従うようにしている概念であり、一方では psy 専門家の権威は保たれたままである。本来、ここに存在しているのは、社会的正義の問題であり、精神病の診断と医療には権力や貧困や差別などが深くかかわっている。Recovery and resilience を、テクニカルな psy-discipline の問題ではなく、社会正義の問題として捉える方法を探らなければならない。

北米においては、二つのプロフェッション、すなわち、健康を管理する専門職である医学と、正義と合法を管理する専門職である法律学・政治学の間の対立は激しい。二つの専門職とその背景にある学問の対立というのは、必ずしも悪い事ではなく、両者の対立を軸にして発展した医療倫理のような学問もある。

『家畜人ヤプー』

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『家畜人ヤプー』
必要があって『家畜人ヤプー』を読む。1956-59年に雑誌『奇譚クラブ』に20回にわたって連載されたオリジナルは、恥ずかしいことに読んだことがなく、手元にあるのはいずれも単行本で、オリジナルに一章を足した1970年の都市出版社版、それと内容がほぼ同じスコラ版、そしてそれにさらに20章くらいを加筆して大幅に増量して完結させた幻冬社アウトロー文庫の5巻本である。コミック・劇画化やラノベ化されたものもあるようだが、私はいずれも読んでいない。

『ヤプー』はもちろんSM, 特にマゾヒズム文学の古典中の古典になっており、その視点からも論じられるべきであるが、それと同じくらい重要なのが、20世紀中葉の国際政治と社会の状況の中で、当時の科学技術と医学の方向性を投影させて書かれたSFであるということである。『ヤプー』が語るのは、20世紀の医学と医療技術、その生理学と外科学の発展であり、また20世紀の人種論である。それらの科学的な主題が、日本の敗戦と冷戦下の国際緊張のセットの中で語られる。あまり言及されることは多くないように思うが、おそらく非常に重要な主題が、医療技術をその身体に受ける対象となる人物と、それを通じて恩恵を享受するもの分離の問題である。『ヤプー』の主題を一言で表せば、科学技術・医療技術が日本人の身体に向けられてグロテスクに身体改変され、それを通じて身体に手が加わっていない白人が恩恵を享受している世界である。

話は地球が核戦争と細菌兵器という科学技術兵器によって地球の人類が壊滅的な被害を受けるところから始まる。日本は核攻撃の直接の対象ではなかったが、放射能の影響により白痴と畸形ばかりの滅亡した国となり廃墟化していく。細菌兵器はその効果が人種によって違い、白人の致死率が黒人よりも高いので、細菌兵器の攻撃を受けた北米では黒人による権力の掌握が起きる。前者は放射能医学、後者は人種医学やマラリアへの抵抗力の人種差、梅毒の発症率の人種差などの議論に起源があるストーリーであろう。宇宙に移住して別の惑星を征服して帰ってきた白人のマック将軍が地球を再征服したあとに、白人―黒人―日本人というの人種制度が作り上げられるが、その時に日本人家畜理論を提供したローゼンバーグというのは、もちろんナチスの人種イデオロギーの中枢であり、戦前の日本でも盛んに翻訳されたアルフレート・ローゼンベルクである。このような、20世紀中葉の先端医学、人種医学、優生学が基本的な装置となっている。

『ヤプー』の舞台である「イース帝国」の人種差別は、科学技術の適用を通じて、すさまじい形に到達した。排泄と栄養の科学と技術は、黒人や日本人の身体に向けられて、上位者の糞尿を下位者が身体で受け止めて栄養として吸収して、喜悦の涙を流すというのは、日本人の身体が白人の下水道として整備されるという下水道整備の言説を身体化したものである。作品の中で重要な役割を果たしたのは日本人の腸内に寄生虫を植え込むことで、この背景には当時の日本の学校衛生で重要だった回虫や蟯虫の脅威の問題があるだろう。いちいち調べてはいないが、作品の中で想像された多くの外科手術に付された説明は、まさに「外科学の世紀」としての20世紀の医学の進歩の話題であったと思う。

「コレラ雲」という現象の分析

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Mukharji, Projit Bihari, “The ‘Cholera Cloud’ in the Nineteenth Century ‘British World’: History of an Object-Without-an-Essence”, Bulletin of the History of Medicine, 86(2012), number 3, 303-332.
BHMの新着号から非常に面白い論文。「コレラ雲」というものがあって、19世紀にコレラが流行した各地において観察されていたものである。文化的な思想としての「コレラ雲」の起源は古く、中世から近世の「ペスト雲」や、神や悪魔の力を示すことができる空の異変、ミアズマや雲などが作用していると考えられる。黒や黄色などの不気味な色をして人々を恐怖させ、発現とともにコレラの流行がある。19世紀の気候学者たちが各地のコレラ雲の観察から、その理論を構成して概念化しようとしたものである。

コレラはもっとも研究された病気だが、「コレラ雲」はこれまで歴史家たちに取り上げられてこなかった。一つの理由は、これまでのコレラ研究は基本的に regimes of difference を対象にしたからである。病気は世界や社会における差異化とその分節を測るプリズムであった。地域、階層、宗教などによってコレラの知覚や理解や対応が差異化されるありさまを構造化することがこれまでのコレラ研究が大きく共有していることであった。「コレラ雲」は、そのモデルと大きく異なった視点が必要である。それは世界の各地で観察され、社会のさまざまな階層の人々に目撃された。19世紀の「グローバル・カルチャー」の中に位置づけられたと言うことすらできる。この歴史を書くことは、通常の空間を超えて、「共有された空間」について論じることになる。つまり、マテリアルな物体性を持つ歴史というよりも、「スペキュラティヴなリアリズム」「超越論的な経験主義」「本質を持たない対象」としてこれを概念化する必要がある。このようなものが、グローバル・カルチャーの先駆けとなった。地域性を超えて広い範囲で共有されていると同時に、堅固な地域性も持っている。エキゾティックなものの魅力と見知らぬものの恐怖を持っている。

日本でコレラ雲が出たという報告は私は読んだ記憶がないが、これは見落としかしら。

中野美代子『三蔵法師』

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中野美代子『三蔵法師』(東京:中央公論社、1999)
純粋に楽しみのための読書で、中野美代子『三蔵法師』を読む。西遊記の三蔵法師で有名な玄奘(602-664)のインド取経の旅を中心にした伝記である。玄奘になぜ興味を持ったかというと、しばらく前から般若心経を写経しているが、玄奘はその漢訳者であると言われていること、そして、去年の秋に法隆寺の特別展に行ったとき、法隆寺の僧たちが玄奘の『大唐西域記』に魅せられて、大きな地図を描いたことが心に残ったからである。アマゾンで調べたら、中野美代子の著作があったので、買ってみた。中野美代子は、私が大学の学部生の頃に愛読したし、思想史の道具で文化を読み込む手法や、図版が多く表紙とカバーのつくりがお洒落な本は、当時の私にとって憧れの的だった。『西遊記』は子供の時に最も愛読した書物の一つで、金閣大王・銀閣大王との蓮華洞での決戦を読んだときの痛いようなスリルは、今でも思い出すことができる。私の世界観は、だいたい子供向けの西遊記のそれだと言ってもいい(笑)

玄奘の伝記を軸にして、さまざまな研究の面白い部分で色合いを加え、西遊記などの空想ものの物語との比較や、図像分析、大胆な推論などがちりばめられた、中野美代子らしい魅力がある著作になっている。中野自身が実際にシルクロードを踏破する取材旅行にも行っていて、玄奘の旅のある部分については自分の足で歩いてみたというおまけもついている。私の頭の中では玄奘はシルクロードを旅する僧のイメージが強かったけれども、彼の実際の行程をみると、北インドにはじまって蛇行しながらインド亜大陸を時計回りに回っている。中野の書物も当然その半分弱はインドについて述べている。玄奘が取経の過程で身につけた鋭い実践感覚が賛美される箇所がある。見知らぬ土地で、しかも仏教がヒンズー教、ジャイナ経、ゾロアスター経などに圧倒されている土地で、仏教の経典を取得していくには、特に影響力があるパトロンの力を巧みに使うことが必要だったという。言われればその通りであるが、『西遊記』という空想・幻想の極致の文学や、龍や麒麟など空想的博物誌の動物の解説者として中野美代子を知っている私にとっては、現世的なことを真面目にいうのが、少しおかしかった。

戦時神経症の治療と近代国家の本質(1)

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戦時神経症の治療と国民国家の壁(1)

櫻井図南男は戦時神経症について『軍医団雑誌』に連載した論文の中で、治療について非常に興味深いことを述べている。神経症の治療は通常の疾病の治療と違い、個々の症例に適合した治療手段があるというより、総合的なものである。この「総合的なもの」の中には櫻井が「政策的」と呼ぶ方法も入っており、退院・除隊の問題、補償・恩給・一時賜金の問題、ひいては徴兵制と国民国家における軍役の意味にもかかわる問題を考慮して、医者と患者の間で完結する狭義の精神医療の場を超えて、軍と国家の制度とそれによってはぐくまれる社会・文化の広い脈絡で戦時神経症の治療を捉えて行ったものであった。

このことが最も鮮明になるのは、恩給・賜金と神経症の問題を論じるときである。神経症と年金・補償の問題の関係については、欧米では既に長い研究の蓄積があった。鉄道事故の後遺症としての神経症(「鉄道脊髄」)、労働災害のあとの神経症、そして第一次世界大戦の欧米諸国の戦争神経症(「シェルショック」)などの治療の研究から、事故とその後遺症に対する年金補償が神経症の強力な背景となり、<自分の病気をなんとかしてもらいたい、相手の責任を追及する願望、具体的には恩給や年金や補償についての「要償願望」を処理することが神経症の治療に重要である>という合意が形成されていた。その処理の方法として「一時金解雇」が最も有効であるという合意もされていた(ように櫻井は書いている)。患者が満足する金額を与え、そして本人を解雇するという方法である。これによって患者の要償願望は満たされ、責任対象とみなされている企業との関係は断絶する。この「断絶」がポイントであり、年金のような形であって責任対象との関係が継続すると治療しない。欧米各国のデータが、一時金解雇の方式が圧倒的に有効であることを示しているし、日本の鉄道省の昭和13年の報告書も、櫻井の師である九大教授の下田光造の論文も一時金解雇が有効であるとのべている。

櫻井が戦時神経症の治療を始めた時に、この一時金解雇の方式を適用しようとした。これは、一時賜金を与えて退院させるということで、表面的には実行可能に見えるが、現実にはこの方式が機能しない。患者と軍の関係が断絶されないような制度であり、社会の仕組みであり、国民のあり方であったのである。すなわち、退院させて除役されても傷痍軍人として患者は常に再入院が可能であること、恩給に対して常に再策定を要求できること、広範な傷痍軍人援護施設が存在すること、つまり神経症の基盤である保証制度がはりめぐらされており、たとえ除役されても医療や恩給の交渉が保証されている制度になっているのである。だから、<患者は終生陸軍と精神的に交渉を断つことができない。たとえ服役が永久に免除されたとしても、解雇になったのとは意味が全く違う>と櫻井は絶望的に語る。

櫻井が直面したのは、技術的には恩給と傷痍軍人への補償の問題であり、その根本は近代国家における軍役の意味という大きな問題であった。国民に徴兵が課せられている限り、傷痍軍人に対するケアは国家の基本的な義務であり、それを要求する権利を継続的に持たせなければならない。通常の企業のように、一時金を渡して断絶できる関係とは異質な関係が、兵士・軍人と国家の間には存在していた。国家からは「解雇」することができないし関係を断絶することができないのである。

櫻井は一時金解雇の方法を遣えないことを理解すると一時は絶望して治療をあきらめる。しかし、同じ制度を逆に使った「返し技」で戦時神経症を治療する方法があることを知る(続)

斎藤茂太『茂吉の体臭』

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斎藤茂太『茂吉の体臭』(東京:岩波書店、2000)

読みたいと思って読んでこなかった著作である。歌人として著名な斎藤茂吉は、青山脳病院の院長を務めていた精神科医であり、日本の精神病院の院長の中では最も著名な人物であろう。昭和戦前期から茂吉が没するまでの昭和28年くらいまでの様子が描かれ、ドイツに留学して東京で大病院を開業していた精神科の医師とその息子の生活が描かれている。青山脳病院や帝国病院の生活については、斎藤茂吉のもう一人の息子の北杜夫が書いた傑作小説である『楡家の人々』があるが、そこから感じられる茂吉の姿とはだいぶ違うところがある。斎藤茂太が1916年生まれ、北杜夫は1927年で、かなり年が離れた兄弟だから、斎藤茂吉という人物の違う側面をみているのだろう。

ザミャーチン『われら』

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エヴゲーニィ・ザミャーチン『われら』川端香男里訳(東京:岩波書店、1992)
必要があって、1920年代にソ連で書かれた体制批判的なSFを読む。もともとは、Cultural History of the Body に収録された論文から読まなければならないと思っていた書物。

1920年代には、自己と社会についての言説は、モダニズムとテクノロジーの関係と正面から向き合うようになった。高度な科学技術を用いた産業社会において、その原理を用いて国民や労働者を管理する国家はどのような形をとるか、そこで「個人」はどのようになるか、という問いである。一般の論調では科学技術は賛美され、マリネッティに未来主義はそのような芸術を賛美した。人間と社会が機械の合理性と効率に同化するべきであり、産業機械の正確・規則的・合理的な動きに合わせて、人間・労働者が組織されるべきだという考えも、産業界を中心に提出された。いわゆる「テイラリズム」の思想である。これは、フォードの工場や、ケロッグやフレッチャーにも影響を与えた。ソ連にも影響を与えて、テイラリズムの原理に応じた共同体が構想された。

当然のように、これを批判する者たちも現れて、彼らは「ヒューマニズム」の陣営を形成して、現在でもこの構造は続いていると言ってもよいという印象を私は持っている。特に第一次大戦が終了し、科学技術を用いた兵器による兵士の大量死の衝撃が人々の心に沈んでいくのにともなって、近代国家、産業社会、科学技術への批判的な態度が形成される。その代表がチャペックの『ロボット』(1920)で、ほぼ同時期に執筆されたのがザミャーチン『われら』である。革命後の共産主義国が持つ全体主義的な傾向と、科学と技術への信仰への批判的な書物である。ソ連では本作は問題作で、結局ロシア語では出版されず、本人はすぐにパリに亡命し、危険思想として長いこと文学史から抹殺されていた。

描かれているのは、国民が構成する国家にかわり、「ナンバーズ」と呼ばれる人々からなる「単一国家」である。そこでは個人はなくなり、みな「われら」となる。テイラリズムに支配される工場のように、時間律が存在して合理的・効率的な生活が行われている。個性とプライバシーは否定されて、人々はD-503 や I-330 のように文字と数字で呼ばれるようになる。このような社会において、数学者で技術者であった主人公が、ある女性に恋をして、その時のときめきや嫉妬や不安を持ち、それゆえに自分は病気だと心配して、結局反乱に参加して、最後には処刑される話である。特に自分を病気だと思う内心の動きについての内観的な記述が面白い。

確かめたいことがあって、英語でもう一度読んでみることにした。

戦時神経症の治療と精神科病棟という「脅迫」

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国府台陸軍病院の精神科に応召された櫻井は、戦時神経症、年金神経症の治療において有効と判定されている方法が、当時の陸軍では利用できないことを知る。一時賜金によって患者と責任関係者の間を断絶させる方法は、国民と国家の間に適用することができないのである。そのため、櫻井は陸軍における戦争神経症の治療の成功について絶望していたが、ある症例がヒントを与え、最後には陸軍における戦争神経症の治療法を教えてくれることになった。

その症例は、やや複雑な過程を経ている。患者はもともと三菱造船に勤務し、作業中の事故で後頭部を強打して軽い後遺症が残っていたが、作業をすることは可能であった。軍に応召して北支で石段を滑って同じ後頭部を打ち、患者は誇張的・多弁的・紛争的な仕方で多くの症状を訴える。櫻井は恩給等差を「壱目症」として退院させたが、その後、再査定を要求して再び国府台に入院した。会社では困難な仕事はできなくなり、収入も低下した。別の陸軍病院に入ったが、そこでは軍医に「この程度ではどうにもならない、[陸軍と患者の]我慢比べだ」と言われて相手にされなかった。傷痍軍人会に言われて、再査定を要求して国府台に再入院した。恩給の再査定と傷痍軍人会という、櫻井自身がまさしく「関係断絶ができない」と考えたメカニズムに乗って、手強い患者が再入院してきた。

この患者は、予想通りに強硬であった。陸軍は働くこともできない人間に恩給も与えず、餓死させるつもりかという。このセリフを聴いて、櫻井は勝負に出ることになり、彼のほうでも患者を威嚇することになる。1) この病気の恩給は一切変更しない、2)この病気は心因性でいつかは必ず治るから、それまでずっとこの病院から退院させない、しかも、反軍的な影響を与えるから、精神科病棟に収容することとする。現職は辞任して、病気が治るまで国府台の陸軍病院の精神科に入っていろという。櫻井の威嚇は、実際の陸軍病院の制度が、医師が許可しない限りいつまででも退院させないことができるものであった点に、その迫真性を持っている。しかも、その中の精神科病室といえば、「精神病院に生涯のあいだ閉じ込める」という強迫と同義になっている。

医師は、これを慎重に、果断に、鉄の心をもって行わなければならない。周囲から非難されることもある。(それはそうだろう 笑) しかし、事実においてはこの手法は有効であり、櫻井は実際に多くの手強い症例をこの方法で治している。これこそが、陸軍の制度にあった治療法なのである。
しかし、精神科病棟に収容されても一向に感じないさらなるツワモノがいる。このような患者に対しては、櫻井はもう一つの治療法を行う必要があるという。(続)

日本の児童福祉の状況について

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Kathryn Goldfarb, “Developing a Modern Body Politic: Japanese Child Welfare, Advocacy, and the Politics of the Normal”

1月15日に駒場で開催された講演会で、日本の現代の児童福祉をめぐる状況についてのフィールドワークに基づいた報告を聴いた。日本においては孤児などに対する福祉は、かつては施設が中心であり、乳幼児と未成年者向けの施設が、そのような福祉を担っていた。しかし、近年の新しい潮流としては、欧米諸国で行われているようなフォスター・ペアレントと養子制の優越を唱えるものが多い。「家庭型」の環境における生育を唱える人々は、家庭型での生育は施設でのそれに較べて優れており、施設で生育した子供は感情的に欠落した子供が作られるという。「冷たい国家は冷たい子供を作る」「温かい子供は暖かい家庭でしか作られない」というのが彼らのモチーフである。そのために、脳の画像を見せて、施設で生育した子供たちは脳の反応が未発達であるという。子供の感情形成と国家の成熟度を合致させるロジックが、(愚かしいほど)還元主義的な科学的な装置で正当化されていることになる。

一方で、実際に児童福祉の中で仕事に励んでいる人々、場合によっては児童福祉を論じる活動に携わっている人々には、自身が児童福祉施設で生育した人々がかなりの数にわかって存在する。彼らにとっては、「施設で育った人間は感情的に冷たい」と言われる状況は非常に厳しいものがある。

よかれあしかれ、日本の福祉は、欧米流のモデルにおいついては、欧米では別のモデルが主流になっているということを経験し続けていた。目標が気が付かないうちに変わっていたか、あるいは気がついても方向を変えるのに時間がかかっていたのか。このような構造は、たとえば精神医療において顕著である。欧米では精神病院の閉鎖の一つの原因であった反精神医学を影響された日本の精神科医は少なくないにもかかわらず、その時期は日本の精神病院の劇的な拡大の時期であった。きっと、同じような問題が当時存在したし、現在の地域医療への流れの中でも存在するのだろう。

軍陣医学博物館

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『彰古館―知られざる軍陣医学の軌跡』(東京:防衛ホーム新聞社、2009)
東京世田谷の陸上自衛隊三宿駐屯地に陸上自衛隊衛生学校があり、その校内に「彰古館」が開設されている。明治初年から現在にいたる、陸軍の軍陣医学関係の資料が収集され、展示されている。軍関係の資料の多くは戦災にあい、また終戦時に焼却されたり散逸したりしたが、彰古館にはそれらから免れた資料や、戦後に大東亜戦争衛生史編纂の参考資料として集められた資料などが存在している。この資料の中から、所蔵品を中心に歴史的に面白いものを紹介した連載記事を集めて書物にしたものが本書である。この書物は彰古館に行くと1500円で購入できるが、医学史の研究者にとっては必携の書物である。さすがに陸軍の医史学の記録だけあって、多くの迫真感がある写真が用いられているのも素晴らしい。「乃木式義手」と呼ばれた日露戦争後に製作された義手や、広島の原爆調査資料などの写真は、小さいものではあるけれども、とても興味深い。関東大震災の時の陸軍の災害対策医学が論じられている部分を読んでいて、橋本先生の科研共同研究をこれで行こうかなというアイデアが浮かんだけれども、でも、これは本格的な仕事をするのは難しいだろうと思う。
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