松岡弘之『隔離の島に生きる―岡山ハンセン病問題記録集 創設期の愛生園』(岡山:ふくろう出版、2011)
ハンセン病患者自身の声を記録したものとしては、徳永進『隔離』という優れた書物があるが、この書物は、より歴史の実態に沿った素晴らしい記録を翻刻したものである。一つは、1931年から36年までの「舎長会議事録」という簿冊で、それぞれの病舎の長として一部の患者によって互選され院長に任命された「舎長」たちが、院長らとの会議の記録である。編者の松岡が解説に書いているように、患者統制と患者自治の間のせめぎあいが、実際の生活の上で議論されたありさまを記録した、素晴らしい資料である。ラジオが賭博の対象となるので(野球や相撲などで賭けをしたのだろうか?)、ラジオを一元管理しようとした院と、それに抵抗した患者側の争いは、情報統制の問題そのものである。収容型病院における賭博の問題は、考えたことがなかった。私の病院の患者は公然と花札をやっているが、あれは賭博なのだろうか?
もう一つは、より素晴らしい資料で、このせめぎ合いの最中の昭和12年に、「最近の愛生園」という題で患者の意見などを自由に聞き、その回答を一冊にまとめた簿冊である。120点近くの感想文に、150点近くの詩歌・短歌・俳句・都都逸、川柳などの韻文形式に分かれている。かなりの数の韻文を含んでいること、点数で言うと韻文の方が多いこと、内容においても韻文はとても面白いことには、注意しなければならない。「闘病記研究会」などでは、散文だけが取り上げられ、文学であるという理由なのか、韻文を排除した素材が分析されることが多いので、これは闘病記の実態をゆがめてしまう。
「最近の愛生園」を見ると、園や園長(光田)や職員に対する感謝から、痛烈な批判にいたるまで、広い幅を持った愛生園への評価がつづられている。これは、感謝と批判が対立しているという構図で捉えるよりも、感謝の言葉の中にも深い葛藤が込められているものが多いと捉えた方がいい。たとえば、「小山善々子」と署名された文では、「欲を言えば私にも一つ二つの希望もあります、否、数限りもなく出てくるかもしれません。しかし、真に私たち一人ひとりが自分を振り返り、癩という字について認識を深めれば、今の愛生園に療養していては、おそらく一点の非難すべき点もなければ、不服を申し述べる必要もないと思います。要はただ「自己を知れる」という一語によって、最近の愛生園生活は感謝であると思います」と述べている。この感謝の中核にあるのは、「癩病患者としての自己」という捉え方である。そこに視点を置き、そこから愛生園を見たときに、愛生園に感謝すると言っているのである。同じ事態を、別の患者は、当時の心理学の用語を使って記述している。すなわち、癩者は人生の悲惨であり、癩療養所は陰惨の極みと考えられているし、自分も入園する前はそう考えていた。しかし、入園してみると、ここには明朗で明るい雰囲気があり、意外に感じた。この理由は何かというと、文化設備や職員の親身の世話だけではなく、その根源は、「癩者なるがゆえに忍ばなければならない悲痛深刻なる数々の強迫観念から完全に解放せられて、狭いながらこの天地に全人格的に行動しうる再生の歓喜」であるという。隔離の空間が解放の空間であるという矛盾は、癩病患者として社会に疎まれた強迫観念からの解放という、彼の自己の中での物語においては解消されているのである。
一方で、批判も根源的であり、そのいくつかは根源として同じ問題をついている。たとえば、「愛の島という美名をかかげていながら、それが実態に即していない」という批判がされている。「職員方の偽(うそ)を言うのには閉口する」というのは、隔離の空間が解放の空間であるという矛盾を、ありのままに言ってみたにすぎない。次の都都逸も、同じ二重構造と矛盾を言っている。
島で生まれて島育ち
島と名がつきやどの島も可愛い
備前長島尚可愛い
殉国民の住む処
愛の衣きたおにが居る
ハンセン病患者自身の声を記録したものとしては、徳永進『隔離』という優れた書物があるが、この書物は、より歴史の実態に沿った素晴らしい記録を翻刻したものである。一つは、1931年から36年までの「舎長会議事録」という簿冊で、それぞれの病舎の長として一部の患者によって互選され院長に任命された「舎長」たちが、院長らとの会議の記録である。編者の松岡が解説に書いているように、患者統制と患者自治の間のせめぎあいが、実際の生活の上で議論されたありさまを記録した、素晴らしい資料である。ラジオが賭博の対象となるので(野球や相撲などで賭けをしたのだろうか?)、ラジオを一元管理しようとした院と、それに抵抗した患者側の争いは、情報統制の問題そのものである。収容型病院における賭博の問題は、考えたことがなかった。私の病院の患者は公然と花札をやっているが、あれは賭博なのだろうか?
もう一つは、より素晴らしい資料で、このせめぎ合いの最中の昭和12年に、「最近の愛生園」という題で患者の意見などを自由に聞き、その回答を一冊にまとめた簿冊である。120点近くの感想文に、150点近くの詩歌・短歌・俳句・都都逸、川柳などの韻文形式に分かれている。かなりの数の韻文を含んでいること、点数で言うと韻文の方が多いこと、内容においても韻文はとても面白いことには、注意しなければならない。「闘病記研究会」などでは、散文だけが取り上げられ、文学であるという理由なのか、韻文を排除した素材が分析されることが多いので、これは闘病記の実態をゆがめてしまう。
「最近の愛生園」を見ると、園や園長(光田)や職員に対する感謝から、痛烈な批判にいたるまで、広い幅を持った愛生園への評価がつづられている。これは、感謝と批判が対立しているという構図で捉えるよりも、感謝の言葉の中にも深い葛藤が込められているものが多いと捉えた方がいい。たとえば、「小山善々子」と署名された文では、「欲を言えば私にも一つ二つの希望もあります、否、数限りもなく出てくるかもしれません。しかし、真に私たち一人ひとりが自分を振り返り、癩という字について認識を深めれば、今の愛生園に療養していては、おそらく一点の非難すべき点もなければ、不服を申し述べる必要もないと思います。要はただ「自己を知れる」という一語によって、最近の愛生園生活は感謝であると思います」と述べている。この感謝の中核にあるのは、「癩病患者としての自己」という捉え方である。そこに視点を置き、そこから愛生園を見たときに、愛生園に感謝すると言っているのである。同じ事態を、別の患者は、当時の心理学の用語を使って記述している。すなわち、癩者は人生の悲惨であり、癩療養所は陰惨の極みと考えられているし、自分も入園する前はそう考えていた。しかし、入園してみると、ここには明朗で明るい雰囲気があり、意外に感じた。この理由は何かというと、文化設備や職員の親身の世話だけではなく、その根源は、「癩者なるがゆえに忍ばなければならない悲痛深刻なる数々の強迫観念から完全に解放せられて、狭いながらこの天地に全人格的に行動しうる再生の歓喜」であるという。隔離の空間が解放の空間であるという矛盾は、癩病患者として社会に疎まれた強迫観念からの解放という、彼の自己の中での物語においては解消されているのである。
一方で、批判も根源的であり、そのいくつかは根源として同じ問題をついている。たとえば、「愛の島という美名をかかげていながら、それが実態に即していない」という批判がされている。「職員方の偽(うそ)を言うのには閉口する」というのは、隔離の空間が解放の空間であるという矛盾を、ありのままに言ってみたにすぎない。次の都都逸も、同じ二重構造と矛盾を言っている。
島で生まれて島育ち
島と名がつきやどの島も可愛い
備前長島尚可愛い
殉国民の住む処
愛の衣きたおにが居る