内村祐之・秋元波留夫・石橋俊実「アイヌのイムに就いて」『精神神経学雑誌』42(1938), 1-69.
20世紀の初頭から、ドイツ精神医学において「比較人種精神医学」が成立した。精神疾患の発生とその現象は、外因と個人の要因だけでなく、人種、民族、文化、時代相などによっても影響されるという枠組みのもと、世界のさまざまな人種・民族における精神病の現れを研究しようという視点である。これは、かつての精神医学が持っていた精神病院に収容される患者を診察するという狭い行為を大きく超えて、世界のさまざまな民族を対象にした学問へと精神医学を空間的に広げただけでなく、歴史上のさまざまな精神病の現れを研究することも含んでいたから、時間的にも拡大した視点を精神医学に与えることになった。
20世紀の初頭から、ドイツ精神医学において「比較人種精神医学」が成立した。精神疾患の発生とその現象は、外因と個人の要因だけでなく、人種、民族、文化、時代相などによっても影響されるという枠組みのもと、世界のさまざまな人種・民族における精神病の現れを研究しようという視点である。これは、かつての精神医学が持っていた精神病院に収容される患者を診察するという狭い行為を大きく超えて、世界のさまざまな民族を対象にした学問へと精神医学を空間的に広げただけでなく、歴史上のさまざまな精神病の現れを研究することも含んでいたから、時間的にも拡大した視点を精神医学に与えることになった。
内村祐之は、内村鑑三の息子であり、一項の野球部の投手から東大医学部に進学して精神医学を学んだ。昭和2年に北海道帝国大学の精神医学教室を設立することとなった。ベルリンで2年間学んだのち、北海道に帰って選んだ主題のひとつがアイヌの精神病学研究であった。アイヌにおいて「イム」と呼ばれる精神病の一種があることは以前から知られており、明治22年の小金井良精などの解剖学者・人類学者の言及や、明治34年に精神病学者に榊保三郎が行った調査報告などがある。これらを踏まえて、独自の大規模な調査を行ってまとめられたのがこの内村の研究である。
イムという現象は、当時のアイヌの間では減少しており、当初は内村たちはこれを発見することができなかったが、昭和6年に秋元が日高平取地方に多数のイムを発見してから調査は軌道に乗った。昭和8年には十勝アイヌ、釧路アイヌにも発見され、昭和9年からは日本学術振興会の事業の一つとして調査がすすめられ、日高平取、室蘭附近の膽振アイヌ、樺太アイヌ、上川、浦河、静内などで調査を行った。これらの地域で採集されたイムのうち、多数存在はしたが実数を確定できなかった浦河、静内を除き、直接観察80例、伝聞31例の合計111例を確定し、これを基礎とした研究である。
これらの111例のイムは、アイヌの集落に広く見られるが、その分布には鮮明な濃淡がある。たとえば、樺太には5例のイムしか見られず、内村は、これは「樺太における絶対数と言い得るくらい正確に近い数字である」と言い切っている。この5例という数値を、樺太アイヌの人口1,433名で除すると、人口比0.33%である。これに対して北海道アイヌに見られる106例を人口で除すると、0.66%となる。しかも、内村の推算によれば、この106例という数値は真のイムの数の60%くらいであり、実際の比率はもっと高くなる。北海道の中においても、日高アイヌにおいては1.19%、膽振アイヌにおいては0.62%である。また、日高の集落は特別高い数値を示し、3.91%という高い数字を記録している地域も存在する。
この地域分布から、内村は、イムはアイヌがその集団としての固有性を濃厚かつ緊密に保持しているかが、その出現を左右する主要な因子であると主張する。イムが濃厚に存在した日高は、アイヌの固有の伝統習俗がもっとも良く保持されている地域であるのに対し、室蘭、樺太、白老などは、たしかにアイヌの部落は存在しているが、それらは形骸的なものであり、「生きたアイヌ的精神は漸次その影をひそめ、周囲にみなぎる和人的習性の影響が著しく瀰漫している」と述べている。一方で、孤立した小さな集落においても、イムは希薄になっている。アイヌの集団が、ある程度の大きさを保ち、その固有性を保っていることこそが、イムという精神病が現れる重要な因子であるという。(続)