小峰茂三郎「『アイヌ』の『イム』に就て」『日本医事新報』no.685, 1935.10.19, 3201-2.
1932年に秋元が発表したアイヌのイムについての論文は、この主題についての久しぶりの新規の観察であり新しい議論ということもあって、一定の注目を集めた。これは東京の王子にあった王子脳病院・小峰病院の滞在していたアイヌのイム女性である。同病院の経営者は有力な精神科医であった小峰茂之で、その息子の茂三郎は東北帝大で精神分析を学んだのちに王子脳病院に帰ってきていた。この論文は、1935年9月28日の東京内科集談会で、「島薗教授」の依頼のもと行われたアイヌ女性のイムの供覧の前に読まれたものである。「島薗教授」というのは、東大内科の教授の島薗順次郎であろう。私のコピーにある写真はあまり良くないけれども、教室のようなところでイム患者が発作を起こしているありさまが写っているから、医者たちの前でイムの発作を起こさせたのだろう。
1932年に秋元が発表したアイヌのイムについての論文は、この主題についての久しぶりの新規の観察であり新しい議論ということもあって、一定の注目を集めた。これは東京の王子にあった王子脳病院・小峰病院の滞在していたアイヌのイム女性である。同病院の経営者は有力な精神科医であった小峰茂之で、その息子の茂三郎は東北帝大で精神分析を学んだのちに王子脳病院に帰ってきていた。この論文は、1935年9月28日の東京内科集談会で、「島薗教授」の依頼のもと行われたアイヌ女性のイムの供覧の前に読まれたものである。「島薗教授」というのは、東大内科の教授の島薗順次郎であろう。私のコピーにある写真はあまり良くないけれども、教室のようなところでイム患者が発作を起こしているありさまが写っているから、医者たちの前でイムの発作を起こさせたのだろう。
この女性は、平取村の二風谷の農家の寡婦で、論文当時の年齢は45歳、28歳のときに眼病が治るまじないをかけてもらってその結果イムになった。村から出たのは今回が初めてだという。東京の銀座のビルでエレベーターに乗せて動き出したとき、夜の町で仁丹の広告塔が明滅したとき、自動車が急にブレーキをかけたときなどにもイムがおきた。驚かせたのはアナゴのすしを見た時に、それが蛇に似ているせいか、イムを起こしたのは精神科医たちも驚いたという。
この女性が北海道からわざわざ東京にやってきた理由はまだ不明だが、イムの治療ではないことはほぼ間違いない。実際、病院の入院名簿には現れていない。おそらく、小峰茂之はアイヌ文化研究に大いに興味を持っており、アイヌ文化に完成するものを蒐集していたことが知られているから、この関連でイム女性を呼び、東京の医師たちに供覧したのだろう。
シャルコーのサルペトリエールにおける臨床講義が、ヒステリー患者を主役とする極彩色の見世物になったことは有名である。日本では、催眠術関係のおおがかりな実験/見世物が開かれた。イムは、アイヌの宴会においても座興になり、東京にまで連れてこられたから、その方向はあったけれども、おおがかりな見世物化はしていないということなのだろうか。それとも、私が見つけていないだけなのかな。