内村祐之は、日本が生んだ精神医学の「スター」の一人であったが、その理由は、父親が内村鑑三だったこと、一高のエースピッチャーだったことなどにあると思われる。しかし、もし精神医学から「スター」が出るとしたら、内村の時代なのかなあという、構造的な問題もあるような印象を持っている。
日本経済新聞の「私の履歴書」の昭和47年に連載したものをまとめたのが『鑑三・野球・精神医学』であるが、そこに海軍と協力して行った戦争神経症についての記述がある。
東大の傑出人脳研究について。長与又郎は、日本人の脳の重さや形態が欧米人のそれらと較べて遜色ないこと、日本人は欧米人と同じくらい優秀なのだということを立証したかった。内村が着任すると、すぐに東大の傑出人脳の研究を行った。同じころ、内村はクレッチマーの『天才』を訳した。
戦中の精神病院について内村が漏らしている一言は、精神病院における大量殺戮になぞらえることができる集団死亡を考えると、内村が何を考えていたのか、謎めいている。<我が国においては、食糧配給のその他につき、精神病者なるがゆえの差別をされなかったことは<不幸中の幸い>である。安楽死の名のもとに、多数の精神病者を毒ガス室に放り込んだドイツの暴政にくらべて、それはせめてもの救いである>と内村はいう。
政府は、精神医学者に戦時研究として託したもののうち、内村が名大の勝沼とともに海軍省に任じられたのが、ラバウルの航空隊員の精神疲労の実態調査であった。これは昭和18年に行われたものである。内村の観察によれば、特に爆撃機の搭乗員に精神疲労が激しく、それを解決するための交代や睡眠などの方策がとられていなかった。神経衰弱症状はごく少なく、派手なヒステリー症状はもちろん、心因反応も一例しかなかったが、多くは潜在的神経症にかかり、神経症への準備状態が高まっている状態であった。ラバウル航空隊の多くが訴えた身体の故障を、生命を賭けての連続出撃の緊張によるものだろうと考えた。しかし、海軍の当局にこれを訴えたところ、精鋭を誇りとし、この精鋭はいかなるときにも動じないと不動の信念を持っていた彼らは、内村の進言を無視したという。いかにも内村らしい仕方で書いているが、アメリカ軍も自分と同じような方法を考えていたとのことだ。
ちなみに、神経症という言葉はタブーで、その代わりに「疲労」という言葉が用いられたという。