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Channel: 身体・病気・医療の社会史の研究者による研究日誌
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『カーマ・スートラ』新訳

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Vatsyayana, Kama Sutra: A Guide to the Art of Pleasure, translated by A.N.D. Haksar (London: Penguin Books, 2011). 
『カーマ・スートラ』の新しい英訳が出たので、読んでみた。いわゆるバートン訳と言われる1883年に出版されたものが英訳では有名で、日本では東洋文庫の翻訳が学術的に優れたものであるとのこと。

いわゆるバートン訳については、悪いことばかり言われている。その不正確さ、いい加減さ、きわどいところを選んで訳しているあざとさなど、翻訳者として我慢できない点が多いらしい。でも、学術的に正確なだけの『カーマ・スートラ』よりも、読んで面白いほうがいいと思っていて、私はバートン訳になんとなく好意的だった。

ところが、この新訳は、読んで面白い。はっきりいうと(笑)、その表現に心が揺れる。もともと、『カーマ・スートラ』はそれまでの知識を整理した学術的な性格を持った百科事典的な要素が強く、決して情念をかきたてることだけが目標ではないけれども、その中に情念をかきたてる言葉をちりばめることも大事な役割だったと私は思っている。その意味で、この新訳は、双方において成功しているのではないかという印象を持った。

以下は、ネット上から拾ってきた、バートン版の The kiss についての記述である。これも十分情念に訴えるけれども、新訳はもっとよかったです。どうか、お手にとってくださいな(笑)

Now in a case of a young girl there are three sorts of kisses:
The nominal kiss
The throbbing kiss
The touching kiss
When a girl only touches the mouth of her lover with her own, but does not herself do anything, it is called the‘nominal kiss’.
When a girl, setting aside her bashfulness a little, wishes to touch the lip that is pressed into her mouth, and with that object moves her lower lip, but not the upper one, it is called the ‘throbbing kiss’.
When a girl touches her lover’s lip with her tongue, and having shut her eyes, places her hands on those of her lover, it is called the ‘touching kiss’.

新しい医学史レファレンス

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Jackson, Mark, ed., The Oxford Handbook of the History of Medicine (Oxford: Oxford University Press, 2011).
オクスフォードから出た医学史のハンドブック。1990年にラウトレッジから出た Bynum and Porter, Companion Encyclopaediaから20年ぶりに出版された大規模な医学史レファレンスである。しばらく前に買ってあったけれども、未読山の中に埋もれてしまって、いままで手に取る機会がなかった。

ジャクソンのイントロダクションの外は、3部構成になっている。第1部は時代ごとのセクションで、古代・中世・近世・啓蒙・近代・現代にそれぞれ1章が当てられて、合計で6章。第2部は「地域と伝統」という主題で、その問題の概観と、中国・イスラム・西欧・東欧・アメリカ・ラテンアメリカ・サハラ以南のアフリカ・南アジア・オーストラリアで合計10章。第3部はテーマごとの章を集めたもので、子供時代と思春期、老年、死、歴史人口学、慢性病、公衆衛生、医療の政治経済、労働と環境、科学と医学の歴史、女性、性、精神の医学、倫理、動物、代替医療、オーラル・ヒストリー、映像というテーマで、17章が立てられている。

内容だけれども、書かれたものについては、ラウトレッジの2巻本よりもずっとよくなっている。ラウトレッジのレファレンスは、それまでは学問としての体裁を整えていなかった医学史という領域において、ああいうアカデミックな外貌を持つものをまとめ上げたことに大きな意味があり、章の中には感心しないものもあったことは事実である。このレファレンスは、医学史家としての訓練を受けてきたプロたちによって執筆されていて、どれも信頼できるもののように見える。

アイルランド兵のシェルショック

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Bourke, Joanna, “Effeminacy, Ethnicity and the End of Trauma: The Suffering of ‘Shell-shocked’ Men in Great Britain and Ireland, 1914-39”, Journal of Contemporary History, 35(2000), 57-69.
第1次大戦の兵士たちに大量に発生した「シェルショック」が、アイルランドから参加した兵士にどのような意味を持ったのかを分析した優れた論文。

第一次世界大戦がはじまってまもなく、軍隊に大規模に発生した「シェルショック」は、19世紀に磨き上げられた、男らしさと男性らしい精神についての規範の中に楔を打ち込む現象であった。この発生のメカニズムをめぐって多くの観察がされ、議論が行われた。シェルショックにかかった兵士については、もちろん同情的な意見もあったが、彼らの性格についての否定的な意見も多かった。そして、アイルランド出身の兵士は勇敢であるがシェルショックを発症しやすいと考えられていた。そのステレオタイプを裏付けるように、南部アイルランドにおいては診療を待っている患者が多かった。アイルランドの精神医療の体制は、イングランドのそれとはやや異なっており、精神病院での治療のメカニズムはうまく機能しなかった。何よりも、アイルランドからイングランドの側について戦闘に参加して、そこでシェルショックになって帰ってきた兵士たちにとって、もっとも厳しかったのは、彼らが祖国アイルランドを裏切ってイギリスのために戦ったとみなされたことであった。

実は、この記述よりも、著者が冒頭に書いている、シェルショックを起こした兵士よりも起こさなかった兵士のほうがずっと多かったこと、暴力と人殺しの生々しさと、殺される不安にさいなまれることに適応した兵士のほうがずっと多かったことを見落としがちであることに気づかされた。

アルツハイマー病とDSM-V

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精神医学の歴史のブログで、アルツハイマー病をめぐる発展についてのジェシー・ベラジャーのコメントを読んだからメモした。

20世紀の初頭に発見された「アルツハイマー症」は、臨床的に観察される症状と病理検査でわかる脳の変化を結びつけることができた、精神医学の数少ない「成功」の一つであった。しかし、A症の症状も病理変化も、老化一般にみられる症状との間に鮮明に特徴的な違いをもつわけではなく、むしろ、老化に伴う機能と構造が劣化するスペクトラムの終結点と考えるべきである。この現象が、医学化され、明確な疾病であるという考えが広まったのは、1970年代のアメリカとヨーロッパで、老年医学に政府の研究資金を導入するために、通常の高齢者福祉とは区別される医学的な問題として切り出すために、そのカギとなる「疾病」が必要だったからである。(The Myth of Alzheimer’s)

DSM-Vの原案では、dementia 痴呆という言葉はスティグマを与えるからという理由で回避され、Major Neurocognitive Disorder という言葉が採用されている。この転換は、二つの理由で問題がある。まず一つは、言い換えを提唱する人々の善意は認めるが、「痴呆」の差別は、そもそも生産性が人間を測る基準となっていることからきていて、その現実に向き合わないまま言葉だけ変えて差別をなくそうというのは、ただの「言い換え」に過ぎないという一般的であり、ほとんど教科書的といってもいい問題である。もうひとつの、より重要な点は、このMajor Neurocognitive Disorder と並んで、Minor Neurocognitive Disorder も導入されようとしている。これは、症状が軽微なものを、より重要な疾病の初期症状、・前駆的な状態とみなして、そこに検査と投薬をつぎこんで、疾病ではない人々を対象にした医療ビジネスを発生させる「トロイの木馬」の何物でもない。

イギリスにおける心理療法の形成

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Jones, Edgar, “War and the Practice of Psychotherapy: The UK Experience 1939-1960”, Medical History, 48(2004), 493-510.
イングランドの心理療法の制度的形成の話。心理療法の歴史というのは、心理学者や心理療法の専門家たち、あるいは心理療法に肩入れしている精神科の医者たちが、パルチザン的な歴史を描くことが多く、スタンスの取り方が難しい主題である。この論文は、伝統的な説明を批判するというスタイルだけれども、何が修正点なのか、よく分からなかった。

伝統的な説明によれば、心理療法が確立したのは、第二次世界大戦に求められるという。戦場で神経症を発症した患者が後方に送られて、彼らを研究することで病理的な理解が進んだが、それだけでなく、彼らに対して心理療法を行う体制が作られた。第一次世界大戦はたしかに「シェルショック」を発見せしめたが、その後の心理療法というのは、すぐに衰退した。年金省のクリニックはすぐに閉鎖された。私立の診療は存在したが、たとえばアーネスト・ジョーンズの心理療法は、裕福な少数派へのサービスであり、公衆、教会、医者、精神科医、マスコミには敵視されていた。しかし、第二次大戦中に、軍の肝いりで、精神異常のために後方に送られた兵士に心理療法をほどこすメカニズムが軍の医療施設の中に組み込まれ、それが戦後の組織に受け継がれたと言われている。

しかし、戦争中の心理療法は、記録が伝えるほど効果は挙げなかったであろう。注意しなければならないのは、これらの多くが、戦争中の常として、その効果が誇張されて描かれていることである。むしろ、戦後になってみると、心理療法に対する過度な期待があったといってもよい。

戦争中に神経症にかかった兵士の改善についての戦時の記述にはプロパガンダと歪みが加わるというのは憶えなければならない細かい注意点だと思う。でも、私には、伝統的な説明のほうがまだ腑に落ちるのだけれども。

ドイツの精神医学史の新しいセンター

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Zellers, Albert, Albert Zellers medizinisches Tagebuch der psychiatrischen Reise durch Deutchland, England, Frankreich und nach Prag von 1832 bis 1833, Gerhart Zeller (Hrsg.), 2 vols (Zwiefalten: Verlag Psychiatrie und Geschichte der Muensterklinik, 2007)
ドイツの Zwiefaltenという街で開かれた学会に行ってきた。ツヴィーファルテンは、シュトゥットガルトとコンスタンツ湖の中間くらいの美しい田園地帯に位置する町で、人口は2000人ほどのごく小さな町だが、2つの塔を持つベネディクト会の修道院の建築は、息を飲むような壮麗なバロック建築で、一生の間に一度は観ておいたほうがいい。

ツヴィーファルテンといった、失礼ながら正直言って誰も名前を聞いたことがない南ドイツの田舎の街になぜ私たちが行くようになったかというと、この周辺に、精神医学史研究の一つの新しい焦点が現れたからである。それを作り出している人物は、ベルリンで教育された精神科医で医学史家のThomas Mueller である。数年前にツヴィーファルテンの近くの Ravensburg という街にある、大学の精神科クリニックの主任的なものになってから、ミュラーは精力的に当地の精神医学史研究を展開してきた。この書物は、当地の精神科医が、1830年にヨーロッパ各地の精神病院を回ったときの旅行記であり、それぞれの地域の有名な精神病院についての比較的詳細な記録がある優れた資料で、このような資料や書物を刊行している。


活動の大きな焦点は、博物館の運営である。ツヴィーファルテンには歴史がある精神病院群があり、さまざまな精神医療が行われていた。ナチスの時代には、これらの精神病院からGrafeneck の大量抹殺施設へと多数の患者が送り込まれた。それぞれの精神病院から抹殺施設に患者を運んだバスは「灰色のバス」と呼ばれていて有名だけれども、灰色になる以前には郵便のバスが使われていて、赤いバスの前で患者が検査されている貴重な写真もあった。T4作戦が終了したのちも、餓死や毒物の注射などによる殺害が続いていたが、特徴的な例は、ヒトラーとムッソリーニの協定でドイツに送り込まれた、チロル地方のイタリア人の精神病患者たちも、ほぼ間違いなく同様の方法で殺害されたことであろう。このように、19世紀以来の精神医療の光と暗黒が交錯する資料群があり、これらのうちから優れたものが選ばれて敷地内の建物に展示されている。

こういったいわば地味な仕事が積み重ねられて、地に足が着いた一つの歴史研究の知的なセンターが、無から作られて、それが国際的な発信をすること。それをまざまざと見せてもらったという意味で、ミュラー先生には感謝している。

「土居珈琲」から本をいただきました

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土居陽介『珈琲焙煎士のぼくが珈琲に教わった大切なこと』
「土居珈琲」という、コーヒー豆を売っている通販のお店があって、このお店のコーヒーを飲んだときに、まさに目からうろこが落ちるような思いをした。それ以来、ずっとこのお店からコーヒー豆を買っている。月極めで向こうが選んだセットをまとめて買うと、それほど割高にはならない。特定の銘柄の感想などを書いて送ったりしたことがあるせいか、焙煎士が書いた書物が送られてきた。

もともと著者は「珈琲焙煎士」なので、物書きが書いたようなしゃれた本ではなく、職人が書いた骨ばった意気込みが熱く語られるというのが基調である。でも、その中に、いつも飲むコーヒーの味を美味しくさせてくれるような知識がちりばめられていた。送っていただき、どうもありがとうございました。

「土居珈琲」のサイトは以下の通りです。
http://www.doicoffee.com/

新村出と柳田国男

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菊地暁「<ことばの聖>ふたり―新村出と柳田国男」横山俊夫編『ことばの力―あらたな文明を求めて』(京都:京都大学出版会、2012), 3-36.
いただいた論文を読む。「広辞苑」の編者として著名な新村出と、民俗学を作り上げた柳田国男の二知の交流と共有について、両者の書簡と出版された作品を縦横に組み合わせて論じた、非常にすぐれた研究であった。

京都大学の言語学の教授であった新村と、民俗学を開拓する運動を展開させていた柳田の間には、興味深い関係があった。柳田にとっては、京都大学は民俗学の発展にとって期待するべき知的拠点であり、新村には雑誌への寄稿をたびたび依頼していた。新村は、この寄稿の要請にはあまり応えることなく、柳田が気を悪くすることすらあった。また、知的な視点においても、規範的で規則を重んじるこれまでの日本語研究より、現実の言葉の歴史的な変遷を重んじる新村の態度は、民俗資料を採集するという柳田の方法と共鳴していた。両者はまた方言への興味も共有し、言葉が変遷するダイナミックなものであるととらえていた。両者は「生きている言葉」といえるものに関心の中心をおいていたのである。

マクロビオティックスと流動する本質としての身体

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Crowley, Karlyn, “Gender on a Plate: The Calibration of Identity in American Macrobiotics”, Gastronomica, 2(2002), 37-48.
マクロビオティックスは面白い道をたどって現在に至っているライフスタイルでありダイエット思想である。もともとは、西洋医学の還元主義に対する多様な批判が現れた19世紀から20世紀にかけてのオールタナティヴな健康法の一派として、日本で生まれたものである。中国の古典思想や石塚左玄などの思想から、桜沢如一が1920年代から30年代に完成したものである。これが、アメリカでは1960年代にエキゾティックな東洋のライフスタイル・ダイエットとして紹介されるとともに、当時のカウンター・カルチャーの中で色づけされた健康思想となった。すなわち、後期資本主義が生産する自然に反した食物に対抗する食システムであり、食を肉体に限らず精神を修養する手段とみなし、メインストリームの文化に対抗するライフスタイルという意味合いをおびた。それに呼応して、マクロビオティックスに対する批判は、右寄りの思想による左寄りのライフスタイルへの反対というモデルで行われていた。しかし、1980年代・90年代になると、マクロビはカウンタ-・カルチャーとしての意味合いを失っていき、食材は効果で手間がかかる階級の象徴であり、スタイリッシュなセンスをあらわすものになる。それとともに、マクロビの主たる批判者はフェミニズムとなる。フェミニズムにとっては、マクロビは、女性が美しい身体を目指すべきであるとされる社会において、食物のコントロールを通じて女性にある価値観を押し付ける思想の体現である。実際、「特定のダイエット的に正しい食材しか食べることができず、通常の食事を食べられない」精神疾患である orthorexia という疾病すら報告されている。マクロビが、もともと中国の陰陽思想に基づき、男性―女性の二極的な思想で食事と世界を語ること、家庭にいて他の人に正しい食事を作ることが女性の高貴なつとめであると考えている、ジェンダーについてあからさまに保守的な態度を取っていることも、フェミニズムによるマクロビ批判を固定的なものにする。

しかし、事態はそれほどシンプルではない。最も重要な点は、マクロビの陰陽思想に基づく食養生は、男性や女性に固定的な役割を与えるのではなく、集中的に力を発揮して攻撃的になる必要があるときには陽の食材を、逆にリラックスするときには陰の食材を食べる。つまり、男性性・女性性を微妙に調整していく手段としての陰陽思想なのである。ここにあるのは、ジェンダーについての固定した本質主義ではなく、それを流動させることを可能にする本質主義である。同じように、食べた食物が身体と精神を定めるという決定論ではあるが、個人が主体的に決定することに重きが置かれている。これは実践者を変化させるダイエットではあるが、その変化はスピリチュアルな変化でもある。マクロビオティックスが示していることは、医科学の還元主義を批判する目標で始まった運動が、フェミニズムが格好の批判の対象としてきた紋切型のジェンダーの固定的本質主義をあらわさずに、流動的にジェンダーを調整して主体性を与えていることである。

栄養学と身体と食品産業

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Scrinis, Gyorgy, “On the Ideology of Nutritionism”, Gastronomica, 8(2008), 39-48.
食品を、その<栄養>を中心的に見る考えを「栄養主義」と名付け、その栄養主義がこんにちの社会において機能するメカニズムを考察し、特に食品産業との連関をスケッチした理論的な論文である。食品を栄養の集合体として考える見方は、それがもつ官能的・文化的・エコロジカルな部分に着目する考え方と対をなすものである。マーガリンよりも美味しいけれども栄養学的には劣っているバターの例を考えればよい。(ちなみに、私は申し訳ないけれどもバターが好きである)一方で、身体もバイオケミカルな機能の集合体として理解され、病気や健康という1つの状態で捉えるのではなく、それぞれの機能に役に立つ特定の栄養素を含む食品という形で食品が機能に対応する。そして、その結果、特定の機能に役立つ特定の食品が産業によりプロモートされる。多くの機能に役立つと、その食品は「スーパーフード」になる。

古典古代の夢とその歴史

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Harris, William V., Dreams and Expeerience in Classical Antiquity (Cambridge, Mass.: Harvard University Press, 2009).
古典古代の夢について、包括的な構造を持った理論的な枠組みで考察しようとしている野心的な著作であり、同時にフロイト理論をはじめとする夢についての心理学的な解釈から健全な距離を取っている良心的な著作である。優れた古典学者だから、無数の文献を引用して議論をしており、この書物は手元に置かなければならない。
夢の歴史については、二種類の問いを立てることができて、最初の問いは「古代の人は夢をどう解釈したのか?」というもので、これは資料としては、歴史資料に書いてあることをそのまま素材にすればいい部分が大きい。たとえばアルテミドロスの夢判断の書などは、まさにそのように使える素材であるし、アリストテレスやエピクロスなどの著作にも夢を論じたものがたくさんある。これらは夢に対する考えが書きとめられたものであり、これらを素材として夢についての思想史を行うのは、方法論的にはあまり問題ない。
 しかし、「古代人はどんな夢を見たのか」という問いは、それよりもはるかに方法論的に慎重にならなければならない、手強い問いである。この問いが歴史学的に手強いのは、夢は内的経験であり検証できないという問題もあるが、それよりも大きな問題は、歴史資料に記されている、古代人が見たと<される>夢の中から、オーセンティックな夢の記述、彼らが<本当に見た>夢の記述を選び取ることができるのだろうか?それができるとしたら、そんな基準なのか?たとえば、現代の我々が自分の夢を語るときには、その物語は現実味を欠き、その展開には飛躍があり、登場人物の行動は非論理的であり、そこには道義的な意味は込められていない。しかし、古代の人々が見たとされる夢の記述は、そのような夢幻的で非論理的なものであることはむしろ少ない。そうだとしたら、彼らの夢の記述というのは、真正なもの、つまり彼らが<本当に見た>夢ではなく、ねじ曲げられて書かれたものだろうか。いや、彼らの夢が、我々が見る夢とは違って、論理的で現実味を持ち飛躍がないのは、彼らがそのような夢を<本当に見た>からなのだろうか。あるいは、これは先に触れた夢についての思想史の問題とも深くかかわる点だが、彼らが夢をそのような形にして書き記すことに意味があると判断していたからだろうか?あるいは、書き記された夢というのは、まさに、起きた時に記憶の中で再生した夢なのだから、そのような形に夢を記憶の中で加工したからなのか。そうすると、それこそが彼らが<本当に見た>夢ということになるのだろうか。
 こういう歴史認識論・歴史資料論的な問題を踏まえて著者が展開する議論は、古典古代から近代にかけて、「<エピファニー>に重心がある夢の経験から、<エピソード>に重心がある夢の経験へと変化した」という議論である。エピファニーというのは、神が夢に顕現して何かを教えるタイプの夢であり、エピソードというのはまあ世俗的な事件ということだから、世俗化・脱宗教化の過程であるといってよい。全体としては確かに驚くような結論ではないが、議論の進め方は実証の厚みと堅牢な議論の特徴を持ち、非常に面白い。
 夢についての思想史が、学問の後衛なり基盤なりとして必要なことはもちろんだが、それが知的なエッジを持っている方法論かどうかというと、私だけでなく多くの歴史学者が疑問を呈するだろう。この問題を乗り越えて、より認識論的に複雑な問題をからませて成立させたこの書物は、我々の多くが参考にするべきだと思う。

中西進『狂の精神史』

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中西進『狂の精神史』(1978; 東京:講談社文庫、1987)
著名な国文学者による「狂」を論じた評論である。文学研究のプロが見たらどう思うのかは分らないが、私のような門外漢が楽しく読む分には素晴らしい書物だと思う。
 しかし、この書物が書かれた昭和53年の刻印を明確に持っていて、それが、大時代的な言葉づかいに引きずられて、概念装置もなにもなくなってしまっていることである。「現代人の精神は秩序の中に収まりすぎている。そのゆえにすべてに狂気が瀰漫した。見せかけの狂者ははびこり、妙に腐蝕して混濁した安寧の中に、とぎすまされた<狂>は行方を失ってしまった」という「あとがき」のセリフは、その好例である。このような大袈裟でおどろおどろしい精神異常についての問題の語り口がどこから出てきたのかよくわからない。私自身が、学生時代はこういう言葉に近いものを使っていたことを考えると、まがい物フーコー主義だったのかしれない。また、精神分裂病については、精神科の医者たちが、畏怖の念に近い感情を込めて書いていたことも関係があるのかもしれない。あるいは、革命の雰囲気の中の反理性主義が、非理性に憧れを持たしめたのかもしれない。いずれにせよ、こういう言葉づかいや概念装置めいたものは、冷静な歴史研究をむしろ妨げてきた部分が大きいと思っている。
 それを言った上で、この本は豊かな素材と興味深い分析ゆえに、手元に置いておかなければならない本だから、買うことにした。

戦前大阪のモルヒネ中毒と朝鮮人労働者

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小関光尚・森本誉愛「最近大阪府立中宮病院に於て治療したる慢性モルヒネ中毒患者百例に就て」『民族衛生』6(1934), 19-30.
小関光尚は、ネット上で調べた情報では、ウィーンに留学し、優生学、社会事業、遺伝学、性格学などについての著作活動がある。日本精神衛生協会の大阪支部で行った「遺伝の話」という講演があり、これは、岡田先生の集成の第5巻に収録されている。1932年の段階では中宮病院の院長であった。
森本は、詳細は不明だが、ウェブで検索したら大阪医学会会誌に論文を載せており、後には堺のライオンズクラブの会長をしている。
この論文は、大阪市の朝鮮人のモルヒネ中毒者を中宮病院に収容して治療するプログラムを報告したものである。昭和期の社会事業と麻薬中毒と精神医学のかかわりについての貴重な資料だと思う。

大阪市には朝鮮人が10万人ほどいるが、そのうち800-1200人はモルヒネ・コカイン・ヘロインの中毒者である。この中毒により道徳観念が衰退し、薬物を得るためなら何でも行うから、窃盗、かっぱらい、空き巣狙いなどの犯罪の原因にもなっている。特に、大阪では、電線を切るなど、金属を持ち去る犯罪が多発している。彼らは、常に蓬髪垢面、身にはぼろをまとい、白昼臆面もなく街路をさまよって屑箱をあさる「ヒロイヤ」となってわずかの価値があるものなら何でも集め、その挙句には前記のように犯罪を行う。彼らに治療を加えることは、「都市浄化」のために極めて必要である。しかし、単に治療をしてそのまま社会に戻したのでは、日ならずして旧情に復帰するだけである。であるから、より強力な方法を取った。それは、
1) 特に不良行為の著しいものを刑事課の手を経て入院せしめる
2) 同時に警官によって麻薬密売業者を検挙する
3) 強力な治療法を実施する
4) 治療後は、特別高等課(いわゆる「特高」のことだろうか?)、社会課、および内鮮融和会の協力により、適切な保護を加え、中毒に再び陥るのを防ぐ

合計100名の患者(男96、女4)を集める。年齢層は、21-40歳が中心である。このものたちは、すべて朝鮮出身であり、確たる見込みもないまま内地に移住して大都市に居住しているもので、みな身体だけを資本とする傭人である。南大阪の広場(ヒロッパ)に居住し、小屋や安宿などに泊まる。このヒロッパには数多くの薬の密売人がおり、ヒロイヤが何か金目のものを拾うと、それを直接薬包と交換するか、あるいはすぐ金に換えてそれで薬包を買うことができる。薬包の値段は10銭であり、10グラムのモルヒネ系の物質を12-13円で買い、これから220個ほどの薬包が取られる。この薬包を注射器で皮下注射、静脈注射などをする。

治療は三つに分かれ、徐々に治療の枠組みに患者の精神を入れ込んで鋳造していく過程になっている。第一期は「観察期」とされるが、ここでは患者はいまだに自己の中毒症状を治療しようとは思っておらず、不安と危惧を持ち、隙あれば逃亡しようとし、自己の症状を誇大に訴え、共謀して威嚇し、強迫して注射薬や注射用具、酒、たばこなどを強奪しようとする。とりわけ、過去において警察に抑留された経験、精神病院に入院した経験を持つものたちは、計画的にこれらの暴挙をなそうとする。そのため、小関は、これと徹底的に戦う覚悟を決める。すなわち、厳密な身体検査を行い、日本語以外の言語の使用を禁じ、日本語を解さないものは通訳を通じてのみ発言させる。そして、不快な禁断症状が出るたびに適量の注射を行って中毒量を知る。このうち、患者は入院生活になれ、生活は規則的となり、服薬を好むにいたり、中毒は治療できると思うようになる。これに引き続いて、第二期は禁断期であり、注射を減量していく。禁断は「代償禁断法」を用い、66例はズルフォナールによる持続睡眠において禁断し、他はバルビタール、ルミナールを利用した。第三期は後治療であり、院内で運動・作業を行わせた。これらは精神療法であると同時に、禁断後かなりの時を経て突発する禁断症状様現象を観察するに必要である。この段階になると、患者は病院に感謝し、前途に対する希望が生じ、自己の能力を持って社会に活動しうる信念を持つ個人となる。すなわち、入院前とは別人のようになっている。
 気を付けなければならないことがたくさんある。まず第一は、そのきっかけの問題である。彼らがモルヒネを打ち始めた原因は圧倒的に病気や疲労感や痛みなどの治療である。「胸痛」が53人と半数以上であり、それに「花柳病」の10人、「疲労」の6人と続く。彼らは軽い痛み止めや売薬と同じものとして入っている。
第二に、小関は、彼らがモルヒネ中毒になったこと自体が、純粋に薬物の力ではなく、意志薄弱な性格に基づくものであり、彼らは変質者であると言っている。もともと知能が低く、道義心がなく、作業に従事しようとする意志が欠乏し、忍耐心が少なく、すぐ興奮するようである。これは、小関が酒精中毒について、「そもそもアル中になるような、意志が弱い精神病質的な性格の人間」という理解をしていたことと共通する。この変質者を改変するプログラムを小関が行っていることは、これは優生学なのだろうか。
第三に、言語の問題と帝国主義の問題である。小関を苛立たせたのは、彼らが日本語をあまり解さず、またこれを逆用して日本語を全く解しない風を装い、最初の談話は虚言ばかりであり、これは「甚だ不愉快」な思いにさせる。言語は抵抗の手段であった。(王子脳病院の史料でも、治療に非協力的になるにつれて、朝鮮語でしか話さなくなる患者がいた)一方で、治療が始まるときには、小関は朝鮮語の使用を禁止し、日本語と通訳のみの空間においた。言語は支配の道具でもあった。

第6回アジア医学史学会・途中経過報告

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第6回アジア医学史学会 組織途中経過報告

2012年12月13-15日に、慶應義塾大学・日吉キャンパスで行われる第6回アジア医学史学会について、現在 (7月8日)の時点での組織の様子を報告します。以下のとおり、プレナリー・スピーカーも決定し、パネル申込みも数多くの打診があり、個人演題も集まっています。パネル申込み、個人演題ともに、まだ余裕がありますので、どうか、ふるってご応募ください。

Medicine, Society and Culture in Asia and Beyond

大会会長
鈴木晃仁(慶應義塾大学)

運営委員会
鈴木晃仁(慶應義塾大学)
脇村孝平(大阪市立大学)
飯島渉(青山学院大学)
愼蒼健 (東京理科大学)

プレナリー・スピーカー
Alfons Labisch (Duesseldorf)
Mark Harrison (Oxford)
Susan Burns (Chicago)
小菅信子 (山梨学院大学)

パネルの申し込み打診は、現在、13件受けております。以下のテーマにかかわるものです。
製薬と国際経済、中国医学、伝統医学の近代における復興、ハンセン病、日本とドイツの医学、植民地の港湾都市・租借地と公衆衛生、公衆衛生における個人と人口、精神医療と収容、精神医療と宗教、熱帯医学、開発・経済発展と医学、公衆衛生と環境史、看護の歴史

個人演題の申し込みは、現在、7件受けております。

学生セッション(12月13日)若干名の申し込み打診あり

12月14・15日 スケジュール決定 


14 Dec
9.00-9.15 Opening Address
9.15-10.45 Session 1
11.00-12.00 Plenary 1
12.00-1.15 Lunch Break and Tea Ceremony
1.15-2.15 Plenary 2
2.30-4.00 Session 2
4.15-5.45 Session 3
6.00-8.00 Buffet Party, Taniguchi Medal and Japanese Dance

15 Dec
9.00-10.30 Session 4
10.45-11.45 Plenary 3
11.45-1.00 Lunch break
1.00-2.00 Plenary 4
2.15-3.45 Session 5
4.00-6.00 Presidential Address and General Discussion
6.00-6.15 Closing Address and Welcome from the New President

優生学的精神医学の講演会(1932?)

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小関光尚『遺伝の話』精神衛生パンフレット第4号(1932)
精神衛生協会は遺伝と優生学の啓蒙活動に力を入れており、この大阪支部の発会講演で行った話は、精神病の遺伝について話したものである。小関は中宮病院の院長だが、その話は軽妙なものだったらしく、たとえば東郷元帥のような偉い人と下田歌子のような才媛をかけあわせたとすると、「どんな子供ができるかということは、これは不可能であります」(笑声)のように、随所で笑いを取っている。その中で、「強姦はたいてい[頭が]足りない人間がやっております。最も賢ければ、左様な下手な方法を採らないでも、もっといい方法があります」(笑声)というのは、えげつない(笑)の取り方で、現在なら間違いなく撤回謝罪だろう。

基本的な主張は、精神病は遺伝するというものであり、特に父方と母方から重積すると恐ろしいというものである。ポイントは、これを議論する過程で、精神病患者を含む家系の家系図が作られて、その中に含まれている重度の精神病ではない状態が精神病の子供を作る危険があるものになっていることである。当時の言葉でいう分裂病、癲癇、躁鬱病のような精神病だけでなく、ヒステリー、異常気質、神経質、酒客など、医学的にはきわめてあいまいな診断名が精神病の系譜の主役を占めていることである。「自殺」というのは、確かにそれ自体は明確な現象だが、その原因が精神異常だとすると、それもきわめてあいまいな概念になる。「姦通」もよく出ているが、これはもともとは秘密に行われていたことだが、明らかになると、火のように明らかになる。つまり、性格がちょっと人と調和的でないこと、人々との衝突、仕事上の不出来、飲酒による問題、姦通という格好の週刊誌的話題、そして自殺などといった、日常生活の中の事故を構成する要素が、精神病を優生学的に予防することの中に入ってくる。この過程が、かつては他者であり異なった要素であった精神病が、自分の生活の中に入ってくる、それも自分の家系の「血」の中に入ってくる仕掛けだった。

それから、もうひとつが、小関は、当時の日本人は、精神病の遺伝を気にかけずに結婚するという主張していることである。財産の多寡と容貌という表面的なことで決めている。実際、小関が知っている金持ちの家の白痴のもとに。それを承知で嫁入りして、子供がすべて異常児ということになっているケースもある。人々は見かけや些末のことばかりに夢中になり、真に重要な健康と身体に注意を払わないという内容の教えは、医者という職業が洋の東西を問わず天地開闢以来にわたって主張していることであり、小関がいうところの、人々が精神病の遺伝に注意を向けないということが現実なのか、そして小関たち優生主義者の活動はどの程度人々の意識と行動を変えたのか、まだ分からない。しかし、確かなことは、この段階のこの講演では、結婚相手の選択が優生学の手段であって、断種ではなかったということである。

『日本八景』

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幸田露伴・吉田絃二郎・河東碧梧桐・田山花袋・北原白秋・高浜虚子・菊地幽芳・泉鏡花『日本八景』岡田喜秋解説(東京:平凡社、2005)
昭和2年に、東京日日新聞、大阪毎日新聞の東西の二大新聞社が、日本を代表する風景を選ぶこととなった。鉄道省の後援を得て、全国からの投票で決するという大がかりな企画である。総数で9320万枚の官製はがきによる投票があったというから、巨大な規模である。むろん、地元に観光客を呼び寄せたりお国自慢のための組織票も多くあった。風景は、山岳、渓谷、河川、温泉、湖沼、海岸に、瀑布、平原を加えた8つのジャンルから一つずつ選ばれて「八景」となり、次点以下3景を「25勝」とした。さらに、この魅力を伝えるために、著名な文人8人に選ばれた地を遊覧して紀行文を書かせた。この作者と八景の組み合わせは次のようになっている。

幸田露伴  華厳の滝
吉田絃二郎 上高地
河東碧梧桐 狩勝峠
田山花袋  室戸岬
北原白秋  木曽川
高浜虚子  別府温泉
菊地幽芳  雲仙岳
泉鏡花   十和田湖

当代一流の文人で、50代を中心とする脂の乗り切った時期であり、しかも国民的な大規模な企画に書いた紀行文だから、どれもとても面白くて読みごたえがある。私個人の好みを言うと、露伴が最もよく、次は鏡花だと思う。

この「八景」の中で、私が行ったことがあるのは狩勝峠だけである。子供が小さかったときに、冬のスキーや夏の休暇でよくサホロのリゾート施設に行った。サホロ岳や、そのふもとの新得村のことなどが書いてあった。現在ではサホロ岳はリゾート、キャンプ、ゴルフ場、熊に会えるベアーマウンテンなどが林立し、新得は蕎麦で有名だけれども、当時はミモザの原生林に野生のスズランが広がる原野で、「兎の遊ぶお伽の国、熊の踊る夢の世界」だったとのこと。アメリカで綿羊の牧畜を学んできた業者が羊の放牧を始めて、その場所を「羊が丘」と名付けたりしている。これが、有名なジンギスカン料理の始まりなのかな。

『テルマエ・ロマエ』

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話題の映画『テルマエ・ロマエ』を観る。

古代ローマの技師が現代の日本にタイムトリップして、銭湯、温泉、バス・トイレの技術をローマ帝国に移転する、科学技術と生活文化のコメディ映画。ローマの有名な公衆浴場、ハドリアヌス帝の個人浴場、そして軍隊が傷を治す治療浴場などが取り上げられている。笑いとギャグのセンスは、『ひょうきん族』に似ていて、バカバカしく楽しい映画である。ローマの技師を演じた阿部寛も、バス・トイレの会社で働く温泉旅館の娘を演じた上戸彩も、とてもいい。特に上戸彩は、演技がうまいというわけではないと思うけれども、いつも不思議な説得力がある。

話の中心は温泉だけれども、それとセットでトイレのテクノロジーが取り上げられていた。便座が自動的に温くなる技術、音楽が流れる技術、そしていわゆるウオッシュレットを経験した阿部寛が、それを古代ローマに技術移転して、皇帝のトイレに奴隷を何人も配して、便座を温めたり、音楽を演奏させたり、皇帝の肛門を洗ったりするという、バカバカしくて楽しい話である。しかし、日本が自国のトイレ文化を誇りにする日が来るというのは、医学史の研究者ならだれでも感慨を覚えるだろう。西洋人のような生活を目標にしていた明治以降の日本にとって、日本の便所というのは、特別な羞恥の対象だった。水洗便所を流す下水の発達が相対的に遅れた日本においては、住宅がどんなに西洋風になっても、便所は汲み取り式であることは当たり前であった。衛生学者で大坂の公衆衛生改革で名高い藤原九十郎は、1920年代だったと思うけれども、これを汲み取り便所が近代住宅のど真ん中に蟠踞(ばんきょ)していると表現した。日本の便所は、近代日本が抱える不潔と後進性と感染症の象徴だった。それが、ローマ帝国から来た技師に衝撃を与えるような高い技術として扱われる映画の素材になったというのは、「昭和は遠くなりにけり」だなあ。

アイヌのイムについて

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秋元波留夫「アイヌの所謂『イム』に就いて」『蝦夷往来』7号(1932), 1-10.
秋元が1932年に出版した論考は、内村祐之の研究室が初めてイムに出会ったことを報告したものであり、重要なマテリアルである。秋元は後に東大教授となるが、この論文の時点では、東大精神科を卒業したのち、内村の研究室の助手を務めていた。
 イムは榊保三郎が1900年頃に室蘭・日高平取のアイヌを観察して報告して以来、精神病学の専門家の注意の対象にはなっておらず、榊が『東京医学会雑誌』にドイツ語で発表した内容は、オッペンハイムの教科書などのドイツの教科書にも採用され、国際的に標準的な記述となっていた。秋元ら内村の研究室はイムの発見を試みたが難しく、最初に発見されたのは1931年の夏であった。秋元が、1931年の夏に、日高沙流川付近で、ピラトリを中心にして、平取村のニナ、サルバ、シウンコツ、ニブタニ、ヌキベツなどのコタンや、門別村の幾つかのコタンでイムが発見された。これには、道庁の竹谷社会課課長、平取村長の本庄なる人物、そして同村の吏員でアイヌ出身の二谷文次郎の協力による。道庁と村長の協力はこの論文ではよく分からぬが、論文の記述からは二谷がインフォーマントとして重要な役割をはたしたことは明らかである。二谷は秋元をイムである老婆のもとに案内し、秋元の眼前で「トッコニイ」と叫んでイム発作を起こさしめ、同じようなことを別の女性で繰り返し、さらにはその晩、自宅にイム女性を招いてユーカラやヨイシヤマネで宴会をしている最中にも「トッコニイ」の一声で発作を起こさせて、女性をからかった。
 もう一つ重要なことは、この論文を榊の論文を較べた時に、秋元は「原始状態の精神」を中核に据えて症状を再整理していることである。榊は、イムは反響言語、反響動作、驚いて飛び上がる、強迫性行為、衝動性行為、恐怖という6つの症状からなるとした。これは、比較精神病学ですでに知られていたジャンピングやラターなどとの共通性を考えた症状の整理である。しかし、秋元は、症状を整理し直して、反響症状、防衛的態度・行為、淫語・色情的行為という三つに編成した。特に、男性に抱きついたり睾丸を握ったり自分の性器を露出したりする色情的行為については、榊は強迫性行為と考えていたが、ここには命令拒絶は含まれていないとして、色情性を三つのうちの一つの中核に据えた。これは、最終的には、イムを原始的な精神反応と考えるための編成であったことは間違いない。反響症状は自己が受動的になること、防衛行為は「窮鼠猫を噛むよう」ような動物の反応、色情行為も高度精神機能である理性からの逸脱である。

18世紀以前の天然痘の予防技術

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Boylston, Arthur, “The Origin of Inoculation”, Journal of the Royal Society of Medicine, 2012: xxxx, 1-5.
人痘や種痘の起源についての刊行予定の論文が、ゲラの段階でSmallpox メイリングリストに投稿されて話題になったので読んでみた。確かに明晰に書かれた素晴らしいまとめであり、授業などで使うのに最適である。

天然痘に対する予防法として、天然痘に罹った人から、そのカサブタなり膿なりを接種する方法は総称して「人痘」と呼ばれ、1796年のジェンナーの種痘の実験につながり、天然痘の根絶にいたる重要なテクニックだった。人痘のテクニックが有名になったのは、オスマン帝国におけるこの技術の利用が、イングランドのロイヤル・ソサエイティに報告された18世紀の初頭であり、当時コンスタンティノープルに滞在していたモンタギュー夫人の1720年代の活動によるものであった。これらはもちろんイギリス人による「発見」を意味しない。報告したイギリス人たち自身が、この技術は各地ですでに行われていることを明記している。また、この報告を読んだ人々も、この技術は世界の各地ですでに行われていると言及している。ボストンのコットン・メイザーは、1714年のロイヤル・ソサイエティの報告を読んだあと、自分の召使いでリビア出身の男が、小さい時にこの方法で天然痘を予防したと書いているし、1723年にイギリスの天然痘を調査したジェイムズ・ジューリンは、ウェールズ地方ではこの技術が長いこと使われていたという医者の手紙を紹介している。18世紀初頭のロイヤル・ソサエイティを中心とする人痘による予防の活動は、世界の各地ですでに行われていた技術を広く知らしめて「情報のハイウェイ」に乗せ、大規模で組織的な実行に移すためのプロセスを始めたということである。ついでに言えば、ジェンナーの牛痘を利用する方法も、すでにイギリスの農民が用いていた記録がある。

 このあたりまでについては、医学史の研究者はもちろん、たぶん歴史学者の間でも常識の部類に属することである。問題は、このテクニックがどこで発生し、どのように広まり、18世紀以前にどのように分布していたかということである。ここで助けになるのが、そのテクニックは、具体的にどのような手段を用いていたかということである。記録として古いものが残っているのは中国とインドである。前者では16世紀の半ばには、実施された記録があり、17世紀には広く行われたという記述がある。11世紀に行われたという証言もあるが、これには確証がない。中国のテクニックは、鼻から吸入させるものであり、かさぶたを粉末にしたものや、膿を綿に浸して鼻から吸入させるものであった。一方インドでは、18世紀には、鉄の針で膿をついて、腕に切り込みを入れる方法が行われており、これはオスマン帝国で用いられていてイギリスに伝えられていたものと同じだが、これがどの程度インドで長く用いられていたかは不明であり、むしろオスマン帝国からインドに伝わってものだろう。
 

水上勉『精進百選』

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水上勉『精進百選』(東京:岩波書店、2001)
「料理本」の話をしているときに、尊敬している若い学者がこの本の話を出したので、さっそく買って読んでみた。
 冒頭に、自分の禅僧としての修行のありさまと、老齢になっての大きな心臓病の患いのあとで信州に移ってきた話をして、そこで畑を耕し庭でできた精進料理をつくり食べる魅力が淡々と語られている。この部分がいい。私にとっては、お料理は物語の要素が大きくて、味覚そのものよりも、そのお料理にどのような個別の連想なりイメージなりが随伴するかということが重要である。それは、香水の魅力が、純粋な嗅覚の問題ではなく、それに伴うイメージによって決められるのと同じである。この物語の部分に加えて、写真付きで100点の精進料理が紹介される本編が続くという構成になっている。もともと著者が精進料理の修業をした寺の和尚さんがお酒をたしなまれたそうで、お酒のつまみとしてそのまま出せる料理ばかりである。
 この本の話を出した人が、この本のレシピにそのまま従うことはありえないというようなことを言っていた。どんな個性的なレシピかと思っていたら、私の世代の人間にとっては何の違和感もないレシピだし、じっさい、家で作っているものとほぼ同じである。家で作っているレシピというのは、『向田邦子の手料理』から学んだものだと思うけれども。

私が買ったのは文庫だけれども、もとの装丁はこんな感じなのか。これもインパクトがある装丁で、お料理の物語性を高めるだろうな。
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