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Channel: 身体・病気・医療の社会史の研究者による研究日誌
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カンフルの精製

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『ナショナル・ジオグラフィック』日本版2012年6月号より


九州地方の山中において、樟脳(カンフル)を精製する方法を示した写真である。樟脳は台湾に原生するクスノキを原料にして生産される重要な製品であった。私は主に「カンフル」と呼称された薬剤の原料として知っていたが、この記事によるとセルロイドの原料として重要だったらしい。

1948年の『最新医薬品類聚』によれば、生理学的にその機能が研究されてきた薬剤であることがわかる。中枢神経系、特に延髄の呼吸中枢を刺激して呼吸を増大するほか、血管運動中枢を刺激して血圧を高め、脊髄の発汗中枢を刺激する。その他、特に重要だったのは強心作用であり、そのメカニズムは複雑であるが、朝比奈泰彦が解明した。いわゆる「カンフル注射」という言葉のもとになった薬剤である。

日本近世の夢

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『説経節 山椒大夫・小栗判官他』荒木繁・山本吉左右編注(東京:平凡社、1973)
『説経節』に収録されている「信徳丸」を読む。
説経節というのは、近世初期に操り芝居と結びついて流行した語り物・芸能である。もともと中世にも存在したが、三都の操り芝居で上演されて人気を博した。のちに、浄瑠璃にすぐれた太夫が現れて音楽的に洗練され、近松のような浄瑠璃の台本の作者が現れると、これに圧倒されていったが、浄瑠璃に多くの影響を与え、絵草紙や絵本の素材となり、地方の芸能となって、ゴゼ歌、盲僧琵琶、大黒舞いなどに発展した。佐渡の説経人形、秩父横瀬の袱紗人形、八王子の車人形などは、現在(1973年のことだろう)でも上演されているという。編者たちによれば、説経節を浄瑠璃と較べると粗野で稚拙だが、口語りが生きていた時代の生命感を伝えるという。もともとは民間に布教したときに、分かりやすいように語り物にして、舞や音楽をつけた「唱導」が起源であり、楽器としては「ささら」という楽器を用いた。この語り手たちは乞食などであり、この語りや見世物をして金銭などを恵まれた。彼らは逢坂山の関寺にある盲目の皇子蝉丸を祖神とし、蝉丸をまつった蝉丸宮の兵侍家の支配下にあり、その祭日には燈明などを送った。

「信徳丸」は、もともとは長者の息子で舞の巧みな美しい稚児であった信徳丸が、継母の呪いによって癩病になり、体中ができものが覆われて盲目となって家を追い出されるが、昔の恋人の乙姫が変わり果てた姿となった信徳丸を見つけ、ひしと抱き合って肩に担いで街を歩いて運び、呪いを解いて病気を治して、継母に復讐をするという話である。ハンセン病となったものが、家から追い出され、宗教や治療の場所を訪ねて乞食の生活に身を落とすという話であり、この説経節を語った乞食たちと姿が重ねあわされた作品だっただろう。

この作品において、登場人物は常に清水の観音様に導かれている。観音様は夢にあらわれ、真実を告げ正しい方法を示す。それを夢の中で教えられた人物たちは、夢が覚めて「かっぱと起きて」、それを実行する。この夢を媒介にした教えを通じて、ストーリーが進行し、その背景が語られるという仕組みになっている。このようなエピファニーの夢というのは、たしかに、宗教的な唱導に起源をもち、しかも操り人形の芝居で上演される語り物にとって、都合がいい設定なのかもしれない。そして、ロジックの設定としては、こういった語り物を通じて「あるべき夢の姿」を学んだ近世の日本人たちが、このような夢を「本当に見た」ことは十分ありえることであるというのだな。なるほど。

筒井清忠『二・二六事件とその時代』

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筒井清忠『二・二六事件とその時代―昭和期日本の構造』(東京:ちくま学芸文庫、2006)
政治史は私が最も苦手にしている分野だが、二・二六事件についての優れた著作を読む。もちろん学術的な政治史の著作だから、ファシズムや革命についての国際比較を含む理論的な分析もあり、二・二六事件にかかわった青年将校や政治家たちの個人にかかわる記述もあるわけだが、理論は明晰に説明され、個人の信念は迫真力を持って描かれながら、その両者が融合している。優れた歴史書というのはこういうものなのかと感心した。

議論のコアは、二・二六事件の位置づけである。同事件は近代日本の最大のクーデターであったが、その指導者である青年将校たちは、しばしば理想主義的で非現実的であり、クーデターによって天皇周辺の夾雑物を取り除いたあと、新しい支配体制を作る具体的な計画を持っていなかった、あるいは新体制は天皇の真の権威の発現によって自然に正しいものになるという楽観的な予想しか持っていなかったかのように解釈されていた。著者の筒井は、二・二六事件にかかわった複数の青年将校たちを分析し、たしかにこのような方針を持つものもいたが、それと同時に、明確な事後の計画を持っていたものたちが存在したこと、彼らは北一輝に影響されて、むしろ事件の中枢的な地位を占めていたことを明らかにした。前者の「天皇派」に対して「改造派」と呼ばれる将校たちは、そして要人の暗殺―暫定的な新内閣―彼らが理想とする新内閣という、合理的な新政権への道筋を描いており、じっさい、要人の暗殺からの彼らの行動は、この道筋に従って展開されている。しかし、「新内閣の組閣を命じること」は天皇の権限であり、天皇は一貫してこれを拒み続け、反乱軍は政治的に前進することができないまま孤立していった。青年将校たちの二・二六事件は、それがクーデターであり反乱軍であったとしても、それが正当性を持つためには、どうしても天皇が自発的に詔勅を下すというプロセスが必要であった。これこそ、まさに「天皇型の政治文化」において踏まなければならない要石であり、また、それこそがこのクーデターを挫折させたのである。

赤松啓介『差別の民俗学』

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赤松啓介『差別の民俗学』(東京:ちくま書房、2005)
「夜這いの民俗学」で著名な民俗学者の著書を読む。部落差別の問題を、より広い村落共同体の内部における「家系」による差別・差異化とつなげる優れた視点であり、特に疾病による差別にも言及している箇所があって、現在の仕事(アイヌのイムと八丈島・三宅島の精神病調査)との関連できっかけになるアイデアを貰った。というか、まだ読んでいなかったのかということだろうな。

村落共同体の中には数段の身分的階層があり、他にも差別のスジがある。基本は村の起立、開発、定着に関係した序列であり、草分、本家、新宅、下人、新入などがあった。(こういった言葉は、著者の出身の播磨地方の言葉になっている)村の身分的階層が鮮明になり重要な役割を果たすのは結婚の時であり、そのの問い合わせの時には、家筋・階層が第一に重要であり、それに次いで家の財産や親類の状況、最後が本人の学歴や職業、性格などであった。(そうか、学歴重視というのはプログレッシブな力だったんだ)この家筋に加えて、職業による差別もあり、サカヤ、ミリンヤ、ハタヤのような屋号は、大規模な職業に携わっていたことを示すものでありよい家柄を示し、一方でイシヤ、コンヤ、フロヤなどは資本なしでもできる職人的なものだからよくない家柄であるとのこと。

これに並行して、著者が「疾病的・体質的・信仰的」と呼ぶ差別のスジが存在する。(ここで何気なく「体質」という概念が使われていることも面白いが、それはいい)「疾病的」な差別は、農村においては家の継承と絡んで永続化される傾向を持つ。この中で最も重要なのはいわゆる「カッタイスジ」、つまりハンセン病である。カッタイスジになると、いかに総本家であり庄屋筋であれ、平百姓や下人筋と縁組できない。ある家にハンセン病が現れたり疑われたりすると、まとまっていた縁談も破談にされた。すでにその患者の親類が結婚している場合には、その嫁を離縁させて家に呼び戻すということも行われた。カッタイスジとの結婚は、かりに当人同士・当家同士のあいだで合意があったとしても、その親類からすさまじい圧力があり、それに抵抗することは普通の農家には到底できないことだった。それゆえ、発症した場合には人目に触れないようにしたり、家から離れたり、あるいは土蔵の中で人知れず治療させているといううわさもあった。

カッタイスジほど劇烈ではないが、差別の対象となったのがローガイスジ、すなわち肺病である。これも結婚の時には差別された。しかし、肺結核になったからといっても家から追い出されるわけではなく、家やその周辺で家族から隔離されて高額な治療を受けていた。カッタイスジと同じくらい激しい差別にあったのが、キチガイスジ、テンカンスジであった。精神障害の「アホスジ」も同様であった。これは、家に閉じ込めて外に出さないという拘束をした場合もあった。

これは昭和戦前期の話だが、夫婦のどちらかが精神病になると、その結婚が解消されるケースが、王子脳病院の症例誌にも頻繁に起きている。このことは、もちろん優生学的な関心に基づいている。それとともに、公立・公費の精神病院などの公的な空間ではなく私的な空間がケアの中心を担っていた時代において、ケアするキャパシティをより多く持っている世帯が患者を引き取るために必要な法的な処置である。こういった要因以外に、江戸時代から続いている家系を守るための仕掛けでもあったということだろうな。そして、そこに精神病が混入した悲劇を描いたのが、三島由紀夫の『天人五衰』なんだ。いや、三島の話はどうでもいいけれども。

フリオ・コルタサル『遊戯の終わり』

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フリオ・コルタサル『遊戯の終わり』木村榮一訳(東京:岩波文庫、2012)
人に勧められて、フリオ・コルタサルの短編集を読む。

コルタサルはベルギーで生まれアルゼンチンで大学を出てフランス文学の大学教員となったが、1951年にはフランス政府給費奨学生として出国し、その後は終生パリで執筆活動を行った作家である。その人生からも分かるようにヨーロッパ風・都会風の感性を持つラテンアメリカの作家であり、例えばガルシア=マルケスの『エレンディラ』などの作品から感じられる土俗的な不思議さのラテンアメリカ文学とは全然違う感じがする。より硬質な不思議さといえばいいのかな。

気が利いた言葉が浮かばないが、「メビウスの帯」「エッシャーの不思議絵」「現実と夢の連続」「正常と狂気の表裏一体」というのだろうか。現実の世界から、夢、悪夢、狂気、混沌の世界へと、まるで一筆書きのように記述が進んでいく。たとえば「山椒魚」では、水族館の山椒魚を何日も続けてガラス越しにじっと眺めているうちに、自分の意識が山椒魚のそれになってしまうことについての短編であり、山椒魚になった主人公は、ガラス水槽の向こう側からじっと自分を見つめている男をみては「いずれ彼がぼくたちについて何か書いてくれるだろう」と考えて物語を結ぶ。「夜、あおむけにされて」では、病院に運び込まれた患者は、アズテカ族の戦士に追われて心臓をえぐり取られる夢を生きていくうちに、その夢が現実になる。「バッカスの巫女たち」では、ある町のオーケストラの指揮者を崇拝する女たちが、演奏が進むにつれて興奮して平土間になだれ込んで楽団員たちと狂乱の場を作り出す。一番独特な雰囲気なのが、セーターを着ようとして、頭と腕がどうしても袖や襟を通らなくて色々としているうちに、まるで別人の身体のようにコントロールが効かなくなってセーターの中の世界が解体していく「誰も悪くはない」という作品だった。

改めて、精神異常という主題が、20世紀にとっていかに重大であったか、そして自分がこの重要な主題の表面をひっかいた程度のリサーチしかしていないことを実感する。

日本の戦争神経症

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細渕富夫・清水寛・飯塚希世「日本帝国陸軍と精神障害兵士[II] ―国府台陸軍病院『病床日誌(昭和20年度)』の戦争神経症患者の症例」『埼玉大学紀要 教育学部(教育科学)』49(2000), no.2, 51-62.
来年の2月が締め切りで、日本の戦争神経症について、論文集の中の一章を書く機会を打診された。もともと研究してみたい主題であったから、喜んで引き受けた。そのための準備で、既存の研究を読みすすめはじめた。この問題については、清水寛をはじめとする一連の研究が、重要な人物や素材などを発見して特定するという、最も時間がかかる部分の作業をしてくださっているから、その恩恵にあずかることになる。

国府台陸軍病院 1938年から、精神疾患の兵士を集中して収容して治療するセンターとして機能。戦時中に10,453人が入院。うち4割は精神分裂病、11%がヒステリー、10%が頭部外傷性てんかん。
浅井利勇 元国府台陸軍病院の軍医少佐。病床日誌の複写を作り保管している。
諏訪敬三郎 国府台陸軍病院院長、戦争直後に何本かの論文を書く
櫻井図南男 国府台で診療、戦時神経病についての系統的な論文を何本か書く
内村祐之 昭和20年3月に、外国の研究成果をまとめた戦争神経症についての総説論文を出版する
井村恒郎 国府台で診療を経験し、国立精神衛生研究所を経て、1960年代に戦争神経症についての論文を書く。
細越正一 終戦直後に国府台で戦争神経症を観察して論文を書く。1948年に北海道帝国大学から戦争ヒステリーについての論文に対し、博士号授与。後に秋田で文化功労章を授与される。
目黒克己 国立精神衛生所・社会復帰部で仕事?1966年に論文を書いている。

臓器移植のグローバル・トレードと医療倫理

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Scheper-Hughes, Nancy, “The Last Commodity: Post-Human Ethics and the Global Traffic in ‘Fresh’ Organs”, in A. Ong and S.J. Collier eds., Global assemblages: Technology,, Politics, and Ethics in Anthropological Problems (London: Wiley-Blackwell, 2004), 145-167.

人間の臓器のグローバル・トレードを調査した人類学者による論文を読む。臓器移植が国際的なビジネスになって、先進国の富裕な人々が、(脳)死体から取られた臓器ではなく、生体から取られたより新鮮な臓器を希少な商品として欲望するようになるとともに、発展途上国の中心都市にはその臓器を摘出させる合法・半合法・非合法のさまざま臓器摘出の仕掛けが存在するようになった。医療倫理においても、かつての医者と患者の間の個人的な関係に中心をおいたヒューマニストの倫理が変質し、それが「全体の利益」を重視する功利主義的なものになった。著者は、時として非合法な行為を調査するために、世界各地の発展途上国のスラムや、監獄や精神病院など周縁的な場所に身分を隠して潜入した、ツワモノの人類学者である。

ポイントは、グローバルな資本主義の原理にしたがって、世界中の低開発国、貧困地域、倫理の荒廃が起きている生活圏などから集められる「生きた臓器」という欲望される商品の流通と、その中で構築される医療倫理の関係である。

「死なう団」のメンバーの精神病

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保阪正康『死なう団事件―軍国主義下のカルト教団』(東京:角川文庫、2000)
必要があって、「死なう団」と呼ばれた日蓮宗系の宗教団体についてのノンフィクションを読む。著者は著名な著作家で、もともとは1970年の三島由紀夫の自決に刺激されて調査を始め、資料を発掘し、関係者にインタヴューを重ねて72年に上梓した書物である。カルト教団の形成と官憲による圧迫と自滅を扱った貴重な労作であるだけでなく、登場人物が生き生きと描かれていることも、このマイナーな主題についての本が40年間求められ続けていることの理由だろう。

「死なう団」は、昭和12年2月に国会議事堂前など都心の5か所で、「死のう!死のう!死のう!」と叫んでビラをまいて切腹し、同日の夜に歌舞伎座では二人の女性が同様に「死のう!」と連呼してビラをまき、あるいは省線電車の品川駅でも若い男性が同様の行為を行った。これは、もともとは日蓮宗を批判して離脱して作られた日蓮会という団体があり、その盟主江川桜堂を中心とした一部の熱狂的な信者たちが行ったことであった。日蓮会は国粋主義・反共主義・日蓮への帰依などを特徴とする熱狂的な団体であった。昭和8年に、布教の一環として「死のう!死のう!」と連呼して街道を歩く奇矯なことを行い、神奈川県警に疑われて捕縛されてた。神奈川の特高警察は、前年に「一人一殺」のテロ活動を行った血盟団との関係を疑い、彼らを捉えて拷問にかけたが、後に彼らを釈放した。江川らは、この拷問が人権蹂躙・不法監禁であるとして神奈川県警起訴して、県警もついには膝を屈したが、江川らが望んだような形にはならず、彼らは絶望と尖鋭化の中で、昭和12年の2月に切腹事件などを起こした。

私の関心の中心は、この事件において、中心的なメンバーの一人であった今井千世が果たした役割である。今井の父は京都帝大卒の技術者で、本人も帝国女子医学薬学専門学校の薬学部に進学するなど、知識人層に属するメンバーであった。今井家からは、母親、妹二名、弟も日蓮会に参加しており、昭和12年2月においても、歌舞伎座でビラをまいたのは今井千世と妹の木和、品川にビラをまいたのは弟の久雄であった。千世は、昭和8年に特高に取り調べられたときに、肉体への殴打などだけでなく、全裸にされて足を広げられ、乳房をもまれ陰毛にマッチで火をつけられるという陰惨な精神的拷問も受けた。

釈放されてから、千世は精神を病んだ。夜中に飛び起き、弟の着物をきて蒲田の町を歩き、駅の便所の糞壺の中にすわって何やら叫んでいる。母親の前でも決して着物を着換えないのは、特高での拷問の経験が原因になっていることは誰でも見て取ることができた。あるいは、盟主の桜堂の愛人であるかのような下品な取り上げ方をした新聞記事にも病気の原因にあるのだろうし、仮にそうでなくても、新聞や雑誌の記者が現在でも使う下劣な部分を取り上げることは、関係者たちを傷つける構造を作り出していることは間違いない。千世は東京の精神病院に入院し、千世の妹は、神奈川県警を人権蹂躙で訴えた。入院している千世のもとに検事局の検事と帝大病院から医者が派遣され、身体に拷問の傷跡が歴然として残っていることが確認された。千世の精神病と拷問の痕跡は、一時的には、状況を日蓮会にとって有利なものにしていたのである。その後、理由は明確には分からないが、日蓮会の告訴は順調に進まず、神奈川県警は背後での取引に熱心になり、さまざまな事情もあって、日蓮会は自滅的な行動へ追い込まれていく。昭和13年の3月に、もともと病弱であった桜堂の死は目前になり、千世は盟主の死をさとって、その数日前に青酸カリを飲んで自殺した。

千世が収容された精神病院は東京・板橋(現在は練馬区)の慈雲堂病院である。開設者で初代の院主は田辺日草なる僧侶であり、千葉の漢方医科の家に生まれたのち、少年にして僧籍に入り、芝三田小山町の長久寺を継いだ。37歳の時に大病をし、千葉中山の法華経寺に参加して病気が快復し、以後、檀家の勧めもあって、長久寺にて精神病者の世話を始める。寺内にアパート風の建物をたて、病者の世話は付添いの家族と寺男にまかせるスタイルであった。30年に3200人の世話をしたとある。この日草が、警視庁の勧めにしたがって昭和4年に石神井に設立したのが石神井慈療院であり、昭和6年に「慈雲堂」と改称した。この病院は、文学者の辻潤が入院して「痴人の独語」で患者による法蓮華教の読経の様子を好意的に書いていることでも有名である。また、昭和24年に警視庁の金子準二という大物の医師を顧問によび、彼の著書2万4千冊をひきうけ、その後、医師たちが優れた研究活動をしたことでも有名である。確証はないが、慈雲堂がもつ日蓮宗との親和性が、千世をここに入院させることになったのかもしれない。

小峰茂三郎のアイヌのイム

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小峰茂三郎「『アイヌ』の『イム』に就て」『日本医事新報』no.685, 1935.10.19, 3201-2.
1932年に秋元が発表したアイヌのイムについての論文は、この主題についての久しぶりの新規の観察であり新しい議論ということもあって、一定の注目を集めた。これは東京の王子にあった王子脳病院・小峰病院の滞在していたアイヌのイム女性である。同病院の経営者は有力な精神科医であった小峰茂之で、その息子の茂三郎は東北帝大で精神分析を学んだのちに王子脳病院に帰ってきていた。この論文は、1935年9月28日の東京内科集談会で、「島薗教授」の依頼のもと行われたアイヌ女性のイムの供覧の前に読まれたものである。「島薗教授」というのは、東大内科の教授の島薗順次郎であろう。私のコピーにある写真はあまり良くないけれども、教室のようなところでイム患者が発作を起こしているありさまが写っているから、医者たちの前でイムの発作を起こさせたのだろう。

この女性は、平取村の二風谷の農家の寡婦で、論文当時の年齢は45歳、28歳のときに眼病が治るまじないをかけてもらってその結果イムになった。村から出たのは今回が初めてだという。東京の銀座のビルでエレベーターに乗せて動き出したとき、夜の町で仁丹の広告塔が明滅したとき、自動車が急にブレーキをかけたときなどにもイムがおきた。驚かせたのはアナゴのすしを見た時に、それが蛇に似ているせいか、イムを起こしたのは精神科医たちも驚いたという。

この女性が北海道からわざわざ東京にやってきた理由はまだ不明だが、イムの治療ではないことはほぼ間違いない。実際、病院の入院名簿には現れていない。おそらく、小峰茂之はアイヌ文化研究に大いに興味を持っており、アイヌ文化に完成するものを蒐集していたことが知られているから、この関連でイム女性を呼び、東京の医師たちに供覧したのだろう。

シャルコーのサルペトリエールにおける臨床講義が、ヒステリー患者を主役とする極彩色の見世物になったことは有名である。日本では、催眠術関係のおおがかりな実験/見世物が開かれた。イムは、アイヌの宴会においても座興になり、東京にまで連れてこられたから、その方向はあったけれども、おおがかりな見世物化はしていないということなのだろうか。それとも、私が見つけていないだけなのかな。

「そば尽し」祝い唄

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多田鉄之助『蕎麦漫筆』より、「そば尽し」の祝い唄を。明治20年頃までは、年越しの夕方になると、「厄落とし」と称して「厄払い」なる職業が存在した。それを呼び入れると、銭若干と餅を与えるのが通例になっていた。これは「アアらめでたいな」という決まり文句で始め、青物尽くし・魚尽くしなどの面白い文句を早口でいってから、「・・・末は必ず西の海とは思えども、この厄払いがひっとらえ、東の川さらり」という決まり文句であった。この厄払いの用いる文句の型で作成された「ソバ尽くし」がある。

アアらめでたいな。また新玉の新そばに、お祝儀めでたき手打ちそば、親子なんばん仲もよく、めうとはちんちんかもそばで、くれるとすぐにねぎなんばん、上から夜着をぶっかけそば、たがひにあせをしっぽくそば、てんとたまらぬ天ぷらそば、かけかせんへあんかけの、そのごりやくはあられそば、やがてお産のたまごとじ、あつもりおいてそだてあげ、てふよ花まきもてはやし、かかるめでたきおりからに、あくまうどんがとんで出て、やくみからみをぬかすなら、大こんおろしでおろしつけ、したじの中へさらりさらり。

榊によるアイヌのイム論文

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榊保三郎「イムバッコ(アイノ人に於ける一種の官能精神病)に就て(一月例会演説)」『東京医学会雑誌』15(1901), no.4, 1-15.
榊が書いたアイヌのイム論は、精神病医がアイヌのイムを実際に観察して書いた唯一の論文として長いこと標準的なものであり、榊がこれをドイツ語にした文献はドイツの教科書などに採用されていた、スタンダード・サイテーション・ワークである。

読んでみて少し驚いたのは、これは東京医学会での講演をそのまま原稿にしたものであること、講演の時の口語や冗談などもそのまま採録されていることであった。その中でも、アイヌに対する侮蔑的な表現は、内村や秋元の時代とは比べ物にならないほど、どぎつく、えげつない。「ところがどうもアイノという民族はよほど抜けた人種だと見えまして、自分の年を知らない、それくらいにベラボウの人種であります」「臭気紛々たる豚小屋のごときところ」[写真を聴衆に廻しながら]「これは今御回ししたような婆さん、それも非常に臭い婆さんです、その婆さんがニヤニヤとして私の所へ来て私を無暗に抱き締めた、実にその時の心持というものはありませぬでした(笑声起る)」

榊の論文は、科学的な客観性と学術の真摯さを欠き、露骨に軽蔑的な軽口を含み、いかがわしい戯話まで挟み込まれたものであった。科学的客観性を追求したクレペリンが率いるミュンヘンの精神医学研究所から帰国して北大精神科の教授となった内村が、この論文を標準的なサイテーションにしておいてはいけないと思ったことは、当然のことであった。

「処女地感染」再考

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Jones, David S., “Virgin Soils Revisited”, The William and Mary Quarterly, 3rd ser., 60(2003), 703-742.
いわゆる「生物学的歴史」の中心的なテーマである「処女地感染」の問題の急所を押えた必読の論文である。

アメリカ大陸の先住民が激減した最大の理由は、それまで経験しなかった感染症がヨーロッパから持ち込まれ、それによる死亡率が長期にわたって極めて高かったからである。この現象は、アメリカにかぎらず、オーストラリアなどの太平洋上の諸島やシベリアやアマゾンの奥地にもみられた現象であり、ある感染症を経験していない土地を virgin soil といい、そこに起きる感染を virgin soil epidemicという。(これを普通に訳すと「処女地感染」となって、「処女」という表現をこのような意味で使うことは確かによろしくないが、ひとまずこの言葉で行く) 処女地感染という概念を歴史学の中に導入したのは、マクニール―クロスビーといった歴史学者であり、彼らの著作はアメリカ先住民の人口激減のメカニズムの複雑性を捉えようとしている。しかし、問題は、インディアンの人口が激減して、アメリカ大陸という巨大な資源がヨーロッパ人の支配下にはいった理由として、「免役がなかったから」という不正確な理解が広まっていることである。(実際、この主題を扱った授業をしたあとに確認レポートを書かせると、できない学生の多くは得意そうに「免役がなかったから」と書いてくることが、この概念が陥りやすい危険を示唆している)処女地感染のモデルは、もう一度、厳密に考察され、社会や文化との連関の中できちんと理解されなければならない。

子母澤寛『味覚極楽』と東京・関西の料理

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子母澤寛『味覚極楽』
人に勧められて、子母澤寛『味覚極楽』を読む。もともとは、当時は東京日日新聞の記者であった子母澤が、昭和2年から3年にかけて、当時の名士が美味について語る企画を連載した32編の記事がもとになっている。このそれぞれに、昭和32年に子母澤が思い出的な随想を書き足して一冊の書物としたもの。32人の名士にインタヴューしたことになるが、華族、政治家、軍人、文化人、芸能人、実業家、僧侶など、多様な職業から選ばれており、女性からも大倉久美子さんという男爵夫人が一名、外国人としては「インド志士」として紹介されているボース氏が入っている。軍医総監の石黒忠悳や彫刻の高村光雲などの有名人や、千疋屋や資生堂など東京の名店の社長なども出てきて、それも楽しい。

数えたわけではないけれども、よくあげられている料理は、寿司、天ぷら、そばといった江戸・東京の古典的な料理が圧倒的に多い。それに中華料理が少し、西洋料理はそれよりも少ない。日本の各地の名産的な食物はよくあげられている。石狩のしゃけ、富山のます寿司といったものである。これらについては、それぞれの名士たちは、鷹揚さのようなものを示しながら美味について語っており、味覚の文化圏の中枢に位置する自信のようなものがうかがえる。それに対して、大阪や京都の料理への言及は極端に少ないのが面白い。わずかしかない言及は、強烈な対抗意識がうかがえる。天ぷらについて「大阪や神戸の人間にはわからねえのが当たり前だが、東京の人に一つこれはうまくねえどうしたっとこういって腹を立ててもらいたくって待っていたんだ」、男爵夫人は「関西へ行っては大体につけ味があまりくどすぎて、私にはどうも好きになれません」。一方で、総じて関西をたたえる名士もいるし、全般に味付けは関西にはかなわないとシャッポを脱ぐ名士もいるが、しかし天ぷらと寿司は・・・という方向にいく。「天皇の料理人」の秋山は、文化人類学のような東西分析をしてみせる。つまり、東京は器物をそこへおいたまま箸で食物をつまみあげ、関西は器物を手に持ってすぐ口のそばまで運んで食べるから、関西はおつゆがついて舌の上に来るし、東京はつゆを置き去りにして物だけがくる、東京の人が関西料理について「塩味が足りない」と思うのも、関西の人が東京の料理について「塩が強い」と思うのは、このせいであると主張する。関西は、東京の味覚の帝国の中に組み込まれていない、東京と並立し、場合によってはそれよりも優れている可能性すらある別のシステムであった。日本各地の名産は、もちろん美味であるパーツもあるが、それは東京の味覚のシステムを多様にして豊かにする宝石たちであった。関西は、このシステムの内部に組み込まれているとは、当時の東京人は思っていなかった。このシステムの中で、西洋料理の問題は面白い。それがどのような位置を占めるのか、公式には西洋料理が文化的正当性の頂点にあるのに(本当か?)、なぜ言及が皆無と言ってもいいほどなのか。

戦没者の霊の問題

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石川公彌子「近代日本人の死生観」『死生学研究』「特集号―東アジアの死生学へ」、18-33.
日本人の死生観というより、国学者の本居宣長と平田篤胤、民俗学者の柳田國男と折口信夫の死生観の研究であるが、非常に面白い史実を指摘して鋭い考察がされていたのでメモをする。

生と死、生者の世界と死者の世界、霊魂の役割、神の役割などについて、近世の国学者たち思想を大きく異なっていた。本居宣長は、この世は「顕事」(あらはごと)と「幽事」(かくりごと)から成り立ち、前者は人事全般、後者は神事であり、それぞれ、アマテラスの子孫である天皇と、オオクニヌシが掌握している。「かくりごと」は、「あらわごと」を補佐し、その根本にある。また、人は原則として死ぬと薄暗く汚い「よみの国」にいくが、位が高い人間は、霊魂を死後も現世にとどまらせることができる。これに対し、平田篤胤は、より「幽世(かくりよ)」の重要性を強調した思想を展開した。幽冥は顕国のいずこにもあって接しており、人間の霊魂はいずれも幽冥に赴いて永遠の存在となり、そこではオオクニヌシに帰順して彼に裁かれる。つまり、死者は永遠にこの国土におり、幽冥での裁きは現世に反映される。これは救済論であり、現世における日常倫理として成立している。

柳田や折口が生きた時代においては、戦争による死者が非常に重要な意味を持った。戦死した兵士たちの霊魂が故郷に帰ってきたという民間信仰は、死者にとって「家」がどのような問題を持っていたのかという問いの切実性を反映している。柳田は平田篤胤に近い現世―幽冥の理論を持っていたが、第二次世界大戦による大量の戦没者の問題に直面して、彼らがそこに行く「幽冥」と、彼らの霊に与えるべき位置の問題である。特に、イエと子なくして死んだ人々、従来の霊魂観でいくと無縁仏になってしまう人々が、子孫に祀られない徘徊する霊魂とならぬよう、彼らを祖とするイエをつくるように提案する。非血縁者の子孫が作り出すイエを媒介とした共同体をつくり、これが「国」となるようにする考えであった。

実際に養子を戦死させた折口にとっても、「未完成霊」と呼ばれるものになると考えられていた戦没者の問題は重要であった。折口は柳田とはことなり、祖先信仰やイエの概念から霊魂論を切断し、未完成霊の概念を否定して、すべての霊魂は完成霊であると説いた。これは、神道を普遍宗教にすることでもあった。

イムと社会・文化

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中川秀三「アイヌの話」『北海道精神衛生』no.10(1966), 1-5.
高畑直彦「イムの文化的背景」『精神医学』25(1983), no.1, 37-43.

中川は、論文執筆時点では札幌医科大学の教授で、学生時代には北海道帝国大学の精神科で、昭和10年近辺の内村のアイヌの精神病調査に参加した人物である。内村の調査から30年後に再びアイヌのイムを調べてみたところ、北海道全体で30名しかいなかったとのこと。アイムのイムが減少し絶滅に向かっているということが内村の調査の動機の一つであったが、その予言は確実に実現されているといってよい。イムがあるのは、アイヌ人同士のコタンを作っているところに多い。若い婦人もいるところをみると、そのような共同体ではイムの新発生もある。

これは論文というよりエッセイだから、気をつけなければならないけれども、中川は、イムの発生について、遺伝よりも共同体や人間関係を重んじる記述をしている。たとえば、あるイム女性について、「山で蛇をみて驚いた後に、部落のものに何度も驚かされることを通じて、イムに育てられた」というような記述があるが、この「部落によってイムに育てられる」という発想には、イムを病理的な存在とは違うものと捉える前提がある。同様に、「スンケイム」についても、イムの真似をしていると本当のイムになってしまうこと、これは男性であっても日本人であってもそうであることを論じているが、ここにも人間関係の中での一つの性格類型として捉える思想がある。あるいは、アトラクションとして、祭りや宴会のときに「イムヤラ」を伴って提供される、見世物や娯楽の対象としてのイムも、イムヤラによって導かれながら危険がないようにイムを起こさせられるということにも、社会的なものと捉えている。

高畑論文は、アイヌのシャーマンとイムを結びつけた論文。シャーマンはトスと言われ、それは蛇のカムイとともにあり、蛇は霊能力の誘発因であったこと、アイヌ女性が蛇と一体化して巫術を行うものであったことに着目し、イムとトスは女系的であり、いずれも敬愛される女性がなり、蛇を刺激とすることから、「トスイム」の存在を考え、それから祭りイム―あそびイムへと変遷していくことを論じている。この著者にありがちなことなのかもしれないが、時系列における変化を論じているはずなのに、何がどういつ変化したかということについて、実証はもちろん理論的再構成も欠いていて、理論的というより思弁的な論文である。

昭和2年の孤食批判

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幸田露伴全集の「史伝」に収録されている「日本武尊」を読んでいたら、天皇の食事(大御食 おおみけ)に参列するかどうかというエピソードを論じているときに、露伴が孤食と会食について論じている箇所があった。「禽獣は孤食することを悦び、人は会食することを喜ぶ」と露伴はこの文章を始める。禽獣は食があればかならずこれを同類と争い、自らの小片を食いちぎっては一匹で食べられるところに持ち去って食べる。対して人は、一族朋友は言うにおよばず、他郷のものとも美しい感情をもって会食する。ここに礼儀があり、平和の心、共存共栄の大なる幸福への志向がある。アイヌのごとく胡座して酒を飲む場合でも、インド人のように片肌脱ぎで指で飯をつまんでも、やはり礼の道の進んでいるのである。であるから、一家族打揃って朝食を食べるのは、めでたき礼であり、朝食の正しく行われる家は、平和と幸福と正義と発展向上の機が存する家である。朝寝や不取り回しのため、あるいは不快や不満や心理上のある理由のために朝食の席に列せぬもののあるごときは、その家の不吉を物語るもので、その不参列者はその家の日常礼儀の破壊者であり、その家に背くものであり、忌むべくにくむべきものであり、そういうことが繁々になればその家は明らかに衰運に向かっていくのである。「挙案斉美」なる中国の戯曲をひいて、これは家庭食事と礼儀の美しさを描いたものであるが、我儘でだらけた妻、不品行で勝手な息子は、とにかく朝の食事に外れるものである。であるから、日本武尊が、天皇の大御食に参じない兄を「つかみひしいだ」のは痛快であるという。

これは、昭和3年に大阪日日新聞、東京日日新聞に『水月記』として連載された作品の一つであるが、東京と大阪の中産階級の家族たちは、朝ご飯を一緒に食べないと我が家は衰運に向かうと叱責されたのだろうか。露伴がこれを書いた一つの理由は、礼儀と道徳の発展の基礎としての家庭の規律が危機にさらされていると思ったからだろうか。精神病患者の症例誌では、たしかに、同じ時間に寝ないこと、夜更かしすること、外出することなどが問題になっているし、食事についてもしばしば言及されている。よし、これを分析してみよう。

タバコの伝来と風俗について

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鈴木達也『喫煙伝来史の研究』(京都:思文閣出版、1999)
喫煙伝来史の書物を読む。著者は、通常の研究者ではなく、本業は会社の社長で趣味がパイプ、その趣味が高じて本格的な喫煙伝来史の本を書くことになったという面白い経歴である。お医者さんの趣味の医学史というのとは少し違うけれども、こういう高級な趣味を持っている人々は総じて豊かな精神生活を持つだろうし、プロの医学史研究者にとって、大切にしなければならないグループになると思う。これは聞いた話だけれども、イギリスのジョンソン協会か何かで、学者たちと素人の愛好家たちの間で「トリヴィア・クイズ合戦」があったときに、もちろん素人の愛好家たちが大勝利して、素人のジョンソン愛好家たちは大喜びで、学者たちもにこにこと苦笑していたという話があって、このあたりが、医学史を成功させる重要な契機になると私は思っている。

この書物は、もちろん好事家の書物だから、それらしい内容であるし、プロの学者があら捜しをしようと思えば簡単に欠点を指摘できるだろう。(私ですら、「<文脈>をカタカナで表現するときには<コンテクスト>と書くべきで、<コンテックス>ではありませんよ」と言うことができる)しかし、そういうことをするよりも、好事家の仕事の範囲の中で非常に水準が高い部分を楽しんだほうがいいと思う。

特に面白かった記述が、日本にタバコと喫煙がどのようにして入ってきたかという考察の中で、初期の喫煙は、タバコの葉を刻んでキセルにつめて吸うのとは違う方法を用いており、タバコの葉を巻いて筒状にして、広いところを指に挟んで狭いところを吸うという方法であったという部分である。この記述は、巻かれて紡錘状になったタバコの葉に火をつけて吸うという、葉巻のようなものを思わせる。これと少し違うのが、刻んだタバコを紙で巻いて、手製のシガレットのようなものを作って吸うという方法である。さらに、近年まで、熊野地方では、紙ではなくツバキ、カシ、カキの葉などを外皮にして刻みタバコを巻いて吸っていたという。これを「シバマキ」と呼んでおり、当地の特徴的な風俗として江戸時代には有名であった。「山がつが けぶり吹きけん 跡ならし 椿の巻葉 霜に凍れり」という歌まであるとのことであった。巻く葉の好みも、熊野の中の土地によって違い、中辺路ではツバキの葉が、本宮町や十津川ではカシの葉が好まれた。ツバキの葉が手に入らない場合は、サルトリイバラで代用されたという。

これは、田舎に行くと、まだ紙が貴重品だったという理由もあると思うけれども、たしかに、キセルとは違った喫煙方法が日本に伝播し、多くの地方ではキセルにとってかわられたが、熊野地方ではキセルではない「巻たばこ」が残存したことを示唆する興味深い議論だと思う。

1860年代以降のイギリスのコレラ対策

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Hardy, Anne, “Cholera, Quarantine and the English Preventive System, 1850-1895”, Medical History, 37(1993), 250-269.
必要があって、1860年代以降のイギリスのコレラ対策について、若き日のアン・ハーディが書いた論文を読む。厚みがあるリサーチから、深い洞察を語る彼女の奇を衒わない筆致は、イギリスらしい成熟した歴史学の雰囲気を医学史に持ち込んだものだった。

ヨーロッパのコレラの歴史というと、その多くは1830-2年のヨーロッパ中心部への最初の流行に集中している。この論文は、1850年以降、特にイギリスが最後のコレラ流行を経験した1866年以降に着目している。イギリスは1866年の流行を最後に、コレラを離脱した最初のヨーロッパ国家になった。ロシアや東欧、地中海沿岸はもちろん、フランスでもドイツ圏でもコレラの大規模な流行は1890年代から20世紀初頭まで続いていたのに対し、イギリスはそれよりも30年以上早くコレラの流行圏から脱することができた。その間、ヨーロッパ諸国はいまだに検疫の方法に頼っていたのに対し、イギリスは世界の通商の自由を第一に重んじる経済的・政治的な思想のもとにあり、検疫を用いないでイギリスへのコレラの侵入を防ぐ方法がとられた。その方法は、港における船員の健康検査や病気に罹ったものの隔離の権限を徐々に持つようになった港湾衛生局の設立であった。この港湾衛生局は、ヨーロッパでのコレラの流行の情報を得て、それに応じてイギリスに入国する船を検査し、あるいは港湾で労働するものたちの生活環境を衛生化することを行った。これは、当時イギリスのそれぞれの地方自治体を衛生政策に向かわせていた公衆衛生を、港湾に適用し、そのために各地の衛生を行う組織を調整する権限を明確にした。むろん、イギリスは島国であり、1890年代に流行を経験しなかったというのは、幸運も作用していたが、これらの方法が実施されたのと、イギリスがコレラ圏から離脱した時期が一致しており、これはイギリスの方法の優越性のあかしだと解釈されていた。

・・・余分なことを言うと、「実験だか細菌だか知らないけれども、なぜコッホとかいう学者の言うことを聞かなければならないのか?ドイツでは、1892年に2万人も患者を出したじゃないか」という実用性があったのだろう。

イギリスの港湾衛生と検疫

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Maglen, Krista, “’The First Line of Defence’: British Quarantine and the Port Sanitary Authorities in the Nineteenth Century”, Social History of Medicine, 15(2002), 413-428.
同じく Port Sanitary Authority についてのより新しい研究。ハーディの論文が19世紀のコレラの議論の中でPSAを考察しているのに対し、こちらの論文は、PSAが発展させ「イギリス方式」English System と呼ばれるようになった港湾公衆衛生の仕組みを検証したもの。中心にあるのは、「イギリス方式」と「検疫方式」が並行して存在していたことの指摘。「検疫方式」は、世界の商業帝国の中心にあったイギリスで、自由主義にとっての絶対的な敵であった。しかし、イギリス方式は検疫を駆逐したのではなく、1896年まで両者は並行して存在していた。

高橋英次『優生学序説』(1952)

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高橋英次『優生学序説』(1952)
分裂病の遺伝については、それが遺伝と深い関係を持っていることについては合意があったが、その遺伝様式のメカニズムになるとさまざまな異なった意見が存在した。たとえば、単純な劣性遺伝であるとするもの、主要遺伝質と副遺伝子の組み合わせが存在するという意見、その中で遺伝質が優性か劣性かという考え方の違い、2対の劣性遺伝子が関係するという意見などがあった。
精神病調査においては、明確な診断基準によって判断される分裂病、癲癇、躁鬱病という疾病そのものよりも、その周辺に存在するとされていた、あいまいな症状や状態の集合も大切であった。たとえば癲癇においては、偏頭痛、けいれん性疾患、夜尿症、夢遊病、低能、非社会的精神異常などが、遺伝的に重要な現象となる。あるいは、ヒステリーも癲癇患者の家族中によく現れる。一方で、強迫観念症は分裂病や躁鬱病の負因として目立つこともあると言われる。
ヒステリーについて、ヒステリー性反応様式を示し、社会的異常性格であるものと、社会にとって有用だが一時的なヒステリーを示す患者という区分がされている。
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