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Channel: 身体・病気・医療の社会史の研究者による研究日誌
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飢餓状態とスキゾフレニア

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Susser, Ezra S., “Schizophrenia after Prenatal Exposure to the Dutch Hunger Winter of 1944-45”, Archives of General Psychiatry, 49(1992), 983-988.
妊娠の初期に栄養が不足することは、スキゾフレニアのリスクファクターになるという仮説があり、その仮説を検証する実験として、歴史的に限定された「食糧不足」の時期に胎児期を過ごした人々にスキゾフレニアの発病率が高くなっているかどうか調べる研究である。1944-45年のオランダでは、ナチス・ドイツによる封鎖により、その西部地方において激しい食糧不足が発生し、南部・北部地方では発生しなかった。オランダには優れた包括的・網羅的な精神病患者記録がそろっているから、この記録を使えば、それぞれの地域で胎児時代の初期を過ごした人々がスキゾフレニアを発病する可能性が分かるということになる。計算の結果は、女性については有意な差がみられるとのことである。ううむ。

岡田温司『キリストの身体』

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岡田温司『キリストの身体-血と肉と愛の傷』(東京:中央公論新社、2009)
「身体の歴史」の授業で、キリストの身体に触れて説明する箇所があったので、以前から読みたいと思っていた著者の書物を読んだ。非常に優れた模範的な新書で、博識と深い洞察と入門者向けのわかりやすさというのがうまく融合されている。著者の経歴などを見ると私よりも10歳ほど年上で、私もあと10年したら、このような新書を書きたいと思う。

5章から構成される書物で、それぞれの章は独立した一つの文章として読めるようになっている。どの章も興味深い内容で、3章「肖像と形見」では、キリストの姿がまるで写真のように転写されたハンカチや聖骸布を取り上げ、4章ではキリストが「自己成型」のモデルとされたイミタティオ・クリスティの理念のこと、5章ではキリストの傷と心臓、そしてその心臓を「読む」という主題が分析されている。授業に必要だったのはキリストの血と肉を身体の中に取り入れる、キリスト教の儀式の中枢について論じた2章だった。これがカニバリズムの側面を持っていること、フレイザーによる解釈、中世の神学者たちによるパンとワインはキリストの血となり肉となるのかという箇所を説明した部分であった。この箇所は、もっと前に読んでおくべきだった。

精神病患者記録の利用

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Haefner, Heinz and Wolfram and der Heiden, “The Contribution of European Case Registers to Research on Schizophrenia”, Schizophrenia Bulletin, 12(1986), 26-51.
ヨーロッパやアメリカでは、精神病院は公立であることが標準的であったので、精神科の患者記録をはじめとする症例誌は公文書である。そのため、保存や公開について一定のルールが作られやすく、その作業を核にしてアーキヴィスト、歴史学者、精神科医の協力が成立してきた。私がイギリスで習った患者資料の利用という基本的な操作も、その動きと確かに関連している。この1986年の論文は、これまで Case registers を用いたさまざまな研究の手法を紹介している、非常に便利な論文である。症例誌のアーカイヴを見つけたら、この論文をめくると、どのようなデータをとってどのような研究ができるのかということが分かるヒントになる。便利なアイデア集として、また、歴史学者として自分の議論を現代の関心につなげるヒントを発見するヒント集として、大いに使える。

大連の都市設計と公衆衛生

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Perrins, Robert John, “Doctors, Disease, and Development: Engineering Colonial Public Health in southern Manchuria, 1905-1926”, in Morris Low ed., Building a Modern Japan: Science, Technology, and Medicine in the Meiji Era and Beyond (London: Palgrave Macmillan, 2005), 103-132.
満州の植民地医学の研究者であるペリンズが、日本が大陸にもたらした文明の象徴であった大連の都市設計と公衆衛生について長い論述をした必読の論文である。大連はもともとロシアが極東支配の拠点として建設を始めていた都市であったが、ポーツマス条約で日本に譲られることになり、日本にとっても大陸を文明化する象徴であった。しかし、1911年のペスト、1918-19年のスペインかぜなどの大きな疫病の脅威・被害があり、常に侵入する野蛮としての疫病(特に中国由来)と闘いながら維持される文明であり植民地支配であった。満鉄病院はその戦いの拠点として設計されていた。

100万人の断種という構想

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松原久人「精神薄弱と断種法」『精神衛生』14(1942), 18-21.
著者については私は調べていないが、厚生省の優生課の前課長である。いかにも官僚らしい口ぶりで、「来年の予算に少し予算をつけて、どれくらいの優生手術が必要なのか調査しよう」と考えていることである。小学校の児童が用いられる予定だったらしい。(ちなみに、三宅島においては、島崎敏樹が小学校の先生と協力しながら精神薄弱を選別して数を数えていた。)断種を必要な人物が何人いるのかということは、欧米における調査を日本の人口にあてはめて計算されているだけで、実際の調査をしていなかった。この段階では、国民の2%―4%が精神薄弱だとすると、140万から280万人くらい存在することになるから、少なくとも100万人くらいの断種ということになる。私たちは、この100万人の断種という数字を憶えておくべきである。これが国民優生法の直後に官僚が構想していた事業のオーダーであった。もちろん現実は、それとはまったく違った形をとり、強制断種でいうと最終的には2万人足らずという数字になる。ううむ。

高野六郎の優生学

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高野六郎「精神衛生国策」『精神衛生』10(1936), 1-9;「優生断種に対する賛否論批判」『精神衛生』10(1936), 23-26.
この時期の高野六郎は、衛生局の予防課の官僚であるが闊達な文章をあちこちに書いていて、官僚として言うべきではないような本音を無防備に書いているような印象を持っている。その高野が優生断種について積極的な意見を展開している講演である。高野がいうには、日本の衛生行政は、お得意の急性感染症の予防についてはだいぶ進んだが、精神病の予防については、「甚だ遺憾でありますが、実はさっぱり何もまだいたしておりません」とのことである。「しかるにここに精神衛生国策などと大きな演題を出しておりますと、どうもしゃべる人が頭が変なのじゃないかとお考えになるかたもあるかもしれません」「ことに精神病ご専門の先生などは、ずいぶんいわゆる変わり者の方、すなわち精神にどこか異常があるのじゃないかと思われる人が先生の中にすら多いという話をよく伺うのであります。精神病の先生すらそんな風とすると、世の中には精神異常とか低能者とか云う者が案外に多いと思われます」・・・とまあ、こんな感じである。あと、自分の家族には精神病の患者も「馬鹿も低能も」いないいけれども、親族に進行麻痺が1,2人いるとかいう、現在なら厚生省が大臣をはじめ根こそぎ薙ぎ倒される暴言となるようなことも気持ちよく語っている。

強制断種か任意断種かの問題では、高野は強制断種を以下のように合理化する。自分が悪質な遺伝があるからといって断種する人は、もともと利口な人である。高野の言葉を使うと「フワーストクラス」の人である。問題になるのは、悪質遺伝があるために結婚できずに「売れ残った」雑輩が、選択に漏れたからといって国家のために断種の手術をするのではなく、むしろ「破れ鍋に綴蓋」式に、同病相哀れんで遠慮なくどんどん結婚し、遠慮なく子を産む。むしろこうなるとたちの悪いものが世の中にはびこるかもしれない。

高野はしかし、すぐに強制の優生断種には飛びつかない。これが国民の世論になってきたならば法律を作るという。たとえば禁酒や売春禁止を国民がやろうということになったら、衛生局としてはこれを行う。(インプリケーションとしては、衛生局としてこれを強くプッシュはしないということだろうか。)むしろ、高野自身が訴えたいのは、「皆さま各自が各家庭を守る工夫をしていただきたい」ということである。「世の中に健康な人たち健康の家庭の多い間に早く考えていただきたい」ということである。ううむ。

アイヌは血液検査を受け入れたか?

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北海道庁警察部『旭川区近文部落―旧土人衛生状態調査復命書』(1916)
北海道庁警察部『余市郡余市町―旧土人衛生状態調査復命書』(1916)
北海道庁警察部『沙流郡の一部 室蘭郡の一部―旧土人衛生状態調査復命書』(1916)
大正5年に出版されたアイヌの健康調査の資料に目を通す。健康調査において行うことができなかったものは、結核検査において喀痰をとること、梅毒診断のワッセルマン検査を行うために採血すること、性器を検査すること、である。それらを行うことができなかったので、結核においても梅毒においても臨床的な外見だけが診断の道具であった。診断を確定できない不利な条件のために、医者たちは、調査の結果の数値よりも、実際の数値は高いものであると思っていた。特に梅毒に関して、この疑いを強く持っていた。

ついでにいうと、1930年代の後半の内村の調査においては、ワッセルマン検査は受け入れられているように見える。20年間の間に、ワッセルマンを拒絶する状態から、それが行われるという状態に変わったと考えることができるから、もしいい資料があれば、短い論文を一本書くことができるんだけどな。 

女性の独身生活は緩慢な磔刑

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高橋英次『優生学序説』(東京:医学書院、1952)

戦後の優生学の議論は、優れた女性の結婚・出産についてもいろいろと発言している。もちろん女性の教育は望ましい。しかし、多くの論者が恐れたのが、高い教養を受けた女性が独身でいる傾向が高く、出産をしない傾向であった。そう考えると、一流の大学を出たうえで、あえて主婦になってちゃんと子供を生むというパターン、すなわち戦後の女性教育の拡大と優生学的出産が両立されたメカニズムは、これをみごとに両立するものだったのだと感心する。 

「高い教育を受けさらに男性に伍して社会的地位を獲得しようとする婦人は勉学に熱中している間に縷々婚期を失う。結婚というものが何か望むだけの価値があるものであるということに気づく頃には、多くは女性としての魅力を失っている。より若くより活発な娘たちと競争して成功することはむつかしくなる。教育ある女性はそうでない娘たちよりも、どんな犠牲を払っても結婚しようとはしていないし、また既婚の婦人よりも時間をより有意に過ごすこともできるのであるが、それにかかわらず多くの場合著しく独身に悩んでいる。独身は緩慢な磔刑にも似ている。独身は正常な本能に反するからである」

この引用の最後の「独身は緩慢な磔刑」というのは、独身女性は性的な不満のためにさいなまれるという論点だと思う。性が結婚の中に限定されていた時代には、たしかにこのような心配も、一定の根拠はあった。しかし、性が結婚の外でも行われるようになると、この議論は使えなくなったということかな。

イムは和人との接触が作った?

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高畑直彦・七田博文『いむ―アイヌの一精神現象』(札幌:n.p., 1988)
アイヌのイムについて書かれた比較的新しい書物を読む。イムについての文献の主たるものを列挙するだけでなく、それらから重要な部分を抜粋しており、非常に有益な書物である。

著者は札幌医科大学の精神科の教授であり、アイヌについても深い研究を行っており、イムについても調査を行っている。内村のイムについての研究が、いわゆる文化精神医学の視点をあまり用いていない点を踏まえて、「カーゴ・カルト」の概念を用いて内村とは大きく違った解釈をしている。

内村のイム論のコアは、それが蛇の概念によって引き起こされることから、蛇をトーテムやタブーとするアイヌ固有の文化との関係を確認したうえで、アイヌ民族が未開民族として持つ被暗示性・推感性がイム形成の中心であるとする考え方であった。イムはアイヌ民族が未開であり独自の文化を持つことによって生まれた心的反応であり、アイヌが和人と接触することにより、イムは消滅していくものであると捉えられていた。1930年代に内村が発見したイムの分布はこの図式にあてはまるものであり、アイヌ文化が濃厚に残っている地域で多くのイムが発見されていた。

高畑・七田は、これと大きく異なった考え方をして、イムは、アイヌが和人と出会ったことにより形成されたと解釈する。重要なポイントは、「刺激者」をイムの発作で重要な役割をはたすものとしてモデルを組んだことである。イムの発作を起こす「蛇」は、アイヌにとって恐怖の対象というよりむしろ本来の自分、昔の平和なアイヌ、良いカムイの象徴である。一方、「蛇」を見せたりその言葉(「トッコニ」)を掛けたりする刺激者が加害者・侵入者であり、平和を乱すものであり、悪いカムイである。躁暴行為は、加害者への抵抗であり、刺激者の行為や命令と反対のことをしたり言ったりする「反対動作」はこの延長上にあるより戯画化された抵抗である。刺激者と同じことをする反響行為は、馬鹿馬鹿しいほど忠実に真似をした、逆説的な抵抗演技である。

これは、カーゴ・カルトの例において、白人の侵入者との接触によって既存の神話・象徴が組み替えられて集団ヒステリーが起きたのと同じメカニズムで捉えることができる。イムは、アイヌが和人と出会って搾取され支配されたことに対する反応であり、言葉を換えれば、アイヌと和人の出会い以降に形成されたものなのである。

私には是非を論じる資格はないが、面白い点は、刺激者をイム形成の機制の中にいれたこと、実はこの刺激者の中にフィールドワークを行った精神科医や人類学者・民俗学者も含まれることであろう。違和感がある点は、やはり歴史の問題である。和人と接触する前のアイヌにはイムがなかったこと、あるいは和人との接触によってこのような形のイムが発生したということがこの議論の要石になるが、それをどうやって説明するつもりなんだろうか。

イムの観察・理論の国際化の二つの過程

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イムについての学説が、北海道や樺太のフィールドと、東京(メトロポリスI)・ドイツ(メトロポリス)II の間を流通した経路を少し整理した。重要なのは、榊保三郎の系列と、内村祐之の系列である。

榊保三郎は、のちに九州帝国大学の精神科の教授となった人物であるが、アイヌの部落でフィールドワークを行い、1901年にアイヌのイムについての論文を日本語で書き、その内容を1903年にドイツ語で発表した。このドイツ語論文は東大助教授として留学していた時期にNeurologieに発表され、これがヘルマン・オッペンハイムの教科書における記述のもとになった。そこではイムは強迫神経症の一つとして扱われていた。これが、フィールドから東京(メトロポリスI)、ドイツ(メトロポリスII)への最初の系路である。

しかし、ドイツにおいて、新しい動きが現れた。主役の一人は間違いなくクレペリンである。クレペリンは遅くとも1915年の教科書第八版においては、イムをヒステリーの一種であると考えて、アメリカ先住民のジャンピングやマレーのラターと同じ範疇に入れた。この転換の理由はよく分からない。クレペリン自身がラターを観察したことと関係があるのかもしれない。ちなみに、クレペリンは、おそらくイムやラターを観察して日本や東南アジアを廻る、ユーラシアを一周する文化精神医学の壮大な研究旅行を企画するが、第一次世界大戦でこの研究計画は立ち消えとなった。

もう一人の主役は、クレッチマーである。1923年にはクレッチマーの『ヒステリー論』が出版され、1930年には『医学的心理学』が出版された。ドイツに留学していた内村祐之はクレペリン―クレッチマーの影響のもと、北海道帝国大学の教授となってから1930年代にフィールドで調査を行い、その結果を1938年に日本語の論文とした。クレッチマーにならって、イムをヒステリーの原型と考えた論文である。この内容を、内村は1956年にドイツ語で発表し、その内容は1958年のクレッチマーの『ヒステリー論』第6版に採用された。内村の系列においては、クレペリン・クレッチマーから内村のフィールドワークへ、その結果がさらにクレッチマーに還元されるというサーキットが起きていること、そして、メトロポリスIIにおいて、ヒステリーをめぐる議論が進展していたこと、おそらく榊の時期とは違った議論になっていたことが重要である。

不眠の医学史001

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式場隆三郎『絶対安眠法』(東京:中央公論社、1937)
20世紀前半における不眠という主題は、医学と身体の文化史・社会史の演習問題のような趣をもっている。新しい職業、大都市のナイトライフ、電燈の普及などの社会的な変化、生理学における睡眠の研究、疲労の問題、フロイトらの夢の研究、睡眠剤の流行と乱用、文学における不眠など、それこそ社会と文化と医療が絡み合った問題を描くことができる。実際、数えたわけではないが、昭和戦前期の精神病院のカルテを読んでいると、入院するまでの愁訴のうち、最も多いのは不眠であると思う。

その手がかりになる素材の一つが、式場隆三郎の著作である。式場は精神病学者で、ゴッホをはじめとする精神病者の絵画の研究、狂人の建築として有名な「二笑亭」の研究、そしてのちには山下清の発見とプロモーションで名高い。この書物が発表されたのは昭和12年だから、医者としてだけでなく、文筆家としても活躍していた時期である。そのせいか、この書物はもちろん専門家向けの構成や内容を持たず、睡眠と不眠についての話題を、古今東西を通じて、医学はもちろん、宗教・芸術・文学・文化の多くの方面から博覧強記で引用し、議論をしている。

その中から一つだけ、モスクワのスハレフスキー教授なる人物は、映画の催眠効果を医学の治療に用いることを考えたという。映画は三幕にわかれ、最初は睡眠不足の害を説き、第二幕では催眠の様子を描き、第三幕では催眠術者が映写幕に現れて観客全体に催眠術を施すという趣向になっているという。トーキーであり、音楽と言葉と映像を用いた集団催眠術であるという。ううむ。

1780-82年のアメリカの天然痘流行

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Hodge, Adam R., “’In Want of Nourishment for to Keep Them Alive”: Climate Fluctuations, Bison Scarcity, and the Smallpox Epidemic of 1780-82 on the Northern Great Plains”, Environmental History, 17(2012), 365-403.
1780-82年に天然痘の大流行が北米のグレートプレーンズの先住民を襲い、そのほぼ半数が死亡したとされる。この流行病は、半定住の生活を営んでいた部族に特別大きな被害を与え、彼らの人口は激減して1/3程度になった。半定住型の部族は大きな村を作りそこで高い人口密度を持って暮らしていたので、感染症の大流行による死亡数が高くなるのは理解できる。しかし、この天然痘の大流行は、バイソンを狩猟して暮らしていた移動型の部族であるBlackfeet, Assiniboine, Lakota Sioux などの部族は、にも大きな被害を出した。その理由は、1780年の流行の数年前から、気候の小変動が続き、その結果バイソンの数が減少したので、バイソンに依存していた部族は深刻な食糧不足に陥っていた。これは、彼らの栄養状態を悪化させて疾病が個人の身体に与える負荷を大きくした。

天然痘の影響とアメリカ先住民の勢力変化

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Hodge, Adam R., “Pestilence and Power: The Smallpox Epidemic of 1780-1782 and Intertribal Relations on the Northern Great Plains”, The Historian, 72(2010), 543-567.
同じく1780-82年の天然痘の流行を扱った論文。こちらは、先の論文でも触れられていた、アメリカ先住民の部族ごとに死亡率やダメージが違ったことに注目して、この天然痘の流行が先住民の部族間の対立の構造を変えたこと、それまで馬と銃を得て攻勢をかけていたが、いまだ半定住の部族に阻まれていたスー族 (Sioux)が優勢になったこと、それまで発展していた半定住の部族がスー族に支配されていくようになった過程を論じている。

免疫からみたヨーロッパ人と先住民という二元論の中では、「先住民」という形で単一に扱われてきていた先住民の中に、被害が大きかった部族とそうでない部族という形で差異を作り、その歴史を描くことに成功している、素晴らしい象徴的な意味を持った仕事であると思う。もし、戦国時代の日本を「日本人は極東の地で殺し合いをしていた」とだけ書いた歴史書から、武田とか上杉とかいう大名を特定していったようなものである。ただ、それが語っている歴史のコアの部分は、天然痘によるダメージが部族によって違ったというシンプルなストーリーで、もう少し色々な要素を複合的に分析したほうがよかったように思う。

精神医学と宗教・20世紀

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三浦岱栄「精神医学と宗教」内村裕之・笠松章・島崎俊樹『精神医学最近の進歩』(東京:医歯薬出版株式会社、1957), 67-78.
必要があって、1957年に出版された「精神医学最近の進歩」という本を眺めていたら、その中に三浦岱栄が書いた「精神医学と宗教」という文章があって、面白かった。

三浦は1950年代から60年代にかけて慶應の精神科の教授であった。昔の精神科の教授らしく、碩学で多様な知的活動をしており、クロード・ベルナール『実験医学序説』の訳者でもあった。三浦はカトリックで、宗教と精神医学の問題には深い関心を持っており、三浦個人の宗教的な信仰と精神医学者としての信念を、同時代の精神医学・宗教に関連させて語っているのがこの小文である。

日本の精神医学では、森田正馬を除いては宗教についての本格的な論考はないが、欧米では大きな主題になってきた。その理由として、二つの点に三浦は着目する。第一には、20世紀に入ってから、精神医学自体がその性質を大きく変えて、記述的なもの・身体的なものから、心理と社会・文化が関係するありさまの中に精神病を位置づけるダイナミックなものになったこと。もう一つは、現代において既成宗教の衰退が衰退し、その空隙を埋めるように現れるようになった新興宗教が、精神病や神経症の原因となり、その治療にもなっているという状況である。

ハンセン病疫学のフィールドワーク調査

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廣川和花「ハンセン病疫学と近代日本の地域社会」『歴史評論』No.746(2012年6月)59-75.
必要があって、近代日本のハンセン病の歴史における疫学研究を分析した論文を読む。著者は、ハンセン病の歴史の新機軸を打ち出している気鋭の歴史学者の一人である。

1907年の法律は、神社仏閣や路傍に徘徊していた浮浪患者を念頭においた、そもそも社会の底辺に不安定な形で集合的に存在していた患者を対象にした救貧であり治安であった。そのような患者は療養所に収容する一方で、「資力がある」患者は自宅療養という二分法であった。それが、1931年の法律では、資力の問題ではなく、感染させる恐れがあるかどうかが収容の基準となった。自宅療養していたとしても、「未収容患者」とみなされる新しいレジームが適用されることになった。収容されるべきハンセン病者は、社会の周縁部にはじきだされていた他者から、「われわれ」の一部になったのである。

このハンセン病についてのレジームの変容と並行して生起し、おそらくそれと相互に影響を及ぼしあったのが、ハンセン病の疫学研究であった。ハンセン病においては動物実験などの方法が順調に進まず、ある種の行き詰まりを見せていた。国際的にも、農村におけるフィールドワークは主要な方法になっていた。1930年代には、日本のハンセン病研究者たちは農村におけるフィールドワークという新しい研究方法を実施していた。太田正雄の宮城県の農村研究などがその発端である。これまでの収容所や大学病院の外来にベースをおいた統計とは違い、研究者たちはフィールドに出て行き、そこで患者を発見し、想定される感染経路、患者の分布、特定の村・家系への集積の度合いなどを調べようとした。一連の研究は、血縁の重視、僻地に「癩村」が存在して周囲の村から血縁において孤立していること、村の衛生状態と生活の形態から想定される感染のありかた、そしてこれらの村から大都会に行って潜伏する形での感染者の存在などの主題が浮かび上がっていた。

ある病気の患者を発見するためのフィールドワークというのは、20世紀の医学が獲得した一つの新しい要素である。それは、それまで発展してきた医学の三類型、すなわちベッドサイドの医学―病院の医学―実験室の医学という重層に、さらに新たな要素を付け加え、それらと複雑な関係を結ぶことになった。この三者は、それぞれ別の社会的な空間に根ざしていた。ベッドサイドの医学は個人的なサービスの売買の契約に基づいた関係であり、病院の医学は欧米では慈善や公費が作った場であり、実験室の医学は科学的な操作が行われる空間であった。それに加えて、フィールドワークの医学というのは、医療を求める人々を対象としたのではなく、潜在的な医療の対象とそうでない人々がまじっている社会を対象にしたものであった。この新しい要素は、医療という営みに新しいエコロジーを与えることになり、その営みに対して責任を持つ主体を変えていくことになったと思う。私は精神医療について、フィールドワークを通じて精神病患者を発見することがどのような意味を持ったのかを調べているので、ハンセン病を対象にしたこの論文は、非常にためになった。

OKな医学検査とNGな医学検査―大正期アイヌの場合

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北海道庁『白老・敷生・元室蘭・旧土人結核病・トラホーム調査復命書』(大正2年)
近代日本において、ダーウィニズムの優勝劣敗・適者生存の原理を日本人にまざまざと見せつけた民族は、おそらくアイヌであろう。この報告書の冒頭には、北海道庁警察部衛生係の警部・小松梧樓による「アイヌ種族の運命に就て」と題された文章が付され、そこではアイヌは劣等人種として生存競争に敗れて滅亡すること、それを目の当たりにして惻隠同情の念を禁じ得ないことなどが記されている。この小松という人物は、同年に北海道の結核についての著作を出版していて、民族ごとに結核の感染と死亡率の差があって、その差によって栄える民族と滅びる民族の違いが現れてくるという、生物学的な民族の興亡のイメージを打ち出しているのだろう。

この調査自体は、小松が行ったものではなく、警察医の諏訪が、白老村、敷生村、元室蘭村で行ったものである。結核は、上半身を検査する臨床的な方法に、喀痰検査を組み合わせて調査した。ピルケー反応は、旧土人の感情をなるべく害さないためと、時間と助手の関係で実施することができなかった。また、喀痰検査とはいえ、ただ唾を吐いただけのものが多く、きちんと痰を採取できたものは少なかった。

これは断片的な記述だが、アイヌが医学技術による身体への侵襲を拒んだ点について、喀痰検査はOKだったが、ピルケー反応(ツベルクリン反応)はだめだったという点も憶えておこう。

世代逆行の臓器移植

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Kaufman, Sharon R., Ann J. Russ and Janet K. Shim, “Aged Bodies and Kinship Matters: The Ethical Field of Kidney Transplant”, American Ethnologist, 33(2006), 81-99.
高齢者への腎臓移植を調査した研究。現在は70歳以上の高齢者への腎臓移植が盛んになっている。これは、死体から臓器を取って移植する場合もあり、生体からの場合もある。この比率は2003年だと大体半々である。生体についていうと、貧困国からの臓器収奪のようなよく知られた現象も重要であるが、新しい現象として真に興味深いのは、子供から親への臓器移植というような、世代の流れに逆行した臓器移植が起きていることである。

カリフォルニア精神病院の断種

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Braslow, Joel T., “In the Name of Therapeutics: The Practice of Sterlization in a California State Hospital”, Journal of the History of Medicine and Allied Sciences, 51(1996), 29-51.
カリフォルニアの州立精神病院の記録を用いた研究で、カリフォルニア大学出版局から「医療と社会の歴史」のシリーズで単行本化もされている。精神医療の社会史の中でもスタンダードな方法で、患者の症例誌から臨床的な力学を再構成し、それを当時の社会の動きと連関させるという手法である。その中で、アメリカの優生主義と断種が、カリフォルニアの州立精神病院の臨床の現場においてはどのような意味を持っていたかという、大きな問題を具体性の焦点において検証する、社会史のお手本のような論文である。

優生学の歴史の研究は大いに進展したが、主に国家の優生政策や医者が書いたものを用いた研究で、優生が「実施された」部分にはあまり光が当てられていない。断種手術については、立法化されて断種の対象が定められ、実施する行政のメカニズムが確定された後で、どの個人が断種されるのにふさわしいかを判断し、それを実際に行うという最も重要な断種の核心というべき行為がある。これについては、欧米でも研究はあまり進んでいなかったが、ナチスの研究において、断種から安楽死へそして大量虐殺という政策を実行した医師たちの位置づけをめぐる論争で、議論の核が明らかになった。つまり、ナチスの政策を実施した医者たちにとって、断種から安楽死というのは、患者に対する医療であったのか、それとも政策に従うことであったのかという問題、あるいは、両者が混合していたなら、どのような構造で混合していたのかという問題であった。この論文は、ナチスの医療をめぐる研究の文脈から、政策に従うことと臨床的な判断という二つの角を取り出して来て、両者の関係をカリフォルニアの文脈で示す。

カリフォルニアはアメリカにおける断種の先進地域であった。1921年には、アメリカ全体の断種の80%はカリフォルニアが行っていた。1909年には圧倒的多数か満場一致で断種法を通した。この法律は優生学というより、その手術が行われた個人に益となる影響を与えることが記されていた。(性的犯罪者などを対象に含んでいたためであろう)それに対して、1917年の改訂では、優生学的な考慮が全面に出た。優生学は、断種という行為を、社会から不適格者を減らすための手段としてとらえ、その目標を正当化する科学として機能していた。しかし、医師たちの多くは、断種をこのような意味にとっていなかった。彼らは、断種に治療的な行為としての意味を見出していた。断種を行うと、その個人の精神的・身体的な健康が改善するのである。男性については、断種が治療行為であるのは「当たり前」であった。当時はホルモンの夢のような効果を語るワンダードラッグが医学界を席巻し、スタイナッハのヴァゼクトミーはフロイトやイエイツを含む多くの男性が受けてその効果が謳われていた。断種手術は積極的に治療行為であると受け入れられていた。一方、女性については事情は異なっていた。女性の断種とは、子供が多かったり、望まない妊娠をしたりするなど、不幸な家庭生活に決定的な打撃を与えるだけでなく、その不安がさらに女性の精神を苦しめる妊娠をふせぐ、文化的に受け入れることができる方法であった。(当時、中絶も避妊も、それ自体が非合法であったり、あるいはそこに非合法性が寄り添う行為であった)

つまり、カリフォルニアに存在したのは、政治と臨床が異なる道を通って「断種」をめぐる結果的な合致に至った構造であった。一方には、優生学を社会の改善の手段であると主張する法律家・医療政治家・医療言論者があり、もう一方には、それを治療効果がある医療であると考えている臨床医たちがいた。この結果的な一致が断種を可能にし、盛んに実施せしめたのである。

断種と隔離

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Radford, John, “Sterilization versus Segregation: Control of the ‘Feebleminded’, 1900-1938”, Social Science and medicine, 33(1991), 449-458.
20世紀前半の英米における精神障害者の処置を例にとって、断種の問題を施設への収容との関連で捉えてモデルを作った論文である。こういった社会科学系・政策系の論者による大胆な整理がないと、最近の歴史学者は、細かい問題の中に埋没する危険性が高くなっている。

図は優生学の問題が分節化されていって断種と収容が政策として区別されていく過程を概念的に示している。実際にイギリスとアメリカで、それぞれこの構図にのっとって、優生学から出発して2種類の政策が展開したありさまが描かれている。最も重要なことは、最終的には、「強制断種」と「特別隔離収容施設への収容」が類似していることであり、「自発的断種」と「結婚についての法」も類視していることである。

八丈島と三宅島

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山田平右ェ門『八丈島の戦史』改訂版(東京:郁朋社、2012)
宮本常一『辺境を歩いた人々』(東京:河出書房新社、2005)
小石房子『江戸の流刑』(東京:平凡社、2005)
樋口秀司編『伊豆諸島を知る辞典』(東京:東京堂出版、2010)
池田信道『三宅島の歴史と民俗』(東京:伝統と現代社、1983)

三宅島と八丈島についての背景的な知識を得るために雑多な本を借りて目を通す。どれもとてもためになった。

宮本 11-57に、18世紀末から幕府の命で蝦夷地を探検した武士の近藤重蔵と、その息子の富蔵についての記述があった。富蔵は、父親に反発した青年時代を過ごし、のちに町人を斬って八丈島に流され、当地についての最も詳しい記述である『八丈実記』を記した人物である。
八丈島の三根(みつね)、大賀郷(おおかごう)、樫立(かしたて)、中之郷(なかのごう)、末吉(すえよし)の村、小学校と青年学校、青年団、女子青年団、婦人会、在郷軍人などの組織があり、昭和16年には、大政翼賛会、産業報国連合会などの支部が作られる。
幕府は重い刑罰の一つとして流罪をさだめ、江戸の流罪人は伊豆諸島に、京、大阪、西国、中国の流罪人は、薩摩、五島列島、隠岐、天草に流すこととしていた。伊豆諸島においては、とりわけ、新島、三宅島、八丈島の3島は、主要な流罪地として機能した。17世紀から幕末までの期間に記録に残っている流罪人の数を合計すると、新島、三宅島、八丈島の3島は、それぞれ1333人、1329人、1865人の罪人が流されている。島の人口の1割から2割程度が、流人から構成されていたことになる。この流人の中には多くの著名人もおり、歌舞伎の題材にも取り上げられた。それぞれの島は火山島で農耕に適さず、飢饉と災害が頻発した。また、流罪人による脱出の試みも数多く、三宅島では明和2年から文久3年までに35件、八丈島では享保7年から万延元年までに25件の脱出の試みが記録されている。このうち成功したものはごくわずかであり、ほとんどの試みは失敗し、捉えられた流人たちは見せしめのために凄惨な刑に処せられた。
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