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Channel: 身体・病気・医療の社会史の研究者による研究日誌
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『雨月物語』

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『雨月物語』は溝口健二が1953年に作成した映画で、ヴェネチア国際映画祭銀賞をはじめ、多くの映画賞に輝いている。ストーリーは、上田秋成の『雨月物語』から「浅茅が宿」と「蛇性の淫」の二つの物語を組み合わせたものになっている。時代設定は戦国時代で、羽柴秀吉と柴田勝家の争いが背景になっている。主人公は源十郎という近江の百姓で陶器を焼く副業をしている人物で、金を手にするために、妻の宮木が止めるのにもかまわず、長浜に行って陶器を売ろうとしている。長浜で源十郎は若狭という謎めいた上臈の屋敷に誘われ、そこで歓待を受けて彼女と契りを交わすが、身体に呪文を書いてもらって彼女の魔力から逃れる。ここが、「蛇性の淫」に、呪文が身を守るという「耳なし芳一」「吉備津の釜」などの仕掛けを加えて翻案した部分である。源十郎が若狭に溺れている間に、妻の宮木は戦乱の中で殺される。若狭から逃れた源十郎は自分の村に帰り、そこで宮木が待っている一夜の幻想を見る。これが「浅茅が宿」の翻案部分となる。それに、源十郎と同じ村の百姓で、武士になって手柄を立てた藤兵衛と、その妻で遊女に身を落とした阿浜が遊女屋で再会するというエピソードも挟み込まれている。

 まず、溝口の映像が素晴らしい。私には映像を的確に描写する語彙がないから説明に窮するが、端正なカメラワークと安定した構図で、ああ、日本映画の巨匠という感じだなあと実感した。それから、宮木を演じた田中絹江と若狭を演じた京マチ子の女優たちが素晴らしい。特に京マチ子は、蛇性の淫としての説得力が必要な役だが、男をたらしこむ魔性の媚態と、そこから透けて見えるような必死の情念の双方が素晴らしかった。(いや、女性美を的確に描写する語彙なんてもっと持ち合わせていないのだけれども・・・笑)

映画のあとで原作の『雨月物語』を読み直したくなったので、懸案の「物の怪」について調べようという言い訳を思いつき、岩波の古い方の古典大系を引っ張り出して読んだ。中村幸彦という偉い学者の校訂で、それ自体が古文であるような解説がついた本である。(「長じては保養が煙霞の癖となって、近畿の各地に杖を引き、折花攀柳の巷にも出入した」)その中から、私が好きな「吉備津の釜」と「蛇性の淫」を読む。

「吉備津の釜」は、心が定まらない「たわけもの」の正太郎が怨霊に殺されるさまを描いた傑作である。正太郎は磯良という女性を結婚したが、たわけもので、袖という名の妓女となじんでついには身請けし、妾宅を構えて家に帰らなくなった。磯良は恨み正太郎の父に告げたところ、父は正太郎を「押籠」にする。(ここに、「近世風に言えば座敷牢に入れた」と頭註がある)しかし、正太郎は磯良をだまし、磯良の衣服や調度を金に代えさせ、磯良の母からも金を借りさせて、その金を持って妾の袖と京に行こうとする。しかし、途上で袖は物の怪につかれたように異様になるが、彼女の従弟がこれは「瘧」の熱病だろうといっているうちに、袖は死んでしまう。ちなみに、この部分は、本文では「瘧」の字ではなく「疫」が使われている。この「疫」の語は、「疫病」というように大きな流行病のことであるが、マラリアによっておきる「瘧」をあらわすのにも使われているから、ここは「瘧」の意であろうという的確な解釈をしたのは、もちろん私ではなくて校訂者の中村幸彦である。

「蛇性の淫」では、男の主人公の豊雄が、蛇が化身した真女子と契ったあとで、その本性を知って別の女と結婚するが、新婚の夜にこの女が真女子に取り憑かれ、姿は変わらないが真女子の人格となって話すという有名なシーンがある。豊雄が新妻に「あなたは内裏に勤めていたが、その美しい器量なら、きっと貴公子たちに言い寄られて添い寝しただろうね、いまさらながら憎らしいことだ」と戯れを言う。そのとき、豊雄の妻に真女子が乗り移り、「いいえ、本当に憎らしいのは、私と契ったのに、このような、格別とりあげることもないような凡庸な女と馴染んでいるあなたです」と、妻の姿のままで、真女子の声と、真女子らしい雅な言葉で台詞を返す名場面がある。<このような、格別取り上げることもないような凡庸な女>という決め台詞、そしてそのときに、まさしくその女の身体を乗っ取っているという状況。これは、私が好きなシーンである。

「内村祐之先生生誕100周年を記念して」

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風祭元ほか「内村祐之先生生誕100周年を記念して」『臨床精神医学』26(1997), no.12, 1655-1676.
内村祐之は1936年から58年にかけて東大精神科の教授であった。1997年が内村生誕100周年であるという理由で、内村の弟子筋にあたる精神医学者たちが内村の思い出を語るという趣向で行われた。内村自身が1980年に没しており、1997年という年代は、幾らかの時間的な距離感が生じ始める時間であった。重要だが、日本の子弟関係においては普通は言われない重要なことが語られるチャンスだった。特に、出席者の中で最年長であり、また内村を最もよく知る人物で、60年代の精神医学の改革運動の中で東大教授を退職させられた臺(うてな)弘が自由な意見をきわめて雄弁に語り始めたということもあって、貴重な資料である。

臺が内村への異和感をあちこちではっきり表明している部分が面白い。いろいろな表現の仕方ができる現象だと思うが、それぞれにとって精神医学の使命感のありかたの違いである。内村はあくまで知的な研究として精神医学に取り組んでいた部分があった。彼の家庭、ミュンヘンでの経験、東大教授としての経歴など、さまざまな要素ゆえに、内村は精神医学を理論的な営みとして捉えていた。一方で、臺はもっと「熱い男」であった。彼にとって精神医学は臨床であり病院であり社会であり、内村にはそういう部分が欠如していることに不満を持ち続けていた。座談会の終盤に吐いた「内村先生は、あれだけの方でありながら、社会的な関心が薄いんです」という台詞が、臺と内村の違いを象徴している。イムの調査をしても、アイヌの人々がどれだけ日本人に虐げられたのか、一言も書かない。疫学調査でも、興味があるのは遺伝だけで社会的な部分には関心がない。分裂病については悲観的な印象をもっていたし、精神衛生会の仕事もすぐにやめてしまう・・・このような臺の内村に対する波状攻撃に呼応したのか、もう一人の出席者が「性格が傍観的である」ということを言いはじめ、東大紛争においても内村は傍観しているだけであったという。まさに臺がいる場で、その話を出しますか(笑)

これは、内村の個人的な家庭の問題、優生学とナチスを目の当たりにしたショック、そして日本における劇的な体制変化の問題など、さまざまな要因がからんでくる、複雑な問題だと思う。

「動く知識」としての科学史

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Secord, James A., “Knowledge in Transit”, Isis, 95(2004), 654-672.
2004年に行われた、アメリカ、イギリス、カナダの科学史学会が合同で行った大会でのプレナリースピーチを原稿にしたもの。柔らかいユーモアがちりばめられ、決して力まないで大きなヴィジョンを描こうとする、イギリス風の話し方とシコード先生の個人的な特質とが感じられるプレナリーである。

「移動する」知識というタイトルの通り、科学を、「知識を伝えること」(コミュニケーション)として捉えることを提唱している。科学は、基本的にコミュニケーションであり、講義、手紙、手稿、書物、雑誌、画像などは、すべて知識を移動するマテリアルである。この知識を移動させる歴史上のパターンを取り出す試みは、シコードやケンブリッジの学生たちをはじめ、多くの科学史の研究で主題的に取り上げられており、このレクチャーは多くの研究を挙げている。こういった知識の移動についてのパターンの理解が深まると、科学史の「ビッグ・ピクチャー」に歩みを進めることができるという。この「ビッグ・ピクチャー」というのは、20年ほど前からのイギリス科学史の世界でよく現れる標語で、時代、地域、主題、イデオロギー(新左翼やフェミニズム)などによる断片化のマイナス面が出ていて、それを乗り越えるにはビッグ・ピクチャーが必要だという考えである。シコードは、このビッグ・ピクチャーへの手がかりとしての「移動する知識」の主題を概観したペーパーである。肩の力を抜いて他の多くの学者の仕事を評価する一方で、たとえばブルーノ・ラトゥールとは距離をおいた批判をしているなど、とても役に立つペーパーだと思う。

犯罪者の精神と身体

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アドルフ・レンツ『犯罪生物学原論―受刑者の審査による犯罪者の人格の発達と本性』吉益脩夫訳(東京:岩波書店、1938)

訳者の吉益脩夫は東大・三宅鉱一門下の精神医学者で、優生学や断種に好意的であった少数派の精神医学者である。この著作は、ドイツ語の原著は1927年刊で、犯罪と精神医学などの問題を深く掘り下げてきた吉益の出発点となった著作である。「犯罪生物学」というのは、ややミスリーディングなタイトルで、注意が必要である。ロンブローゾのような遺伝される犯罪性を実体化して考えるような、「生物学」という言葉から思いつくような方法は厳しく批判され、むしろ人格を構造をもった全体性として捉え、この人格の中で犯罪を理解しようとする。また、この人格は常に発達し変化するものとして動的にみられるから、遺伝的な素因だけでなく、後天的な素因も重視される。また、吉益の言葉を借りると、「個性」なるものが前景に現れたことが重要である。犯人はある集団を代表する平均的ななにかとして見られるのではなく、現実的な独自の個体として見られる。そのため重要になるのが、具体的な犯罪者につき、その躍如たる姿を把握する方法、つまり「症例」の方法である。実際、グラーツの刑務所で観察された具体的な症例が、犯罪者の個性を生き生きと伝えている。

ロンブローソは、生来的犯罪者の概念と、犯罪性向は遺伝すると考え、ナチスと親和性が高い優生学者であるかのように評価されている。その評価はもちろん部分的に正しい。しかし戦前の日本ではロンブローソはむしろ天才論者として、別の視点で評価されていたし、彼の考え方は、むしろ犯罪者・天才の個性を際立たせる思想であった。推理小説に登場する個性的で魅力的な犯罪者像に近い。このあたり、まだ調べていないから曖昧なことしか言えないけれども、このレンツの著作も、似た傾向のものであると思う。

厚生省『昭和29年精神衛生実態調査報告』

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厚生省『昭和29年精神衛生実態調査報告』
S34年3月1日に厚生省公衆衛生局長が「序」
精神衛生対策を革新的に進展させるために極めて有意義なものであった。
精神障害者に対する医療および保護の瀬作を推進するのみならず、さらに進んで精神障害者の発生を予防することなどによって国民の精神的健康の保持および向上。 7
専門的な医療を必要とするものは、原則として精神病院において適正な医療と保護を受けさせる方針、このために必要な精神病院の設置、増床、改造などが行われた。しかし一方において、精神衛生に対する関心が深まるにつれて精神病院に入院する者は急速に増加し、病床増加にもかかわらず病床利用率は上昇の一途をたどる状況となった。 さらに施設外にいる精神障害者については、都道府県に精神衛生相談所が設置され精神衛生についての各種の相談に応じ、必要な指導を行い、要すれば専門家に精神障害者の家庭を訪問させて指導を行うような事業、s26年末で、全国の都道府県立精神衛生相談所は33か所であった。
精神障がどの位の頻度で存在または発生するかを調査するに際して、従来用いられたのは、地域的一斉調査と穿刺法と称される方法であった。地域一斉調査は、ある地域内に調査日現在居住している全住民を調査して、その中にいる精神障害者を発見しようとする。穿刺法では。Ruedin によって案出された負荷統計法によって、なるべく偏りのない平均成員に近い構成をもつ集団を調査の発端者として選び、その一定の係累、多くは発端者の同胞の中の精神障害者を調査する。穿刺法では発端者の同胞のうちすでに死亡したものも含まれるため、生まれてから死ぬまでの全生涯の間に精神障害になる者がどのくらいの頻度にいるか (expectancy) などを求めようとするときには、穿刺法による方が適当であり、リューディンの方法が負荷統計法と呼ばれていることからもわかるように、穿刺法は特に精神疾患負因の民族内負荷の程度を推測するためにしばしば注目されている。
最初の報告はCark Brugger がドイツのチューリンゲン地方の116の村について行った調査であり、翌年ババリア地方でも調査をしている。1935年には Erik Stroemgren がデンマークのバルチック海上のボルンホルム島で調査している。アメリカもホプキンズの実験街区で行われた。

満州・モンゴルの比較精神医学

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田村幸雄「満州国に於ける邪病(Hsieh-Ping), 鬼病(Kuei-Ping), 巫医 (Wui), 過陰者(Kuoyinche), 並びに蒙古のビロンチ、ライチャン及びボウに就いて」『精神神経学雑誌』44(1940), 40-54.
内村がアイヌのイムについてまとまった論文を『精神神経学雑誌』に発表したのは1938年で、その論文は、日本帝国の各地における文化精神医学的な研究を刺激した。満州地方における研究が、この田村のものである。これは、もともとは原著論文としての投稿ではなく、雑誌の「紹介欄」に投稿されたものであるが、「編集幹事の慫慂に従って」原著に格上げされた経緯を持つ。たしかに、論文の成り立ちをみると、本格的なリサーチに基づいた仕事とは言えない。著者の田村は、満州医科大学精神病学教室に所属していて、講師のような仕事をしており(詳細は不明)、ある精神病学講義の最後に、満州人・中国人の学生に「満、蒙、支における迷信ならびに特殊なる精神病について」という宿題を課したという。その学生の回答を主たる素材としたのがこの論文であり、実際に著者が行った観察はエピソード的にしか使われていないから、確かに、原著論文というより「紹介」として投稿するにふさわしい。これを原著に一気に格上げしたのは、おそらく内村祐之だろう。

論文は、満州における邪病と巫医を中心に説明したものである。満州においては、動物が長年にわたり日精・月精を受けると「仙」になるという信仰がある。狐や蛇、鼠、鼬などは、「仙」となり、人間に取憑いて人格転換を起こす「邪病」となる。たとえば、狐の仙が取りついて、自分の巣穴を壊したことを責め、食べ物を要求するというような症状を示す。同じように、死霊である「鬼」が憑くのが「鬼病」である。この鬼・死霊は、あの世における生活に必要なものを、取り憑かれたものの口を通して伝える。一方、これらの仙が、人に取憑いて、逆に病人を治す能力を付与する場合もある。それが「巫医」であり、この場合も、人格転換が起きる。巫医は、出馬の儀式をして火の上を素足で歩いたり刀の上を歩いたりして、治療に向かう。治療においては、蛇の神仙は卵を要求し、狐の神仙は酒やタバコを要求するという。(満州の狐が煙草を吸うかどうかはよくわからないけれども、それはまあいい)起きない場合を「過陰者」といい、現実の世界を「陽」とすれば、仙や鬼の世界は「陰」であり、その陰の世界に赴いて病気の原因を調べるからである。

蒙古のビロンチは「イム」によく似た症状で、「オットゲー」「オットコバットゲー」といって発作に移行し、命令自動、反響症状、性的言語などもある。ライチャンは、「ぴょんぴょん跳ねる」と言う意味で、失神状態になり人格の変転が起きて跳ね回りながら自分の身体を突き刺して流れた血を患者に飲ませて治療する。ボウは巫医と似ており、病気の治療以外に占いなどをする。

芥川とプリンツホルンなど

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芥川龍之介『歯車』
芥川の短い生涯の最晩年の作品である『歯車』を読む。精神医学の歴史の研究で昭和戦前期の患者の症例誌をたくさん読むようになって、芥川の後期の作品、特に『歯車』について、ある側面がよく分かるようになったと思う。逆に言うと、芥川の『歯車』を読むと、時として簡潔に省略されている症例誌の記述に肉付けして理解できるというのだろうか。

晩年の芥川の人生は、精神病と精神医学の影と交錯するものだった。彼は、精神病と精神医学を恐れる一方で、それとの出会いを不可避のものだと諦めながら、生活に現れる両者に病理的な凝視を注いでいた。彼に取り憑いた精神医学の思想は、その根源においては、遺伝説であったと考えると整理しやすい。自分の母親が自分を出産した直後から精神病となって治らなかったことを知って、芥川はその思いに捕われて、自分が精神病になるのではないかという不安とともに生きるようになる。彼は『歯車』でも自らを「気違いの息子」と呼び、『点鬼簿』は「僕の母は狂人だった」と始められている。そして、彼の周りには、「狂人の娘」もおり、彼は夢の中でこの人物が、ミイラに近い裸体になって横たわっている姿を見る。あたかも、この世界に生きる者たちは、遺伝する精神病の影であるかのように見えるのである。

一方、彼の心理世界も、精神病の症状の断片が浮かんでは消えていく。表題の「歯車」は、彼が見るようになったある種の幻覚を指しており、<視野のうちに絶えず回っている半透明の歯車、次第に数を殖やし視野をふさいでしまい、しばらくすると消え失せるが頭痛が残る>という現象である。この歯車が現れては消えて、頭痛が残る。また、通りがかりの人物の話声を何気なく聞き、それが妙に意味を持つように感じているうちに、その意味を明らかにするような事件が起きるという、予兆体験が異なる主題のもと、繰り返し起きるようになる。

一番重要なことは、精神医学も、この世界の構図の中に組み込まれていたことである。この部分は、まだうまく表現できないけれども、基本は、ハッキングのループ構造の拡大版のようなことを考えているのだろうと自分で思う。あるいは、それよりもつまらないが、<生活の精神医学化>のような話なのかもしれない。簡単にいうと、精神医学と出会う機会が増えたのである。たとえば、芥川は斎藤茂吉の青山脳病院に行く。そうすると、斎藤茂吉の歌集『赤光』はいうまでもなく、ただの<赤い光>も精神医学・精神病を指し示す記号になって芥川の人生を作るようになる。甥は手紙を書いて斎藤茂吉の『赤光』について語り、銀座のバアにはいると不気味な<赤い光>が彼を照らす。それらは芥川にとって精神医学の記号であった。あるいは、丸善の2階で手当たり次第に厚い本を開いてみると、それは<あるドイツ人が集めた精神病者の画集>であり、そこには歯車が人間のように目鼻を持っている絵が描かれていたというのは、歯車との出会いであり、予兆でもあり、精神医学の記号が日常に現れることでもある。ちなみに、この芥川が手に取った書物は、おそらく、1922年に初版が現れたハンス・プリンツホルンの『精神病者の芸術』であろう。手元に英訳と2008年の資料があったので確認したが、この絵のことだろうと確定できるものは見当たらなかった。私が見た範囲で、芥川の記述に一番近いのは、有名な患者である ヨハン・クノップフの次の作品である。

もう一つ、彼が常に人にも見られていた。銀座を歩いていると、見知らぬ人物がやってきて「芥川先生でしょう」と言われる。バアに入ると人々の視線を背中に感じる。これを<それは実際電波のように僕の身体にこたへるものだった。彼らは確かに僕の名を知り、僕の噂をしているらしかった>、ここで電波という概念を使っているのが面白い。プリンツホルン・コレクションにも、電波が実体的に描かれているものがあるので、添えておいた。

昭和18年にフィリピンの精神病の紹介

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山下實六「比島の精神病に関する一報告」『精神神経学雑誌』47(1943), 336-340.

内村のアイヌ論文とともに、日本の精神医学が「帝国精神医学」と、それにともなう比較民族精神医学を志向する時代が始まったことを示す論文。山下實六は九大の下田門下の精神医で、マニラの陸軍病院に軍医として滞在しており、インパール作戦で失敗し上司の命令に背いた佐藤幸徳中将の精神鑑定を行ったことで日本史研究に現れている。この精神鑑定についても若干の記録があるらしいので、読んでみよう。

この「紹介」は、いずれも自身の仕事・研究というよりマニラにおけるこれまでの研究の成果を紹介したもので、英語での報告となっている。一つはマニラの精神病院の入院患者統計、もう一つは マリ・マリ(Mali-mali)なる疾患 についての報告の症例である。前線においては、これを翻訳する時間もなかったと解釈するべきなのだろうか。

南方熱帯圏の精神病―大阪帝大の比較民族精神医学

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堀見太郎・江川昌一・杉原方「南方熱帯圏に於ける精神病」『大阪医事新誌』13(1942), no.9, 914-919.
これは、大阪帝国大学の系列の比較民族精神医学の試みである。まだ詳しいことは調べていないが、この論文は、堀見太郎が後に阪大精神科の教授となるが、現地調査はまだ若い医学士の杉原方が現地に赴いて行ったものである。しかし、実際の論文と言うより、主として先行研究のまとめという性格が強い。なお、江川・杉原はこの論文のあとで「インドネシアの精神病アモックについて」という論文を同じ『大阪医事新誌』に発表しているから、二人は杉原自身はしばらく南方熱帯圏に滞在したのかもしれない。ちなみに、この論文は、しばらく前にこのブログで取り上げた。


クレペリン―内村の系譜をそのまま引いた枠組みである。人種的な身体と精神に差による精神病の差を考え、一面は文化の発達程度、風俗、習慣、迷信、嗜好物との関係、そして気候風土との関係があるとする。いくつかの問題を論じており、まず取り上げているのは、クレペリンが問題にし、内村がアイヌ論文で詳細に論じた梅毒による麻痺性痴呆があるかどうかという問題である。ジャワには麻痺性痴呆がない・少ないという事態が取り上げられて、文化の低い住民に麻痺性痴呆が少ないことに触れられる。同じく、躁うつ病、特にうつ病の割合も、原始民族にうつ病が少ないという原則通りに、割合が低い。心因性は、アモック、ラター、マリマリなどが触れられている。von Brero という医者が重要らしい。精神病質のなかで、最近のゲイ・スタディーズでエスニックな同性愛・中間的な性の主題として有名なWandu は、すでにこの論文で言及されている。移住民の精神病についても、特に熱帯神経症が注目され、中脩三の台湾における研究が言及されている。

1850年代ドイツにおける痘瘡を通じた梅毒の罹患について

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Benedek, Thomas G., “Vaccination-Induced Syphilis and the Huebner Malpractice Litigation”, Perspectives in Biology and Medicine, 55(2012), no.1, 92-113.
1853-54年にかけてバヴァリアの法廷で争われた「ヒューブナー医師の事件」を分析した論文である。ヒューブナー医師が種痘を行ったときに、人から人の方法を使い、その時の発端にした赤ちゃんが梅毒に罹患していたため、結果として10名近くの人物に梅毒を感染させてしまった。細菌学革命以前の事件であり、梅毒の感染の理論がまだ確定されていなかったため、裁判では色々な問題が出てきたが、ヒューブナーは有罪判決が出て、2年間の服役を中心とする判決が出た。この事例は当時の医師たちの間で国際的に有名になり、より安全な種痘の作成に貢献した。以下にこの重要な事件のタイムラインを記した。(原文からOCRしたもの)



Table 1 TIMELINE OF THE HUEBNER CASE

1850
late 1850 Lesions “suspicious of syphilis” develop on the mother of the lymph donor; she receives 3–4 weeks of anti-luetic treatment

1851
March Mother of lymph donor is declared cured
1852
March 6 Lymph donor is born
late March Donor is recognized by mother to be ill
June 5 Donor is vaccinated by Dr. H?bner
June 16 13 infants are vaccinated with donor’s lymph
Aug. 26 Donor dies
Aug.–Sept. Chancres develop on arm or breast of four mothers
1853
Feb. 10–17 H?bner again sees, treats sick infants
Feb. 21 First report by an independent medical examiner
Feb. 26 Mother of a sick vaccine recipient delivers a syphilitic baby
April H?bner is accused of having caused multiple cases of syphilis
Dec. 3–4 Trial in Bamberg City Court; first sentencing
1854
Jan. 10 More severe sentencing, followed by appeal and remand to another session of the Bamberg City Court
May 17–19 Testimony in second appeal
May 24 Final adjudication

松沢病院における患者が書いた「日誌」

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阿部良男「本邦人に於ける混合精神病の研究―混合精神病の臨床像」『神経性神学雑誌』48(1944), 135-171;阿部良男「本邦人に於ける混合精神病の研究―混合精神病の構成、特にその遺伝病理学に就いて」『神経性神学雑誌』48(1944), 172-205.
阿部良男は内村祐之門下の学生で、八丈島の精神疾患調査にも参加している。この論文は、松沢病院に入院している患者の中から、分裂病と躁鬱病のクレペリンに二大内因性精神病が混合しているような患者を40名ほど選び、彼らの病像の年単位での変移のパターンをつかみ、彼らを発端者としてその病気の遺伝関係を調べたものである。クレッチマーの体質論と優生学がもてはやされていた時期の精神病の遺伝と家系図の理論がよく分かる。

患者自身による言説について。P.141 & 145. 患者が松沢病院の用紙に書いたある時期の日誌が引用されている。これは、私自身がしばらく前から考えている、収容型施設に入れられた患者が、沈黙させられたり、封殺されたりするというよりむしろ、ものを積極的に書くようになるのはどういう意味があるかということを考えるためのメモ。

北一輝『霊告日記』

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北一輝『霊告日記』松本健一編(東京:第三文明社、1987)
精神医学の歴史を研究しているとか偉そうなことを言いながら、北一輝『霊告日記』という超重要な資料の存在を知らなかったのは世界中で私だけだろう。自分の無知を心から恥じる。これは、北一輝が昭和4年4月から昭和11年2月末まで書き残していた、自分と妻すず子が体感した日々の霊感的予言や、見た夢の記録である。法華経を読経して「神がかり状態」になって書き記した部分と、自分や妻がどのような夢を見たかという記述がある。後者の実例をいくつか挙げると、「某妻女とうとう癩病になって顔倍大となり、汁だらだら流れ居る夢」(妻の夢S10.05.04) 「治療のために声が出ずなって、父さん電話もかけられず、人にも会えぬようになった。おいおい泣き居る夢」(妻 S9.9.19) などである。政治史のうえで重要な人物がつけていた夢日記であるから、歴史学者たちが、夢や霊告の背後にある現実の世界との対応などを特定しようと夢中になるのは、もちろん正当な読み方の一つであるが、それと同時に、重要なことを、夢と霊告の形で経験し、記録し、一部の人に見せていたということ自体が、夢や超常知覚を用いたコミュニケーションという視点において重要である。この資料は、精神病の症例誌の分析をサイドから支える資料として、本気で読もう。

楠本正康『こやしと便所の生活史』

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楠本正康『こやしと便所の生活史―自然とのかかわりで生きてきた日本民族』(東京:土牝出版、1981)
著者は新潟医科大学を卒業し、厚生省の衛生関係の仕事をしてきた衛生技官である。中世以来、人糞やし尿は農業用の肥料として用いられてきた一方で、明治以降はし尿処理がコレラや赤痢・腸チフスなどの感染症の原因として、細菌学的に適切な処理が叫ばれるようになる。経済的な価値と衛生的なハザードの側面を持つし尿処理は、社会における農業と衛生という二つの領域が競合する典型的な「ネゴシエーションの空間」であり、し尿は異なった意味を付与されて流通する「多面的な流通体」であった。そのあたりを、肥料の側面とハザードの側面の双方を押さえながら論じている優れた本だと思う。もともとプロの歴史学者の仕事ではないから、不満はもちろんあるけれども、使っているエピソードもとてもクオータブルである。たとえば、江戸の人糞尿取扱業者の間では、し尿をそれが採取された場所に応じて5段階に区別して値段を区別していたこと、一番高いのは大名屋敷勤番者のもので、以下、市中公衆便所、ふつうの町屋、尿が多いもの、そして囚獄・留置場のものであったという。同じように、明治20年に東京農林学校のケンネル博士が人糞尿について検査したところ、軍人のし尿がいちばん高質で、窒素、リン酸などの含有量が高く、ついで中等官吏、東京市民、農家となる。

戦国時代の日本最古の農業技術書といわれる『清良記』によれば、「農家に入ってみて、牛馬の厩がきれいに清掃され、雪隠もきれいでたくさん糞尿を貯えてあるうえ、敷地内の菜園が見事に作られて青々としげっており、外の田畑が格別素晴らしいような場合は立派な百姓である。これに反し、家の垣根や壁がくずれ、菜園が方々に散らばり、厩には垣も壁もなく、あちこちに厩肥や糞をばらまいておくようなものは、どこかの奉公人にように見え、百姓とは言えない」とあるという。江戸時代も似たような形で、便所をきちんと保つことは農民の教化に使われていたという。「家の格はトイレをみると分かる」というようなセリフがどうせ現在でも言われていると思うけれども、これは戦国時代に端を発することなのか。ううむ。

石川知福『随想』

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石川知福『随想』(東京:労働科学研究会、1951)
石川知福(いしかわ・ともよし)は、暉峻義等らと並ぶ、日本の労働科学・産業衛生学の開拓者の一人である。愛媛県で生まれ、松山中学校・鹿児島の第七高等学校を経て東大医学部の生理学を学ぶ。勤務は倉敷労働科学研究所、公衆衛生院、厚生科学研究所、戦後の東大医学部など。留学はハーヴァードの公衆衛生学校。労働の科学と労働者の健康研究にはじまり、戦時下の国民体力増進の政策に関わった。
この『随想』は、石川自身が若いころにつけていたノートから抜粋し、家人に託してまとめたものである。労働科学、国民厚生、戦争と終戦という、さまざまな意味で新しい課題に直面しながら生きてきた一人の学者の素直な思いがつづられている優れた書物である。労働科学・産業衛生学が科学性を追求すると同時に、それが労働者のためになるものであることを両立させなければならないという信念は、倉敷時代から戦中を経て戦後まで貫かれている。

「終戦後に人々の戦争回顧の言葉を聞いていると、大部分の人が戦争犯罪人たることをさけるがための弁解の言葉である。日本が大戦に負けるであろうと予言したとか考えていたとか、協力しなかったとかなどということを聞くのは自分には厭である。(中略)大戦中になしてきた自分の行動をかくしたり弁解したりなどしないで、ありのままの行跡を正直に批判を受ける態度であることが科学者としての正しい態度であると自分は信じている」

この言葉は誰かのことを指した言葉だろうか。

中世大学の医学教育

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Siraisi, Nancy G., Medieval and Early Renaissance Medicine: An Introduction to Knowledge and Practice (Chicago: The University of Chicago Press, 1990), “Medical Education”
医学教育の歴史についてまとめる必要があって、中世医学の歴史についての素晴らしい教科書の第3章 “Medical Education” を読みなおす。細部の複雑性を押さえたうえで、大筋の議論を明瞭に示している、非常に分かりやすい記述である。

中世における医学教育の最大のイノヴェーションは、大学医学の始まりであった。医学エリートが規範的な医学を学ぶ場としては、修道院などもあったが、中心は大学であった。大学は、12世紀からのフランス、イングランド、イタリアにおける設立と、14世紀からのドイツ圏の設立と、二つに分けられるが、いずれの場合でも、ほとんどの大学が医学部を含んでいた。これらの大学は、カリキュラムはそれほど変わっていなかったが、名声・規模・機能が大きく異なっていた。パリ、モンペリエ、ボローニャ、後にフェラーラ、そして15世紀にはパドヴァの医学校は、教師も学生も多い国際的な大学であったのに対し、たとえばオクスフォードは、神学においては傑出していたが、その医学校は、オクスフォードという地方都市に影響を与えた程度であり、イングランドやロンドンに影響を与えるものではなかった。ドイツに大学が設立されたときに、北イタリアのメジャーな医学校は、学生をドイツに取られるというより、むしろドイツから学生が学びに来るというメリットがあり、15世紀のパドヴァでは学生の30-40%はドイツ圏からであった。

大学では、自由学芸と自然哲学・論理学を予備的に習い、古代ギリシア・ローマの医学と中世イスラムの医学という、学問性が高い医学が教えられた。医学というのは、むろん実践における<わざ>であり、大学における医学教育は、実践の経験を積むことを要求していたが、これらは大学のカリキュラムの内部で教えられるべきコアな部分ではなかった。コアな部分は、ヒポクラテスやガレノスやアヴィセンナなどの著名な医学者の古典テキストの精密な読解であった。

16世紀パドヴァの臨床教育

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Bylebyl, Jerome, “The School of Padua: Humanistic Medicine in the Sixteenth Century”, in Charles Webster ed., Health, Medicine, and Mortality in the Sixteenth Century (Cambrdige: Cambridge University Press, 1979), 335-370.
16世紀のパドヴァ大学は、ギリシア医学のテキストの復興に端を発する人文主義によって、古典医学の素晴らしさに帰ると同時に中世的な医学から離脱する革新的な改革が行われていた。その復古と革新を象徴する事蹟として、1530年代から40年代という比較的短い期間に起きた3つをあげることができる。『人体構造論』(1543) で有名なヴェサリウスを任命し、解剖学を年に一度の季節労働的なイヴェントから常設の科目としたこと、大学医学部の植物園を開設したこと(現在は「オルト・ボタニコ」として世界遺産になっている)、そして大学における内科医教育に病院での実習を組み込んだことである。特に今回は病院での実習の部分を読んだ。

病院を医学教育に使うことは、中世のイスラム世界と東ローマ帝国のエリート医師の養成で見られた現象であるが、中世の西欧では状況が異なっていた。内科の教育は知的な教育機関としての大学という仕組み、外科の教育は職人の訓練の徒弟修業とギルドによる認定という仕組みで行われており、病院は教会や慈善の場であった。自然哲学に基づく学問としての医学、実地で行われる技としての医学、貧者に与えられる慈善としての病院という社会的な装置の三者が、医学教育の中でまったく一致していなかった。

人文主義がもたらした古代のテキストへの尊敬は、テキストがあらわす事物への高まった関心を生んだ。ガレノスのテキストが言う臓器とは、具体的な人体においては何処の何にあたるのか、テオフラストスが言う植物は、どこに生えているどの植物なのか、そして、古代のテキストが記述する病気は、病人に現れるとしたら、どのような形をとるのか。彼らが復興しなければならないのは、古代医学のテキストだけではなく、テキストを通じた修得される医術であった。だからこそ、医学における人文主義は現実の事物への関心を高めたのである。

ジャンバティスタ・ダ・モンテは、「もしピタゴラス派が言うように魂の転生が起きるとしたら、彼にはガレノスの魂が宿っている」とまで言われた、人文主義者の医師であった。ダ・モンテが行った重要なことは、講義と臨床教育を組み合わせ、それを魅力がある教育の形式として確立させたことであった。彼は、パドヴァの病院であった聖フランシス病院の医師職を引き受け、その病院に自分の大学での学生を連れていくという臨床教育を行った。中世の大学の内科医教育がいくら知的な自然哲学を重んじていたとはいえ、医学が実地の技であることは当たり前だから、課目外の扱いで、著名な医師の実地に伴って教えてもらう実地研修は、中世の医学において行われていた。ダ・モンテが行ったことは、中世の医学教育で行われていたことを一歩延長したこと、そしてそれを非常に成功させ名声を高めたことである。このシステムは、ヨーロッパの他の大学でパドヴァ帰りの医者によってコピーされるような成功例となった。

何度も読んだ論文だけれども、今回も心に響くものがあった。ううむ。

画像は、ヴェサリウスとオルト・ボタニコ。

ライデンの臨床講義

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Lindeboom, G.A., Herman Boerhaave: The Man and His Work, 2nd edition (Rotterdam: Erasmus Publishing, 2007).
1530年代から40年代にかけてのパドヴァ大学は、医学教育・医学研究が革新的な変化を遂げて、パドヴァの卒業生によってヨーロッパの他の大学にもたらされた。この革新は、解剖学の常設化、植物園の建設、病院を用いた臨床講義という三つの特徴を持ち、単に新しい知識が得られたというより、知識が求められ伝達される新しい構造が作られたというべきである。知的には人文主義の強い影響のもと、実務的にはヴェネツィアの強力な支配のもとにこれらの医学教育の構造が作られた。

ライデンにも、このパドヴァの波が押し寄せた。解剖学の常設化、植物園の建設は比較的スムーズに進んだが、臨床講義は成功するまで時間がかかった。そのはじまりは、1567-71年にパドヴァ大学で学んで学位を取り、1581年に教授となった(?) van Heurinus が、1591年に臨床講義の実施を提案した。この提案は、基本的に無視され、臨床講義が実現したのは、1636年に、ユトレヒト大学が新設されてライデン大に脅威を与えたときであった。元修道院であった聖カエキリア病院と契約を結び、二つの病棟を大学の臨床講義用に用いることができるようになった。男性棟と女性棟、それぞれ6人ずつというから、ささやかなものである。

この臨床講義は17世紀に継続され、熱心に行った教授もいたが、そうでなかった教授もいた。しかし、1714年に臨床講義を始めたヘルマン・ブールハーヴェは、圧倒的な人気を博した。週に二回、水曜日と土曜日に行われる臨床講義は、数多くの学生が群れつどうものだった。(正確な数がほしいところだけれども・・・)18世紀のヨーロッパの偉大な医学校の教授たちは、ハラー、ファン・スウィーテン、リンネ、モンローなど、数多くがブールハーヴェの臨床講義に出席した。彼らは、ブールハーヴェが患者を指し示しながら行う説明を聞き、それを記録し、のちにその臨床講義は出版された。

この臨床講義はその場で学生によって筆記され、その手稿も残っているし、van Swieten による速記ノートは読み解かれて出版された(私は読んでいないけれども)。Boerhaave’s Medical Correspondence (1745) には、1737年9月の患者についての2か月ほどの臨床講義が採録されている。「紳士諸君、この66歳の患者をご覧ください」で始まる臨床講義である。とても面白い資料であるし、これはネット上で見ることができる。面白い点を一つだけ。患者はもちろん貧しい患者であり、慈善病院の患者であるから、ブールハーヴェや彼の学生が目指していた私的診療とは異なる予算で行わなければならない。私的患者を念頭におきながら、貧困患者むけの治療も教えるのである。(あるいはその逆)だから、「食餌は、本来ならビスケットと新鮮な肉を味付けしてローストしたものだが、この患者であれば実がある穀物でいい。もし豊かな患者ならギリシアのワインにマルメロのマーマレードだが、この患者にはブランシュヴィク・マムというビールがよい」と言う形で教えられる。この二重性は、臨床講義について、非常に面白いヒントになるだろう。

北米の医学史

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Bliss, Michael, The Making of Modern Medicine: Turning Points in the Treatment of Disease (Chicago: University of Chicago Press, 2011).

19世紀末から20世紀前半にかけて、アメリカ合衆国とカナダの医学研究が急速に進展する。北米地域は、それまで医学研究においてはっきりと後進的だったが、世紀転換期に始まった改革の中で、ドイツを除いたヨーロッパ諸国と互角の業績を上げることができるようになった。そのありさまを、医師のオスラー、脳外科のクッシング、そしてトロント大学のインスリンの発見の三つのエピソードを通じて語るという仕掛けの本である。

冒頭は1880年代のトロントにおける天然痘の悲惨な流行で始め、末尾に1920年代のインシュリンの発見の勝利で締めくくっている。思想としても方法論としても、非常に古色蒼然とした医学史であるが、オスラー、クッシング、インスリンについて中程度の詳しさの記述が必要なときには、便利な本である。私は読んでないが、この著者の『インスリンの発見』は優れた著作らしいので、借りて読んでみることにした。

「精神を切る手 術:脳に分け入る科学の歴史」出版記念勉強会

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2012年10月19日(金)16:00~18:30 五反田ゆうぽう と
「精神を切る手 術:脳に分け入る科学の歴史」出版記念勉強会
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■趣旨:
脳 科学をめぐる倫理的問題の議論の中でも、精神医学領域における外科的治療法の研究については様々な論争があります。人の精神の活動がどの ように実現するか知るために、脳に分け入ることはどこまで許されるのか?この問題について、精神外科の歴史を掘り下げ、脳の研究と臨床の あり方を問う研究として『精神を切る手術 脳に分け入る科学の歴史』(岩波書店、2012年5月)がまとめられました。
著 者のぬで島次郎氏、精神科医としてこの課題に関心を持つ黒木俊秀氏に発表いただき、議論したいと思います。

■講演:
ぬで島次郎氏(東 京財団、生命倫理政策研究会)
「精神外科の歴史 からみたDBS(Deep Brain Stimulation): その精神疾患への応用の是非を考える」
黒木俊秀氏(国立 病院機構肥前精神医療センター)
「Neurosurgery for Psychiatric Disorders(NPD):難治性精神疾患に対する治療の試み-悲観論が先か?楽観 論が先か?」

■開催場所:
ゆうぽうと 5階 研修室「かたくり」(JR五反田駅より約5 分)
http://www.u-port.jp/access.html
品 川区西五反田8-4-13 03-3494-8507

■参加費:2000円  懇親会(勉強会終了後):5000円
参加申込み(事前 申し込み必須)
(1)お名前  (2)ご所属またはお仕事等
(3)連絡先e-mailアドレス (4) 懇親会の参加・不参加
を明記の上、chieko.kurihara@nifty.comまでお申込みください。

■主催:生命倫理政策研究会
http://homepage3.nifty.com/kinmokusei04/
第110回くすりネット・くすり勉強会
http://www.mi-net.org/kusuri-net/meeting/history1.html

ヘルプページ: http://help.yahoo.co.jp/help/jp/groups/
グループページ: http://groups.yahoo.co.jp/group/history-of-medicine/
グループ管理者: mailto:history-of-medicine-owner@yahoogroups.jp

梅毒と強制採血検査の結果(1942年)

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住吉義級(すみよし・よしみつ)「妊産婦梅毒の罹病自覚程度」『臨床の皮膚泌尿とその境域』7の4, (1942), 238.

近代国家においては病気の強制的な検査という仕組みがあった。本人は病気だと思っておらず、医療を求めてもいないのに、調査や検査などを通じて、ある病気に罹っていることが発見されるという仕組みである。 

著者は福岡県立桜町病院の医師。最近、当地の妊産婦全部に施行された強制的採血検査の結果、血清反応陽性を呈したものに通告を発して治療を強制した。そのときに当院に来診した69名につき、自己の罹病を認識していたかどうか、自覚したものは受療していたかを調べた。69名のうち、罹病を認識していたものは16名、残余の53名は全く自覚せず、甚だしきは、血清反応の成績に疑惑を持ち、抗議的申し出をしたものすらいた。

このパターンは別の検査においても同じであった。慶應大学の婦人科外来で、100名の血清反応陽性のものに検査をし、自覚していたもの13名、夫が罹患しているのを知っていたもの13名、夫が罹患しているから自分も罹患していると疑っていたもの3,4名、残りの53名は全然否定した。この調査についても、認識していなかったどころか、強く否定しており、再度の血液検査でようやく納得した。自覚していたものも、不完全治療で、その一部は治療を全く受けていない。
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