Quantcast
Channel: 身体・病気・医療の社会史の研究者による研究日誌
Viewing all 455 articles
Browse latest View live

1942年の病名告知論

$
0
0
本多秀貫「診療談叢―深く注意し考えよ」『治療医学』no.512 (1942), 3.
肺結核の病名告知についての意見。短い文章だが、いくつか重要なヒントがある。一つは、結核を「国民病」として性格付けて国家の問題にしたうえで、医師―患者関係が、個人的な契約から、国家の資源としての国民に対するサービスに再転換されるべきだという状況があること。病気の本体を知って治療することが国民の義務になっていること。そうすると結核の半数以上は治ること。その中での「病名告知」の議論であること。

肺結核がなぜ治りにくいのか、その原因は、肺結核患者が自分の病気は養生次第ではたしかに治る病気であるということを十分に信じていないところにある。肺病は不治の病気であると言われてきた、それが患者としてはまだはっきり解決していない。肺結核患者の心理状態は、自己の病気が肺結核であろうという疑いを起こしている半面に、正確なる診断を与えられることを非常に恐れている。たいしたことない、気管が少し悪いという診断でカムフラージュされていることを喜ぶという矛盾した心理状態である。だから、真実を告げなければならない。肺尖カタル、肺浸潤のごとき病名もよくない。初めから肺結核という立派な病名をつけるべき。カムフラージュして患者の一時的歓心を買っておくことが、治療上の大失敗を招来する原因である。あいまいな病名をつけることは、猜疑心のために神経衰弱の興奮状態を起こさしめ、ますます病気がすすみ治療がうまくいかない。気休めをいう医師を全医師界から追放せよといったこともある。国家は、国家社会の各部門にわたっていわゆる新体制を求めているから、肺結核は少しも恐れる必要がないことを患者にもわかってもらうと、結核患者の半数以上の絶滅的解決を期待できる。

著者については名古屋医科大学で博士号を昭和9年にとっているほかは詳細は不明。

メスカリンと応声虫

$
0
0
日本精神神経学会『三宅鉱一博士還暦記念論文集』(東京:日本精神神経学会、1938)
日本の精神医学の歴史研究において、呉秀三とその問題意識に注意が向きすぎていると私は感じている。呉はもちろんクレペリンの精神医学を日本に導入し、日本の精神病院が発展する制度の設立にかかわったという、近代の精神医学の歴史上最も重要な役割を果たした東大教授であることは疑いない。また、日本の精神医学史研究において圧倒的な実力と資料を持つ岡田靖男先生が、呉秀三の熱烈な崇拝者のせいで、日本の精神医学の歴史は呉秀三が関心を持った問題を中心に回ってきた。もちろん、それはそれでいい。この系譜の中から、橋本明の仕事のような、呉―岡田の考えと対決する研究も現れており、呉の問題系の研究は続けられるべきである。

しかし、呉がそれほど関心を見せず、大きな役割を果たさなかった問題群の研究が遅れている。具体的にいくつか出すと、中産階級の精神病・神経症の問題、彼らが用いた私立病院の利用法、精神分析の問題など、大きな問題についての私たちの知識が進んでいない。同じように、呉以外の東大教授たちの研究も進んでいない。呉の次に東大教授となった三宅鉱一は、重要なプレイヤーの一人である。

この論文集は、三宅鉱一の東大精神科の退官と還暦を祝って40点以上の短い論文を集めたものである。病理解剖を中心にしているのは、この時期の日本の精神医学者たちの身体的な志向をあらわすが、一方で、教育・治療・社会、統計、神経質などの多様な問題も含まれている。特に面白い論文が二つ。一つが北大の石橋俊實が書いたメスカリンの実験で、二名の医学生にメスカリンを注射して、その酩酊実験をしている。メスカリンは、オルダス・ハクスリーやアンリ・ミショーなどの知識人・芸術家によって用いられて、モダニズムと精神変容を象徴する薬物になったが、この実験については私はこれまで知らなかった。日本における他の実験も存在したとのこと。

もう一つが、前から読みたかった栗原清一という医者の文章があった。栗原清一は昭和7年に出版された『日本古文献の精神病学的考察』という書物の著者で、旧い文献に現れる怪異譚などを紹介した面白い文章をたくさん書いた。ここに採用された文章も、好古家の面目躍如というべきであった。「応声虫」についての中国の故事を紹介しており、喉の中に虫が住み、自分が言う言葉に応えて声が出るという奇病にかかった人物がおり、当時の名医がこれを診て、治療法を考えた挙句に、本草経を持して患者に読ませたところ、患者が読んだ声に応じて喉の中の虫もこれを読んでいく。しかし、貝母の条にきたところ、応える声が止んだ。これこそこの虫の弱点であると知り、貝母を与えたところ、病気が治ったという逸話である。

スペインの世界的種痘戦略1803-13

$
0
0

イメージ 1

Mark, Catherine and Jos? G. Rigau-P?rez, “The World First Immunization Campaign; The Spanish Smallpox Vaccine Expedition, 1803-1813”, Bulletin of the History of Medicine, 83(2009), 63-94.
19世紀初頭にスペインが行った、中南米、フィリピン、中国にわたる種痘の世界戦略を解説した論文。この大がかりな事蹟は、ナポレオン戦争に巻き込まれて没落していく大国スペインの事蹟として直感的にピンとこないうえに、これまで英語の詳しい文献が手に入りにくかったので、医学史の主要ジャーナルに掲載されたこの論文は、天然痘根絶についての人々の意識をかなり変えるだろう。実際、私も、この論文を最初に読んだときにはこの事蹟を知らなかった。

スペインはとりわけ人痘に熱心な国ではなかったし、中南米の植民地にも人痘が広まっていたわけではないが、1798年のジェンナーの論文の発表は、他のヨーロッパ諸国と同じように、スペインの態度をがらりと変えた。翌年には翻訳、1800年には種痘の導入が行われ、1803年にはこの技術を世界の植民地に適用するために、中南米を中心に世界に輸出する方法が論じられ、実現される。この論文は、この一大キャンペーンの全体像を解説したものであり、長いこと重宝されるだろう。

最初に問題になったのは、ワクチンを生きたまま大西洋を横断するであった。絹糸に浸して乾燥して保存する方法、ガラスの間に挟んで保存する方法などもあったが、結局実行されたのは、生身の人間に植え継ぎながら保存する方法であった。歴史上の「人体実験」の時は犯罪者か死刑囚が選ばれることが多いが、彼らは天然痘にかかってしまっているので役に立たないから、選ばれたのは孤児であった。さまざまなキャンペインを合計して合計62人の孤児の間で植え継ぎをしながらワクチンを長距離移動する仕掛けであった。彼らの取り扱いは良かったが、それでも4人(6%)が死亡している。

巣像は、あまり良い画質ではないが、この世界的種痘の地図。

『プラシーボの治癒力―心がつくる体内万能薬』

$
0
0
Brody, Howard, ハワード・ブローディ『プラシーボの治癒力―心がつくる体内万能薬』(東京:日本教文社、2004)
プラシーボについて入門的な考えを知る必要があって、目についた書物を読んだ。とてもよい本だったと思う。

20世紀の科学的な医学の上昇は、かえって暗示などに基づいた「プラシーボ」についての議論を盛んにした。20世紀後半から二重盲検の臨床試験が定着すると、プラシーボはむしろその本来の尖鋭な意味を逆に目立つ存在となり、「作用がない」「作用が非特異的である」という言葉で片付けてすむ現象ではなくなった。ブロディが言うには、プラシーボ反応は、「治療の場で、人がなんらかの出来事や物に付与したシンボルとしての意味が原因となって、からだ(あるいは一体としての心とからだ)に送る変化」であり、プラシーボとは、医学研究の場では偽薬であり、治療の場では、シンボル的な意味の力だけでからだに作用することができるとの確信のもとに、患者に与えられる薬品や処置のことである、という。そして、これは、もちろん倫理にもとることがない、嘘偽りのないコミュニケーションを築く道が開けてくる。特定の方法で患者とコミュニケーションをとることが治療の助けになるなら、治療者がそのことを率直に患者に言っていけないわけはない。

とても説得力がある面白い議論である。いわゆる人類学者がバイオメディシンと呼ぶものの過剰な支配から距離をとり、治療の場においてプラシーボを利用できる倫理的な空間を切り出そうとしている。日本の医師がこれに従うかどうか知らないが、こういう知的操作を通じて、アメリカ型の医師―患者関係が、その倫理的な正当化とともに、世界の各地に輸出されるのだろうな。

芥川の子供の病気

$
0
0
芥川龍之介「子供の病気」『芥川龍之介全集 第10巻』(東京:岩波書店、1996)107-116.
1923年に初出、次男多加志(当時2つ)が下痢の病気で入院したときの様子を記している。
冒頭は次男の洗腸と粘液を中心に物語が展開する。次男の調子が悪く、Sさんという医者に往診してもらう。Sさんは洗腸をして、淡黒い粘液をさらいだす。芥川は「病をみたように感じた」という。Sさんは、「ただ氷を絶やさずに十分頭を冷やして、ああ、それからあまりおあやしにならんように」という。母親は氷をかく仕事を夜中にした。翌朝には、熱は9度より少し高く、洗腸を繰り返した。芥川は今日は粘液が少ないようにと念じていた。しかし、「便器を抜いてみると」、ゆうべよりもずっと多かった。妻は「あんなにあります」と声を上げた。その声は女子高生のようにはしたないものだった。芥川はSさんに「疫痢ではないですか」と聞くと、Sさんは「いや、そうではない、乳離れをしない内には―」と答える。翌日の洗腸で粘液はずっと減った。母は手柄顔でいい、芥川は安心した。Sさんは明日は熱が下がる、といった。しかし、翌朝、芥川が目を覚ましたときには、もう入院させなければならないことになっていた。妻が抱き起したところ、頭を仰向けに垂らしたまま白いものを吐いた。芥川はいじらしくなり、また不気味な心持になった。Sは芥川と二人だけになり、生命に危険はないが、2,3日断食させねばならず、それには入院のほうが便利であろうといった。芥川は同意して、SはU病院に電話して入院させた。U病院で乳を吐いたが、脳には来ていないということだった。芥川がその夜病院を訪問したときには、妻がいて、妻の母もきていて、お乳を飲みたがったがあげられないから、ゴム乳首を吸ったり、妻の舌を吸ったり、母の乳首を吸ったりしたという。妻の母親は「お祖師様」に願をかけたらしく、そのことを妻にからかわれたりしていた。

戦間期精神病院におけるホルモン治療(イギリス)

$
0
0
Evans, Bonnie and Edgar Jones, “Organ Extracts and the Development of Psychiatry: Hormonal Treatments at the Maudsley Hospital 1923-1938”, Journal of the History of the Behavioral Sciences, 48(3), 251-276 Summer 2012.
20世紀の前半にはホルモン剤を精神病に用いることが盛んに行われた。最も有名なのがインスリンショック療法であるが、他のホルモンも多く用いられた。この論文がもとにしている戦間期のロンドンの先進的な病院のモーズリー病院の症例のデータベースだと、全患者(外来と入院)の5-10%に内臓から析出したホルモンが与えられた。ホルモン療法を受けたのは女性が多く、7割程度が女性である。与えられたホルモンでいうと、最も多かったのは甲状腺で、対象はほとんど女性であった。ホルモンと神経化学はいずれも生理学で最先端の研究であったし、モーズリーで人気があった精神分析も、性の問題を神経症の中心においていた。ホルモン療法は精神分析と組み合わせてモーズリーで人気があった治療法の一つであった。若い女性、更年期の女性、男性などに、精神分析の理論と内分泌学の理論を組み合わせた治療が行われた。

性の問題を枠組みにした治療が、精神分析、神経、ホルモンと異なった枠組みで存在したこと。それらは、この時期においては、組み合わされて用いられていたこと。

私が見ている精神病院でも、ホルモン剤が多く与えられている女性患者がいた。彼女は月経の不順があったので、そちらに向けての治療かと思ったが、そうか、それは切り離された問題ではなかったのかもしれない。

バイナム『医学の歴史』

$
0
0
Bynum, William, The History of Medicine: A Very Short Introduction (Oxford: University of Oxford Press, 2008)
ウェルカム医学史研究所の黄金時代に所長を務めていたビル・バイナムが語る西洋医学の短い通史である。ヒポクラテスから現代まで扱っているが、バイナムが専門にしている19世紀が話の半分を占めている。

バイナムの医学史は、医学の5つの類型の重層的な発展という図式を基礎においている。その類型は、1. ベッドサイドの医学、2. ライブラリーの医学、3. 病院の医学、4. 共同体の医学、5. 実験室の医学、というように分け、それらの登場と相互作用を通じて、長い歴史をみようという図式である。もちろん、バイナムの師であるアッカークネヒトによる3つの類型の図式(ベッドサイド、病院、実験室)を発展させたものである。バイナムの図式は、アッカークネヒトよりも類型が2つ増えて、きめ細かく説明できる内容が増したことになる。「ライブラリーの医学」は、中世からルネッサンスにかけての古代テキストの編集などが医学の中心であった時代を念頭においているが、高度な情報システムの構築という近現代にまでつなげることができるし、「共同体の医学」は、公衆衛生から優生学、医療政策まで、その議論なしには成り立たなくなった20世紀以降の問題を扱う、「人口の医学」と呼んでいるものに発展していく。確かに、重要な類型化であると思う。

フィレンツェの病院の規則の翻刻

$
0
0
Park, Katharine and John Henderson, “’The First Hospital among Christians’: The Ospedale di Santa Maria Nuova in Early Sixteenth Century Florence”, Medical History, 1991, 35: 164-188.
イタリアの病院はヨーロッパでも著名であって、宗教改革のルターでさえ、ローマに旅行した時にはイタリアの病院を称賛し、その建築、食事と飲み物、看護人、医者、清潔さを高く評価している。そのため、イタリアの病院がヨーロッパ各地にコピーされることになり、イギリスのヘンリー7世はロンドンに病院を建築するときに、イタリアの病院の中でも特に著名であったフィレンツェのサンタ・マリア・ヌオヴァ病院の規則を送ってもらい、参考にすることにした。この論文は、フィレンツェの病院の簡単な説明とともに、フィレンツェからイングランドに送られた規則と説明がそのまま翻訳された便利な論文である。16世紀の病院の規則を読むと、それが日本で「病院」と言う言葉で理解されてきたものと全く違うことが良く分かるから、この部分は、病院の歴史の授業をするとしたら必ず読ませなければならない。これは、いわゆる孤児・乞食から未亡人の老婆まで誰でも入れるタイプの「ホスピタル」ではなくて、病気に特化した「ホスピタル」である。しかし、このことは「ホスピタルの医学化」を意味するわけではない。規則の中で医者について扱った部分は、量で言うと全体の1/30 くらいである。病院は、医学がその一部であり、社会の他の力と関係を持って治療とケアを行っていたことが実感できる。

医学における理論と実践

$
0
0
Cook, Harold J., “Physick and Natural History in Seventeenth-Century England”, Peter Barker and Roger Ariew eds., Revolution and Continuity: Essays in the History and Philosophy of Early Modern Science (Berkeley: University of California Press, 1991), 63-80.
中世の医学の体系から近世の体系に至る変化を捉えようとした論文。基本的な枠組みは、アヴィケンナやイサゴーゲなどの中世から近世初期の医学の体系における「理論」「実践」と、フランシス・ベーコンとトマス・シデナムを経た後の医学の体系を比較するものである。医療を「テオリア」と「プラクティカ」の二つに分割することは中世アラビアの医学でも鮮明に表現され、中世ヨーロッパにおいてはアヴィセンナやイサゴーゲによって医学教育の中で定式化された。しかし、ここで「テオリア」「プラクティカ」と考えられたものは、理論と実践ではなかった。特に問題であったのは、「プラクティカ」であった。これは、医師が行う仕事をさすわけではなく、「テオリア」を用いて推論に達する知的能力が問題であった。これは実技の技術というよりも、テオリアを運用する知的技術の問題であった。これを反映して、オクスフォードやケンブリッジの医学部においては、17世紀になっても、医学は二つの部分にわかれ、一つは理論を学ぶ場であり、もう一つは理論をどのように運用したらいいか議論する場であった。正式な科目の中に臨床教育は入っていなかったのである。(これは使いたくなる史実)
 しかし、16世紀から17世紀にかけて、自然哲学の原理は大きな変動を迎えていた。そこではフランシス・ベーコンの観察重視が主流となり、医学においては患者の観察を重んじるシデナムが高く評価されていた。これらは「自然史」の方法であった。その結果、17-18世紀には、医学は科学と実践からなることを認めても、それはアヴィケンナの「テオリア」と「プラクティカ」の区別とは異なるものだった。むしろ、人体を自然史的に観察し推論することからこれらは現れるものであった

蝦夷地の壊血病

$
0
0
松木明知「弘前藩士山崎半蔵と蝦夷地の壊血病」『津軽の文化誌 V- 幕末期の医学・医療事情』(弘前:津軽書房、2012), 242-258.
弘前大学の麻酔科の教授であった松木明知は、優れた医学史の研究者であり、地元の東北や北海道を素材にした数多くの優れた仕事を発表している。学問的な誠実さが裏目に出て狷介な印象を与えることもあるが、それとこれは別の話であると私は思っている。精神医学史の岡田先生も同じことである。

いただいた書物の中に、幕末の蝦夷地における壊血病についてのさらなる論考があった。江戸時代後期から幕末にかけての蝦夷地を敬語した東北諸藩の越冬兵に多発した「水腫病」「腫病」は、漠然と考えられていたような脚気ではなく、ビタミンCの欠乏による壊血病であったという議論は、松木の優れた発見の一つである。蝦夷地の警護を命じた幕府はこの病気は重く見て、当時の幕府医学館の多紀安長や蘭学医の大槻玄沢に病の原因の究明を命じることをしている。二人の医の権威の解釈は一致し、いずれも、中国の古典医学、オランダ医学、そしてロシアで知られている「チンガ」という病気であるといっている。これらはいずれも現代の医学が言う壊血病と一致する。これは、グローバル化が進む19世紀において、各国の医学が参照される異質な体系が並置される医学的多様性の知的空間が作られたということであり、国境警護の兵士の死亡をまえにして中央の政権が生権力を発動したということでもあり、日本学研究の学者がちょっと気合を入れて論文を書けばすぐに注目を浴びるような主題であるが、その関係はすでに1970年代に松木が明らかにしている。

この論文では、松木が出してきた発見は、基本的には同じ議論のダメ押しである。警護兵を診た医者たちは、野菜の重要性が分かっていたこと、特に生大根が効果があることが分かっていたことなどがやや新しい。論文の後半で、NHKの番組がこの問題について番組を作るときに、あらかじめ松木先生に取材したにもかかわらず、番組では別の医者の意見を入れて脚気だと言っていたことに不平を述べている箇所がある。もちろんNHKに非があるけれども、こういうことを学術的な書物であるはずの文章に書いてしまうところが、松木先生のよくない所である。学者としてマスコミと付き合う時は、うまく付き合うか、付き合わないかのいずれかしかない。うまく付き合うことができないマスコミは、付き合わないことしか方法がない。私自身は、一度、新聞記事のための取材で懲りてから、マスメディアからの取材の申し込みはすべて断ってきた。もちろん、「すべて」と言っても、合計で片手で数えるほどしかなかったし、ちょっと残念だったけれども(笑)

犯罪問題と優生学

$
0
0
阿部真之助『犯罪問題』(東京:冬夏社、1920)

大阪毎日の記者の阿部真之助が著者で内務省監察官の松井茂が序文を書いている。犯罪とその処罰を社会の問題としてとらえる日本社会学院の「現代社会研究」のシリーズに入っている。復刻版が出ているから読みやすい。犯罪者の生理、犯罪の遺伝、犯罪と優生学という章があり、それぞれロンブローゾーやメンデルなどが引用されている。有名なダグデールの「デューク一族」ももちろん引用されている。

しかし、この著者は、犯罪の問題については、遺伝・優生学とははっきりと距離をとっている。「遺伝は個人を支配する重要なる部面に相違ないが、社会と個人との関係を無視することはできない、民族の発達は牛や豚を改良するのとは意味が違う、遺伝のみによりて理想郷の出現を夢見るわけにはいかない」37 「改良された牛や豚を見ると、そこに飼育者の精神の働きが現れている、人間を改良すべき社会的理想は何人によって決定されるのか、万人に共通なる何人も異論のない、千古不易というような理想はどこにあるのだ、個人も社会も理想なくして生きるはずはないが、優生学者はいずれの理想に基づいて種馬を決定せんとするのだ」 37 「優生学は人を造る、しかし社会的関係を顧慮せざるがために市民を造ることは不可能だ、優生学は体格の素晴らしい人を造り上げるだろう、ちょうどホルシュタインの牛のように、ヨークシャーの豚のように、めざましい人が出来上がるだろう、しかし彼は市民ではない、純然たる人となづくる動物たるに過ぎない、立派な申し分のない動物だ」

木下是雄『レポートの組み立て方』

$
0
0
木下是雄『レポートの組み立て方』(東京:ちくま書房、1994)

著者の木下はもともとは物理学者で、1981年に『理科系の作文技術』というヒット作を書き、それから10年近くたった1990年に、本書『レポートの組み立て方』が上梓された。並べて較べてみたわけではないが、前の著作では理科系という限定をともなっていたのに対し、この著作では文系理系という制限を取り払ったより野心的な形で書いているのは、新たな「文章読本」の成功した著者としての矜持なのだろうか。前著と同じく、この書物の基本概念は、英語の論理的な文章作法を日本語に移行することにある。パラグラフを中心にして、建築構造のように作られる英語の文章構成を、どのようにして規律を持った自然な日本語にするかということである。これは、私自身も長いこと苦労している問題である。木下は、おそらくこの問題についての無二のガイドだと思う。

そのように非常に優れた本だけれども、敢えて異を唱えたい特徴がある。著者は、大切なことを忘れているか、誤解している。英語の学術系の書き物のガイドとして標準的な Joseph M. Williamsの Style の副題は、Toward clarity and grace である。 目標とするべきものはclarity と grace の二つがあるのである。このうち、clarity については、木下は十分すぎるほど論じている。一方で、grace については、おそらく考慮しないで書かれている。きっと、grace という言葉を、作文風の「修辞」と勘違いしたのかもしれないし、別の理由かもしれない。実際、木下が繰り返し表面している「作文」風の文章構成に対する敵意は完全に正当なものであり、私自身も同意する。しかし、その作文風の文章読本を拒否するついでに、かりに論理的な論文の文章には「品位」「美しさ」と呼べる何かがあってしかるべきだろうということを忘れている。「品位」「美しさ」とは何かというのは、確かに議論するのが難しく、「論理性」「明晰さ」に較べて、万人が合意する基準を作るのは難しい。しかし、文章に品位と美しさを求めることは、作文風・文学風の文章作法だと勘違いしてはいけない。

というわけで、私はこの本と、三島由紀夫『文章読本』を並べてレファレンス棚においてある(笑) 

日本の麻酔分娩

$
0
0
大西香世「麻酔分娩をめぐる政治と制度―なぜ日本では麻酔による無痛分娩の普及が挫折したのか―」『年報 科学・技術・社会』21(2012), 1-35.
興味深い問題を設定し、興味深い視点からリサーチして答えようとした優れた論文である。その途上で明らかにしたことや洞察は貴重であり、優れた論文である。しかし、残念ながら、著者が自らに課した問題のコアが解明されたという印象は持てなかった。問題設定などを少し工夫すればよかったのに。

著者が自らに課した問題は、論文の副題にあるとおり、「なぜ日本では麻酔による無痛分娩の普及率が低いのか」である。「硬膜外麻酔による無痛分娩」について本論文であげられている数字をみると、アメリカとフランスでは60%、AUは25%、ドイツ、スウェーデン、シンガポールが10%、イタリアが3-5%程度、日本は2.6%である。

この事態の理由としてこれまで挙げられてきたのは、主に文化的な要因であった。産婦や夫にとって痛みは通過儀礼であり母性の徴であり、産婦人科医たちにとっては正常な分娩の記号であった。著者の大西はこういった研究や立論には限界があるといい、それに代わって医療従事者の利害紛争に由来するモデルを提示するという。議論の基本は、産婦人科医と助産婦の両者に着目し、前者が戦争後に優生保護法を軸に利益集団を形成した野に対し、それに圧迫された助産婦たちは対抗するために「自然なお産」運動を推し進めていったという説明である。日本の助産婦たちの運動は、欧米における<自然なお産>運動に影響を受けていたが、欧米では病院による出産がすでに確立されていたのに対し、日本においては、この時期はお産の場が自宅から病院に移行する前の時期であった。麻酔による無痛分娩が普及するための臨床的インフラが整う前に、自然なお産運動が始まってしまったのである。<だから>日本では無痛分娩が普及する「機会の窓」が失われ、現在でも少ないという議論である

冒頭に触れたように、私はこのような議論は好きである。精神医療のことを考えると、思い当たる節はたくさんある。インフラの状況が違うのに欧米の流行を追う、クロノロジーのギャップの問題は重要であるといつも思う。医師と助産婦という複数の医療従事者に注目したのもいい。それ以外にも読んでいて多くの洞察がある。そのすべてを称賛し高く評価したうえで、この論文は、自らが設定した課題に応えていない。批判するべき点は多いが、一番大きいのは、<国際比較において日本は低くアメリカとフランスは高くAUは中くらいである>という問題設定から始まった論文であるのに、それからは純粋に日本だけの議論となっていることである。冒頭で、文化論者を批判するのに、「文化的アプローチでは、同じ文化圏あるいは宗教圏における麻酔による無痛分娩に普及率の相違を説明することが難しい」と颯爽と語ったので、「機会の窓」アプローチでは普及率の相違がどんな風に説明できるのかと思って読み始めた。しかし、アメリカやフランスやAUで、いつどんなタイミングで上下したのか、そこにどのような医療従事者の政治があったのかという過程が全く議論されていない。(ついでにいうと、日本の上下のデータも与えられていない)そういう議論運びをするのなら、さっそうとしなくてもいいから、国際比較の問いを設定するのを止めればよかったのに。

トマス・プラッターが遭遇したペスト

$
0
0
トマス・プラッター『放浪学生プラッターの手記―スイスのルネサンス人』阿部謹也訳(東京:平凡社、1985)
トマス・プラッターは16世紀に職人をしながら放浪学生であった人物で、その息子フェリックスはバーゼル大学の教授で著名な医師であった。トマス・プラッターの自伝的な手記は、平凡社の「新しい社会史」の看板シリーズに収録されて、当時も読んだと思うけれども、残念なことに当時の印象はあまり記憶に残っていない。

この中に、ペストの流行に際して、ある医者がペストに罹ってしまい、どのような目に遭って死んでいったのかということが詳しくヴィヴィッドに論じられている箇所がある。ペストは当時から感染すると信じられており、その病気が社会関係を切り裂く様子は痛々しい。見知らぬもののペストはもちろん、地域共同体から家族にいたるまで、ペストは患者を残酷な仕方で孤立させ、心理的に追い込まれた状況を作り出す。

当時プラッターは、エピファニウスなる高名な医者の家に召使いとして住んでいたが、まずはプラッターの子供がペストにかかって死に、次にはエピファニウスの妻がペストにかかった。それに対して、エピファニウスは酒をあおるほど飲み続け、後に自分もペストにかかった。司教もペストを逃れるために別の町に行っており、医者は司教に逢うために馬でその町に向かうが、この途上でも酒を飲み続けたので、酒を飲んで落馬しながらのことであった。司教の家でもエピファニウスは体の具合が悪く、ベッドの中で大便をもらした。プラッターはその大便をワインで拭取ってすぐには分からないようにしたが、医者のペストは司教に見抜かれて、すぐに館を追い出された。小さな町をひとめぐりしてみたが、誰もエピファニウスを引き取ってくれなかった。医師は自分の家に戻って妻を連れてきてくれというのでプラッターが向かうと、妻は、夫は自分が苦しんでいるときに逃げ出したいかさま男だから会いに行かないという。司教はペスト患者に触れたということでプラッターが街に入ることを禁じた。結局、エピファニウスはペストで死に、プラッターは彼の実験ノートを貴重なものとして受け取った。

貴重な手記ということだけあって、ある地域にペストがやってきたときの、苛烈な社会の状況が浮き彫りになる。ボッカッチョも書いているけれども、家族の中でも見捨てることがあったというのは本当なのかと改めて実感した。それから、医者のエピファニウスが飲酒に走ったことも興味深い。彼が習慣的・末期的なアル中だったのかもしれないが、これは道徳と規律が個人においても崩壊したことを意味するのだろう。

高山文彦『火花―北条民雄の生涯』

$
0
0
高山文彦『火花―北条民雄の生涯』(東京:飛鳥新社、1999)
北条民雄はハンセン病の患者で東京の全生園で没した人物のペンネームである。川端康成に作品を送って認められ、『いのちの初夜』(1936)はハンセン病患者自身が書いた文学作品ということもあって、大いに話題になった。この書物は、その人物の優れた評伝で、特に全生園に入園した後の記述は非常に濃密になっている。北条自身が日記をつけ、同じ全生園の患者の中で文学上の友人たちの記述もあり、川端らの文学者の詳細な記述もあり、なによりも、北条自身が『いのちの初夜』をはじめとする作品群で自分の人生を作品化しているので、伝記的な文学研究としては、素材がありすぎる主題だろう。特に、作品において自分の人生が文学化されているから、創作と現実の区別がつかない形で提示されている素材が多すぎて、その区別に時々困っている印象すらもつ。

多くの重要な洞察を含んでいるが、全体の構図で重要なことは、「特殊なナレーター」が必要とされており、人々はその特殊なナレーターになろうとしていたという問題だろう。島木健作の『癩』も話題になっていた。川端も他の文壇関係者たちも、そのことを知っていた。そして誰よりも北条がそれを知っていた。このことは、『いのちの初夜』は非常に良く売れたように、小説が売れるということだけではなかった。文学と医療と実生活の間で形成されていた「特殊なナレーター」へと自己が成型されていくことを意味したのだろう。

島木健作「癩」

$
0
0
島木健作「癩」
島木健作の「癩」。「青空文庫」に掲載されていたものからPDFを作り、iPad で読んだ。

主人公は共産党員で、政治活動のために投獄され、監獄で喀血して結核患者として病者用の別棟に移される。隣の病室には、もう一つの感染症であるハンセン病の囚人たちが収容されている。そこに、昔の共産党の同志で、何度か会って尊敬していた人物が新たに入ってくるというストーリーである。ハンセン病で隔離された者たちの性欲と食欲の強さ、動物のような浅ましさに対比して、昔の同志が自分の病気(「肉体が腐っていく病気」)を知りながら、転向も自殺もせずに生きていこうとしている矜持が対比的に描かれる。

監獄の中の、しかも一般の囚人からさらに隔離された病棟という人目につかない世界の暗黒を描いたこと。
そこで、結核とハンセン病という、当時の人々の意識の中で大きな意味を持っていた二つの病気を描いたこと。
結核は美しい病でハンセン病は醜い病という当時のステレオタイプに合致している部分もあるが、むしろ、醜い人格となり下がったハンセン病の患者たちに対比して、同じハンセン病でもあるのに、政治的にも倫理的にも凛とした生き方を保つ同志が強い印象を与える。
やはり面白いのは、政治のモジュールと感染症のモジュールの重なりである。共産党の政治活動のために監獄に入るというモジュールと、結核やハンセン病にかかって、監獄の中でさらに隔離されるというモジュールが一致して成立した世界が描かれている。当時、いずれも国家の政策に基づいて投獄・隔離されていた左翼活動と結核・ハンセン病を一致させたところが、二つの病気を公の存在にするもう一つの仕掛けであったのだろう。

いわさきちひろの最初の夫と梅毒

$
0
0
いわさきちひろは二度結婚しており、最初の夫は結婚後1年ほどで自殺している。二度目の夫は、共産党員として知り合った元国会議員の松本善明であり、彼との結婚生活の中でちひろの画業が花ひらいたが、最初の夫については断片的な記述しかない。『芸術新潮』2012年7月号の「いわさきちひろ特集」に掲載された橋本麻理の伝記から最初の夫のことを知り、ツイッター上の通信で資料を教えていただいた。『いわさきちひろ―知られざる愛の生涯』が最初の夫について比較的詳しく記述しており、ちひろの二人の妹のインタビューも掲載されている。

岩崎家は、父親は陸軍軍人、母親はもと女教師という中産階級の家庭で、子供は三人とも娘であったので、誰かが婿を取って結婚しなければならなかった。母親も婿取りであったので、長女のちひろ(「知弘」)が婿を取るのが自然な流れであった。相手は専修大学を出て東洋拓殖に勤めていた青年で、眼鏡をかけたおとなしいインテリ風の人物であった。青年がちひろに惚れて、ちひろの両親もこれを歓迎し、ちひろも「外国に行けるなら・・・」という条件を出したところ、意外に簡単に大連に勤務することになり、1940年に盛大な結婚式を挙げたあと二人は大連に行って社宅で暮らすことになった。この結婚も最初は二人の間は冷たいが、結局はうまく行くだろうと両親は思っていたらしい。しかし、ちひろはこの新郎を決定的に嫌っていた。初夜のあとは涙を流し、「そばによってきても鳥肌が立つ」と妹たちに口にしていた。寝室も別にしていた。新婦に拒まれ続けた夫は、1941年に毒物を飲み、社宅のかもいで首を吊って死んだ。ちょうど1年ほどの結婚生活であった。ちひろの両親は、夫は肝硬変で死んだことにしてこの事態を処理した。もともとは秘密裡に処理されたことだが、ちひろがこの事態を人に話すようになったので、遺族もこの事実を口にするようになった。

もともと秘密に処理された事件であり、私が読んだ証言はすべてちひろの妹たちからなどだから注意しなければならないけれども、次のことが整理できる。
1. もともと二人の間には恋愛感情はなかったこと。しかし、ちひろは、当初は外国に行けるなら結婚すると言っていたこと。それが、結婚後には「そばによってきても鳥肌が立つ」という激しい嫌悪に変わったこと。
2. これは妹たちの証言だが、ちひろと夫の間には性交渉はなかった、夫は紳士であって、腕力を用いてもちひろと性交するようなことはなかったこと。
3. 夫が性病をわずらっていたこと。性病になった時期については、妹たちは、夫はちひろに愛されなかったので、遊里で遊んで性病にかかったのだろう、そして急速に手遅れになったのだろうと言っている。夫は、一度東京に帰って病院に行っている。

ここから先は私の推測だけれども、夫が性病にかかった時期について、妹たちが言っていることが違うのかもしれない。夫は実は結婚する前から性病にかかっていて、それを何らかの理由でちひろが知ることとなり、そのためにちひろが嫌悪感とともに激しく拒絶するようになった可能性もある。真面目そうな夫だから、自分で言ったのかもしれない。この時期は、話題を呼んだ『良人の貞操』(1937)の古屋信子を筆頭に、夫の性病が激しく批判され、優生学の効果もあって、結婚前に性病に罹っていないかどうか健康証明書を交わそうという動きもあった。性病系の医学書を少し読めば、似たような例を見つけることができるだろう。自殺の原因に梅毒が上がるのはむしろ欧米だけど、日本でもそのくらいがあっても驚かない。結婚から梅毒を排除しようという声が高まっていたのは、国家的にも医学的にも女性の地位向上の点でも一致していた。そう考えると、ちひろの激しい拒絶も、二人の間に性交がなかったこと、梅毒と夫婦の不和と子供ができないことなどを苦にした夫の自殺というのも、医学史家的には納得できる。もちろん、そのままのストーリーでも納得できないことはないけれども。でも、「あなたがそばにくるだけでぞっとするからあなたとは寝ません」という台詞には、好き嫌い以外の根拠が必要な気もする。この時代の妻がこれほど強硬に出るためには、何かの武器が必要だったようにも思う。

諏訪敬三郎「今次戦争における精神疾患」

$
0
0
諏訪敬三郎「今次戦争に於ける精神疾患の概況」『医療』vo.1, no.4(1948), 17-20.
昭和13年から陸軍の精神疾患の患者は一括して国府台陸軍病院に送ることになっており、その院長が諏訪敬三郎であったから、日本の戦時精神医学の責任者による概況観察となる。基礎資料だから、かならず引用される。

昭和13年から20年までの国府台陸軍病院に入院した患者は全部で1万454人、13年の628人から昭和19年の1876人まで、約3倍に増えている。診断別に上位でいうと、分裂病が41.9%、ヒステリーが11.5%、頭部戦傷による癲癇などが10.4%、神経衰弱が7.1%、精神薄弱が5.9%、梅毒性精神病が5.8%であった。

分裂病は最高位を常にしめ、時期による増減はあまりない。すでに応召前に精神異常を示していたものが多い。ヒステリー・神経衰弱は大勢いる。また、他の疾患にまぎれこんでいるものも多いだろう。さらに、戦争末期には自覚症状が主たるもの、症状が一定しないものということで話題にもなった。頭部癲癇は近代戦争に随伴する。精神薄弱は年を追って増加し、昭和13年の0.9%から昭和20年の13.9%に急増している。これは、徴集率を上げなければならなかったため、精神薄弱・精神病質にあたる人間まで駆り出されなければならなかったこと、そのため、戦争末期には兵士の規律が乱れて犯罪的行為も多かった。梅毒性精神病は年齢とともに増える。

つまり、戦時部隊内の精神疾患は、戦争のために新たに発生するもの、入院前から異常者が入り、環境順応が困難になったり症状が増悪するものの二方面から増加するのである。

ポイント二つ。まず、この概況報告が合計でわずか3ページと少し、うち1ページは表だから、たったの2ページというあまりにもお粗末な報告である。このことは、戦後の日本が軍隊を持たない社会になるという巨大な転換を経験したことと深い関係がある。この報告が貧弱なことは、戦時の患者に対する精神医学が相対的に言って不十分なものであったということを直ちに意味はしない。

それとも関係あることだが、諏訪のまとめは、まさしく陸軍軍医として、戦力になぜ被害が出て、その被害が戦争の長期化とともに拡大したかということを主題にしている。戦争にともなう精神疾患の患者が増加したことを説明する諏訪の口調は、戦争の状況や前線の生活、第一線の医療などを論じていない。現地での精神衛生、兵士の管理の問題点などを非難する方向に向かない。重要な問題は、兵士の徴集に無理があったことである。健康な兵士を数多く集めるメカニズムの失敗である。諏訪は国民の体力や精神衛生を向上させて総力戦を勝ち抜くという戦時の方針の失敗として精神病患者の増加を捉えている。あたかも、「なぜ負けたのか」を論じているかのような口調ですらある。

ここからの日本の精神医学の変身は、他の領域と同じように、もちろん素早かっただろう。そして、その素早い転換の中で保存された構造的なものも残っているだろう。

『ダランベールの夢』

$
0
0
ディドロ『ダランベールの夢―他四篇』新村猛訳(東京:岩波書店、1958)
学部1・2年生向けの歴史学の授業「身体の歴史―近代編」が始まった。「身体の歴史」という構想は2年目で、去年の秋学期はメアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』で始めたけれども、あまりうまく行かなかった。たぶん、『フランケンシュタイン』のストーリーの中で、私が話そうとしている身体の歴史に関係するのが怪物誕生の部分だけだからだと思う。今年は『ダランベールの夢』の「対談の続き」の部分を配って学生に読ませながら解説するという授業にしてみた。自慰と同性愛、そして異種の動物の交配が論じられる部分である。『ダランベールの夢』は、もともときわどい部分が多い話だが、その中でも最も露骨な議論が続く箇所である。

主題は「種の交配」についてであり、それが生殖に至らない自慰と同性愛、そして異種生物との交配の二つのトピックについて語られる。キリスト教の理論では生殖に至らない性行為はすべて価値がなく罪深いことになっているが、それを批判することから議論が始まる。ボルドゥーの口を借りて、ディドロは功利主義とヘドニズムの立場から自慰と同性愛を正当化する。「有益と快楽の組み合わせが美徳であるとしたら、有益だけ、快楽だけでも美徳ではないか。自慰は、快楽を与えるだけでなく、人妻を誘惑したり娼婦を買って病気になるよりいいではないか、同性愛も同じことではないのか。血液が多すぎると多血質の病気になるから瀉血するように、精液が多すぎると病気になるから自慰で排泄することが健康で医学的なのだ」という議論を展開する。一方、異種交配については、山羊と人間を交配させて、過酷な労働でも行うことができるような「山羊人間」を作り出すと、植民地などで過酷に使われている人間のかわりに山羊人間を使えばいいという議論をする。

啓蒙主義が、社会を改善し、その過程でキリスト教の道徳を批判しようとしたときに、生と生殖を取り上げたことの歴史的な意味は大きい。それは、性と生殖についての議論を、個人と社会をつなぐ問題として設定した。その議論の構図を鮮明な形に仕上げたことをうまく説明できるといいんだけれども。

ディドロ『ブーガンヴィル旅行記補遺』

$
0
0
ディドロ『ブーガンヴィル旅行記補遺』
『ダランベールの夢』の「対談の続き」は、性と生殖をめぐる議論がほとんどであって、性と生殖の問題から社会と文化の道徳論、法律論、そしてもっとも重要な宗教論へと展開していく部分はほとんど描かれていない。その部分を理解しておくために、ディドロ『ブーガンヴィル旅行記補遺』を読んだ。岩波の「ユートピア旅行記叢書」が手元にあり、そのシリーズの17巻にある中川久定訳である。

もともとは注目していた部分ではないが、二つの重要な点をメモ。一つは梅毒についての議論、もう一つは「タヒチ人による優生学」の議論である。「補遺」の冒頭近くに、タヒチの島民がブーガンヴィルに対してヨーロッパ文明を徹底的に批判する箇所がある。所有、文明、労働、規律など、ヨーロッパ人がタヒチにもたらしたさまざまなものが批判されている。その中で、ヨーロッパ人がもたらした梅毒がタヒチの「愛」を破壊したと論じる箇所がある。タヒチにはかつては「老衰」という1つの病気しかなかったが、そこにヨーロッパの船員たちがもちこんだ梅毒は、「おまえたちの血管からわれわれの血管に移った汚れた血」でタヒチを汚すことになった。このために、ヨーロッパ人がもちこんだ「罪」の観念とともに、かつては素直な愛情と欲望しか存在しなかったタヒチの性と愛がすっかり破壊され、人々の性と愛には後悔と恐怖がつきまとうようになった。ヨーロッパ人が「未開人」に梅毒を流行させるという主題は、クックをはじめ、18世紀の後半にはすでに確立している。ヨーロッパはアメリカからの梅毒の被害者でいう歴史認識と並行して、タヒチやオーストラリアなどの未開地域に梅毒を与えている加害者であるという認識を持つようになってきている。被害者意識の研究もいいけれども、加害者意識の研究もした方がいい。

もう一つの点は、ディドロがタヒチ人の口を借りて優生学的な人口政策を語る場面である。タヒチの男性の数的・質的な欠陥をおぎない、タヒチの人口を大きくし改善するために、ヨーロッパの男を使ったという議論である。タヒチには周囲の国家によって奴隷にとられたりして男が少なく、すべての女をいつも性的に満足させられるわけではない。一方、ヨーロッパの男には賢さがあることはすぐに分かったから、タヒチの女をヨーロッパの男に与えることは、ポジティヴな優生学的な政策であったという。これによって、タヒチの女たちは優れた人間を妊娠し、それによって優れた働き手・勇敢な兵士を作ることができる。しかも、この「新しいタヒチ人」は、実はヨーロッパ人に似た「抜け目のなさ」を持っているというおまけもついている。
Viewing all 455 articles
Browse latest View live