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Channel: 身体・病気・医療の社会史の研究者による研究日誌
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医師/政治家というキャリアについて

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Digby, Anne, “Medicine, Race and the General Good: The Career of Thomas N G Te water (1857-1926), South African Doctor and Medical Politician”, Medical History, vol.51, No.1 (2007): 37-58.
医師であり政治家であった人物の分析は、医学史上の一つのリサーチ・テクニックである。イギリスとフランスについてまとまった有名な研究が存在していて、19-20世紀のフランスで医師で国会議員であった人物を組織的に分析したEllis の著作と、Cooterが同じ時期のイングランドの議員であった医師を分析した論文である。この論文は、ベテランの研究者が南アフリカの医師・政治家である Thomas te Water を取り上げたものである。

開業医として成功し、性病、結核、ハンセン病などの公衆衛生の側面を持っている問題に入り、そこから「論理的に」政治の世界に入っていく。国家の政治にかかわって19世紀末に成立した多くの重要な医学関連の立法に関与し、選挙区では医学以外の問題にももちろんかかわった。一つのポイントは、医師が公的な医療を行って「公人」になるという近世以降のヨーロッパに特徴的な構造であり、もう一つはこの時期が性病や結核などの慢性感染症が、法と政策によって公共的に対抗される問題になった時期であったことである。

日本では帝大の生理学教授から文部大臣となった橋田邦彦がまず思い浮かぶし、石黒忠悳をはじめ、陸海軍で軍医総監などの高位についたものが男爵となる仕組みが存在したから、そこから貴族院に選任されて政治家となる仕組みも存在した。このあたりの構造を調べると、ヨーロッパやその植民地との違いが分かるのかもしれない。

『茂吉の体臭』からメモ

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斎藤茂太『茂吉の体臭』は、細部において味わい深いことが沢山書いてあるが、その中で、斎藤家が斎藤茂吉の症例誌をつけていたこと、その症例誌の記述が、私が読んでいる王子脳病院の記述と文体がよく似ていることをメモする。もともとは呉秀三の巣鴨―松沢病院が起源で、そこから青山脳病院、王子脳病院のように継承されたのだろうか。それとも、そもそも症例誌の文体はどこも似ているのだろうか。看護婦がつける看護日誌と医者がつける病床日誌の二種類があり、看護日誌は患者に対してはある種の敬語を用いている。「午後二時胸内苦悶を訴えらる」「夜中はよく眠らる」「背面より布団にて支えて差し上げる」というような表現である。この敬語のスタイルも似ている気がするが、それを説明する語彙も学識もないのが悲しいところである。一方、斎藤茂太と弟の宗吉(北杜夫)が書いた病床日誌は、父親であっても敬語を使っていない。

斎藤茂吉は高血圧・動脈硬化に基づく一連の障害で、血圧は収縮期が160と220の間くらいであった。そのためかどうか、瀉血が行われている。一日に100 cc という記述がある日が一日、40, 25, 20 ccの三回で合計85 cc という記述が別の日にある。1952年の話で、この時期には瀉血が行われていたことは知っておいてもよかった。

戦時神経症の治療と電気ショック

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対応に苦慮した戦時神経症の患者に対して櫻井が持っていた最終兵器とよべるものは、けいれん療法、それも電気けいれん療法であった。1930年代から、精神疾患を治療する方法として、インシュリンやカージアゾルを処方して痙攣をおこす方法が脚光を浴びていた。それと同じ原理に基づいて、電気けいれん療法は、1938年にイタリアのチェルレッティが率いるローマ大学のチームが開発し、日本ではほぼ同時期に九大の安河内・向笠が、チェルレッティとは独立に開発した。これらの一連の療法は、使われなくなった現在では野蛮で暴力的に見えるが、それまで不治であると信じられていた精神分裂病に治療可能性の希望を吹きこんだ、重要な転機となった治療法であった。

九大チームは、分裂病以外の疾患にもECTを用いて、神経症やヒステリーに対しても有効であることを示した。これは、患者を昏睡に至らせるような有力な治療法であるという暗示、また痙攣後の意識混濁状態での暗示が有効であると思われていたこと、これが患者に対する威嚇の方法となること、医師に対して信頼と畏怖の念を持たせることができるという心理的な要因によるものとされた。櫻井は、これらに加えて、ECTは神経症の疾患としての本態にも作用すると推察している。つまり、暗示、威嚇、本態への効果という三つの効果をもつ三つ又の槍のようなものとしてECTを考え、ヒステリーや神経症の多様な構成にはたらきかけると考えていた。たとえば、症候において意識的なものがあって、詐病のように症状を大げさにしている場合には、威嚇的な効果が作用する。

単なる ECTでは効果がない場合でも、この患者を精神科特殊病棟に入れて、衝撃をかんじざるをえぬような環境に押し込むと、自己の願望を達成することは到底不可能であるとさとる。その上での映連療法は、強い威嚇の力を持っている。ある患者は、歌手になりたい、三浦環に紹介してほしいという願望を持っている一方、実家では両親が彼が望まない女性との縁談をすすめており、除隊されると、この縁談を受け入れなければならない。だから、彼は除隊処分にされるといわれると、むしろ症状をぶりかえらせ、ついには古典的な症状である「ヒステリー弓」をつくって、頭と足を支点にしたみごとなブリッジを描く。いわば、患者はヒステリーの究極の古典的な症状を発して、治癒と治療を拒絶する姿勢に出たのである。

症状は固定されてしまい、もはや通常の治療手段は使い尽くしてしまった。櫻井はここで「思い切った策」をとり、精神病棟への収容と電気ショックをもちいる。その結果、あずき豆ほどの大きさで3ミリの深さの皮下貫通の銃弾ではじまって、756日という法外な期間にわたったこの患者の治療は終了した。この症例は、治療されてその状態から脱却することを恐れている。そのような意識の偏向が存在する。これを変化させるのが威嚇であり強圧である。その脈絡の中での電気けいれん療法であった。(続)

画像はポール・リシェの『大ヒステリー・ヒステリー性てんかんの臨床的研究』(1881) からとった「ヒステリー弓」

18世紀イングランドの「薬種商」の上昇

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Corfield, Penelope J., “From Poison Peddlers to Civic Worthies: The Reputation of the Apothecaries in Georgian England”, Social History of Medicine, 22, no.1, 2009: 1-21.
傑作の論文で、フルテキストがオープンアクセスになっているから、大学院レベルの医学史演習のリーディング・リストの定番になるだろう。長い18世紀に、医師―外科医―薬種商の三つの別の職業にわかれた古い構造が変容して、19世紀の「一つの医療職」に変容していく過程を、最も低い位置にいた薬種商に注目して論じている。著者はイギリスの18世紀研究の実力者で、日本でも名を知られている。気鋭の研究者の伊東剛君の指導教官だった。特にこの論文は、学生や若手研究者が書くような限定した範囲の問題についての鋭利なモノグラフではなく、そこから出発して実力者が書く広さと深さを兼ね備えた論文のお手本の一つだと思う。

18世紀の医学・医療は、種痘関連以外にはめざましい発展は少ないとされるが、それは現在の科学的医学の視点で見た場合の話であって、この時期には医療の上昇と拡大と変容があった。上昇のポイントは三つある。薬種商は、かつては内科医が処方した薬を売ることだけが許されて、それ以外の仕事(特に自ら処方すること)は処罰された。『ロミオとジュリエット』の貧しい薬種商は一つの典型像であった。しかし、1704年のいわゆるローズの判例で、医療を行うことが実質許されるようになった。この制度上の動きに対応して、まず第一に、需要に対応したことである。17-18世紀にかけて、かつての大学出の内科医が持っていたような人文学的な学識と教養の要素が濃厚な医療にかわって、より経験主義的な医療が拡大した。かつての個人の体質や生活に深く立ち入って養生の指導を与える、テイラーメイドで高価・濃密な医療ではなく、効果があるとされる医療を比較的安価に提供する医療が構造的に可能になった。(ハル・クックのレジメンとメディシンの議論と重なる)
 薬種商たちはプライヴェートな医療の市場に進出したにとどまらず、パブリックな存在感を持つようになった。これが第二のポイントである。都市のプライドの核であった慈善やヴォランタリーの病院の薬剤師職についただけでなく、市長や市会議員などにもなっていた。彼らは、civic worthies になっていた。たしかに、この時期は誰でも薬を売ることができる薬種商になれたし、法的な原理をみれば言ってみれば無法地帯であった。しかし、多くの薬種商は人々の尊敬を得る公職についており、このことが医療職の上昇につながった。
 三番目のポイントは、知識を共有し、最新の知識を広めあうメカニズムであった。Quack と呼ばれた集団は、家伝の秘薬や自分が発明した秘薬を営業の切り札としていた。それと対照的に、薬種商たちは知識を共有することを志向した。書物が編まれ、論文が書かれ、薬草園が訪問された。最新の知識は積極的に広められた。この知識の共有のエトスが、秘伝薬のquack たちと異なった専門職の性格を与えた。

加藤正明・ノイローゼ論(1955)の中の戦争神経症

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加藤正明『ノイローゼ―神経症とはなにか』(東京:創元社、1955)
今回の論文のコアは、日本軍で第二次大戦中に発生した戦時神経症について、議論を二つのクラスターにシンプルに分けて、戦前から戦中にかけて観察されたことと、戦後の新しい価値観において観察されたことのあいだの、断絶と連続を確定することである。戦前のパラダイムに基づいた疾病と治療の理解と、戦後のそれが異なっているのはそれほど驚くべきことではないから、どうやってそれを明晰に書くのかという課題が一つ。そして価値観やイデオロギーの大きな断絶にもかかわらず重要な連続性があったことを示して描くという課題が一つ。そして、おそらく一番難しいのが、この断絶と連続を大きな変化の中にうまく着地させることである。

そんなわけで加藤正明の『ノイローゼ』を読んでみた。手元の資料では詳しい年月と経緯は分からないが、加藤正明は戦中から戦後にかけて下総療養所・国府台病院で陸軍の精神疾患の患者を診察する立場にあった。加藤が1955年に創元社新書の一冊として執筆した『ノイローゼ』には「戦争神経症について」という章がある。加藤が戦中に陸軍において経験したことと、戦後に「国立国府台病院」として生まれ変わりアメリカの戦争神経症の解釈の影響を受けた部分が、どのようになっているのかなと思って目を通した。

結論をいうと、非常にアメリカ的になったように見える。戦前の精神医学、たとえば櫻井のパラダイムにおいては、陸軍がもつ恩給とケアのシステムの中で、そのシステムを利用しながら患者に対することが重要なポイントであった。加藤においては、治療のプロジェクトは精神分析的な家族関係の理解と、それが精神科医への「感情転移」を通じて解決されることである。戦時神経症の最も重要な原因は家庭内でのもつれ・板挟みといった問題であり、この問題が医師に素直に話されなければならない。そして精神科医に「感情転移」される中で、神経症が治療するという、精神分析的なモデルで理解されている。ついでにいうと、旧日本軍においては、患者が軍医に対してうちとけて自己の全てを話し、あろうことか転移まで起こすということは、不可能なことであったと加藤は考えているし、また、当時の軍医たちは、<皇軍には外傷性神経症はあったとしても戦争神経症などという反軍的なものはない、そのような不届き者は存在しない>と言っていたと加藤は書いている。このように、旧日本軍の戦時神経症の理解と治療法を表面的に批判して、「お話にならないもの」として片付け、アメリカと同じ見解で病気を解釈しているという見方もできる。

戦争の末期の昭和19年には、軍隊の病院を訪れる神経症患者の72%がヒステリーであった。加藤は「日本で男性のヒステリーをこのように大量に見たのは戦争のときがはじめてであり、その症状も千変万化で、手足のはげしいふるえ、けいれん、手足が動かなくなったり歩けなくなるもの、声が出なくなるもの、目が見えなくなったり耳が聞こえなくなったり、もうろう状態になるものなど、まったくヒステリー状態の展覧会のようであった」と書いている。皇軍の兵士が大量にヒステリーに陥っているということ、戦争末期にはこれが拡大していること。たしかに、精神科の医者としては、研究の対象として面白いのかもしれないが、自国の国民に対する態度、そして自分自身に対する態度などに大きな衝撃があった事件であろう。

研究会:「帝国日本の知識ネットワークに関する科学史研究」

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大阪で「帝国日本の知識ネットワークに関する科学史研究」の報告会が開かれます。ご参集ください!

科学研究費・基盤A「帝国日本の知識ネットワークに関する科学史研究」
(研究課題番号:24240108)・医学薬学班研究会

日時;3月2日(土) 15:00~17:30
会場:大阪市大文化交流センター大セミナー室(大阪駅前第2ビル6階)

講演題目「植民地で帝国を生きぬく――台湾人医師の朝鮮留学」
講演者:陳?湲(台湾中央研究院台湾史研究所助研究員)

コメンテーター:愼蒼健(東京理科大学)
司会:瀬戸口明久(大阪市立大学)

戦争神経症―小倉陸軍病院からの道

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中村強「戦争神経症の統計的観察」『医学研究』vol.25, no.10, 1955: 1801-1813.
これまで国府台の陸軍病院とその後継組織の医者による業績を読んできたが、別の病院で仕事をした医者が戦後に書いた論文を読んでみた。精神疾患の患者が運び込まれた病院は国府台の外に広島と小倉にもあり、この論文の著者の中村は 「K 病院」で治療をしたと書いているので、間違いなく小倉陸軍病院であろう。森鴎外の「小倉左遷」で有名な病院である。また、中村は九大の出身であるが、教師は第二内科の楠五郎雄(くすのき・ごろお 1898-1968)であり、櫻井の師である下田とは学問の系列が異なる。勤務病院と学問が異なる医者による戦争神経症の治療の記録である。ちなみに、彼の九大医学部の博士論文があるから、これは読まなければならない。

まず一番重要な点は、ゲシュタルト心理学を応用した戦時神経症の解釈であるということである。下田や櫻井の神経症の仕事も引用されているが、佐久間鼎・山崎末彦といった名前が出てきた。佐久間は九大の心理学教授で、後に日本語学を研究して学士院賞をうけた人物である。

ゲシュタルト心理学の理論の使い方であるが、個人が環境の中で自己を作るときに、環境の外圧があり個人が被膜をつくると、将校に命じられたらいやなことでもするというような安定が成立する。しかし、「消極的誘発性」が蓄積し飽和すると、この安定が崩れて、「柵が外され、緊張が解かれ、自己も未分化になり、行為は感情的になり、将兵は赤裸々な人間性を発露する。これが、8月15日の玉音放送まで緊張し硬直の域に達していた心と体の飽和が破れたあとの、と終戦時の軍隊の混乱の説明から始めている。

まずこの記述はとても面白い。終戦をどのように解釈するのかという心理学・精神医学的な考察であると同時に、中村が終戦後の軍隊で通常はみてこなかった風景をみたこと、彼の言葉をつかうと<当時の常識から著しく逸脱した軍隊の崩壊>をみたことがわかる。

ゲシュタルト心理学で戦争神経症を説明するとどうなるかというと、軍隊という新しい環境に投げ込まれて個人と環境のバランスが崩れるという主題である。軍隊では厳しい行軍、劣悪な生活環境で田の水を生水で飲むこと、そして将校が絶対の権限をもち、個人の自由と時間の空間がせまいこと、そのような環境では人は命令に従うことを好むこと。このような状況においては、個人と環境のゲシュタルトが崩れるという。治療も面白い。個人治療は暗示と弱い電気を用いたもので、ここは正直失望した。「ここで脚が伸展したらお前の病気は治る」といって電気刺激を与えて、脚が伸展したことを暗示として治療するという、かなり単純で整理されていない話になっている。集団治療は面白く、自分の権威の領域の中に、もう一つ室長の権威の範囲というのをもうけて、二重の権威で個人を囲んで患者を制圧するという図式である。

これは中村の瑕疵ではないと思うが、象徴的な一文があった。<今次の戦争は大規模の物質的戦争であった。戦争は完全に相貌を変え、戦闘にともなう危険は、その恐怖と猛烈さを測り知れないまでに増強し、この危険を乗り切るための個人の行動は、敵の攻撃によって、ある場合にはほとんどゼロに近いまで引き下げられてしまった>という文章である。もちろんこのことは正しい。しかし、1950年になって、この事実を新しいものであるかのように書く軍医がいるという事態は、たしかにため息をつかせる何かを持っている。欧米諸国は第一次世界大戦のときに気づいていたことなのに。

画像はこの論文から。

西洋解剖学の中国への導入

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Asen, Daniel, “’Manchu Anatomy’: Anatomical Knowledge and the Jesuits in Seventeenth- and Eighteenth-Century China”, Social History of Medicine, 22, no.1, 2009: 23-44.
17世紀末から18世紀にかけて、当時は清朝であった中国に、西洋の解剖学がもたらされた。イエズス会士たちが康熙帝 (KangxiEmperor)の求めに応じて満州語で記述して解剖図のイラストを描いた著作である。『格体全録』と呼ばれ、本来は出版されるはずであったが、結局合計で4部だけが写本されたにとどまり、その写本も宮廷の中に閉じ込められて、外部に与えたインパクトはごく小さかった。日本との対比でいえば、50年後に日本に導入された西洋解剖学である『解体新書』が、市井の医師たちによって翻訳出版されて大ベストセラーになったことが重要だと私は思っている。

この論文は、そういう素人くさい話ではなく、西洋医学の拡散と中国医学という他の優れた医学体系との出会いを分析した優れた議論である。最大のポイントは、17世紀から18世紀のヨーロッパと中国の出会いにおいて、ヨーロッパが優れている(数少ない)展として解剖学が上げられたことである。18世紀のヨーロッパは中国に対して総じて敬意をもっており、その医学に対しても敬意を払っていたが、その中で「解剖学についてはだいぶ水があいている」という深い自信を示していたことである。「中国で医学が軽視されているのは全くあたっていない。古代から多数の著者が医学を扱ってきた。しかし、彼らは自然哲学に習熟しておらず、解剖学を全く知らないので、人体の用法を知らず、病気の原因もわからない。だから、中国の医学はヨーロッパの医学のように進歩しないのだ」と書かれている。(1735) 中国医学の clinical な側面の強みを認めながら、 objective knowledge としての側面が弱いといい、解剖学はその中枢であり象徴であった。

私が17世紀・18世紀のヨーロッパの医学書を読んでいたのはだいぶ前のことだが、たしかに、解剖学と生理学は、ヨーロッパの医師たちの誇りであった。その当否はともかく、たしかに解剖学と生理学、そしてそのもとになる自然哲学が、徳川時代から蘭学を学んだ日本の医者たちにとって、大きな魅力でありまた異質な障害であったことはたしかである。

オーストラリアの戦争神経症患者の処遇と家族の圧力

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Larsson, Marina, “Families and Institutions for Shell-Shocked Soldiers in Australia after the First World War”, Social History of Medicine, 22, no.1, 2009: 97-114.
第一次世界大戦後のオーストラリアの戦争神経症(シェルショック)の患者の処遇について、家族の役割を調べた論文。近代の精神病院型の精神医療の処遇においては、家族の役割が重要であったことは、イギリスの精神医療の社会史の研究の一つの焦点となり、私はすでに受け入れられたと思っている。このモデルをシェルショックと組み合わせるとどのようになるのかという視点である。

非常に興味深い議論が展開されている。まず第一に、患者の処遇にかかわる行政組織と論争して、戦争神経症の患者たちについて、「彼らはただの精神病患者ではない、傷ついた英雄たちである」と強硬に主張したこと。一般の精神病院の他の患者と混合した居住空間に置くことに反対して、特別優れた治療を受けることができる戦争精神疾患の患者のみが置かれる特別な病棟を作ることが主張されたこと。患者には20才以降の若者が多かったので、その親の世代という社会的に最も活発で有力な世代であったこと。そして、その親たちは戦争神経症の患者のために団体を作り、新聞などでキャンペーンをはる公的な活動も行った。

日本でも類似した現象がある。多様な精神疾患にかかった将兵を最終的に診療する機関であった国府台陸軍病院は、当初、神経症の患者を精神病の特別棟に収容したが、これは1年ほどで中止されて、精神病と神経症を区別し、後者は一般開放病棟に特別病棟を作ってそちらに収容することになった。その理由として、ある北大出身で昭和16年から20年まで国府台に勤務した医師は、当時は傷病兵にたいする熱狂的感謝があり、彼らは過大な待遇を与えられていたので、神経症の患者たちは、自分たちは戦傷であるにもかかわらず、精神病と同一視する待遇に不満を抱いたからであると説明している。おそらく、この分離には、家族の圧力もあったのだろう。

闘病記研究会 2/23

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闘病記研究会『社会学から闘病記へのアプローチ』

今回は、闘病記がいつ誕生して、どう認知されてきたか闘病記の
近現代史をたどります。社会背景と患者の心理は闘病記にどう反
映されてきたのでしょうか。そして、時代が進むにつれ、患者のた
めの本であった闘病記が、医療者のためにもなる可能性も見えています。
「闘病記とは何か」が徐々に明らかになるお話が盛りだくさんです。

開催概要
【日時】2013年2月23日(土) 12:30~17:30(開場は12:00)
【会場】京都大学東京オフィス会議室(東京都港区港南2-15-1 品川インターシティA棟27階)
http://www.kyoto-u.ac.jp/ja/tokyo-office【交通】JR品川駅港南口 徒歩2分
【参加費】無料
【主催】平成24年度厚生労働科学研究費補助金(第3次対がん総合戦略研究事業)
『国民のがん情報不足感の解消に向けた「患者視点情報」のデータベース構築と
その活用・影響に関する研究』研究班(研究代表者:中山健夫)
【事務局】闘病記研究会実行委員会(健康情報棚プロジェクト事務局)(tana-project@hotmail.co.jp)
【参加申込方法】お名前、ご所属を明記して、上記実行委員会宛(tana-project@hotmail.co.jp)に
メールで申込みください。
【申込締切】2013年2月21日(木)

プログラム(予定)
【第1部】闘病記研究 12:30~14:10
  崙病記とエビデンス」
   中山健夫氏(京都大学大学院 医学研究科 社会健康医学系専攻 健康情報学分野 教授)
 ◆崙病記にみる医療情報の影響 乳癌患者の意識の変化をめぐって」
   木内さゆり氏(早稲田大学 大学院人間科学研究科)
 「"闘病記なるもの"の検討 -千葉敦子の闘病記から見るその生成と展開-」
   野口由里子氏(法政大学大学院 博士後期課程)

【第2部】基調講演 14:20~15:40
 「闘病記の系譜―『生きる力の源に:がん闘病記の社会学』から」
  門林道子氏(日本女子大学学術研究員・日本女子大学・昭和薬科大学 非常勤講師)

【第3部】医療者の闘病記の読み方 15:50~17:30
  峅礎祐僂覇匹燹κ垢・話す―闘病記読書の研究を足がかりに」
   阿部泰之氏(旭川医科大学病院緩和ケア診療部 副部長)
 ◆屮淵薀謄ブ教材としての闘病記」
   小平朋江氏(聖隷クリストファー大学 看護学部 准教授)

                 【17:30閉会予定】
※都合により講演者・演題・順序が変更する時があります。


Q.闘病記研究会とは?
A.立場や分野を超えて闘病記の意義や活用等をオープンに語る研究会。会員制をとらず、
  闘病記を取り巻く様々や闘病記に関心を持つ人が一同に集い、闘病記の魅力や可能性を
  話し合う場です。第1回は2009年1月10日(土)に東京の航空会館(新橋)で開催。

フィリピンの近代化と民間習俗との闘い

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Reyes, Raquel A.G., “Sex, Masturbation and Foetal Death: Filipino Physicians and Medical Mythology in the Late Nineteenth Century”, Social History of Medicine, 22, no.1, 2009: 45-60.
西洋医学の導入にともなって、近代医学の視点で当地の民間習俗が解釈されて迷信と判断され、その廃絶が叫ばれるという動きがある。日本の習俗では、流行病のときにお札をもらうことや、「狐憑き」をめぐる習慣などが、激しく攻撃された迷信の代表であった。

この論文は、フィリピン出身の医師で、19世紀末にパリで医学を学んだデ・タベラ兄弟のキャリアと著作に取材したものである。彼らは西洋医学を学んで、フィリピンの性交、生殖、子育てについての民間習俗を集めて批判するわけだが、そのときに、彼らの敵は二重であったということに気をつけなければならない。つまり、それらを信じる無教養な民衆と、その習慣を組織された文化の中に埋め込んでいくスペインが設立した教会であった。もうひとつが、近代化をめざす医師たちの改革運動が、生殖にかかわる迷信をとりあげて攻撃したことである。日本では日本産育習俗資料集成として知られる資料があるけれども、時間をみつけて、フィリピンの習俗と比べて眺めてみようかと思う。

17世紀スペイン演劇からの医学史

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Slater, John and Mar?a Luz L?pez Terrada, “Scenes of Mediation: Staging Medicine in the Spanish Interludes”, Soc Hist Med (2011) 24(2): 226-243.

近世スペインにおいて、短い演劇作品の「インタールード」における医者たちの分析。「インタールード」というのは、長い演劇作品の間に挟み込まれる短いコントで(日本の狂言のようなものかしら―といって、狂言なんて一度も観たことがないのですが)、このジャンルの作品に医療者や病気が非常に頻繁に描かれるという。周縁的な資料に見えるが、読んでみると、なるほど豊かな資料でその重要性に納得した。医者が同業者向けに書いたアカデミックな著作、人々向けに書いた実用的な著作では、起点は医者であり、医者が発した情報が記されている。しかし、劇作家という(通常は)非医師である人物によって書かれ、比較的広範囲の人々に向けて発せられたこの作品群は、人々が医療に対して(「臨床以外の場所で」)持った知覚と期待の枠組みを教えてくれる。もともと笑劇であるから、医療者の貪欲や無能のありさまが滑稽に描かれることが多い。ラテン語も笑い草になっているし、医師たちのガレノス、ヒポクラテス、アヴィセンナといった古代の権威好きも遠慮仮借なく嘲弄されている。モリエール『病は気から』から、医療や患者をコミカルに扱った笑いの部分を短く切ったものを考えるとそれほど間違っていない。近世スペインでは医療への関心は高まらなかったとされているが、このジャンルの資料を分析すると、そこでの医療への言及は増加している。

音楽と催眠―1800年からの歴史

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Kennaway, James, “Musical Hypnosis: Sound and Selfhood from Mesmerism to Brainwashing”, Soc Hist Med (2012) 25(2): 271-289.
音楽と催眠というと、音楽療法に関心がある心理療法か何かの専門家がテクニカルな問題について素朴な論文を書くことを予想してしまうが、この論文は、18世紀から20世紀末までという長いタイムスパンといい、取り上げている素材自体の面白さといい、人々を惹きつけるに違いない。それを察してか、この論文はオープンアクセスになっている。数年後には、世界中で音楽と自己と催眠についての研究が雨後のたけのこのようになっているに違いない。

メスメルからヘビメタまでを取り扱っている。音楽は聴取しているものの自己抑制を圧倒するものであると捉えられ、催眠、自動反応、条件反射など、さまざまな医学上のメカニズムと組み合わせて音楽の危険が論じられてきた。そこには性の問題も常にからんでいた。メスメルの催眠術が glass armonica という楽器とともに行われ、それを通じて個人の意志が征服され、女性はガードが下がる。(だから『コシ・ファン・トゥッテ』ということになる)ワーグナーも問題になった。ニーチェはワーグナーをまさしく「メスメリスト」と呼んだ。睡眠状態でワーグナーを聞かせると女性がオーガズムを迎えるかという実験もされた(すごい例だ・・・)1950年代には冷戦を背景にして音楽を用いた洗脳が問題になった。ヘビメタのレコードを逆に回すと別の曲が現れるとか、サタニズムに用いられているという議論がされた。

バイオマーカーと初期診断の権力について

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Singh, Illina and Nikolas Rose, “Biomarkers in Psychiatry”, Nature, vol.460, 9 July 2009.
現在来日中のニコラス・ローズと同僚が執筆した、精神医学におけるバイオマーカーの利用について。ローズは現代の生命倫理と医療の社会科学の大家の一人であるし、短いけれども非常に読みごたえがある議論だった。共著者の Singh さんについて調べたら、ローズと同じキングズ・コレッジ・ロンドンで、2011年にスタッフ20名を超える医療社会科学学科が設立されたことを知る。

精神医学は医学の他の分科に較べて身体性・科学性・厳密性が低い分野であったが、近年、身体医学の方法と概念を取り入れるようになった。精神的な症状ではなくて生理学的な指標である「バイオマーカー」をとり入れるようになったのである。これによって、診断、疾病の経過の予測、そして治療を個人にあわせることが可能になった。疾病によっては、これらは病気そのものではなく、個人的な行動の傾向、性格、知的・情動的な能力についての指標にもなる。これらが臨床的に大いに意味を持っていることはもちろんである。しかし、臨床という狭い領域での利得という視点を超えて考えた時に、バイオマーカーが人々にどのように意味をもつか、社会・倫理・法の視点で分析するべきであろう。特に、子供について言うと、子供が教育される教室という次元があり、また子供の問題行動を処罰したり指導したりする次元がある。とくに、このバイオマーカーが疾病の将来的な経過についての予測を含み、あるリスクが起きる可能性を説明するので、子供の将来の姿についてのある種の予言となる。ポイントは、このようなリスク・プロファイルを伝える方法は何か、personal identity にどのような影響を与えるか、数値と画像というインパクトがあって単純な指標なのでoversimplify されがちなことに対抗して、どのように人格の複雑性という概念を保持できるのか、そして顧客の需要に応じてこのような検査をして情報を売る商業サービスの問題にどのように対処したらいいのか、という問題である。

科学史講演会 ヒロ・ヒライ先生

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「科学史講演会」は、2012年から東大駒場の科学史・科学哲学科で開催されている、国際的に優れた研究者による講演のシリーズです。東大の橋本毅彦先生、ケンブリッジのクスカワ・サチコ先生などがすでに壇上に立っています。 2月8日には、オランダのヒロ・ヒライ先生のご講演が予定されています。 

以下は、学振特別研究員の坂本邦暢さんからの医学史MLへの連絡の再掲になります。


ルネサンス科学思想史の研究者であるヒロ・ヒライ氏(ナイメーヘン・ラドバウド大学)が第9回日本学術振興会賞を受賞されました。授賞式のため一時帰国されるヒライ氏に東京大学駒場キャンパスにて講演していただけることになりました。関心のある方はどなたでも自由に参加下さい。ヒライ氏の近著は『医学人文主義と自然哲学』と題されており、医学史からの関心にも十分こたえうる内容となっております。

講演者:ヒロ・ヒライ(ナイメーヘン・ラドバウド大学)
タイトル:日本学術振興会賞受賞記念講演「ルネサンスの生命と物質 20年の海外研究生活から」
日時:2月8日(金)、17時30分~
場所:東大駒場キャンパス、16号館、1階、119室
16号館は14号館の銀杏並木を挟んだ北側の建物になります。
18時にドアが閉まりますので、17時半始まりにしました。
ご注意下さい。
キャンパスマップは、
http://www.c.u-tokyo.ac.jp/info/about/visitors/maps-directions/map2012.10.pdf
をご参照ください。
以下に本講演会用のページが用意されております。詳細はこちらからご確認ください。
https://www.facebook.com/events/389124577847325/

ドイツの貧民向け医学的学知の位置づけ

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Hammond, Mitchell Lewis, “Medical Examination and Poor Relief in Early Modern Germany”, Soc Hist Med (2011) 24(2): 244-259.
ドイツの小都市ネルドリンゲンの資料を用いて、医師が比較的貧しいものを診断・治療するときのありさまを分析した論文。短い論文だが、近世から近代の医学史研究にとって非常に重要な問題に光を投げかけている。この論文を知っておいてよかった。

初期近代における医療の上層部については、これまでの研究が多くを明らかにしている。つまり、初期近代のエリート医師たちがエリート患者をどのように理解してどのような治療を行ったのかという問題は、医師たちが書いた症例録や症例誌 (historia) が大量に存在し、それらの分析からガレニズムに基づいた生活の実践の思想に沿った理解と治療が明らかになっている。それに較べて、あまり分かっていないのが、比較的貧困な患者の理解と治療である。内科医は富裕層だけが利用したと考えるのは大きな間違いであることが明らかになっており、正しくは、<富裕層は、内科医を常態的に用いており、しばしば別のタイプの医療者も利用した。貧困層は、別のタイプの医療者を常態的に用いて、時々内科医が利用された>というのが正しい。内科医が貧困層をどのように理解・治療したかという問題は、医療における近代がいつ始まったかという問いの中枢にあるフランス革命期の臨床医学の転換の問題とも関係がある。

救貧の文脈において、患者の病気を特定してそれが貧困の原因であることを特定する仕事もあったが、より重要であったのは、感染症の問題であった。具体的な病気はペスト、梅毒、そしてハンセン病である。ペストの流行は常に警戒されており、ある熱病患者がペストであるかどうか確かめるために丁寧に診察する仕事は重要であった。梅毒とハンセン病については、特にハンセン病と診断された場合、街の中への居住の禁止や財産や市民権などの変更という重要な事態となり、梅毒との類似も指摘されたので、これらはエリート層の診断のような詳細な診断の対象となったという。

これはとても重要なポイントである。私たちは、西洋の近代医学のはじまりを、1800年近辺のパリの病院の臨床医学革命と考え、病理解剖学と貧民の症状と身体内部へのまなざしの浸透によるものだとしている。この論文が示唆している方向は、ハンセン、梅毒、ペストにおける「プロト近代医学」の形成という方向だと思う。

坂口安吾「白痴」と、精神障害を露出した生活

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坂口安吾「白痴」
坂口安吾「白痴」を読んでおく。戦争末期の東京・蒲田のあたりに住む新聞記者の生活を通じて、空襲で最終的に破壊された生活の空虚さを描いた作品である。そこに描かれている精神障害者の生活ぶりが大変面白く、戦前の東京における精神障害のあり方について多くを教えてくれる作品だと思う。もちろんフィクションだから注意しなければならないけれども、精神病院の症例誌や同時期の精神病調査などと符合する点も多い。

主人公が住んでいる蒲田のあたりは、安っぽい街並みに安アパートが林立する地域で、そこには工場があり妾と淫売が住んでいる。肺病患者は家の小さな離れに閉じ込められ、兄と妹が近親相姦をしていたが兄に女ができて妹が自殺するような、当時の日本の医学と精神医学と優生学の問題のふきだまりのような地域である。ことに問題なのが、主人公の隣に住む「気違い」の一家で、かなりの資産家なのだが、夫は気違い、妻は白痴、母親はヒステリーという、言ってみれば優生学的な悪夢のような家庭である。母親は興奮すると狂騒的で病的な大声で叫び、夫は活発で、お遍路さんに出たり、隣家に侵入して飼っている豚や家鴨や鶏とからんだり、防空演習の時に奇矯な行動をしては人々に演説を垂れたりする。妻はおとなしい白痴だが、いつでもヒステリーの母親に怯えている。その妻が、ある夜に主人公の家に入っていて一緒に生活を始めるうちに、昭和20年の4月の東京の大空襲の中を、その女と一緒に爆撃から逃れる話が後半の山場である。

中世人は公衆の面前で生活していたといったのは、アリエスだったかしら。人々の眼前に精神障害を露出しながら戦前の東京人が生きていた様子が感じ取れるフィクションである。読んでとてもよかった。この一方で、精神病・ハンセン病・結核などは家筋に遺伝するということで「秘密」であったというメカニズムがよく分からない。

精神疾患の全成員調査―1940年・鎌倉郡

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平塚俊亮・野村章恒「神奈川県某地に於ける全成員調査」『民族衛生』9巻5号、1941:436-453.
神奈川県の某村というのは、鎌倉郡の村岡村である。人口は1700人ほど。この村の精神病の全数調査に基づく論文である。精神病調査についてもっと早く読んでおくべき資料だった。日本学術振興会の第26小委員会の悪疾遺伝の調査研究が費用をだし、東大の脳研究所の三宅鉱一・吉益脩夫が指導した。著者の一人の平塚俊亮は、飲酒などの精神衛生関連の論文を1930年代から40年代に書いていること以外にはまだ調べがついていない。もう一人の著者の野村章恒は、慈恵医科で森田正馬に学び、のちに慈恵の教授となって森田の伝記を書いた森田学派の主要な人物である。また、絵画や文学と精神医学の関係についての著作や論文が多く、日本におけるモダニズムと精神医学の豊かな関係を担った人物の一人である。私は読んでいないが、エドガー・アラン=ポーと図版についての仕事は、本格的に分析してみたいと思っている。精神医学において、森田療法―芸術文学というジャンルと、優生学と精神疾患の悪疾遺伝調査というジャンルは共存しないように見えるけれども、実は同一の人物が行っているということも、よく意味は分からないけれども、心にとめておいた方がいい。特に人文系の研究者で精神医学を論じるものたちには、前者のジャンルはよくて後者のジャンルは悪いという単純な二元論がありがちだから。

野村がこの研究に協力したのは、もっと現実的な状況によるものである。野村は昭和10年に、鎌倉脳病院(昭和6年設立)の医師となり、村岡村の村医と校医をしており、すでに村の事情に通じていた。ある個人が精神病質であるかどうかを判断するときに、村民をよく知っている野村の知識は頼りにされるものであった。さらに、野村が勤務する鎌倉脳病院の経営者は同村の村長であったため、村長の人脈で役場や学校に通じ、村の有力者をたどることもできた。精神病の調査、特にその遺伝の調査をするには、村民の生活の深い暗部に入らなければならない。「秘密」という表現はぴったりしないが、人々が声を潜めて話すような内容にかかわることである。村にある精神病院の経営者が村長であったため、恰好の調査体制を築くことができたにちがいない。ちなみに、この体制を誇る部分で、それまでの一斉調査、上からの調査、未知の地に踏み込む調査の不完全性を批判しているのは、暗に、同じ時期に内村祐之がアイヌ居住区、八丈島、三宅島で行った調査を批判しているのかもしれない。たしかに、三宅と内村の間には厳しい対立があったから、三宅派と内村派の対立があったのかもしれない。こういう「学派争い」の枠組みについては、私はある種のヒストリオグラフィカルな警戒心を持っていて、医者たちの内部での対立を軸に歴史を記述する、基本的にはインターナルな医学史の拡大版ではないかと思っているが、実際にそれが重要であったとしたら、その部分は受け入れて適切なウエイトを掛けて記述しなければならない。

この調査は、精神病実態調査が戦前の段階で直面していた難しさを教えてくれる。悪疾遺伝の調査は、「村民の一般感情を不快ならしめ、反感を抱かれる」という恐れがあった。(この不快感の質と構造も考えなければならない)実際、調査において、ある32歳の女子で農夫の妻が、質問に対して、「そんな事聞いて何すんだよ!」と憤怒してすごんだという。そのため、研究チームは、村とある種の取引きをすることにした。まずは、これは国策的立場からの調査であること。つまり、この村の悪疾遺伝を掘り起こして、村内・村外の結婚を難しくするような目的ではないこと。県当局と交渉して、保健調査地区として、村民からの意向によって、健康相談や育児相談などのサービスと抱き合わせで行うこと。精神病調査と並行して健康調査を行うことで、人々の深い秘密に触れる情報を取りだすことができるという発想である。

『アルバート氏の人生』

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映画『アルバート氏の人生』を観る。19世紀のダブリンを舞台にして、女性でありながら15歳の時に男性に集団レイプされて以来、男性としてホテルのウェイターを続けてきたアルバート・ノッブスが中年になって人生の転機を迎え、さまざまな悲喜劇が起きるありさまを描いた作品である。グレン・クローズは、私が好きな大女優の一人で、『危険な関係』『ハムレット』以来、久しぶりにスクリーンで観たけれども、やっぱり最高だったと思う。

物語は、フェミニズムと階級社会の二つの話が折り重なりながら進んでいく。私生児に生まれて下層階級に入るが、男になりすましてホテルのウェイターになり、それから金をこつこつと貯めてリスペクタブルな上昇を目指してしているいじましい人物がアルバートである。この周囲にも、ヴィクトリア時代の下層階級が暮らす生活の厳しさと社会格差と性の構造がもたらした閉塞が、さまざまなキャラクターを通じて描かれている。アルバートと同じように女性であることを隠して男性として生きていて、別の女性と「結婚」している人物が登場するが、彼女もとても印象深いキャラクターである。『アリス』や『ジェイン・エア』の主役に抜擢されたた新星、ミア・ワシコウスカがアルバートと同じホテルで仕事をする可愛いメイドの役で登場して、貧困から抜け出したい一方で、ロマンスとセックスが好きな若い女性を演じているのだけれども、あまり心に響かなかった。もともと、顔のつくり自体で言えば決して美人ではなくて、映画の大スクリーンでアップになると魅力的に見えないというネガティブなことが気になってしまった(涙)

Peter Campbell

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London Review of Books という隔週の書評誌があって、イギリスの大学の学科のコモンルームにはTLSやTHESなどと並んで一緒に必ず置いてある。書評紙といっても、書評の形を取った評論と云うのが正確で、学術誌の書評とはだいぶ違う。まず長さがだいぶ長く、学術誌は長くて1000語くらいであるのに対し、LRBは短くて3000語、長いものは5000語くらいある。書き手も、研究者というより、知識人のラインアップといったほうがよい。内容も、精確さより的確さ、要約よりも洞察が前面に出た感じがするスタイルで書かれている。この書評紙から私は非常に多くのことを学んだと思う。書評を書くということだけでなく、学会やセミナーでの質問やディスカッションはもちろん、学術論文での先行研究の批判など、対話的に行われる学問の営みの作法を私が学んだのは、指導教官とLRBからである。

LRBの一面はピーター・キャンベルのイラストで、2011年に彼が亡くなるまで、毎号にわたって彼の作品が一面の表紙だった。彼の作品を集めた画集が出て(そしてLRBで広告されていて)、研究費では買えないし、少し高価な本だったけれども、思い切って買ってみたら大成功だった。自分の学生時代から中年までの知的なアルバムのような価値がある。書評紙の表紙のイラストが続くだけといったらそれまでだけれども、多くのイラストが記憶からよみがえり、自分が愛読した書評がぽつぽつと目に留まった。作品の主題は、イギリスの街や田園の何気ない風景、さりげない示唆がこめられているような室内の光景である。

画集はこちらから購入できます。文中でも触れた最後の作品もアップしておきました、

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