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Channel: 身体・病気・医療の社会史の研究者による研究日誌
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高林陽展「戦争神経症」

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高林陽展「戦争神経症と戦争責任―第一次世界大戦期及び戦間期英国を事例として」『季刊戦争責任研究』70号(2010.冬),53-62.
頂いた論文を読む。
清水寛らの労作のおかげで、日本における15年戦争期の戦争神経症の研究が始まっており、患者記録を含む膨大な資料も復刻されて利用可能になっている。イギリスでは、1980年代から戦争神経症という主題が発見された。これは、精神医療の現代の始まりを象徴する転換点であると捉えられてきた。すなわち、強靭な精神力と勇気を持ち愛国心に満ちているはずの男性兵士のあいだに、まるでヒステリーの女のような神経症が無数に発生し、それを国家が認めて補償をするメカニズムが作られるという意味で、ヴィクトリア朝の理念が崩壊し、福祉国家が登場してきたことを象徴する事件として捉えられていた。日本の戦争神経症は、日露戦争でも発生したし、15年戦争では大量に発生したが、そこから歴史学者たちは何を読み取るのだろうか。

この論文は、こういった日本の研究の文脈に軽く交差させる仕方で、イギリスの戦争神経症研究の歴史を記述したもの。イギリスにおいても、戦争神経症は、「外傷がないのに戦えない」という軍の規律の根本を乱すものと捉えられた。「臆病行為」ということで、死刑判決も3000人に対して出された。(その多くは見せしめであり、のちに減刑された。)症例を扱った論文を医学雑誌に発表することは禁じられ、戦争神経症の兵士を地元の街に送還すると不必要な同情を得るとされた。治療と称して与えられたものも、ショック療法などの、懲罰的な厳しさを併せ持つものであった。外傷なしに戦線を退くことが認められると、詐病行為の温床となることが心配された。戦争神経症が扱われていた基本は、軍のマッチョな文化の中で定義されていた疾病であった。

それが変化したのが、戦後の調査である。戦争神経症調査は、これを病気として認め、国家による年金支給の補償の対象となった。そのため、戦争中に認められた戦争神経症の数よりも補償の対象となった数の方が多いという事態も起きた。また、独自の神経科クリニックが作られ、そこで治療が行われた。国家だけでなく、慈善もこの治療に乗り出し、専用の慈善治療院を設置するものもいた。精神科医たちも、この新しい構造において地歩を築きながら、自らの地位を高めようとしていた。

神経症を問題にする仕方が、軍という規律と構造を重んじる集団と、より流動的な新しい構造と価値観の創出を許す一般社会と精神医療の空間においては異なっていた。一般社会と精神医療の空間においては、国家の決定に沿って、新しい神経症の理解を構成していくことができた。

著者はイギリスで博士号を取得した気鋭の研究者で、イギリスの優れた歴史学者に見られるような、鋭い分析概念を背後に持った的確な説明の仕方が、成熟を感じさせる。「成熟」もそうだし、「的確」もそうだけれども、これらはある種の美学のようなものとしか言いようがない概念で、説明するのがとても難しい。

レオナルド『岩窟の聖母』

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ロンドンでレオナルドの大きな展覧会をしているから、イギリスのメディアはこの展覧会の評論で溢れている。TLSに掲載されたジュリアン・ベルの評論がよかった。

アルベルティ『絵画論』において、歴史画(historia)という格調高い絵画においては、その絵の中にある人物を描きこみ、その人物が、その絵を見る者に、この絵では何が起きているかを語り、自分の手を用いてそれを示すようにしなければならないとされている。絵画の中の人々が、自分たちの間で行っていることと、絵を見る人に向かって行っていることの双方が、うまく組み合わされて優れた歴史画が作られるという。絵画の中の世界を、見る人に向かって指し示す案内人とでもいうのだろうか。

ルーブルにある『岩窟の聖母』においては、この案内人の役をしているのは、右側の天使である。この天使は、私たちの方をむいて、幼児キリストが幼児ヨハネを祝福しているありさまを指さしている。しかし、この指は、それが示しているはずの場面に、私たちのまなざしを誘わない。むしろ、マリアの手と、キリストの頭の間にある磁場に介入するかのようである。のちに描かれたロンドンの『岩窟の聖母』においては、その指が消された構図になっているから、ルーブル版をある種の失敗と考えることもできるけれども、この「失敗」は、ある種の異様な迫力をもたせていると考えることもできる。 まるで、鑑賞者が、キリストの頭の上の空間に入って、その場に参加するような。 

『宝島』の地図

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R.L. スティーヴンソンは、彼の出世作であるTreasure Island (『宝島』)の成立について、印象的なエピソードを語っている。呼吸器の病気で苦しんでいたスティーヴンソンは、エディンバラを避けて、家族で転地療養のために ブリーマール(Braemar)に来ていた。新しい妻と、13歳の息子も一緒であり、一家は本を読んだり絵を描いたりして夏を過ごしていた。

8月のある日のこと、息子のイーゼルに画布をかけ、スティーヴンソンは絵具で島の地図を描いてみた。その地図は、形も色もすばらしく、それを見ていると、島の森から登場人物たちが自然に表れてくるかのようであった。スティーヴンソンは、すぐに登場人物のリストを作った。着想は流れるようにあふれ出てきて、毎朝一章の割合で書くことができたという。

島の地図を描いたら、そこに登場人物が躍動し始め、彼らが活躍する物語があふれるように流れ出したというのは、大航海時代から帝国主義にかけてのヨーロッパの想像力の形を鮮やかに示している。探検家が未知の土地に行き、帰国してそこのおおまかな地図を描いたときに、「この場所に人生の大冒険が待っている!」という想像力が人々の基本的な姿勢をつくるという構造が見えてくるような話ではないだろうか。似たようなエピソードが、シーボルトが日本を目指したときにもあったような記憶がある。

もっとも、スティーヴンソン自身が認めているように、ストーリーをつくるうえでの仕掛けは、他の物語から自由に拝借したものであった。たとえば、骸骨の姿勢で宝の方角が分かるというのはポーの『黄金虫』からの拝借だし、シルバー船長のオウムは『ロビンソン・クルーソー』からの拝借である。

アリス・ジェイムズの乳がん

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James, Alice, The Diary of Alice James, ed. By Leon Edel (London: Rupert Hart-Davis, 1965).

心理学者・哲学者のウィリアム・ジェイムズと、小説家のヘンリーを兄にもったアリス・ジェイムズは、5人兄弟の末っ子でただひとりの女の子であった。彼女はずっと病弱であったが、健康をとりもどすためにイングランドにきて療養生活を送り、しばらくしてから乳がんであると診断される。イングランドに到着してから日記を書き始め、自分ががんであると知ってからも日記は継続された。兄ヘンリーも暮らすロンドンについての鋭利な評論と、死の数日前まで書き綴られた闘病記がミックスされたようなすぐれた作品になっている。同じ乳がんの治療を受けて『隠喩としての病』という傑作を書いたスーザン・ソンタグは、アリス・ジェイムズを主人公にした劇を書いているそうで、私は読んだことがないが、きっと重要な作品だと思う。

ちなみに、この日記は、もともとアリスは死後に出版するつもりであったらしく、付添をしていた女性が手稿から版を起こして、四部だけ印刷して、兄弟らに配った。しかし、この日記では、名前を出して私人について自由に語られ、ヘンリー・ジェイムズは「恐ろしいことだ」といって、この日記がさらに知られるのをできるだけ防いだ。特に、そこには、ヘンリーが妹のお見舞いにいって、ちょっと色をつけながら気楽に話していたロンドンの文人たちの社交生活が描かれていたから、ヘンリーとしては責任を感じるという事情もあった。そういった理由で、この日記が出版されたのは、死後40年以上たった1934年であり、さらにそれから30年以上たって、より丁寧に校訂したものが出版された。

1891年6月5日
腫瘍ができても道徳心は堅固に持っていられると思っていたが、実際に腫瘍になると、それは、おぞましいものだった。わりとよくあるもので、悪意はないのだが、私の思考を破壊した。

1891年12月4日
不信実な悪魔であるモルフィアは、痛みを消す一方で、眠りを破壊し、あらゆる恐ろしい神経病の苦しみをもたらすのだが、3週間か4週間前に、その非道さを我々にむきだしにした。Kと私は、これまでにないどん底を味わった。催眠を用いるタッキー博士にかかったのもそういう理由である。

1892年2月2日
この長いゆっくりとした死が、私に教訓をもたらしてくれるのは疑いない。しかし、そこには興奮がないので失望する。「自然さ」と称されるものが、極限まで推し進められて、いろいろな活動が一つ一つ禁止されなくなっていくのである。

1892年2月29日
看護婦から聞いた話。あるとき、病院に、ひどい口を利く土方の労働者がやってきて、クロロホルムをかがされるということになった。彼女と助手は、麻酔をかけられると彼がどんなひどいことを言うのか不安だったので、もし汚い言葉をはいたら口をふさごうとしてハンカチをもって待っていたのだが、意に反して、彼は麻酔が効くとイエスについて語り始めた。

1892年3月4日(最後のエントリー、死は3月6日)
私は、身体の痛みという厳しい石臼のなかでゆっくりとひきつぶされている。二晩ほど、Kに、致死の薬を与えてくれるよう頼んだほどであった。しかし、そのような見慣れぬ死に方を進むことはためらわれ、一秒ずつ苦しみながら進むありきたりの道を選んだ。私を生き続けさせている小さな金槌は、もうじきその仕事を終えるだろう。これがどうなろうと、身体の痛みというのは、それが大きいものであっても、もみがらが落ちるように心から消えていく。しかし、道徳上の不整合や心の恐れは、焼き付けられるのだ。これらは、つきそいのキャサリンがコントロールしてくれているので、私は恐れていない。

『ジョー・ブラックをよろしく』

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『ジョー・ブラックをよろしく』をDVDで観る。これは1998年の映画で、公開されたころに私も観たけれども、当時は、ブラッド・ピットはまだ若手に分類できる俳優だった。「ファンタジー・ロマンス」で、メディア王のビル、その娘のスーザン、そして死神の三人が主人公。アンソニー・ホプキンズがビルを、プラッド・ピットが死神を演じている。スーザンを演じたのは、クレア・フォルラーニというイギリスの女優さんで、メリル・ストリープを思わせる面長で知的な感じの女優さんだった。ビルを「連れに来た」死神が、その娘のスーザンに恋をしてしまうというストーリーである。

マルコム・ニコルソンという医学史の学者が、この映画の解釈について面白いことを書いていた。この映画の中の死神が、恐怖を覚えさせる役ではなく、しかもブラッド・ピットが演じているということに注目して、「死」のイメージが変化してきているという。かつての絶対的な異世界から来る恐ろしい「死」(Death) ではなくなり、この世の中にまじりあって、部分的にはこの世の存在にすらなったということである。この変化は、脳死に象徴されるように、死と生があいまいな形で混在するかのようになったことと関係があるという流れだった。映画を観て、この解釈に半分だけ説得された。話は分かるけれども、それがコメディのキモであって、そこに多くを読み込むべきだろうかというのが、正直な印象である。

ディケンズの女性

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ディケンズの小説に登場する女性の登場人物は、「人間らしさ」が描かれていないことが多い。アグネス・ウィックフィールド(『デイヴィッド・コッパーフィールド』)のような血が通っていない道徳性や、ミス・ハヴィシャム(『大いなる遺産』)のような暗い復讐の怪物性の両極端のあいだを揺れ動いている。実生活においても、自分を見はなした母をうらみ、恋に破れ、成功したのちにも若い女優に恋をして糟糠の妻を追い出すというように、女性に対して適切な関係が取れなかった。

『コレラの時代の愛』

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台湾での二つの講演を終えた。どちらも初めて書下ろす講演で、授業の準備などと並行しながら、リサーチをして議論を二つ作り出して書き下ろすのはとても大変だったけれども、どちらも手ごたえがある議論を作り出すことができた。これで今年の仕事が終わったので、今日は、久しぶりに、仕事をしない日曜日を過ごして、小説を読んでいた。

『コレラの時代の愛』は、主要な登場人物の一人が医者であり、また、表題が示すとおり、数十年に及ぶ時代をカバーするストーリーの随所に、それがコレラが流行している時代であることを示すエピソードが挿入されているので、医者や医療関係者や医学史家に人気がある作品であり、私もいくつか好きな場面がある。もちろん医学や病気の話が出てくる部分も興味深いけれども、私が一番好きな部分は、女性主人公のフェルミーナ・ダーサが、男性主人公のフロレンティーノ・アリーサへの恋が幻想であると気づく部分で、それにいたるまでの「買い物」の場面である。

登場人物の医者、ウルビーノ博士が読む書物として、アレクシス・キャレル『人間この未知なるもの』が登場している。69

ウルビーノ博士は、パリで医学を学んだが、その時に、アドリアン・プルーストという教師に習ったという設定になっている。このアドリアン・プルーストは、有名な小説家のマルセル・プルーストの父である。調べてみたら、実は、アドリアン・プルーストは『コレラについて』という著作があった。

『科学警察』

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レオン・ルリッシュ『科学警察』浅田一訳(東京:白水社、1952)

必要があって、「科学警察」というタイトルのクセジュ文庫を読む。訳者の浅田一は、1887年生まれ。東大の医学部で法医学を学び、長崎の医学校や東京医科大学の教授となる。国警本部科学捜査研究所顧問。医学者であると同時に、多作なもの書きでもあって、私も浅田が書いたものを読む機会が多かった。リサーチというほどのものではないが、ちょっと浅田の仕事をまとめて読んでおこうと思って、いろいろと取り寄せて読んだものの第一冊である。

「科学警察」という言葉から、ガッチャマンみたいなものを連想してしまうが、これは、刑事訴訟でいうところの証拠のうち、自白や証言ではなく、「犯跡」というものを扱う学問を指す。犯跡を発見し、解読し、これより生じる証拠を判定する学問を「科学警察」または「犯罪科学」という。(ちなみに、「犯罪学」というのは、犯罪と社会の関係を問う学問を言う。)

ある人をその人と分からせるものを「個人識別」という。これも、長い間は、自白でなければ証言だけが頼りであった。たとえば、再犯者が、もともとの名前を隠して刑務所に入った場合、刑務所の所員による証言か、囚人による証言だけが、彼を識別するただ一つの決め手であった。そこから、身体の特徴を合理的に記録して個人識別を可能にしようとする試みがはじまり、19世紀には、指紋をはじめ、いろいろな道具が現れたが、ベルティヨンが1880年代の導入したのが、アントロポメトリーと呼ばれる、身体各部の長さを測定する方法であった。しかし、これは身体が成長する少年には全く役に立たなかったため、ベルティヨンは「ものいう写真」と呼ばれる方法を編み出した。これは、一言で言うと、漠然とした印象の言葉で語られていた人の顔貌を、科学的な正確さとともに記述する方法である。たとえば、ケトレーの統計学の原理を用いて、身体の各部については、とても小さい、小さい、やや小さい <中間値> やや大きい、大きい、とても大きいという六つに分けて、記述する。その他にも、顔面の傾斜や目や髪の色などについても、厳密に記述するシステムをつくりあげたものである。

写真は、ベルティヨンとゴルトンが、犯罪者風に撮ったもの。

戦前の広告と男性精力の機械性

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天野祐吉『嘘八百―明治大正昭和期変態広告大全』(東京:ちくま書房、2010)
天野祐吉というコピーライター・広告文化人がいて、『嘘八百』というタイトルで、近代日本のおかしな広告を集めた文庫本を編集していて、その中に、医学・薬系の新聞や雑誌の広告が数多く含まれている。これは学術書ではなくて、面白さを追求した本だから、気をつけて使わなければならないのはもちろんだけれども、センスがよくて、学者が読んでも面白い広告ばかりが集められている。

私が調べている病院の患者の症例誌に手淫と真空治療器の話が出てきたので、真空治療器の広告を見てみた。「東京新療法研究所」なる会社が作って、大々的に新聞などで広告していた「真空水治療器」という名称で売られている機械が一番近い。天野『嘘八百』176-7ページによれば、このように広告されている。

「先天的あるいは精神過労や不自然行為などのため、生殖器の発育不良短小不完全であったり、機能障害があっては、せっかく苦心勉学しても、他日妻を迎える資格なく、妻を迎えたとて、新婚蜜月の歓楽も失望に帰し、離婚問題が起こることになるから、生殖器発育不完全、機能障害であって泣かないものは腑抜けである。(中略)[しかし] 真空水治療器を、自分で秘密、簡単、安全に、一日一回わずかに五分間ずつ使用して治療すると、たちまち驚嘆すべき理学的真空吸引力により一回ごとに著しき発育が本器のメートルへ一回ごとに数字的に現れ、同時に神秘きわまりないエンツンデュング作用により、遺○、夢○、早○、陰○、局部性神経衰弱を復活して機能を着々強健旺盛ならしめ、費用少なく、時日短くて、しかも効果は満点的に弱小も強大化し、元気も溌剌となり人生が明るくなる」

この広告のコアは、機械性と結婚生活にある。この器械でペニスを刺激すること、真空が作られてペニスが強壮になり、発育がメーターに数字として表れるという部分は、ペニスが機械の一部になって測定されるかのようだし、「エンツンデュング」(発火)という表現は、まるで内燃機関を思わせる表現である。(後者は確かめなければならない。)これをサイボーグと呼ぶかは別にして、身体が機械と一体化するようなイメージを作り出している。

この機械的改善の結果、性器と生殖機能が強壮になると、将来結婚した時に、妻を性的に喜ばせて幸福な家庭を築くことができるという。夫婦の性的な満足が、家庭の安定と社会の安定に必須の条件であるという思想は、欧米では、たとえばマリー・ストープスの Married Love (1918)が象徴するように、一定の力をもった価値観として確立する。ストープスの充実した性生活の概念は、男性の強壮性よりも、性交以外の愛撫による対話と相互の満足に力点を置いているが、結果的な女性の性的な満足が重要であると考えている点では共有している。この価値観にもたれかかって広告したものである。(日本におけるこの価値観の普及については、調べてみなければならない。)

男性身体の機械性は、家庭という私的領域だけではなく、国家と産業ともつながっている。これは別の広告であるが、「神恵錠」という薬は、「国家産業の盛衰は国民精力の強弱に比例す」とうたっている。そして、ここでは人間という性的な機械は、産業と国家をささえるものであると説明されている。

「素晴らしい大産業の背後には常に偉大な大生産器官が轟々と運転している。この器官の背後には、強力な動力が絶えずエネルギーを供給している。雄大なる大事業の進展には絶えず強健な霊肉<精神身体>が活躍している。強健な霊肉の活躍は、強力な生殖腺ホルモンが支持している」

産業をささえている動力機関と、生殖腺がうごかす人間身体を、国家や産業をうごかす機械なのである。

レオナルド展

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静岡市立美術館で、レオナルド展を開催している。モナリザが5種類ほど並んでいる展示は素晴らしい。

『新版 大学生のためのレポート・論文術』

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小笠原喜康『新版 大学生のためのレポート・論文術』(東京:講談社現代新書、2009)

必要があって、「論文の書き方」編の新書を読む。人気があった旧版にかなり手を入れて、新版として書き改めたとのこと。学部1・2年生から卒論くらいまで、大学で課されるレポート・論文が、それらしい形を持つようにするためのマニュアルを丁寧に説明した書物である。

類書をいくつか読んだけれども、この書物は、「マニュアル」というものに徹していて、好感が持つことができる。冒頭から、ワードの形式の話をしているあたりも、なるほどと納得することができる。私自身は、澤田昭夫の『論文の書き方』『論文のレトリック』を漠然と使っているけれども、この書物には、著者の学問に対する思いが溢れすぎていて、学部生には重すぎるという印象を抱いていた。この手のものを、学問論をふりかざすことなく、熱情を抑制して書くことができるというのは、すぐれた才能であると思う。

統合失調症概念の歴史を調べることの意味

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Hoenig, J., “The Concept of Schizophrenia Kraepelin-Bleuler-Schneider”, British Journal of Psychiatry 142(1983), 547-556.

クレペリン、ブロイラー、シュナイダーという20世紀前半のドイツ語圏精神医学の巨人を三人取り上げ、彼らの統合失調症(早発性痴呆、分裂病)概念を吟味する論文である。基本的には、偉大な医者の偉大な概念の歴史であるから、プロの科学史・医学史の研究者の中には、時代遅れの方法論だと思う人もいるかもしれない。しかし、この論文では、重要な問題提起がされていて、それが、精神医学の歴史を知ることが、現在の臨床にどのように役に立つかという問題の議論である。精神医学の歴史は、精神医学という学問の周辺にあって、現実の医療の現場から離れ、あえていえばインテリ気取りの医者が古い本に書いてあることを得意そうに並べ立てることだと思われている。しかし、分裂病の概念の歴史を知ることは、実際の臨床や研究をするときの立ち位置を深め、明確にする効果を持っていると著者はいう。

クレペリンは、早発性痴呆という概念を確立した。その過程で、解剖学や生理学などにあまりに依存したかつての方法から離脱して、臨床的に観察できる症状を重視した。しかし、彼の器質論的な考えのために、患者自身の心理や内的生活に注目しなかった。それに対し、ブロイラーは、クレペリンに賛成して、分裂病が身体的・器質的な基礎を持つことは受け入れたが、彼の助手であったユングを介してフロイトの影響をうけ、分裂病のより心理的な側面を重視する概念を作り出した。患者が示し、医者が認める「症状」のほとんどは、心理的な原因を持つ。その原因がないと、病は、本来は存在しているが、潜在的なままである。しかし、ある心理的なコンプレックスが発現すると、心理的な内容をもつ症状が引き起こされる。これは、一次的症状と二次的症状の区別という概念装置をもち、この概念装置においては、患者の「心」 psyche が非常に重要な位置を占めるようになる。シュナイダーにおいては、ヤスパースの内的生活の概念とともに、患者への質問が重要な意味をもつようになった。質問は、患者が心の内部において経験している異常な世界や現象を、たくみに引き出す仕掛けでなければならない。

この、異なった概念と学派に属する精神科医が、一人の患者を交代でみた症例誌を研究していて、その症例誌における精神医学理論の多様性を分析するうえで、とても重要で根本的なヒントが盛られている論文だった。読んでよかった論文である。

ついでながら、ブロイラーの概念では、クレペリンの概念よりもあいまいさをまして、分裂病の範囲が拡散した。このことと、1933年のナチスの優性法における「分裂病を断種するべし」という規定のあいだには、重要な関係がある。

精神分裂病の歴史

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Gilman, Sander L., “Constructing Schizophrenia as a Category of Mental Illness”, in Edwin R. Wallace, IV and Jon Gach, History of Psychiatry and Medical Psychology (New York: Springer, 2008), 461-483.
画像の分析で一時代を切り開いた著名な医学史研究者であるサンダー・ギルマンによる、精神分裂病のカテゴリーの歴史。分裂病を非歴史的な実体をもった疾病と考えてその歴史をたどる方法を批判して、分裂病という「何かを説明するパターン」がどのように構成されていったのかを調べる、70年代以来の古典的な手法を取っている。前半の主たる話は、19世紀の前史、クレペリン、ブロイラー、フロイトという教科書的な内容である。後半はナチスの優生学的な精神病政策の基礎となったエルンスト・リュディンの分裂病の疫学と、その生徒のフランツ・カルマンの精神病研究の概説。カルマンは特に双子の例を用いた精神病研究で名高く、彼の研究は、戦後の精神病の遺伝研究の基礎となっていた。

クレペリンの dementia がラテン語で、ブロイラーの schizophrenia がギリシア語であるということは、言われてみればその通りだけれども、それほど重要なことなんだろうか。

女学校の集団ヒステリー・昭和16・17年

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昭和16-17年の女学校におけるヒステリーの流行性発生
未読山から論文を読む。佐藤亨「『ヒステリー』の流行性発生について」『順天堂医事研究会雑誌』no.589(1943), 19-29.
ヒステリーの流行性発生の存在は知られているが、その報告はまれである。筆者である佐藤は、東京文理科大学教育相談部部員として、都下某女学校において発生したヒステリーの流行を調査したので、それが報告される。
 
全体としては、昭和16年6月24日から17年の3月23日まで、合計15名がヒステリーの発作を起こした。このうち、2月の後半に大きな発作の集中がみられる。発作は、いわゆるヒステリーの大発作のような大仰なものではなく、手足などに震えがくるものであった。それぞれの生徒の家庭構成と性格などが調べられて、「ヒステリー性」の性格であるからという方向の推論がされている。
 
「発作を起こした生徒の環境を子細に見ると、一人子とか、父または母の溺愛とかを認められる。とかく、かかる児は幼少の折から、周囲によって、自己の思うままになるようにしむけられるので、もし、自己の精神的不満か又は苦痛があると、代償的に、肉体的にある表現を起こす魯考えられる。(中略)暗示は、自己暗示もあるが、他人よりの暗示友人なり又家族の周囲のものの暗示もこれを助長したことも否めない。かつ、この流行が互いに親友の間に濃厚に行われたのは注意すべきことである。」 29

緒方洪庵

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Najita, Tetsuo, “Ambiguous Encounters: Ogata K?an and International Studies in Late Tokugawa Osaka”, in James L MacClain and Wakita Osamu eds., Osaka: the Merchant’s Capital of Early Modern Japan (Ithaca: Cornell University Press, 1999), 213-242.
未読山の中から、テツオ・ナジタによる緒方洪庵の研究を読む。論旨が明快ですぐれた論文。話のポイントは二つあって、ひとつは、適塾出身の福沢諭吉がのちに描いた近代主義者・反漢方医学主義者としての洪庵と適塾の一面性を訂正して、洪庵が構想した医療の儒教的な基盤を明らかにすること。言葉を換えると (in other words)、福沢が「明治から見た洪庵・適塾」の姿を描いたのに対して、この論文は、「江戸の発展としての洪庵・適塾」を描いている。もう一つは、それに関連することであるが、儒教と漢学の基礎を学んだあとで「言語を習得する」ことを中心に据えた蘭学が行われたことである。

ちなみに、コレラを「コロリ」といい、これに「コレラ」という語の音に似せた洒落と、三日で「コロリ」と死んでしまうということをかけ、さらに、虎―狼―狸という三種の動物の音を重ねたことはよく知られている。これを英語にすると、虎はtiger、狼はwolfというのは何の問題もないが、狸が raccoon dog というのが、どうもおさまりがよくないなと思っていたら、これを badger (アナクマ)の語を使っていた。なるほど!

祈祷性精神病

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佐藤政治「看過され易き祈祷性精神病に就て」『日本医学及健康保険』no.3267(1941/42), 154-9.
森田正馬の「祈祷性精神病」をうけて、この病気の心理的な機構の解明に取り組む医者たちが現れた。これは、森田が教えた慈恵会医科大学の助手による、いわば森田の本拠地の後継者による臨床観察に基づく論文である。ポイントは、この病気がなかなか注目されないことの背景には、それが医者によって見いだされにくいという構造的な問題があり、その構造は、患者の側の事情と、医者の側の事情の双方にまたがっている。患者の側には、この病気にかかった人々が医者にかかることを嫌うという事情があり、これが医者との接触をまれにし、接触した場合でも拒診的な態度をとって、診療を難しくしている。一方医者の側には、この病気は他の種類の精神病の不定型群の中に混じりこんでしまっているし、また、この心因性の病気の推移には長く時間がかかるので、この病気を通して観察することが難しい。なお、このポイント自体を論じることがこの論文の目標ではないが、この病気の治癒までの進行を早めるために、電気痙攣療法を用い、それによって在院期間を短縮して医者が観察しやすい現象にしたことは、私にとってはとても重要な情報だった。

森田の祈祷性精神病は、285人の患者中、5-6人に見出され、心因性の精神病の大部分がこの病気である。この論文では三つの症例が丁寧に分析されている。病床日誌から直接おこした症例だから、とても重要な情報が生のまま含まれている。たとえば、患者が「感応」という言葉をつかって、幻聴や暗示などを語っていること。あるいは患者は病院では尊大であり扱えなかったが、病院を退院後日蓮宗の寺に入り、少し平静になってから自宅に帰ること(治療の場の多様性)。ECTを行うと急に平成になり、ほとんど別人の如くなり、作業にも参加し、他の患者と談笑したりするようになること。自家の軒下で古帳面を焼いたとき、平生から半狂人だと思っていた近所の人々が、これを警察沙汰にしたため入院したこと。中年後の女性の比較的文化の低い生活と、その孤独不遇が問題にされていること。なによりも面白かったのは、患者のセリフで、「天皇陛下様のことを一口いったのが悪かった。そのせいで[病院に]入れられた」と患者が言っていること。これは、患者の多くは、天皇と国家についての強烈なタブーを認識しており、それに沿って行動していたということになるのだろう。

精神薄弱と優生学と総力戦動員

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櫻井図南男「精神薄弱の概念に就いて(産業と精神薄弱の問題)」『福岡医学雑誌』36(1943), no.8, 808-816.
のちに九州大学の教授となる櫻井図南男の論文。当時の所属は、九州帝国大学と三井産業医学研究所神経科とある。この段階では、ドイツの学者の議論のまとめが主であるが、このまま続行されていれば水準が高い研究になったであろうことを感じさせる論考である。

歴史的にいって、この論文の大きな特徴は、戦前のドイツと日本において精神薄弱が定位された文脈の違いを浮き彫りにしていることである。ドイツにおける優生学と断種政策を通じて、断種の対象としての精神薄弱の境界線をどこで引いたらいいのかという問題が鮮明になり、ドイツの学者たちは遺伝研究と精神病学の哲学的な分析を駆使して、精神薄弱の本質にせまろうとした。櫻井の論文の前半では、ドイツにおける研究の概観が行われている。論文の後半は、日本の労働動員の文脈の中で、精神薄弱を位置づけるにはどうしたらいいかという議論になっている。やや驚くべきことは、この二つの大きく違う文脈・アプローチは、精神薄弱の程度としては重度ではなく、正常人との区別があいまいな境界域の人々が問題としてクローズアップされているという共通点を持っている。

クレペリン以来の精神医学者による「精神薄弱とは何か」というシャープが議論が展開されて、精神薄弱と痴呆というのは著しく異なった状態ではなく明確に分けることには意味がないこと、同じことが精神薄弱と精神病質についても言えることなどが論じられる。「精神薄弱と精神病質の病像が、定型から離れるにしたがって混淆することはむしろ当然である」。さらに、精神薄弱と正常における能力低下との間にも、重なりあいがある。ドイツにおける優生学と断種政策は、精神薄弱の境界をどこに定め、どこで断種するかしないかの線を引くべきかという問題を鮮明にした。重度の精神薄弱で「白痴」にあたるものは問題ない。議論しなければならないのは、正常人の低格に近い精神薄弱である。グラフでいうと、正常と低能がかさなりあっている部分である。

日本においては、断種ではなく産業動員が、櫻井が精神薄弱の問題を研究する背景であった。「しかるに産業界における最近の趨勢は、あらゆる人的な資源の極度の利用と駆使とを必要とするに至った。いわゆる猫の手も借りたい状態なのであって、いわんや人間である以上、低能だろうがなかろうがそういうことを問題にしてはおれないのである。かくて今やすべての産業に、多かれ少なかれこの種の低格的な素質不良者の混入を見るようになった。これはちょうど、一度沈殿したものがあおられて、再び全部にごったようなありさまであり、決して軽視できぬ事実なのである」。そして、この動員で問題になるのは、重度ではない精神薄弱が作業の場において常人と混じることである。白痴の場合は、これは誰でもわかるから問題ない。しかし軽度の場合は、素人には分からないから注意が必要である。つまり、精神薄弱者を労働に向かないとして排除するのではなくて、彼らがどのような仕事ができるか、適性決定をするのが精神医学者の役割ということになった。この事態をさして、「変態的な問題」と櫻井が呼んでいるのは、これは櫻井が信じているあるべき形とは全く違うことに対する批判が込められていると考えていいだろう。

尾崎紅葉『青葡萄』とコレラ

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尾崎紅葉『紅葉全集 第六巻 多情多恨・青葡萄』(東京:岩波書店、1993)
必要があって、尾崎紅葉の『青葡萄』を読む。明治のコレラ流行について色々なことを教えてくれる古典的な小説である。

この作品は、明治28(1895)年の9月から11月にかけて「読売新聞」に連載されたものである。もともとの構想では、これは「前編」であり、これに続いて「後編」が書かれる予定であったが、結局書かれぬままに終わった。「青葡萄」というのも、現存の作品だけを読むと何のことやらわからないが、紅葉の説明によると、庭先にあった青葡萄を食べてコレラになったという内容を後編に書く予定だったとのこと。

授業で教材に使うとしたら(笑)、読み取らせなければならない重要なポイントは少なくとも四つ。一つは、コレラ患者の発生は私的な領域の境界を侵すということである。侵犯するのは、隣人でもあることもあるし、警察であることもある。患者が吐瀉する音が高く響くから、向かいの家の人がそれを聞きつけて密告しないだろうかと心配する部分は、迫真性をもって描かれている。警察から家にきた巡査への怒りと憤りと卑屈も描かれている。コレラ患者を出すことが「犯罪の匂いがする現象」になったことを察することができる。

二つ目は、医師が置かれた当局と患者とのあいだのディレンマである。医師との関係が、ただの医者と病家との関係でなく、私交の関係を含むときに、医師は警察と患家の間に板挟みになって苦しむこととなる。警察はコレラの疑いがある患者を発見したら即刻届けるように医者に命じている。患者を隠ぺいした場合には60円の罰金であると言わしめているし、刑事巡査が医者を尾行しているケースもあると書かれている。しかし、コレラ患者と家族にとっては、その疑いだけで届けられて避病院に連れて行かれるのはあまりにも薄情である。

三つ目は、このディレンマにおかれた医者にとって、少しでも助けになるのが、もう一人の医者を連れてくるということであったということである。この作品でも、もともと友人であった医師Kは、板挟みになって別の医師 M の立ち合いを仰いで、結局はMの勧めもあって、検疫医を呼ぶことになる。この検疫医というのが、尊大・傲慢・不親切・役所的で人民を見下す人物を想定した語り手の想像とは違って、篤実で温厚で敬愛するべき君子風の老人医であった。この検疫医も、結局は、避病院にやるのがいいという。ここで登場する検疫医は、もとは漢方医なのではないかと思うくらいの年齢で、臨床的な観察に基づいて避病院送りを勧めるが、ここには細菌学的な診断も何もないということは象徴的である。

四つ目は、避病院における自費診療の問題である。語り手はさんざん悩んだ末に、患者を避病院に送ることを決意する。この決断から罪の意識を少しでも取り去っているのが、「自費療養」というセクションである。そこでは、取扱いもよく、看護も十分であるし、別に看護婦を雇って世話をするために送り込むことができる。「釣台」という籠で運ばれるのだが、警察が、自費療養だから取扱いに注意するように、あまり揺れないようにかつげと命じているところを見ると、釣台での輸送の仕方にも格差があったらしい。つまり、自費診療とすることができる比較的富裕な人々に対しては、避病院への収容という政策を受け入れやすくする特殊な措置ができていたのである。

岩波書店から出ている全集なのだから、モデルは誰であるとか、アカデミックでスカラリーな解説がついていると思いこんでいたら、注はテキスト上の異同についての簡単なもので、私が期待したような解説はまったくなかった。多くの言葉について現代語訳が必要であるし、「摂児的児水」(セルテル水)というのも、自分で調べなければならない。(ネット上で調べたら、もともとは、プロイセンのセルテルに産する鉱水のことで、それから炭酸水の意味となるという説明があった)「解説」と称するものはあるが、解説というよりも、丸谷才一が『多情多恨』を肴にして気持ちよく文芸批評をしているもので、月報にふさわしい内容のものだった。

大阪帝大とインドネシアの精神病 Amok の研究

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江川昌一・杉原方・細谷純之助「いんどねしやの精神病 Amok に就いて」『大阪医事新誌』 14(1943), no.3, 250-254.
大阪帝大の精神科と内科の医学士がインドネシアの精神病について書いた論文を読む。戦前の大阪帝国大学は、長崎や台北とならんで、熱帯医学の研究拠点が形成されていたが、それと関係あるプロジェクトなのだと思う。Amok というのは、まず目の前が暗くなるような印象を持ち、剣をもってそばにいる人を刺したり、路上で人間や動物を攻撃したりする。それは自殺におよぶこともあるものである。

基本的には、まだインドネシアにおける彼らの研究がはじまったばかりであり、速報的な性格が強いが、これまでの Amok についての文献を引き、クレペリンやクレッチマーの概念を使って、症候性精神病として分析している論文で、戦前から戦後にかけての日本の精神医学の概念的な水準の高さを示している。5例の Amok の例が引かれ、去勢恐怖を伴う動脈硬化症、ホームシックを含むヒステリー、ホームシックを含む破瓜症、性格変換を含むパーキンソン氏病、そして去勢恐怖を含む破瓜症である。ここには、Amok がさまざまな疾病と重なって現れることを示している。1例・5例に去勢恐怖があることは、原始的な民族における生殖の重要さと去勢が与える恐怖を示している。

戦前・戦後の産婆(助産婦)

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永沢寿美『産婆のおスミちゃん一代記』(東京:草思社、1995)
昭和戦前期から戦後期にかけて産婆・助産婦として活躍した女性の自伝である。著者の永沢は、1912年に、東京の北のはずれの六月(ろくがつ)で生まれた。実家は藍染工場であり、多くの従業員を使う裕福な家であり、父親は進取の気風に富んだ人物であって、寿美を職業婦人にするのに大いに力があった。寿美は、近くの寺の奥さんで産婆をしているものに弟子入りして修業をつみ、それと並行して東京助産女学校で産婆学をまなんで講習会などをうけ、産婆の資格をとる。それからすぐに、離婚をした産婆に乞われて、彼女の一人息子と結婚することになる。つまり、嫁と姑の双方が産婆をすることになったのである。近世以来の医者は、同じ土地で代々継承される職業というイメージがあるが、日本の近代産婆という職業もそのような性格をもちながら始まったのだろうか。ヨーロッパにおいては、都市に存在した高度に訓練された産婆は、そのように継承される性格をもっていたから、それほど不思議ではない。

戦前から戦後にかけての産婆の実態についての貴重な一人称の語りで、さまざまな情報がある。戦前の人口増加から戦後の人口抑制に、政策が180度転回されたときに、産婆という同じアクターが用いられたことがよく分かる。

染物工場の娘で、女学校卒の資格を得て産婆になった彼女から見た時に、昭和の農家の嫁の出産が、薄暗く不潔でみじめなものであることを嘆き、さらに農家に存続する「姑」の優位が、近代的な出産を妨げていることに怒った調子で書いている。それも重要な事実だが、どちらかというと、彼女が同時代の農村における出産の習慣と家庭の権力構造を知らなかったことのほうに私は驚いた。
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