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Channel: 身体・病気・医療の社会史の研究者による研究日誌
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三本足のカラスと新年の太陽儀礼

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『野鳥』というタイトルの日本野鳥の会の会報がある。会員からの投稿やお知らせなどの雑駁な記事が多いけれども、メインになる記事は、本格的な内容をわかりやすく語った本格的なものであることが多い。

今月は、お正月とカラスの特集ということで、荻原法子さんという民俗学者が書いたものだった。とても面白かった。熊野の神社などで、元旦の儀式において重要な役割をはたす三本足のヤタガラスにはじまり、いろいろな民俗が紹介されていた。カラスと正月の儀式については、那智大社では、元旦の夜明けに神主が山の上にのぼり、太陽が太平洋にのぼった瞬間にさしこんだ光を装束につつんでお宮に持って帰る儀式があるという。また、昔、太陽は十個あり、それが一度に空に現れて照りつけた時に大地が焼け焦げ、弓の名手が九つの太陽を射落とすという神話があるとのこと。そのときに、太陽を象徴するカラスを射落とすのだそうだ。これは、月を象徴するウサギを射ることと合体して、「オビシャ」と呼ばれて利根川流域に分布している民俗であるとのこと。

女性美の医学的・人類学的研究

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必要があって、20世紀前半の医学・人類学が、日本人の身体、特に女性の身体をどのように分析した書物を読む。文献は、C.H.シュトラッツ『日本人のからだ―生活と芸術にあらわれた―』高山洋吉訳(東京:岩崎書店、1954)この書物のオリジナルのドイツ語版は1925年に出版されたものである。シュトラッツ自身も日本に滞在してリサーチをしているようだが、ベルツの写真や記述などが多く用いられている。どの段階で生じたミスか分からないけれども、図版と本文が対応していない箇所が目につく。

主張のポイントは、「日本文化の水準はヨーロッパと違う意味で高いし、日本の女性はヨーロッパとは違った意味で美しい」ということである。これを、美術作品を素材とした文化比較の方法と、写真と身体の部位の比の測定に基づく自然人類学の方法で論じた本だと思えばいい。シュトラッツについては、Michael Hau, The Cult of Health and Beauty in Germany (2003)が比較的詳細に論じているが、そこで分析されているよりも、はるかに深みと複雑さをもった現象である。この人物の著作は、『女体美大系』のような形で大部なものが翻訳されており、この翻訳も含めて興味深い。西洋の美の基準が外国に押し付けられ、非西洋の男も女もそれを内化するという過程は確かに存在する。それと並行して、日本の知識人や日本の美の基準などが外国に発信されて、西洋に一つの身体の美の基準を作るという動きも確かに存在した。19世紀から20世紀にかけて、そのような「多様な身体美の基準」がグローバルに形成され、各地域でローカルに再解釈される動きが存在したということになる。

図版は、Hau の書物から作成した、西洋と東洋の美の基準。

美の医学的基準は何か

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ウェッブ上のリソースで、Medical Humanities の記事を掲載しているものがあることを知った。その中で、女性美について19世紀に医者たちがどのように分析したのかという面白い議論があった。著者は、解剖学と病理学の一流の学者で、一方で水準が高い歴史研究を書くことができる両刀使いで、イギリスが近年生み出している新しいタイプの医学史のプラクティショナーである。

短い記事だけれども、とても面白い史実が詰め込まれている。重要なポイントは、「美」というのは人工的に作られた規範なのか、それともそこに解剖学・生理学などを通じて説明することができる自然の根拠があるのかという問いが、19世紀にはすでに議論の対象となっていたということである。この問いは、現在では、性的な選択を通じて「健康で子供をたくさん残せそうな個体が<美しい>と思われる」という形で、進化論を媒介にして説明されているが、進化論をもっていない段階においても、この問題については医学者・生理学者・解剖学者は思考をめぐらせていた。

特に、美しい身体は健康を意味するのかという問いは、美を測る基準は何かという興味深い議論を生み出した。その中から一つの議論を。スコットランドの死体泥棒で悪名高い解剖学者のロバート・ノックスは、動物の形状からの距離が遠いほど人間は美しくなると考えた。人間の子供は動物と共通の形(原型)に近いから、美的に低級であり、人間の男性も、動物と共通の筋肉や骨格などがあらわに見えるから美しくない。一番美しいのは女性であり、その極限が、筋肉も骨格もふっくらとした肉に隠されているヴィーナスである。ふっくらとした肉付きは身体の内側を隠す。骨組みや肉体などの身体の内側は、死と解体のたしかな徴であり、それがあらわになる「やせ」や老化は、人を醜くする。

原型と動物と死。これと対比される文明と人間性と生が、美を測る基準であったという。これは、思索を誘うポイントである。

画像は、このサイトより。理想的なプロポーションの女性をさぐる解剖学者の図。1864年。

18世紀の人間―機械

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Riskin, Jessica, “The Defecating Duck, or, the Ambiguous Origins of Artificial Life”, Critical Inquiry, 29(2003), 599-633.
オートマトン作者として有名なヴォーカンソン (Vaucancon) を素材にして出発し、人間の労働の定義と産業革命に象徴される「機械化」の本質に光を当てようとした、野心的な論文。先日、アメリカの大学院の秀才の学生に、「ごく小さい範囲の問題を取り上げて、その問題がもつ奥深さと広さを鮮やかに示すことが、博士論文の一つの範例のように言われている」と聞いたけれども、きっと、この論文は、そういう範例の一つになるような作品なのだろうと思う。

科学史系の学者で、ヴォーカンソンの名前を知らない人はいない。「消化して脱糞する機械仕掛けのアヒル」を1738年にパリで展示して有名になって著名になった機械職人である。科学史で好事家が興味を持つマイナーフィギュアとして定着したこの人物に新しい光を当てて、まったくちがうストーリーを語らせることを可能にしたのは、この人物が、のちに絹産業の監督官になり、アカデミー・ド・シアンスに、機械部門補佐として着任していることである。(ちなみに、後者の職につくときには、ディドロと競争して勝ったという。)この、産業との関係を通じて見えてくる世界を分析することで、ヴォーカンソンのアヒルは、機械にとって何が可能であり、何が人間・動物だけに可能な現象なのかということを、当時の技術によって実験する自然哲学的な試みになり、人間の労働の再分節化になる。人間の労働や行為は、いったいどこまで人間的なのか、どこまで機械的なのかという問いを発し、それを実地に行ってみて、人間の労働の内部に新たな境界を引くことである。「アンドロイド」(この言葉も、ディドロの『百科全書』に現れるそうだ。)に何ができるのかを問うことで、人間に何ができるのかということが問われたのである。

ちなみに、そこで人間と機械の限界とされたことの一つは、音声言語であったという。

戦前の外傷性神経症

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戦前の外傷性神経症
外傷性神経症は、欧米では、「鉄道神経症」「シェルショック」として鉄道事故や第一次世界大戦など、19世紀後半から20世紀初頭にかけて認知されていた。それに対し、日本では神戸震災のあとPTSDとして認知されて定着した。表面的にみると一世紀以上のずれがあるわけだけれども、もちろん神戸震災の前にも外傷性神経症の概念が日本で活発に議論され、定着しそうになったことはあった。この、日本近代の心理の歴史の中核にあたる現象をはじめて取り上げたのが、佐藤雅浩「戦前期日本における外傷性神経症概念の成立と衰退―1880-1940」『年報 科学・技術・社会』18(2009), 1-43. であり、佐藤の博士論文の「精神疾患言説の歴史社会学」(東京大学大学院・社会学専門分野博士論文、2011)である。そこでは、佐藤は、1920年代の日本で、外傷性神経症は鉄道医を中心にした調査と研究の対象になっており、労働災害、労働運動、患者の権利、そして社会保障など、当時の日本社会の焦点の中で議論されたことを指摘している。

大正デモクラシー期に議論が盛り上がったあと、この疾病の調査・研究は衰退したと佐藤は言う。おそらくその通りなのだろう。しかし、佐藤も引用する1939年の『日本医事新報』における外傷性神経症についての小特集を読むと、すこし違う印象を持つ。文献は、「特別課題外傷性神経症に就て」『日本医事新報』no.880(1939), S14.7.12, 2687-2692.であり、四つの小論が掲載されている。それは、以下の通りである。杉田直樹「精神病理より観たる治療」2687-88; 植村卯三郎「一時金交付兼退職と全治との間に因果関係を認め得ない」2688; 馬渡一得「外傷性神経症の問題に就て」2688-2691; 武部俊雄「臨床的観察」2691-92.

この小特集は、そもそも、ある工場医からの投書に応じたものであるという設定になっている。その投書は、以下の通りである。

問 近年軍需工業の旺盛となるにつれて外傷性神経症の患者を見る機会が多くなり、従来その方面にあまり関心を持たなくてもよかった小工場医までが、その知識を必要とするに至った。恥ずかしいことですが、我々は外傷性神経症は賠償金を貰うと治る病気だくらいのことしか知らない。ついては、非専門医にも了解できるようご説明を願います。(大阪 工場医)

この投書をどのように解釈すればいいのだろうか。いろいろと空想を誘う内容である。

杉田が書いていることが面白いので、抜き書きしておく。

潜在意識においては、明らかに賠償要求の不合理、不徳義、我儘、あるいは無理難題であることをよく承知しているので、表面的にはその潜在意識における不当の欲求を抑圧しようとしてここに特異な軋轢を生じ、それが神経症症状となって患者を苦しめるに至るのである。

「賠償を受けるのが当然であり、また賠償がなくては今後の生活が不可能だ」という、特殊の性格的傾向による根本の「自我の変質」が起こっているからである。しかして、こういう自己中心的な自我変質は、一には本人の生来的精神病性変質の存在に因るものであるが、また他方には近代的世相の変遷につれて要請された病的人生観によるものでもある。いわば、個人の権利尊重ないし自由平等主義の浸潤により、特に平生より社会的にある圧抑の下に生活しきたったごとき人々にたまたま不幸なる出来事がおこり、しかもその責任の所在の明らかな場合にあたってのみ本省が起こるのである。歪められた人生観に基づく病的性格的反応とみるべきである。

宗教ないし哲学的教養をはかり人生の本質をあきらめ、災厄に処する道を平生から修養せしめておくことに力を用いる必要がある。

本症は欧州でも19世紀末に鉄道賠償法の制定せられるまでは存しなかったといわれ、我が国でも3,40年来、西洋の賠償思想の輸入後に始めて生じたものであって、工場法や鉄道事故の補償や個人損害賠償の請求や往々法律的に個人の権利が保障せられてから以後において、そういう知識を有しているもののあいだに普及しきたった近代的疾患なのであり、個人の権利のいたって不安定であった封建時代には存在しなかった。生活不安定の時代にはかえって念仏宗などの力で不安神経症はたいがい予防せられていたのである。すなわち本症のごときものは、文明開化病の随一に数えるべき、非日本精神の現れというべきである。

杉田直樹の立ち位置について

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杉田直樹「精神病学に於ける臆想」『臨床文化』vo.8, no.2(1941), 1-6.
インシュリン・ショック療法やカージアゾル・ショック療法は、精神医学にも衝撃をもたらした。「分裂病は不治ではない」という現実は、分裂病の理解を再編成する必要があることを医者たちに示した。結局、特発性・本態性・進行性の分裂病と、症候性・反応性・一時性の分裂病の二種類があるという理屈を杉田はつけている。それよりも重要なことは、「性格」の議論である。いくつか引用する。

精神分裂症は要するに性格の疾患であり、かかる性格の破綻は、そのものの日常の生活法の沈滞がその主な原因となっているかのように察せられる。(中略)普通の人でも長い間外界の刺激から遮断せられ、日常の生活法に少しも起伏のない状況におかれていると、一般に精神作用がひねくれてきて分裂症患者のように無為症となり、また拒絶症衒奇症常同症状などを示すようになるのである。長い間の拘禁生活や山間人や労働人などの間に縷々こうした性格異常を呈する人に往々遭遇する。

今まで分裂症の原因についてあまりにドイツ式の科学研究法のみによって正面探求をつとめ、脳髄の病理解剖や内分泌の異常や遺伝系統の調査や病的心理症状の特徴やの精細なる研索にのみ邁進してきて、しかも今日までなんら確実に本格をつかむことができないで過ごしてきた。

以下は私の文章です。

大正・昭和期の精神医学は、たしかに呉秀三と精神病者監護法の時代の精神医学に較べて、大きな変容を遂げている。粗い言い方をすると、狂気と精神病を治療する学問から、性格と人間心理についての洞察をもたらす学問として離陸したという印象をもっている。精神医学者が、民族という概念を媒介にして、小説や絵画を通じて日本の文化や社会などについて発言するようになる現象も認められる。ここから、『甘えの構造』や『戦闘美少女の精神分析』への途はすでに開かれているという言い方をすると、評論家風の言い方になるのかな(笑)

性格・人格の精神医学(野村章恒)

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野村章恒「自暴自棄の病理―精神病医の手帖」『臨床文化』8(1940), 46-49.

著者の野村は後に慈恵医科大学の教授となる。森田正馬の伝記なども書いている。この時点では鎌倉脳病院の院長であった。
祖母から聞いた俗語の格言として「上見りゃ放図なし。下見りゃ放図なし。下見て暮らせ」という言葉を冒頭に引いて、精神医療の話に入り、最後に再びこの格言に帰ってくるという構造を取っているエッセイである。

素朴な議論から始めると、俗諺風の格言に精神医学の学知を絡めるという議論立てそのものが、当時の精神医学の立ち位置と深い関係があると思う。その立ち位置をうまく表現することはできないけれども、人々の生活世界と同じ言葉に翻訳できる内容を語り始めた精神医学であるという特徴は確かだと思う。

そこから発せられる内容とはどのようなものか。いくつか引用する。

私の知っているあるメランコリーの患者は、坊ちゃん坊ちゃんで育てられ、多くの召使いにかしづかれて育ったため、或る日、凧をあげて遊んでいた時、風がやんで凧が上がらなくなったのに腹を立てて、風をもう一度強く吹かせるようにと書生にせがみいじめたことがあると述懐し、画の強いのは三つ子の時からですと語っていた。

(この患者の語りの中にも、「三つ子の魂云々」という俗諺が織り込まれていることにも注意したほうがいい。)

その愚痴は自分が丈夫でいたら社会で立派に活躍できるのに、間違った治療を受けてしまったから治らぬと医者を恨み家人に罪をきせかけるのである。そして少しも身から出た錆には気が使にのであった。そして生きていてこの上憂き目を見たくないと愚痴り続けながら決して死を決行しないのである。病気にかかったために悲観することは凡人の常であるが、その病気を他人のせいにして他人を恨んで自棄的になりゆくことは性格的に自己中心の我儘からくるものである。

[息子は善意につけこまれてつつもたせにかかり、人間が変わり、会社へも出ず、金遣いが荒くなり、ついには他人のものを盗ったり本屋の店頭から万引きをして警察の保護をうけながら少しも悔悟の色がなくなってしまった]
その母親は涙を流しながら、「この程度のものでは、精神病者として入院をさしてもらえましょうか。」と聞く。

私は人間の優良素質と悪疾素質とを鑑別しうる立場の医者となったことを喜んでいる。

五家荘・黒島の精神病調査

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向笠廣次・岡部重穂・古賀節郎「血族結婚地区に於ける精神病一斉調査成績(其一)」『民族衛生』9(1941), 355-398.
東京帝大の内村祐之が八丈島・三宅島で精神病調査を行って、精神病・精神障害についての優生学的な調査が始まったが、九州帝大の下田光造のチームも同じような精神病調査を行っている。この二つの調査の手法・目的をより詳細・緻密に較べると、いろいろと面白いことが分かると思うが、今はその準備がない。ただ、下田のチームの研究は、血族結婚と精神病の関係にはっきりと関心を持ち、それを調べるための調査である性格をもっていることだけは確かである。

調査地は熊本の五家荘と長崎の黒島で、いずれも閉鎖的な地域で、血族結婚が多い土地であるという理由で選ばれた。ただ、五家荘は、あまりにも秘境であって、村役場の行政支配がゆきとどいておらず、婚姻関係の多くが内縁であり、血族結婚であるかどうかを確定するのが難しいほどであった。そのような困難はあったが、従妹同士の婚姻は20%程度にのぼり、欧米はもちろんのこと、日本の従妹婚の割合よりもはるかに高い数値を示していた。

下田のチームは、データの解釈において、慎重さとクリエイティヴさを組み合わせていると思う。「大局的に見て血族結婚は分裂病を増加させる傾向がある」ことは確実であるとする一方で、血族結婚の多寡で分裂病は決まらないとしている。また、分裂病の家系では、結婚率が低く、子供も少ないという結論も導かれている。実は、この段階では、分裂病に関して、血族結婚の弊害を鮮明に示すデータはない。戦後、血族結婚の害がクローズアップされ、閉鎖された地域においてもいとこ婚の割合が激減したのは、皇室の結婚をめぐる議論のせいなのだろうか。

ナイチンゲール『病院覚書き』

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『病院覚書き』
ナイチンゲールの主要な著作の一つ『病院覚書き』を読む。日本語の三巻本の著作集には翻訳されているのだけれども、これは抄訳であることに加えて、翻訳されている部分の重要な図版も省略されているので、あまり使えない。オリジナルは、Googlebooks で問題なく手に入る。

街中の土地では、石炭の煙その他の公害によって汚染されている場所で三階四階と建物を高くして病人を収容せずに、換気や採光を確保し、また広い面積に病人を分散させて収容する方式をとると―これらは今や速やかな回復にとって必須であるとされている―病院にとってはあまりにも高すぎる出費となる。 / 田舎の町では、あるいはそこまでいかなくても、もう少し大きい工業や商業の街では、開放的な田園ないし郊外の清浄な空気の中に病院を建てることはさほどむずかしくない。215-6

病因を[ロンドンの都心から田舎に]移せば医学教育のためにも利があろう。ロンドンでの一貫しない講義めぐりや病院実習にとってかわって、静かで勉強にむいた大学環境が得られるはずである。かくして、教育は純然たる指導の場を手にできよう。 220

病院の壁になぜしっくいがよくないか
[しっくいには]気孔が多数あり、病人の発散物をそこから吸い込んでしまうのである。しっくい壁が出来上がったばかりだとすると、病室中の空気をしっくいが掃除してしまうようなかたちになる。が、やがてその壁は不潔物の飽和状態に達する。時には細かい植物がその上に現れるが、かき落として顕微鏡でそれと認めうるし、化学的にも検出できる植物である。病室の壁と天井がここまで汚染されると、そこにはいわゆる病院病が非常に発生しやすい。

南方熊楠『十二支考』

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岩波書店のツィッターに乗せられて、新年に南方熊楠の『十二支考』のその年の項目を読むのは楽しかろうと思いついて、岩波文庫で上・下の2冊を買い求めて、「兎に関する民俗と伝説」と「田原藤太竜宮入りの話」の2章を読む。

南方熊楠はロンドンに留学し、大英博物館の研究員のような身分であった。私がロンドンに留学していた時に、『縛られた巨人』という熊楠の伝記評論を中村健二先生に送っていただいて愛読したから、私にとって個人的な思いがある著者である。

兎の話も面白いけれども、竜の話の面白さは格別で、その空を駆けるような博識を読むこと自体が正月休みの楽しみだった。兎については、それが穢れた不浄の動物とされており、その理由は、オスもメスも、それぞれ睾丸のようなものと膣のようなものをもっているように見え、メスのクリトリスは非常に長くペニスのように見えて、男女の身体差と性交の規範を逸脱している動物であると、西洋でも中国でも記されている。この穢れの意識は、兎の肉を妊婦が食うといわゆる「兎口」の子供が生まれるという、これも世界の各所に分布している説に反映されている。竜の話はそれ以上に面白く、読んでいて、知の曼陀羅の世界をジェットコースターのように経巡るような浮揚感を与えるような傑作というべきだろう。特に、淫乱な女性が欲望に身を焼かれて死に、死後の死体が500人の男と交わった後に竜と化す話は、おぞましくも蠱惑的で、固唾を飲むような思いで読んだ。

これは、『昆奈耶雑事』と『戒因縁経』に出る話で、話の主人公は妙光女とも善光女ともいう。この女性は、生まれた時には室内に明るい光が満ち溢れ、評判の美人であった。彼女に会ったある師が、この女は後に500人の男と歓愛するだろうと予言した。成長すると申し分ない美人となった。しかし、予言を恐れて、誰も彼女と結婚しなかったが、ついにある夫を得た。この夫は妻が男性に近づかないようにしていたが、あるとき家に僧を招いたとき、彼女はその僧との愛欲に燃え、欲望の炎に身の内外を焼かれ、体中から汗を流して死んだ。彼女の遺体を葬儀のために林の中を運んでいるときに、群盗に襲われた。死してなお彼女は美しく、群盗たちは死んだ女をかわるがわる犯した。その群盗の数は500人であった。妙光女は竜となって、そこに500匹の牡の竜がきて、常に彼女と通じることとなった。

黄金伝説

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ヤコブス・デ・ウォラギネによる『黄金伝説』は、13世紀に成立した聖人伝説集で、中世以降のヨーロッパ文化の基本的なテキストである。平凡社ライブラリーから四巻本で翻訳が出ていて、役に立つ註も多く打ってあって、大変な労作だと思うが、翻訳の文体になんとなく違和感がある。私は、プリンストン大学出版局から出ている二巻本の英訳で、William Granger Ryan という学者が訳したものが、愛読するにふさわしい文章になっていると思う。

浅田一の法医学手引と精神鑑定

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浅田一『実地家に必要なる法医学』(東京:克誠堂書店、1930)
浅田は法医学が専門で、著作が非常に多く、その中には探偵小説や猟奇趣味と深い関係があるものもある重要な人物である。期間は正確にわからないが、『神経学雑誌』に「実地医家に必要なる法医学」という連載をしていたものに加筆して一冊の書物にまとめたもの。まとめるについては、執筆した時よりも医学知識が進歩して新知見となったものを書き足し、自身の解剖鑑定例を加えてある。浅田の序文によれば、「雑誌の別刷りを集めて有志者に頒つむねを広告したところ、希望者以外に多く、やむなくお断りした例も少なくない」とある。(3) 念頭に置かれているのは、地方で開業している医師が、裁判官から警察科学的な内容での鑑定を求められたときの状況であろう。(1) ちなみに、「首なし死体の鑑定」という題名の、彼杵の海上一里くらいのところで漁船の網にひっかかった首なし死体には、死体の写真も掲載されていて、これらが猟奇趣味に吸収されたのだろうと思う。

この書物に、たまたま、杉田直樹が執筆している鑑定例が二つ掲載されていたので、喜んで読む。これは、浅田が留学中の大正11年に、杉田が執筆したもので、原稿が足りなくなったときの代打だったのだろうか。鑑定例は二つで、一つは妻と母を殺した男、もう一つは、隣家に放火を試みた男の鑑定である。前者はヒステリー、後者は妄想中の放火であるという位置づけである。鑑定書は、本人や家族、知人などを総合して書かれたものであるから、多様な情報が組み合わされて作られていて、読み応えがある。放火をした男について、軍隊でいっしょになり、上等兵になるかどうかでいがみあい、髪の毛を使って上等兵になれないような呪いをかけたというエピソードも紹介されていた。

画像は、言及した死体の写真。

昭和戦前期の医学と「童貞論」

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浅田一『犯罪鑑定余談』(東京:武侠社、1929)
同じく浅田一の書物である。基本は、鑑定書そのものや、鑑定書から説き起こしたようなエッセイ風のものが多い。そのなかで、大正15年に京都でおきた殺人事件で、小笛事件(白川四人殺し)と言われている事件について鑑定書のようなものを書いたのが浅田(筆名は「余談子」)であると知る。この鑑定書は、話題になって週刊朝日にも掲載され、田中香涯にも大いに褒められて、得意そうにその事件について語っている。このあたりに、浅田がマスコミにひっぱりだこの法医学者になり、探偵小説や猟奇趣味とかかわるようなものについて随筆を書くようになったきっかけがあるのだろうかと想像する。

それ以外にも、精神鑑定書が三件あったので、これも喜んで読む。ひとつは退職軍人の詐病について、もう一つは悪友に染まって不良になり犯罪を犯した若者を素材にして交友選択の必要を説くもの、もう一つは、横溝正史の怪奇・猟奇小説じみた話だが、盲人の琵琶法師が、妄想に基づいて異様の器具を作成して、それで妻を惨殺した話である。その器具は、ハエなどの田畑の作物を害する虫類を撲滅するために針金や鉈を組み合わせて作ったものである。(本文には写真も掲載されている。)

学問的というよりも大衆の趣味嗜好に応じた文章がたくさん入っていることは別に驚かないが、それとは少し毛色が違う「童貞論」という文章があった。「諸君!」という呼びかけで、処女と結婚したいのならば、あなたも童貞を守れ、そのためには理性で本能を制御せよという文章である。この議論自体は特に驚くようなことではないし、当時はヒステリックに叫ばれていた女性の性の乱れに対応する男性の側に要求されている変化として、多くの(男性の)医者たちが唱えたことだろうけれども、その口調といいなんといい、唖然とするものがあった。二節ほど引用する。

「諸君!青年諸君が童貞の貴むべきを自覚し、自ら清くしたならば自然娼妓などもなくなり、婦人の貞淑はますます美しく固められるであろう。貞女を獲んとせばまず童貞を守れ。無害にして無上の精神的悦楽がある。」

「いわゆる本能の奴隷となりかけたら、木仏、石仏、金仏を観ずるがよい。十字架上のキリストを思うがよい。南無阿弥陀仏、南無明法蓮華経、アーメンを念ずるがよい。煩悩は忽ち去って即菩提になるであろう。それから英語を読め、算術、代数、三角、幾何、微分、積分、物理化学を勉強せよ。それができれば初めて人間らしい人間である。煩悩の蠅は追えども去らずと自ら苦しむ者は人面獣心である。外面如菩薩、内心如夜叉である。諸君!吾人はいやしくも地球上最高の含霊ではないか。喝!!喝!!喝!!」

脱ヨーロッパと世界史

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講談社版『世界の歴史』
講談社『世界の歴史』の小さなお知らせが古書から出てきた。1976年か77年に配本を始めたシリーズで、全25巻で世界の歴史をカバーするシリーズである。「世界の歴史」という全体像を構成するときに、どの地域・どの時代に重点を置かれるのかということに興味があるから、25巻のタイトルを眺めた。

いくつかの特徴があって、その一つは、「脱ヨーロッパ」がかなりの程度達成されていることである。これは、私が学んだ東大駒場の地域文化大学院の構成と比べたときの話である。この大学院の下にある学科は、イギリス、フランス、ドイツという西欧の帝国主義三強国がそれぞれ学科をもち、それにくわえて、ネオ=ヨーロッパといえる地域であるアメリカ、ロシア(東欧)がそれぞれ学科をもっていた。あとはアジア全体で一学科、ラテンアメリカで一学科という構成を取っていた。全7科のうち、ヨーロッパの三強国で三つ、ネオ=ヨーロッパの強国で二つを占め、世界の残りを二つの学科で担当するという体制であった。19世紀の20世紀の政治体制が学科構成に結晶したと言っていい。アフリカを研究する学科はなく、きっと旧宗主国に応じて割り振られていたのだと思う。この圧倒的なヨーロッパへの偏りを批判することは簡単だし、もしかしたら批判されなければならないのかもしれないが、これは、大学の教養課程の外国語教師をベースにし、それを反映させて構成しなければならない学科であったことの特徴であるから、取り組まなければならない問題は巨大であることもわかっている。

話を講談社『世界の歴史』に戻すと、東大の教養学科のようなヨーロッパへの大きな偏りという現象はない。ヨーロッパそのものが扱われているのは合計して6巻くらいである。ネオ=ヨーロッパはアメリカに1巻、ロシア・ソ連・東欧に2巻くらいだろう。この9巻以外の16巻は、世界の他の地域に分配されている。「世界の歴史」の構成の仕方としては、これが正しいかどうかは分からないけれども、少なくとも、東大の教養学科の構成よりはずっと正しい。

この企画が1976年という年代を見て、私としてはなんとなく意外というか、正直言って、面白くなかった。私の頭の中では、1970年代・80年代はまだヨーロッパ・米ソ中心主義だったけれども、それから離脱してきたという流れを、全体的な知的潮流として捉えていたが、これは、そういうことではなく、私自身が時代遅れな環境から抜け出したということだろうか。つまり、私が学生時代を過ごした東大駒場という環境が、時代遅れにヨーロッパ中心主義的な構成を取っており、そこから抜け出したから、他の大学などでは当たり前のことになっていた脱ヨーロッパ的な世界史観に触れたということだろうか。東大駒場は、本郷への強烈な対抗意識を持つキャンパスで、自身を先進的・リベラルであると位置づけていたから、そのレトリックに洗脳されて、駒場が時代遅れな体制を取っているということは、ちょっと考えにくかったのかもしれない。自分は、水準は高いかもしれないが、時代遅れな体制で教育されたのかという可能性があるのだろうか。もしそうだとしたら、本気で知的反省をしなければならない。

さらに厄介なことは、医学史という学問との関係である。この「脱ヨーロッパ」は、私の専門の医学史や科学史といった学問、つまり、極端なヨーロッパ中心主義を取って現在の研究が行われている学問を学んでいる学者が、注意深く考え直さなければならない主題であると思う。あるいは思想史にもそういう事情があると思う。今のゲームの中で水準が高い研究をすることは、それほど難しくない。そのゲームの規則の欠点に気がついて、新しい規則で高い水準のゲームをすることが、本当に難しい。

メチニコフの近代医学観と結核・ハンセン病

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メチニコフ『近代医学の建設者』(岩波文庫)
メチニコフは白血球の発見で著名な科学者である。もとはロシアのウクライナの生まれで、オデッサ大学で仕事をしていたが、1888年にパリのパストゥール研究所に移った。第一次世界大戦がはじまって、研究所が休業状態になったときにできた自由な時間を利用して書いたのがこの書物である。全体の主題は、細菌学革命をパストゥール、リスター、コッホに着目して説いた記述である。この三者に対するメチニコフの評価は、パストゥールとリスターは大いに称揚し、コッホについては、その業績は認めながらもその欠点や失敗もあげつらっている。たとえば、結核のツベルクリンの失敗や、二流の女優に熱を上げて夫人を離婚して二回目の結婚をしたことなども、長々と書いている。これは、戦争におけるドイツとの敵対や、メチニコフ自身が若いころの業績をコッホに侮辱的な仕方であしらわれたという経験が関係ある。

このように、ドイツとコッホに対して敵意が潜んだ記述をしているが、メチニコフはドイツとフランスの双方にまたがったものとして細菌学研究を捉えていると考えられる部分がある。「ジフテリー血清は近代医学の勝利である」という文章を書いた後に、ドイツ=コッホ派に属するベーリングとレフレルの仕事と、フランス=パストゥール派のルー、エルザン、そしてパストゥールの動物実験の仕事が組み合わされ融合されてジフテリー血清が作られたさまを描いている。ジフテリア血清は、「科学に国境はない」という、理想として語られ続けると同時に、実際に守られることがあまりに少なかった理念にとって好都合であった。

もうひとつ重要なポイントが、メチニコフが考えた結核とハンセン病の予防のパラダイムである。ワクチンで感染症を予防するというと、しばしば人工的な方法であると考えられがちであるが、実は、そもそもから「生態学的な」発想が常にあったことは近年の研究が改めて強調していることである。パストゥールのワクチンの基本が「弱毒化した病原体」であることは、病原体が毒性を変えて複数の種類があることを象徴しているし、そのお手本になっていたジェンナーの種痘という方法が、天然痘ウィルスと牛痘ウィルスという寄生者が一方にいて、牛とミルク絞り女という被寄生者がもう一方にいるエコシステムを操作することであった。

このパラダイムに忠実に、メチニコフは、結核はこのエコシステムの操作によって減少するだろうし、ハンセン病が中世から近世にかけて減少したのは、このような事実が起きたからだと考える。「病気は起こさないが、強毒性の結核菌に対しワクチンの作用を演じることができる菌がありそうに思われる。パストゥールの実験により炭疽病に対しては人為的に減毒して予防し得たが、それと同じことが自然界には、ある種の結核菌の自然的の弱毒化によって生じているに違いない。このような想像説は、結核の対策の今日無効なのにかかわらず、多くの地方に見られる結核の減少する事実を説明するであろう」という。ハンセン病は中世には全ヨーロッパに広がっていたが、今日では、ロシア、ドイツ、ノルウェー、フランスその他の辺鄙な場所にしか残っていない。これは、衛生施設によるものではなくて、「人間の意志が加わらずに、自然に行われたものである。この原因は、おそらく癩菌と類似し、癩に対して生体にワクチンとして有効に作用したある着んの存在によるものであろう」と推測している。じっさい、ニューカレドニアでは、フランス人医師たちは、自然に減毒化したハンセン氏菌と考えられるものを発見していたとメチニコフはいう。

浅田一と男根と張形

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浅田一『法医学ノート』(東京:東洋書館、1936)
浅田が終戦直後に出した書物。疎開中で自分が書いたものをすべて散逸してしまったが、旧稿・別刷をまとめたもの。真面目な著作ではなく、大衆向けに猟奇的な犯罪やエロがかった短文をまとめたものである。長崎医科大学のかたわらの「穴弘法」という山には、見事な男根の形をした石が屹立しており、その裏手には洞窟があって、その入口が陰唇のような形をしているから、男根の形をした石とあわせて男女和合の神様ということで、洞窟の奥にある祠に花柳界の女性の参拝が絶えない。あるいは、長崎の老人の犯罪で、もともとは自分がインポテンツだったために愛人にハリガタを用いていたが、その愛人を寝取られてしまって悶々としているときに、隣家の娘が昼寝をしているときにハリガタを挿入したが訴えられて示談となり、そのハリガタは没収されて長崎大学のコレクションに加えたとか、その手の話が多い。(長崎にリサーチに行った時には、浅田コレクションの中にこのハリガタがあるかどうか見てこよう)
 
この手の話をどのように分析できるのかまだ見当もつかないが、20世紀中葉の医学と社会の関係の変化を調べるのに重要な人物であり書籍である。

「文明という病」という思想―丘浅次郎

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丘浅次郎『進化と人生 上・下』(東京:講談社、1976)
丘浅次郎は、明治元年に生まれ、太平洋戦争での敗戦の前年の昭和19年に没した動物学者である。研究と教育というより、進化論や生物学に基づいて、公けの場で議論を発展させたことで知られる論客である。議論の特徴は、生物学にベースをおき、それを社会や文化の現象に適用するということである。この二巻本は、20余りの論文などを集めて1906年に初版が出て、1921年に増補4版が出た著作を文庫化したものである。その中から、「人類の将来」と題された論考を読む。1910年の『中央公論』に掲載されたものである。この論考の一年前にも、同じ『中央公論』に、「所謂『文明の弊』の源」という論考を出版していて、これと呼応したものになっている。

文明の進展にともなって、まさしく文明を進展させた力によって、文明が衰退するというヴィジョンを描いている。西洋史の文脈で言うと、19世紀の後半にはじまった進化論を受けた退化説と、それを受け継いだ優生学などが深めた「文明という病い」という主題であり、日本の文脈で言うと、文明への素朴な信頼があったと言われる「明治精神の終わり」を感じさせる。文明の隆盛を誇る人類に、中生代の恐竜や第三期における巨大な哺乳類などの姿を重ねて、これらのかつて栄えた生物はなぜあっというまに衰亡したのかと問う。丘によれば、進化論を杓子定規に適用して、彼らが生存競争に敗れたからというような簡単な考えでは解決できない。丘は、これを源平の盛衰における平家の滅亡にたとえて、平家の滅亡には、単に源氏がより強力な競争相手として現れてこれに負けたというだけでなく、平家自身に、内から滅びる原因があったからだという。そして、この内から滅びさせる力というのは、まさしくその隆盛の原因となった力と同じものである。人類も、現在の隆盛を築いた理由となった力そのものが、それを内から滅ぼしているというのだ。

文明発展の力となったと同時に、文明をほろぼす力となっているもの―丘は、この力を分析している。人類が今日のありさままで進んだのは、言語と器械の力、脳と手の力による。ここから所有が生じ、貧富の懸隔がはなはだしくなり、少数の極富者と無数の極貧者がいる世界となった。金銭のための競争は激烈となり、道義と人情は顧みられなくなった。生活が利便になれば身体の抵抗力が減じ、わずかの寒暑にさらされても病気になり、歯と消化器官は弱くなり、人は『吾輩は猫である』の主人公のように胃弱に苦しんでタカジャスターゼを飲む。

この環境は、人々の精神もむしばむ。富家のぜいたくな生活を常に目の前に見ているから、金や財がいくら十分にあっても、不足しているように思われる。常に競争に負けはしないかという不安がある。この不安の結果、無意識にしているただの競争とは違う刺激が神経に与えられる。さらに、電車・汽車のやかましい響きの聴覚への刺激、劇烈な光と真っ黒な画面を一秒に目にもとまらぬ速さで点滅させる活動写真は、網膜と視神経から脳に刺激を与え続ける。これが、神経衰弱を起こさせ、神経の働きを過敏にさせ、病的にさせる。わずかなことが心配になり、少し逆境に立つと失望落胆する。

さらに、教育と識字率の進展は、社会に不条理な制度が存在するときに、不平を生ぜしめる。無知と野蛮・半開の時代には、人々は、飢えず凍えず安全でいればそれでよかった。貧富の格差はあたりまえの、人々が受け入れていた現象であった。教育の進展と自力の思考力の定着にともなって、そうはいかなくなる。社会主義はこのようにして生まれ、発展しているのである。

「お産革命」

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著者は朝日新聞の記者で、ハンセン病の歴史や患者本位の病院改革の提唱など、医療系の著作がとても多い。この書物は、もともとは1979年に出版された書物を文庫化したものである。恥ずかしい話、私が日本の戦後の出産の歴史について知っていることは、このジャーナリストが30年前に書いた本だけに頼っている。出産の歴史というのは、女性史の主題として鉄板だから、もっとよい概説的な研究書も出ているだろうとは思うけれども、ちょっと探しただけではよく分からない。「これは!」という良い本を知っている方は、教えてください。

著者が「お産革命」と呼ぶもののコアは、1960年代の日本で、出産する場が、自宅から施設(病院・診療所、助産施設)に移動したことである。1950年の日本では、厚生省の調べによると、すべての分娩の95%は産婦の自宅で起きていた。それが60年には50%になり、70年には5%になった。たった20年間で、自宅出産が95%を占めていたレジームから、施設出産が95%を占めるレジームへの急激な転換が起きたのである。この急激な変化に対応して、分娩の就寝となる医療職も変化する。一言でいうと、助産婦が短い黄金時代を迎えた後に急速に没落するのである。1950年の段階では、85-90%が助産婦によって出産されていた。医師も助産婦もいない、「家族分娩」と呼ばれるものは、都市部では0.3-0.5%という無視し得る数であり、郡部においても5-6%という低い数字であった。第一次ベビーブームを牽引したのは助産婦たちであり、1949年には実働7万4000人と最大の数値を記録した。このほとんどが、独立の開業者をいとなんでいた助産婦であった。しかし、その後、独立の助産婦は姿を消していき、診療所での出産も放棄され、最終的には出産は大病院に集中していく。

ジャーナリストの仕事だから、もちろん学者とは違う見方・書き方をしている。しかし、「お産革命」と呼んでよいものの全体像を広く捉えた本格的な仕事だと私は思っている。

石川英輔『大江戸神仙伝』

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石川英輔『大江戸神仙伝』
1979年に出版され、その後講談社文庫に入った作品で、主人公が過去にタイムスリップするSF。製薬会社の冴えない科学者で、脱サラして物書きになった中年男の速見洋介が主人公で、彼が文政の江戸にタイムスリップするところから話が始まる。そこで、医者の友人ができたり、深川芸者の「いな吉」に惚れたりする。物語の筋としては、江戸におけるいな吉との関係と、現代の東京での恋人で後に結婚する「流子」との関係という、二重の愛情の生活が重要なのだろう。また、これは小説というだけでなく、歴史の形をとったオピニオン表明でもあって、明治以降の近代化と戦後の高度経済成長が、うるわしい江戸をめちゃめちゃにしたとして罵倒され、マルクス主義系の進歩的な知識人が唱える価値観がことあるごとに中傷されている。時代考証はとてもしっかりしているらしい。私が習った延広先生が激賞していらした。

一番大切なのは(笑)、主人公が脚気を治療する薬を江戸にもたらすという部分である。友人は漢方の医者であるが、その患者が重症の脚気で死にそうになっていて、それをビタミンB1で治すことが、物語の重要な事件になっている。主人公はもともと製薬会社につとめていて、江戸にある材料と道具を使ってビタミンB1を抽出する。米ぬかと、酢と、鉄なべである。熱湯の中に米ぬかをいれると、ビタミンB1が抽出される。酢は、高温でB1が分解されることを防ぎ、鉄なべも同じ役割をはたす。この薬はもちろん著効を示し、主人公は神仙の世界から来たという名声を江戸で確立する。そのうち、過去と現在を行き来できるようになると、現代からビタミンB1の錠剤を持ち込んで、ますます江戸で成功し、そこで得た小判を現代に持ち帰って巨額の財をなす。

つまり、素晴らしい江戸の世界に対し、現代がもつ明確な優位が、優れた医学であり、その優秀性は、「効く薬」に集約されている。その薬が、主人公が持つ最強の優位である。「私の江戸での優位瀬を保証しているのは、先端技術を小出しにしていることだけである」(404)こういう考え方は、「技術帝国主義」ということができるだろう。それがSFに適用されて、もっとも鮮明に表明されている作品である。この発想は、おそらく人々に広く共有されている考えから出発しているから、私としては、学問的に対決しなければならないというか、自分の立場をきちんと語らなければならない。現代の医学と過去の医学の関係を、このように捉えることは、一面で正しいと同時に、そう考えることの貧困を、一度、きちんと論じなければならない。その脈絡で、有名な『Jin』も読んだり見たりしなければならない。小説としては感心しなかったし、オピニオンとしては違和感を持ったけれども、江戸の庶民の暮らしを知ることができたし、何よりも問題の所在の一端をひしひしと感じることができて、とても勉強になった。

インド人の孤独な食事

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インド人の孤独な食事
ストラボンが、メガステネースの言として、インド人は一人で食事をすることを記録している。
「かれら(インド人)は常にひとりで食事をするのであって、すべての人に共通な一つの食事時間が存在しない。かれらは各自が欲するままに食事をする。実に共通にしてポリス的な生活のためには、それに反対のやり方のほうが一層よいであろうに。」
中村元は、この言葉をひいて、インド思想が多く内省的であり個人的であるのは、社会のこのような風土的性格に由来するのであるという。(『ブッダのことば』257頁)
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