戦前の外傷性神経症
外傷性神経症は、欧米では、「鉄道神経症」「シェルショック」として鉄道事故や第一次世界大戦など、19世紀後半から20世紀初頭にかけて認知されていた。それに対し、日本では神戸震災のあとPTSDとして認知されて定着した。表面的にみると一世紀以上のずれがあるわけだけれども、もちろん神戸震災の前にも外傷性神経症の概念が日本で活発に議論され、定着しそうになったことはあった。この、日本近代の心理の歴史の中核にあたる現象をはじめて取り上げたのが、佐藤雅浩「戦前期日本における外傷性神経症概念の成立と衰退―1880-1940」『年報 科学・技術・社会』18(2009), 1-43. であり、佐藤の博士論文の「精神疾患言説の歴史社会学」(東京大学大学院・社会学専門分野博士論文、2011)である。そこでは、佐藤は、1920年代の日本で、外傷性神経症は鉄道医を中心にした調査と研究の対象になっており、労働災害、労働運動、患者の権利、そして社会保障など、当時の日本社会の焦点の中で議論されたことを指摘している。
大正デモクラシー期に議論が盛り上がったあと、この疾病の調査・研究は衰退したと佐藤は言う。おそらくその通りなのだろう。しかし、佐藤も引用する1939年の『日本医事新報』における外傷性神経症についての小特集を読むと、すこし違う印象を持つ。文献は、「特別課題外傷性神経症に就て」『日本医事新報』no.880(1939), S14.7.12, 2687-2692.であり、四つの小論が掲載されている。それは、以下の通りである。杉田直樹「精神病理より観たる治療」2687-88; 植村卯三郎「一時金交付兼退職と全治との間に因果関係を認め得ない」2688; 馬渡一得「外傷性神経症の問題に就て」2688-2691; 武部俊雄「臨床的観察」2691-92.
この小特集は、そもそも、ある工場医からの投書に応じたものであるという設定になっている。その投書は、以下の通りである。
問 近年軍需工業の旺盛となるにつれて外傷性神経症の患者を見る機会が多くなり、従来その方面にあまり関心を持たなくてもよかった小工場医までが、その知識を必要とするに至った。恥ずかしいことですが、我々は外傷性神経症は賠償金を貰うと治る病気だくらいのことしか知らない。ついては、非専門医にも了解できるようご説明を願います。(大阪 工場医)
この投書をどのように解釈すればいいのだろうか。いろいろと空想を誘う内容である。
杉田が書いていることが面白いので、抜き書きしておく。
潜在意識においては、明らかに賠償要求の不合理、不徳義、我儘、あるいは無理難題であることをよく承知しているので、表面的にはその潜在意識における不当の欲求を抑圧しようとしてここに特異な軋轢を生じ、それが神経症症状となって患者を苦しめるに至るのである。
「賠償を受けるのが当然であり、また賠償がなくては今後の生活が不可能だ」という、特殊の性格的傾向による根本の「自我の変質」が起こっているからである。しかして、こういう自己中心的な自我変質は、一には本人の生来的精神病性変質の存在に因るものであるが、また他方には近代的世相の変遷につれて要請された病的人生観によるものでもある。いわば、個人の権利尊重ないし自由平等主義の浸潤により、特に平生より社会的にある圧抑の下に生活しきたったごとき人々にたまたま不幸なる出来事がおこり、しかもその責任の所在の明らかな場合にあたってのみ本省が起こるのである。歪められた人生観に基づく病的性格的反応とみるべきである。
宗教ないし哲学的教養をはかり人生の本質をあきらめ、災厄に処する道を平生から修養せしめておくことに力を用いる必要がある。
本症は欧州でも19世紀末に鉄道賠償法の制定せられるまでは存しなかったといわれ、我が国でも3,40年来、西洋の賠償思想の輸入後に始めて生じたものであって、工場法や鉄道事故の補償や個人損害賠償の請求や往々法律的に個人の権利が保障せられてから以後において、そういう知識を有しているもののあいだに普及しきたった近代的疾患なのであり、個人の権利のいたって不安定であった封建時代には存在しなかった。生活不安定の時代にはかえって念仏宗などの力で不安神経症はたいがい予防せられていたのである。すなわち本症のごときものは、文明開化病の随一に数えるべき、非日本精神の現れというべきである。