Quantcast
Channel: 身体・病気・医療の社会史の研究者による研究日誌
Viewing all 455 articles
Browse latest View live

ドイツの戦時神経症の治療

$
0
0
ドイツの第一次世界大戦期の戦争神経症研究についてメモ(Ben Shepard) 

ドイツにおいては、大学の精神科の教授レベルの優れた医師たちを総動員した戦争神経症の研究と治療のプログラムがすぐに始まった。その中で、1890年代に外傷性神経症について論争された内容である身体的か心理的かという議論が再燃した。そのうち二人の医者についてメモ。一人は、ハンブルグの神経学者、マックス・ノンネで、彼はシャルコーとベルネームに学び、フランスでしか見たことがなかった男性ヒステリーがドイツにも現れたと嘆き、半信半疑で催眠を用いてみたら非常に効果があったとして催眠を用いていた。ノンネ自身が登場して、手がでたらめに動く患者を、暗示を用いて治療する姿を劇的に描いたフィルムは有名である。 

もう一つは、マンハイムの病院のカウフマンで、彼は痛みを与える電気ショックを戦争神経症の患者にかけて、患者を脅迫すること・威嚇することで治療になると考えた。実際に行ってみるとこの治療法は非常に効果があるように見え、ドイツの各地で行われた。しかし、患者を電気で刺激して痛みと苦しみを与えるこの「治療法」は、みるからに残忍なものであって、批判されていた。これを風刺した諷刺画も描かれたし、1918年には、ドイツの国会でこの治療法が批判された。

カウフマンの電気治療法の例が私の議論にとって重要な理由は、日本の国府台陸軍病院で(おそらく昭和16年以降に)実施されていた電気ショック療法は、カウフマンの試みをよく知っていたからである。単に器具やその利用を知っていただけでなく、ドイツ第二帝国の国会においてこの治療法の残忍性が取り上げられて議論されたことも知っていた。しかし、日本においては、この治療法の残忍性が政府や国民に批判されることはないと考えていた。その理由を、国府台の医師の細越正一は、国民が陸軍に大きな信頼を置いているので、残酷に見える治療法でも邪魔されずに実行できるから、と書き記している。言葉を換えれば、「第一次大戦期ドイツでは、国内で批判の対象となった電気ショックの治療法を、第二次大戦期日本では行っても大丈夫であると判断した」ということになる。

戦時神経症メモ

$
0
0
欧米の戦争神経症の議論と、日本のそれを大きく隔てる違いの一つは、それが公衆による議論の対象であったか否かという違いである。

第一次世界大戦期のヨーロッパの交戦国において、1914年の7月に戦争がはじまって数か月のうちに、戦争神経症は公衆が注目するところとなった。イギリス軍においては、同年の12月には、フランスに設置された病院において多数の兵士が神経症的・精神的ショックの状態にあることが観察されて、新しい「疾患」の存在がクローズアップされたが、これらの情報はすぐにマスメディアによって国民が知るところになった。1915年には『タイムズ』のような大手新聞をはじめ多くのジャーナリズムが「シェルショック」の深刻な影響を取り上げるようになった。マスメディアや国民にとって、勇敢な男性の兵士たちが、壊れた自動人形のような痙攣や麻痺や硬直などを起こしていることは衝撃的なニュースであったし、しかもそれが砲弾の爆発の影響であるという当時信じられていた説明は、兵器中心の想像力の世界に簡単に適合した。この国民的な知識を背景にして、1915年にはシェルショックの将兵の扱いが議会で議論された。神経組織への物理的な影響を軸にした病因論はすぐに否定されるが、戦争神経症の問題は、当初はマスメディアと政府における「シェルショック」の問題として現れた。イギリスの医者たちはもちろんこの状況をいとわしいものと考え、ある医者の考えでは、「シェルショックの問題は、 [臨床医学の]外部の人々、すなわち一般の人々によって奪い取られて、それに対する医療と専門職の方針が、一般人の意見に従わなければならなくなった」としている。 (Shepard, pp.27-29, & 31)

日本陸軍が戦争神経症の対策に本気で取り組んだことは評価されなければならない。昭和12年に計画され、昭和13年には国府台を中心とするシステムを作り上げたスピードは効率的であったし、病床も常識的にいって、充足の範囲にあった。召集した医師の数と質と研究・治療の成果も、総力戦のための動員にふさわしい質が高いものであった。

しかし、日本の戦時神経症は、公衆の議論の対象にならなかった。戦中には新聞記事もないし、その治療と処遇について第一次大戦時のドイツのように、外部から介入や批判がある状況ではなかった。これは、陸軍が情報を統制したということもあるが、それと少なくとも同じくらい閉鎖的だったのは、応召された精神病医たちである。 彼らは、戦中は論文の行間に陸軍への批判をにじませ、戦後ははっきりと批判した。 それにもかかわらず、彼らは、一般大衆が戦時神経症の問題に口をはさむことを忌避していた。彼らにとっては、戦時神経症の治療は、陸軍内部の問題として、「白衣の勇士」としての慰問などがない空間で、厳しい軍規の中で行わなければならなかった。戦時神経症の処遇を社会の問題とすることに、医師たちも抵抗していた。  

戦後アメリカの精神医学文化への戦時神経症研究の貢献

$
0
0
Staub, Michael, Madness Is Civilization: When the Diagnosis was Social, 1948-1980 (Chicago: University of Chicago Press, 2011).
アメリカでは戦時神経症の研究がどのように戦後の精神医学に発展的に連結させられたかを論じた書物の章をチェックする。この本は、基本は文化史の本で、戦後アメリカの精神医学と反精神医学を、同時代の文化の中にソリッドに位置づけている。とても面白い本だと思う。

「患者としての社会」という副題がついた第一章である。「社会」が病気の原因として非常に重要である合意が形成されて、それが強力に研究や思考に影響を与えたのが戦後アメリカの精神医学文化の一つの特徴である。社会が持つ文化、コード、思想によって、個人がかかる精神疾患が決まってくる・変わってくるという議論である。これはもちろん戦後アメリカで初めて現れた思考の枠組みではなく、デュルケームの自殺論は社会の凝集性・統合性と自殺率の関係を論じているし、田舎と都会の精神病の疫学的な研究は戦前には大規模に行われていた。クレペリンにならって、伝統社会には異なる精神病が存在し、また文明社会よりも少ないことが取り上げられていた。アメリカでは1949年に国立精神衛生研究所が作られ、強力な研究と発信の気管となった。クレペリンに反対する精神分析系の精神科医たちが力を得た。

この中で、戦時神経症の治療は、これまで行われた最大規模の精神医学調査の性格を持つ事業と研究に転換された。多くの医師たちが、精神医学がこれほどアメリカ社会に貢献したことはなかったと言及した。日本を訪れた軍の精神医学の責任者の William Menninger が1947年に明らかにしたところによれば、戦争神経症の患者は数百万人にのぼった。これらの患者の生活の様子は、1945年の Life にカラー記事で紹介された(入手すること)この患者たちが戦争で発病した原因は、彼らの人格の形成、特に家庭で愛情を受けたかどうかが重要であるとされた。メニンガーは「ドイツの88対空砲や日本の神風特攻隊の攻撃に身をさらすことと、親戚の屋根裏部屋に妻と子供3人と住んだり仕事を見つけられなかったりすることは、まったく違うことに見えるが、パーソナリティに与える効果という点では、これらはほぼ同じことである」とたとえて、戦争での神経症の研究と、一般社会での生活の精神衛生との類同性を論じた。また、同時期に、ハロルド・ラスウェルや、UCバークリーのアドルノを含む社会学者たちのチームが行った「権威主義的パーソナリティの研究」は、反ユダヤ主義、保守主義、ファシズムを招来しやすい人格の研究を行った。

日本精神医学の戦争経験と戦後のノイローゼ論

$
0
0
加藤正明『ノイローゼ』

重要な一文を見つけたのでメモ。もともと昭和30年に「創元医学新書」の一冊として出版された書物だが、これは昭和56年の大きな改訂の時に書かれた言葉で、それまでの版には出てこない。

「この本の初版が出た昭和30年からすでに26年を経過した。この期間に本書の改訂を試みることを何回か考えた。しかし、ノイローゼのテーマは、昭和13年に筆者が召集されて以来、日本の軍隊に多発した戦争ヒステリーの治療体験と、南方の発展途上国で観た異なる文化の中でのノイローゼの観察という貴重な資料のなかから生まれたものであった」という台詞がある。

この説明を読むまで気がつかなかったのが恥ずかしいが、まさしくその通りである。冒頭での導入のあと、第3章・4章の「神経症の実験」「適応の限界」ではナチスの収容所の例とビルマのナ・ウィンの例が、5章の「危急反応」では大戦、砲撃、爆撃、そして面白いことに震災などが、6章では戦争神経症そのものが、7章の拘禁・抑留では、ナチスやアメリカの日本移民の収容所、加藤自身もそこに滞在したビルマとタイの収容所の様子が描かれ、第8章では、「社会変化への適応」という章で、社会の変化への適応と神経症の関係が論じられる。つまり、戦争とその諸相の経験を経て、新しい戦後の社会に適応している日本のありさまである。戦争と帝国に深く結びついた精神医学の洞察・知見を、戦後の社会の精神衛生に生かそうという取り組みが日本にもあったということの確認。

「精神医学の科学哲学―精神疾患概念の再検討―」第2回研究会

$
0
0
以下の研究会が開催されますのでお知らせいたします。

「精神医学の科学哲学―精神疾患概念の再検討―」第2回研究会

2013年2月23日(土)13時30分開始、終了時刻未定(17時頃終了見込み)
東京大学駒場汽ャンパス18号館1階ホール
発表者
信原幸弘(東京大学)「妄想の執拗さと実存的感情」
テライ・サラ(フランス・東洋学研究所)「日本の精神医学の一概念―対人恐怖を考える」
鈴木晃仁(慶應義塾大学)「戦争・労災・地震―日本の外傷性神経症の歴史から」

参加費無料、事前登録不要

サイトは以下の通りです

探偵小説が似合う街

$
0
0
小酒井不木「科学的研究と探偵小説」『新青年』3巻3号(1922)
探偵小説と医学研究の間の深い関連は、英語圏では医学の文化史の確立された主題のひとつとなって、多くの研究書がすでに世に問われている(読まなくては!)日本語でも、英文学者が作品論ベースで多くの仕事をしている。そもそも、コナン・ドイルのように、探偵小説というジャンルが形成される時期の重要な作者が、医者としての教育を受けたという特徴があり、日本では小酒井不木(小酒井光次、1890-1929)がこれにあたる。小酒井の仕事は「青空文庫」に多数おさめられているので、自由に読むことができる。この評論は、1922年に探偵小説雑誌の『新青年』に発表したものである。雑駁な書き物だが、おもな主張は、探偵小説の規範として、超自然的な議論を入れないこと、科学を入れるときにはいい加減な間違った科学ではなく、正しい科学を入れるべきだというものである。

それ以外に、はっとした面白い指摘をしている。どの都市が探偵小説に向いているかという議論である。小酒井は東大では生理学・血清学を学んだが、この評論によると、1917-20年の外国留学は衛生学を学ぶためで、そのため、ロンドン、ニューヨーク、パリといった大都市に滞在した。これらの街は、ドイルやポーがその名探偵を活躍させた場所でもあるから、小酒井は休日には街を歩いては、探偵小説の場面を思い出していた(日本では古代から続く、典型的な「名所」型の外国滞在である)。それだけでなく、NYやロンドンなどの大都市の生活が科学的になると、それだけ犯罪を行うにはいかにも都合がよくなる。しかし、日本人の生活状態が、探偵小説の内容となるにはあまりにも貧弱である。東京あたりでは「どうも奇怪な、大きな犯罪が事実ありそうにもおもえぬし、また東京を背景にして小説を書いてもさほど面白くなかろうと思う」という。

クレッチマーの戦争神経症論の日本への影響

$
0
0
クレッチュマー『ヒステリーの心理』
手元にあるのは、クレッチマーが1948年に Hysterie, Reflex und Instinkt というタイトルで出版したものを、東大の吉益脩夫が1953年に『ヒステリーの心理』として訳したもの。本当に観なければならないのは、同じ吉益が1933年に『ヒステリーに就いて』として訳して出版したものである。確認していないが、これはおそらくクレッチマーが 1924年に Ueber Hysterie というタイトルで出版した書物の翻訳だろう。だとすると、1933年の翻訳は、日本の精神病医が、戦争神経症にふれた重要な日本語の著作ということになる。クレッチマーのヒステリー論は、シャルコー、フロイト、ジャネ、オッペンハイムといった19世紀末から20世紀初頭のヒステリー論の上に、1914年からの第一次世界大戦の戦争神経症の患者についてのドイツ精神医学の総力を集中したような大規模研究、内村祐之がのちに範例とするにいたった医学の総動員の典範のようなものの結晶の一つであった。日本の精神科医たちが尊敬のまなざしでみつめた書物であろう。そこに現れている戦時ヒステリー論の日本への影響も考慮しなければならない。

本来は33年版だが、とりあえず53年版をみると、クレッチマーが戦時神経症の患者を治療するときに医者がもつ嫌悪感、まるで悪魔が体に住んでいる人間を相手にするかのように書いている。治療を求めて診察室にきたのに、いざ治療となると反抗する患者、筋肉が緊張し逃れようと努めていたが、しばらくすると、また意志がもどる。「この全光景は以前の戦時治療家にとってはごく典型的なものであって、これを回想することさえ倦怠を催すくらいである。(中略)「悪党!」と戦時治療家は付け加えていう。」

悪魔憑きと「悪党!」か。33年版を確認しなければならないけれども、このようなクレッチマーの記述を頭に入れたうえで、日本の精神医学者たちは戦争神経症に向き合ったということは覚えておかなければならない。

ハックスリー『素晴らしい新世界』の鞭打ちと大衆の集団オーガズム

$
0
0
ハックスリー『素晴らしき新世界』の末尾に、私をとても不安にさせて、胸から腹のあたりにまるで生き物がいるかのような不快感を覚える部分がある。痛みと鞭打ちの個人性と集団性について、嘔吐感を催させる、まさしくポルノグラフィックな部分だと思う。

ハックスリーの『素晴らしき新世界』は、「すべてがすべてのため」という原理のもと、性と生殖と感覚が万人にむけて平等に分配されているディストピアである。そこに、性と生殖、なかんずく愛は個人のものであり、一対一で個人と個人の間で起きるべきだと信じている「野蛮人」がやってくるという設定である。「野蛮人」である主人公は最後まで性と愛は個人のものだと信じているが、彼が惚れた女性は新世界人だから、個人的な愛と性こそが野蛮だと思っている。そのような超えられない壁があり、その他にもいろいろあって、彼は彼自身を悔悟のために激しく鞭打つが、この場面が新世界人によって映画に撮られた。この社会では映画は「触感映画」で、おそらく鞭打ちの感覚を共有できるということだろう、新世界で大人気の作品になった。その映画を観た大衆が、彼が隠遁している場所を訪れて「主演俳優」である彼のまわりに群がり、「鞭打ちを―見せろ―鞭打ちを―見せろ」と異口同音に一致共和の官能的な合唱をする。そして、大衆の監視のもとで、彼は、自分自身と自分の恋人を鞭打ちながら、大衆にもそれが感染して、大衆も互いに殴り合いながら官能の究極に高まっていく―という話である。

『素晴らしい新世界』の中で、最も絶望的で不快感と不安を催させる場面だと思う。鞭打ちが持つ「痛み」と「悔悟」というもっとも個人的・私秘的な要素が、大衆に奪われて万人のものになり、それが共感される官能の陶酔になる。この部分を読むと、ポルノグラフィーに対する考えが大きく変わるというか、何かが凝固したかのような嫌悪感を持つようになると思う。

エラリー・クイーン『Yの悲劇』

$
0
0
エラリー・クイーン『Yの悲劇』
本格推理の傑作としてタイトルを知ったのが中学生の頃だから、35年ほどタイトルだけ知っていて読まなかった本である。三分の一世紀にわたる無知を激しく恥じる内容だった。推理小説だからネタバレを警戒しますが、以下は内容に触れる部分があります。

ストーリーは梅毒と優生学である。ある富裕な一家が、梅毒の水平感染と垂直感染(母子感染)に徹底的に蝕まれ、現在の家族が祖母から孫までみな梅毒がもたらすさまざまな疾患や特徴を示しているという状況である。心臓麻痺、精神病質、異様な性格、あるいは異常に優れた才能など、梅毒の多様な症状が家族中に蔓延している。梅毒の秘密が明らかにされる箇所は、医学史的には、この推理小説のハイライトといってよい。この梅毒一家の問題をどのように解決するか、ナチスのような断種によらない方法が論じられる箇所は、もう一つのハイライトである。

Yの悲劇が出版されたのは1932年、翻訳されて江戸川乱歩らに激賞されて探偵小説の鏡と言われたのが1937年である。ちょうど優生学の全盛時代にあたり、探偵小説が優生学の普及に深く結びついていたことが予想される。

・・・医学史的にこれほど重要なマテリアルで、推理小説の古典中の古典で、現在も読まれている圧倒的ベストセラーを、なぜ私は知らなかったんだろう。

研究会「宗教と精神療法:その歴史的パースペクティブ」

$
0
0
研究会「宗教と精神療法:その歴史的パースペクティブ」
Seminar "Religion and Psychotherapies: Its Historical Perspective"
場所:求道会館(〒113-0033 東京都文京区本郷6丁目20-5)
Kyudo Kaikan (20-5, Hongo 6 chome, Bunkyo-ku)
3月6日
時間:第1部午後1時より、第2部午後2時半より
Part1 1:00 p.m.- 2:00 p.m. Part 2 2:30 p.m. – 6:00 p.m.
使用言語(日本語 / 英語) Language (English / Japanese)

1:00 p.m. – 2:00 p.m.
第1部 ワークショップ「近角常観の歴史資料について:その”発見”からデジタル化まで」
Part 1 Workshop "About theHistorical Document of Chikazumi Jokan: From its "discovery" to Digitalization”
司会:吉永進一(舞鶴高専)Yoshinaga Shin’ichi (Maizuru National College of Technology)
発題:岩田文昭(大阪教育大)Iwata Fumiaki (Osaka Kyoiku University)

2:00 p.m. - 2:30 p.m 休憩 Break

2:30 p.m. – 6:00 p.m.
第2部 研究会「宗教と精神療法:その歴史的パースペクティブ」
Seminar "Religion and Psychotherapies: Its Historical Perspective"
司会 松岡秀明(淑徳大学)Matsuoka Hideaki (Shukutoku University)
あいさつ 鈴木晃仁(慶応大学)Suzuki Akihito (Keio University)
1 吉永進一 「仏教と催眠術:井上円了と桑原俊郎」
Yoshinaga Shinichi Buddhism and Hypnotism: Inoue Enryo and Kuwabara Toshiro
[Presentation in Japanese, with English supporting materials]
2 クリストファー・ハーディング(エジンバラ大学)「宗教と精神療法、その理論面、そして古澤平作の治療」
Christopher Harding (University of Edinburugh), Religion and Psychotherapy: In Theory and In the Work of Kosawa Heisaku
[英語での発表ですが、日本語の参考資料がつきます]

4:00 p.m. – 4:15 p.m. 休憩 Break

4;15 p.m. – 6:00 p.m. コメントと議論 comments and discussion
commentators 堀江宗正Horie Munechika (University of the Sacred Heart)、松岡秀明Matsuoka Hideaki
主催:医学史研究会、宗教と精神療法研究会、近角常観研究会

ヤスパースより地震後の神経症について

$
0
0
この数年は20世紀の精神医療の歴史を研究しているから、そのための体制を自分の中で徐々に作っているが、その一つが、簡単なことだけれども、「ヤスパースとクレペリンの教科書を座右に引きつけてよく目を通す」ことである。どちらも、みすず書房から美しい書物で出版され、しかも西丸四方の名訳で出ている。ヤスパースについては、それに対応するドイツ語の原著まで持っている。ヤスパース『精神病理学原論』を読んでいるときに、ふと気がついたことがあるからメモする。

クレペリンでもヤスパースでも大体は同じことだと思うが、20世紀初頭のドイツの精神医学の教科書には、ある特定の状況によって生じて、それとともに理解される一群の精神疾患を分類しなおして掲載している箇所がある。ヤスパースでは病的反応を論じる部分、クレペリンでは「災害精神病」の部分である。戦争を経験したあと、この部分に、戦時神経症が組み込まれることになった。これは、後に櫻井図南男が「事態精神病」と呼ぶことになり、外傷性神経症と戦時神経症を論じた枠組みである。

1914年からの第一次世界大戦において、戦時神経症の毒々しい大流行が訪れて、きっとヤスパースの記述も変わってくるのだろうが、私が持っているヤスパースはそれ以前の版だから、主力は、刑務所に収監された囚人の「拘禁精神病」、労働や公的な事故のあとの「賠償神経症」、地震のあとの「破局神経症」、そして移民のあとの「懐郷反応」である。地震のあとの反応としては、スイスのEduard Stierlinなる医者が書いた、イタリアのメッシーナの1908年の地震のあとの災害神経症が引用されているが、それ以外に、「激しい感情の動きや絶望的な死の不安、相応する感情がまったくなく、著しい無表情、ある場所に意味なくじっと突っ立っている」状態が描かれ、ここにヤスパースの註が打ってあって、「ベルツ アルゲマイネ・ツァイトシュリフト 58 巻、717頁」とある。これが、何度か言及されているのを見たことがある、東京帝大の教授であったベルツが、濃尾地震について書いたものだろうか。日本の精神病医たちは、自分の国の地震後の神経症を、ベルツ―ヤスパースという経由で、知ったのだろうか。

「白隠展」と富士山の日

$
0
0

イメージ 1

かなり前のことになるけれども、Bunkamura ザ・ミュージアムで「白隠展」を観たときの記事を。今日は2月23日で「富士山の日」でもあることですし。 

白隠は1685年に生まれ1768年に没した禅僧で、1000点以上の数多くの画と書の作品を残した。今回はそのうち重要なものを100点ほど展示したもので、史上もっとも大規模な白隠の展覧会であるとのこと。

釈迦、観音、達磨といった仏教系の主題、布袋や七福神などの民衆信仰系の主題、「お多福」「すたすた坊主」などのキャラクター、それから戯画と墨跡などが集められていた。水墨画であるが、近現代のカリカチュアやポンチ絵に通じるようなタッチや表現方式であった。しばらく前に東博で観た長谷川等伯の「松林図屏風」は、水と光と空間の表現に激しく胸を打たれたけれども、同じ媒体を使って、このような全く違ったタッチの作品になることが不思議だった。

特に心に残った作品を二つ。一つが「地獄極楽変相図」である。地獄のさまざまな様子が描かれていて、私は地獄を見るのが研究的な理由もあって好きだから、熱心にみてきた。西欧では「年齢の階段」と呼ばれるテーマがあり、左から上がって中央で頂点に達して右に行くにつれて下がっていく階段の上に、人生のそれぞれの時期を配する手法があるが、同じ手法が使われていた。

もう一つは、「富士大名行列」という作品の素材となった場所の話題である。白隠は現在の沼津である東海道の原宿の出身であり、若年期の修行のあとは、沼津の松蔭寺が生涯の拠点であった。そのため、富士山を描いた作品の中には、このあたりから見たのだろうと想像させるものがあった。その中でも「富士大名行列」は、ああ、このあたりだろうなということがはっきと想像できるものだった。東海道が富士川を渡る少し前のあたり、今の富士川橋の少し手前から富士山と川向うの岩を見たあたりがインスピレーションになっているのだろうと思う。この富士川の向こうの比較的険しい山が重なっている部分は、原・吉原としばらく平坦な土地が続く東海道に突然現れる急峻な景色であり、現在でも「岩淵」と呼ばれている地域である。それがどうかしたのかというと、その岩淵の山を回りこんでから、しばらくいったあたりに、私が住んでいる村があるというだけですが(笑)

大門正克『日本の歴史 15 1930年代から1955年―戦争と戦後を考える』

$
0
0
大門正克『日本の歴史 15 1930年代から1955年―戦争と戦後を考える』(東京:小学館、2009)
16冊構成の「日本の歴史」の新しい通史の、戦前から戦後までを論じた書物を読む。よくお名前を目にする大門先生の書下ろしで、人々の「生存」の歴史ということで、医療や病気に注目した記述が多くて、日本における医療の歴史の伸展に目をみはる。日本史の学部や大学院で教育を受けた研究者が医療の歴史に興味を持つときには、このような形に問題を析出して興味を持つのかということが分かった。

横溝正史『獄門島』と優生学

$
0
0

イメージ 1

横溝正史『獄門島』は、昭和22-23年に雑誌『宝島』に連載された探偵小説で、瀬戸内海の孤島で起きた連続殺人事件を金田一耕介が解決する人気作品である。

瀬戸内海の孤島は、日本の優生学と精神医学にとって縁が深い主題である。1940年の国民優生法が制定され、精神疾患の遺伝を優生学によって食い止める法制度が作られたが、精神医学者たちの間では、精神疾患の遺伝を人口の規模で精査しなければならないという意見があった。これをうけた調査が行われて、昭和15年には東大の内村祐之が八丈島・三宅島の精神病調査を行い、九大の下田光造が五家荘の精神病調査を行った。これと同じ流れで、昭和17年の7月に家島群島の坊勢島で、島の住民の精神病調査が行われ、昭和18年にその成果が『精神神経学雑誌』に発表されている。著者は、厚生科学研究所の荻野了と長尾茂とある。坊勢島は「古来、他島との血の交流はほとんど行われず、風習も異なる。従って他島民は一種侮蔑的にこの島を視て、この島民は他島に対して猜疑と敵意を抱きやすい」とされている。単なる遺伝だけでなく、近親婚が先進疾患の負荷を高めていないだろうかと関心は内村の調査からずっと一貫した持ち続けられており、坊勢島の調査でも、近親婚は重点的に調査されたが、その結果、あまり精神疾患の負荷を上げていないことがわかった。

横溝正史が「獄門島」のモデルを坊勢島に取ったというわけではないだろうが、坊勢島と「獄門島」のイメージが重なる部分も多い。横溝の設定によれば、獄門島は、かつては海賊の根城であり、近世には流刑地であったとされ、この島においては他の島々と縁組しないので、島全体が、血がつながった一つの大家族のようなものとされている。「気ちがい」という言葉が重要な謎を解く鍵になるが、「島の人々はみな気ちがいである」というような金田一の台詞もある。その島の中でも、特に精神疾患が重責しているのが、網元の「本鬼頭」の家で、図に示したように、精神疾患の両親から精神疾患の三人娘が生まれていることになっている。三人姉妹の母のお小夜なる人物は、島の外の出身であるが、これはご祈祷を行う能力を持つ「草人」「かんかんたたき」の筋のもので、こちらも長い期間にわたって血の交流がなかった筋に属している人物である。

このように血縁的に孤立した瀬戸内海の島において、別の島の男性と結婚して「島から島へと / お嫁に行く」のが、小柳ルミ子の「瀬戸の花嫁」であることを、もう一度言っておきます(笑)

ためしに MS パブリッシャーで作図してみた。PPTより少しきれいなのかもしれない。

東南アジア医学史学会

$
0
0
2014年1月に、マニラのアテネオ・デ・マニラ大学で、「第5回・東南アジア医学史学会」が開催されます。

報告を希望する方は、以下の要領で、モントリールのローレンス・モネ先生まで。


CALL FOR PAPERS

5th International Conference on The History of Medicine in Southeast
Asia (HOMSEA 2014)

To be held at the Ateneo de Manila University, Quezon City, Metro Manila,
The Philippines
9-11 January 2014

Conference Host:
Department of History, Ateneo de Manila University


All proposals on the subject of the history of medicine and health in
Southeast Asia will be considered, but preference will be given to
those on the following themes in Southeast Asia:

The history of medical education
Indigenous medical traditions
History of military medicine
Medical biographies
Organizing the medical profession
Women?s health and family planning
Medicine and social development
Travel, contact, exchange, and circulation of medicine
Colonial and national medicine
Historical medical texts
Medicine and religious practices
Chinese and Indian medicine
Early medical professionals

Please submit a one-page proposed abstract for a 20-minute talk, and a
one-page CV by 1 March 2013 to: Laurence Monnais:
laurence.monnais-rousselot@umontreal.ca

Please note that it may be possible to subsidize some of the costs of
participation for scholars from less wealthy countries, and for
graduate and postgraduate students.

新着雑誌 History of Psychiatry

$
0
0
History of Psychiatry 2013年3月号。論文が6点に古典翻訳と書評が5点。

6つの論文は、まず一つめは北ウェールズの精神病院の症例誌をもとにして、1875-1924年と1995-2005年の二つのコホートにおいて、メランコリー/重度うつ病の研究。死亡率はいずれのコホートにおいても大きな上昇がみられ、後者では自殺がその原因であるが、前者では結核が上昇の原因である(!) がん、心臓病は上昇に関与していない。二つめは、忘れたころにやってくる麦角中毒(ergotism)の歴史の論文で(笑)、この論文の主題はノルウェイ。2部構成の第1編で、古代から17世紀までを扱っている。サガのエピソードや魔女狩りの記述の中から麦角中毒の事例を拾うという。三つめはスウェーデンの精神衛生の研究。優生学と関係があったが、それ以外の側面を検討する論文。四つめはウィリアム・ジェイムズの心霊現象の研究、五つめは、1900年近辺のオランダにおける神経衰弱の研究。医学言説とサナトリウムの症例誌を組み合わせた「テッパン」の手法で、社会文化的な側面とジェンダー論を重ねる。最後の六つめが、面白い主題で、極地探検とアルコールの関係。極地探検ではアルコールの効用が真剣に議論されて、その効用を唱えるものもいたし(酒造会社が極地探検のスポンサーだった)、逆に禁酒の必要を唱えるものもいた。

特筆するべきことは、古典翻訳の企画に非西洋圏の文献が入っていることである。1722年に没したムガールの医師、ムハマド・アクバル・アルズン (Akbar Arzn)の書物から「頭の病気について」という章が訳されているという。ううむ、先を越されたか・・・これは、即刻、呉秀三『私宅監置』の一章を英語に訳さなければならないですね、橋本先生!(笑)

それからもう一つ。エディターのベリオスが「遡及的診断」について論じているエッセイという必読ものが最後に付されている。これは、おそらく、人文社会系出身の歴史学者にとって特に必読だと思う。人文社会系の出身の歴史学者は、病跡学のような手が込んだ遡及的診断をしなければ問題が済むとナイーブに思っている人が多いと思う。私自身もそう思っていたが、Borch-Jacobsen を読んで見解を改めて、この問題は本気になって考えないといけないと思っている。遡及的診断は「私はやらないからいい」とナイーブに思っている人がいたら、Making Minds and Madness を読むといいです。

泉鏡花『天守物語』

$
0
0
泉鏡花『天守物語』
『天守物語』は大正6年に発表された戯曲であるが、鏡花は自作が上演されるのを観ることができず、初演は昭和26年の花柳章太郎であった。2011年に新国立劇場で公演された時に見損ねたのが口惜しい。映画化は1995年の坂東玉三郎・宮沢りえのものがある。

封建時代の播州姫路の白鷺城の天守は最上階の第五重が舞台となる。季節は晩秋で、時は日没前から深更の、物悲しさから凄まじさが色濃くなる頃である。天守には、天守夫人の富姫がいる。27,8の美しい女だが、これは空を飛ぶ異界の女である。そこに海も山もさしわたしに風に運ばれて遊びにくるのが猪苗代湖の亀姫で、これも20ばかりの美女だが実は異界の女である。二人が、時に蓮っ葉な言葉を交わしながら慕い合うありさまや、侍女たちが、白露を餌にして秋草を天守の五重から釣ろうとするありさまは、市井と夢幻がまじりあう雰囲気である。

そこに、亀姫の従者がお土産として色白の男の生首をさしだして据えるあたりから、凄みがある残酷な色味がまじるようになる。亀姫の侍女の舌長姥が、この生首が血で汚れているといって、白髪をさばいて染めた歯を見せながら三尺ばかりの長い舌で血をなめて「汚穢やの、甘味やの」というのは、凄惨で残虐な美の名場面になるだろう。

天守下を通った城主播磨守の白い羽の雪のような鷹を、亀姫へのお土産として富姫が欲して、自ら姿を変じて鶴となって鷹をおびきよせて手に捕えたところから話が急速に進展する。鷹匠の美しい若い武士である姫川図書之助は、鷹を逃した責を問われて、人は入ってはならぬ天守五重を訪れて、いろいろあって(笑)、富姫はこの若き鷹匠を恋することとなる。二人の恋と、図書之助を追う武士たちの勇壮な立ち回りは、夢幻と残酷の前半とは全く違う雰囲気の世界を作り出している。

井村恒郎「敗戦国の妄想狂」

$
0
0
井村恒郎「敗戦国の妄想狂」『現代心理』1巻7号1947: 27-35.

戦前・戦中・戦後と精神病医患者の妄想を診てきた医学者が、戦争をはさんでどのように妄想が変わったのかを論じているエッセイで、ものすごく面白い。

神経症のような精神異常なら、戦争のような社会的環境の変動と、その後の日本の体制の大変化は明らかに大きな影響を与える。戦中には「徴用神経症」と呼ばれていたものがあったし、現在(1947年)では経済の混乱と不安を抜きにして神経症を語ることができない。しかし、妄想の形式を主とする精神病については、分裂病であれパラノイアであれ、病前の生活から理解することは難しい。何か別の<過程>が楔のように撃ち込まれて、独自の発展をとげるからである。「妄想は、喩えてみれば、生体には異物である核を中心にして出来上がる真珠のようなものである」

それを認めたうえで、戦争を境に妄想がどのように変わったか。電波、電気、ラジオ、テレヴィのような新技術が現れ、最近では原子力までも同じ魔法の道具になっているが、これは、昔の、神通力、透視、読心術とかわりない。かつての神仏や狐狸も、前後の爾光教(金沢をベースにした新興宗教で双葉山も入信していたとのこと、秋元に妄想性痴呆と診断された)にいたるまで変わらない。しかし、戦前から戦中の被害妄想においては、憲兵、警察、特高が非常に重要な役割をしめした。国民は常に監視の対象であった。何人もの知識人が、憲兵が現れる被害妄想にかかり、自殺して死んだものもいた。誇大妄想について言えば、我が国では常に天皇と皇族と将軍が重要であった。戦後は、彼らの非合理な権威の力は急落し、日本人の妄想も鎖国的で閉鎖的なものから解き放たれて、解放的になって外国人も登場するようになった。外国人になりきったりするのだが、しかし、そこで、日本的な養子であるなどの形式をとる。外国人の有名人の娘だが、日本の市井の庶民に養子に出されたとする。自分の名前は「せつり姫」だというが、これは、井村によれば、ロンドン生まれ・ワシントン育ちの皇族で、のちに結核予防会の会長をした秩父宮勢津子(せつこ)にちなんだのだろうとのこと。

「もっと徹底した新しい型の人種妄想、つまり日本人らしい型と生活の仕方からほとんど完全に脱却したような妄想患者があらわれている」という前置きで井村が語る患者が、空恐ろしいというか、分かりすぎて怖いというか・・・ こういう患者が戦後に現れたということは、心に刻んでおこう。これは、日本人であることに絶望的な嫌悪をうかがわせる人種妄想である。自らP. ケイと名乗り、最初から一言も日本語を話さないし、日常の対応はすべて外国語、郷里から送られた見舞いの品物も、包装の上に日本名が書いてあるので人違いだといって受け取らない。日常生活は全く洋式で、和服である病衣をまとうことはしない、食事も決して米飯を食べない。黙々として孤独、いや孤高を保っている。作業が終われば、ラジオの傍らでひとり外国放送を聴いている。このあわれな精神の異国人は、自分の両親や妹をみても他人だという。完全に家族と絶縁し、外国生まれの孤児だといっている。彼の病前・病後の生活環境は、普通の日本人からみると例外的なものだったという。これこそ、従来わが国でみられた妄想に共通した日本型をうちやぶった、妄想の戦後型といってよいだろうという。

泉鏡花「海神別荘」

$
0
0
泉鏡花「海神別荘」
鏡花全集で「天守物語」と収めたのと同じ巻(二十六巻)の別の戯曲「海神別荘」が面白かったので読んでみた。「天守物語」が天守閣の最上層を舞台にした空を飛ぶ魔物と鷹の話だとしたら、「海神別荘」は、その名が示す通り、海底に住まう龍王を主人公として、そこに人間の美しい娘が嫁いでくる話である。

龍王はある陸の人間の娘を見初めてこれを欲し、その父親に海中の宝を送ったばかりでなく、黒潮・赤潮の手兵を遣わして一浦の津波を起こし、田畑も家も山に流す暴威の力を見せつけて娘を手に入れた。陸の人間から見ると、娘の命を諦めて人身御供に出したことになる。海中の宝は、珊瑚に紅宝玉、緑宝玉、青瑪瑙に紫の瑠璃という五色の豪華なものである一方、龍王の破壊力は圧倒的な荒ぶる神のものである。それに続いて、黒潮の騎士たちに囲まれ、女官に付き添われ、白龍馬に乗って海中を降りていく娘を描いた部分は、まさにただようような海中の夢幻世界である。

龍王が人間のありさまを否定する論調も面白いし、龍の鎧をまとってその強さを誇る部分は惚れ惚れするような男と夫の力の誇示である。嫁となった娘が龍王の宮廷の豪奢に目を瞠り、父親や陸の人間にここをみせたいというのを虚栄と切り捨てる部分もいい。龍王の女となったいま、自分が陸の人間には巨大な蛇にしか見えないことを悟った女とのインテンスな場面もいい。このあたりが面白いと思えるようになったのは三島由紀夫を読んだせいだろうと私は思う。

二つの面白い奇想があったのでメモ。ナポレオンが集めさせた万巻の書を、龍王の姉の乙姫が編んで小さな一冊に綴じた百科事典が登場する。その百科事典では、森羅万象と人類の事蹟が、輝く五色七彩の活字によって、名刺、代名詞、動詞などに応じて異なった色で現れる。そして、予備知識がない人間にはただの白紙にしか見えない。たとえば東海道中の唄も、それが分からぬと白紙だが、侍女の一人が憶いだして「都路は五十路あまりの三つの宿」と唄いだすと、「都路」という文字が江戸紫の色で現れる仕組みである。

もう一つは、海中の人間の魂の話である。醜い想いをもって海で死んだ人間の魂は、海月(くらげ)となって女に引かれてその近くによるという趣向である。

皮膚科学の模型像(ムラージュ)の日本への導入

$
0
0
石原あえか「日本におけるムラージュ技師の系譜―ゲーテを起点とする近代日独医学交流補遺」『言語・情報・テキスト』東京大学大学院総合文化研究科・言語情報科学専攻紀要、19(2012), 1-12.
「ムラージュ」というのは、医学教育で用いられる精密な病理標本を蝋で作成したものである。実際の身体から型取りをして、非常に写実的に形成して彩色する。ネットで調べたら、チューリヒに非常に大きな優れた博物館があるらしい。


この論文は、ゲーテの『ヴィルヘルム・マイスター』から出発する。外科医を志向する主人公が解剖実習を学ぶ場面で蝋人形が出てくること、これはゲーテの知人のマルテンスなる医師が、彩色銅板画からムラージュによる三次元的表現を学んだことを反映していること、ドイツにおいてはこの技法はなかなか定着せず、定着したのは19世紀末であったこと、パリのサン=ルイ病院のバレッタなる医師が1889年の第一回国際皮膚科学・梅毒学会議でムーラージュを多数陳列したこと、ウィーンの皮膚科のカポシ(「カポジ肉腫」のカポシである)がこれを見て感銘を受け、ヘニングなる弟子をパリに派遣して学ばせて、1892年にウィーンで開かれた第2回の会議ではヘニング作のムラージュが陳列されたこと。

そして、このウィーンの展示を見たのが、当時ハイデルベルクに留学していた土肥慶三で、その効果を確信して自らもウィーンに移ってこの技法を学んだ。それを土肥が今度はブレスラウにもたらし、そこからベルリンに移ったという。ドイツにムラージュの技法をもたらしたのが日本人の留学生の土肥であったという。

土肥は東大に帰って、これを同郷(福井)の画家の伊藤有に教え、この伊藤からさらにムラージュの技法が職人的に教えられて他の大学の皮膚科に広まっていった。伊藤は東大の皮膚科のために2,500点のムラージュを作ったという。
Viewing all 455 articles
Browse latest View live