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Channel: 身体・病気・医療の社会史の研究者による研究日誌
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泉鏡花「婦系図」

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泉鏡花『婦系図』
鏡花の夢幻・怪異系の作品を読んで、昔はよく分からなかった作品が心に響いたので、鏡花を読む時期なのかもしれないと思って、「婦系図」を読んでみた。大学生に入ったばかりの頃に読もうとして、退屈で退屈ですぐに投げ出した作品である。あのころは翻訳で読んだフォークナーやスタインベックが心に響く作家だったから、確かに、鏡花とは両立しない。歌舞伎の世界でいう「世話物」ふうというのだろうか、連載は1907年だが、その時期の東京と静岡の人々を描いた作品である。

構成、筋の展開、登場人物の心理の掘り下げといった、近代小説の教科書的な美徳は一切持っていない作品で、それはそれで仕方がない。シェイクスピアがラテン語で芝居を書かないからといって、それが彼の欠点ではないのと<ほぼ>同じである。主人公の早瀬主税は、もともとは孤児で不良少年となり東京で掏摸をしていたが、心を改めて本郷の大学でドイツ文学教授をする酒井先生の家に住み込んでドイツ語を習って、その翻訳と大学の非常勤講師で生計を立てているという設定である。彼の周りには、エリート階層の中で学士様と娘を結婚させて「婦系図」で家と家族を繁栄させようとする、河野家の人物が登場し、この河野家と主税の対決というのが全体の構造をなしている。

主税は学者としては周縁的でやくざな身分だが、女については圧倒的な凄腕で、元芸者のお蔦、酒井先生の一人娘のお妙、そして河野家の娘で、いまは理学士と医学士に嫁いだ二人の人妻と、合計4人の女と大体同時進行で色事が進行する。そのあたりの、江戸・東京の生活の細部に、美しい着物、粋な所作、仕掛けた髪とかんざしが、まるで動く幻燈のように提示される部分は、惚れ惚れとする。お蔦と同棲していることが発覚して、酒井先生がべらんめえ調で主税を叱り飛ばすところもまさに痛快であり、大学の教師は、こういう叱り方をすると一発でアカデミック・ハラスメントになる「悪い見本」として必読である(笑)

あとは河野の家は病院を経営しているから、その部分でのトリヴィアがいくつか。

無人島に持って行きたい作品ではないけれども、30年前に読んだときよりもだいぶ分かるようになった気がする。この年になって、鏡花を味わうことができて良かった。

アウシュヴィッツの「死の天使」

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ジェラルド・アスター『最後のナチ メンゲレ』広瀬順弘訳(東京:読売新聞社、1987)

医師・医学者でアウシュヴィッツの「死の天使」として悪名高いヨーゼフ・メンゲレの一般向けの評伝を読む。アウシュヴィッツの強制収容所に収容された生存者の手記などが中心で、メンゲレ自身の行為や、強制収容所一般のおぞましい残酷な様子が延々と書き記された部分があり、その部分は読んでいて胸が悪くなり、身体が冷えていくような思いになる。

メンゲレはバイエルンのギュンツブルク出身、父親は機械工場の経営者として成功した人物である。ヨーゼフは長男で、ミュンヘン大学の医学部時代から保守的・反ユダヤ的な政治活動をしていた。その後、フランクフルトで遺伝優生学研究所のフォン・フェルシュアー教授のもとで優生学を学び、この出会いがのちのメンゲレのアウシュヴィッツでの活動のきっかけとなり支えとなった。1937年にナチ入党、1938年にSSに参加して武装SSに入隊して第二次世界大戦に参戦するが、負傷して戦線から引退し、収容所の医師となる。アウシュヴィッツで「死の天使」と言われたのは、列車で送られたユダヤ人らを、即座にガス室で殺すグループと、強制労働に用いるグループの二つに分ける場面で、その仕事をワーグナーを口ずさみながら優雅にスタイリッシュに行って楽しんでいたからだと言われている。もう一つ医学史的に重要なのは、フォン・フェルシュアーの教唆のもと、アウシュヴィッツに送り込まれた双生児の研究や、小人症などの障害などの事例と実験データの収集に携わっていたからである。その方法は、学者風の厳密さというより、愚かな蒐集魔的なものだったという。これは彼の助手や被収容者などの証言と印象であるが、これは、何が違うとこのような印象の差を作り出すのだろうか。

戦後も継続した戦争神経症

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今泉恭二郎・清水英利・氏原敏光・佐々木敏弼・元木啓二・森井章二「第二次大戦中発呈し現在に至るまで戦争神経症状態をつづけている2症例」『九州神経精神医学』13巻3号、1966: 643-648.

戦争神経症が継続していること、5年ごとに軍人傷病恩給の申請が更新されるたびに増悪してくるのは、神経症症状をもった患者である。

九州大学の精神科の教授となった櫻井図南男の還暦記念の特集号に収められた論文である。櫻井は戦中には戦争神経症の古典的な論文を出版し、それが戦後20年してもまだ継続している二例を、徳島大学と徳島市立園瀬病院のチームが探してきて報告した論文。退職する教授に贈られた良いプレゼントと考えておくのがいいだろう。教授に追従的だとか別の見方もできるかもしれないが。

櫻井の説をコアの部分まで削り取ると、ドイツの精神医学や下田光造の外傷性神経症論と同じように、<戦争神経症は、賠償に対する欲求という観念が心因となっておこることは疑えぬ事実である>となる。ここから出発して、この医師たちは、第二次世界大戦中に頭部戦傷を負った患者が、恩給について、戦後から継続したいざこざによって神経症が起きてそれが固定されている様子を探してくる。片方は昭和34年に恩給診断書を書いてもらい恩給局に申請したが受理されず、神経症が固定し、それから現在まで続いている状態である。もう片方は、昭和31年に軍人恩給の申請ができることを知ったのを契機として急に増悪して、ヒステリー性けいれん発作まで起こすようになった。

この理由を、我が国の補償制度の特徴が、損害賠償的であって、生活保護的ではなく、傷痍軍人恩給による補償も、労務災害補償も、損害賠償的な考え方によっている、だから、戦傷による、または業務上災害による、たとえば一本の手指の第一関節より末梢の欠損すら、戦争神経症や外傷性神経症よりも傷病等級の査定がはるかに高く、したがって補償額も高い。そのため、戦争神経症の患者は、自分や家族の生活のことが不安になってきて、そのことが患者の心を占めるようになる。はじめは戦傷や外傷や後遺症に対する十分な治療への欲求、恩給や補償に対する欲求に基づく神経症状態が、後には自分の病気の快復の可能性ひいては労働能力や家族の生活に対する不安もまじってきわめて複雑な要素の介入した神経症状態に発展していく。したがって、恩給の改定のたびに戦時神経症が増悪することが観察される。

内村祐之からメモ

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内村祐之は、日本が生んだ精神医学の「スター」の一人であったが、その理由は、父親が内村鑑三だったこと、一高のエースピッチャーだったことなどにあると思われる。しかし、もし精神医学から「スター」が出るとしたら、内村の時代なのかなあという、構造的な問題もあるような印象を持っている。

日本経済新聞の「私の履歴書」の昭和47年に連載したものをまとめたのが『鑑三・野球・精神医学』であるが、そこに海軍と協力して行った戦争神経症についての記述がある。

東大の傑出人脳研究について。長与又郎は、日本人の脳の重さや形態が欧米人のそれらと較べて遜色ないこと、日本人は欧米人と同じくらい優秀なのだということを立証したかった。内村が着任すると、すぐに東大の傑出人脳の研究を行った。同じころ、内村はクレッチマーの『天才』を訳した。

戦中の精神病院について内村が漏らしている一言は、精神病院における大量殺戮になぞらえることができる集団死亡を考えると、内村が何を考えていたのか、謎めいている。<我が国においては、食糧配給のその他につき、精神病者なるがゆえの差別をされなかったことは<不幸中の幸い>である。安楽死の名のもとに、多数の精神病者を毒ガス室に放り込んだドイツの暴政にくらべて、それはせめてもの救いである>と内村はいう。

政府は、精神医学者に戦時研究として託したもののうち、内村が名大の勝沼とともに海軍省に任じられたのが、ラバウルの航空隊員の精神疲労の実態調査であった。これは昭和18年に行われたものである。内村の観察によれば、特に爆撃機の搭乗員に精神疲労が激しく、それを解決するための交代や睡眠などの方策がとられていなかった。神経衰弱症状はごく少なく、派手なヒステリー症状はもちろん、心因反応も一例しかなかったが、多くは潜在的神経症にかかり、神経症への準備状態が高まっている状態であった。ラバウル航空隊の多くが訴えた身体の故障を、生命を賭けての連続出撃の緊張によるものだろうと考えた。しかし、海軍の当局にこれを訴えたところ、精鋭を誇りとし、この精鋭はいかなるときにも動じないと不動の信念を持っていた彼らは、内村の進言を無視したという。いかにも内村らしい仕方で書いているが、アメリカ軍も自分と同じような方法を考えていたとのことだ。

ちなみに、神経症という言葉はタブーで、その代わりに「疲労」という言葉が用いられたという。

精神疾患の「淘汰」の問題

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新井尚賢、柴田洋子、飯島泰彦、赤羽晃、戸田賢江、丸山俊男「秩父山村における一斉調査による精神医学的考察ならびに他農村との比較」『精神神経学雑誌』60(5), 1958: 475-486.
血族結婚、分裂病の寛解と社会生活の地域差などの問題について、素晴らしい洞察がちりばめられた史料を読んだ。

精神疾患一斉調査という方法は、1940年に制定された国民優生法の「科学的な基盤」を整えるために、同年に内村祐之のチームが八丈島・三宅島で、下田光造のチームが熊本県五家荘や長崎県の黒島などを調査したことにはじまる。この調査は昭和18年まで継続して、戦争のため一時中断したが、戦後に復活した。昭和29年の厚生省による全国100地域を選択しての<精神衛生実態調査>は、これを全国規模で行ったものである。昭和38年は、この実態調査の全盛期であり、全国200地域で行われた。しかし、患者と患者の家族のプライヴァシーを露骨に調査する方法への批判が高まり、昭和48年の調査、昭和58年の調査は激しい反対のため実施できなかった。ちなみに、この論文の著者たちが「そのような調査自体が一般の趨勢から遠ざかりつつあるようにも思われる」と書いているのが、将来ポイントになるかもしれない。

これは昭和31年11月から32年4月までに行った調査である。これまでの研究の中で、血族結婚との関係を考察したものが少ないので、古くから問題になっている血族結婚と精神病発現率との関連を問題にする。調査は、秩父保健所と連絡をとり、「なるべく孤立した村落」として、山岳に囲まれた「袋小路のような地形」である小鹿野町倉尾地区を選び、それと対照させるために、関東平野のほぼ中心に位置して交通の便も良い農村である埼玉県北葛飾郡庄和村の富多地区を選んだ。地図としては原論文に掲載されたものはこのようになる。両地区はどちらも400戸、人口2500人程度の農村だが、大きく異なった社会であり、倉尾はいまだに山腹の家でランプを常用しており、テレビはもちろんラジオすらもきく人がほとんどないが、富多では、広大な耕地を勇士、春日部にも近く、文化地域との交流が比較的頻繁に行われている。経済状態でいうと、上・中・下・生活保護と四つに分けた時に、「中」は倉尾では月収1万-1.5万円、富多では3.5万円―4.5万円であった。方法としては、役場に依頼して被調査者全部の名簿を作成し、入院中のものは当該病院で診察し、最後に現地に赴き、前もって障害者の有無を知り尽くしたうえで、戸別訪問によりできる限り各個人に面接して正確を期した、とある。

血族結婚について。配偶者の生家所在地がどこにあるかだが、Kでは82%が同じ村におり、Tでは53%になる。血族結婚は、Kでは453の結婚のうち61組(13.46%)、Tでは471組のうち27組(5.73%)であった。いとこ婚を計算すると、全国の推計では4.0-4.8%であったのにたいし、Kで7.72%、Tでは4.25%であり、Kはやはり高いが、これまで精神病一斉調査が行われた土地でいうと、長崎県黒島、熊本県五家荘、兵庫県坊勢島、岐阜県徳山村などと較べると、遠く及ばない。予想よりも血族結婚の割合は低かったということになる。

精神障害者の違い。メジャーなものでいうと、分裂病がKが27人、人口比1.12%、Tが7人で0.28%であり、精神薄弱がKに10人に対しTに3人、神経症がKに4人に対しTに20人。分裂病について、Kでは、病者自らが一家の戸主として生計を支えているものが多い。戸主という地位には人為的な選択がある。Kでは、社会的に順応している寛解者が多い反面、その生産力の薄弱さから、過半数はかなり困窮している。他方、Tでは、病者を保護しながら悠々生計を立てているものが多い。Kにおいては分裂病者は、戸主として働いているものが多く、一応の社会的順応をみせていながら、なおかつ社会的に下積みの生活を免れないという、分裂病そのままの特性を如実に示す(ヒヤヒヤ)Kでは、入院治療したものが、Tよりも少なく、治療せずに寛解して労働可能となったものが多い。一方Tでは、よく治療されているにもかかわらず、社会に復帰したものが少ない(ヒヤヒヤ)。

神経症がTに多いのは、ローカルな疾患観念と関係がある。同地における「チアンマイ」という方言によって表現されている女性に見られる一群の症状群を分析してみると、これらは神経症であり、これが神経症の数の多さに貢献している(ヒヤヒヤ)文化度の高いTにおいては、女性意識の向上、安定した生活環境における嫁姑間の感情的・家権的対立が神経症の原因となっている。ゆえに、その罹患年齢層も、すでに嫁して年を経ているのに独立家憲(?)を得られない年代、若い嫁を迎えて親権を危うくされている更年期などに多い。(ヒヤヒヤ)

血族結婚と分裂病は、Kにおいては、影響を及ぼしていない。問題は淘汰である。Kにおける分裂病者の結婚挙子だが、病者において一般より高い(!) このことは、Kにおける分裂病者が表面的に一応社会に順応しており、その意味で淘汰を受けていない。そして、ここに、この地区の分裂病発現率の増加の要因がある。(ヒヤヒヤ)甑島における精神病一斉調査でも、分裂病が高率である原因として、同地の分裂病者が淘汰を受けていないこと、それと並行して、分裂病第家系群に寛解者が多いとのべている。(ヒヤヒヤ)生産力が低いKでは、地域的条件が直接的に影響して患者家庭を貧困に追い込み、寛解者が戸主となり生活力の弱さから最低の生活を続けているような事情である。(ヒヤヒヤ)

血族婚と精神障碍の重積

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岡部 重穂「血族婚地域における精神医学的一斉調査」 『精神神経学雑誌』59(8), 1957, 663-676.

1957年に受理された論文であるが、調査が実施されたのはそれよりも15年ほど前の1942年である。7月1日から鹿児島県の甑島において2週間にわたって行われた。著者の岡部は九大の下田研究室であり、下田の研究室は1940年に五家荘と長崎県黒島の二つの地域を調査しているから、この論文でも、両者と甑島の比較が重点的に行われる。ポイントは、血族結婚が分裂病の集積を起こすかどうかという問題である。ドイツ系の学者(Brugger など)は、ミュンヘンやバーゼルの周辺の地域における分裂病の集積を、それらの地域が血族結婚地域であることと因果的に結びつけたが、日本の学者たちは、総じてこの議論には慎重であり反対意見が多かった。反対意見が多かったのは、当時の日本の血族結婚の割合は欧米よりも圧倒的に高く、これを認めると日本は精神病が集積した国になるということを認めることにつながるからであると思われる。ドイツの偉い学者が言うことは素直に聞いていた日本の学者としては、かなり骨がある反対が展開されていた。日本の精神医学者たちが反ドイツで団結した問題であると言ってもよい。

具体的には、甑島血族婚地域は二つ存在し、A部落とB部落。Aは50%、Bは23%が血族婚である。ほかの地域は6.5%程度である。これらの血族婚地域には多くの精神病患者、特に分裂病の患者が住んでおり、このデータを素直にみれば、「血族婚からは精神病・精神障碍を起こしやすい」という結論が出るかのように見えるが、これを徹底的に分析して、血族婚が精神病を起こすわけではないと主張している。

甑島には「驚異的な高率」で分裂病が存在している。躁鬱、癲癇についても、高い。調査は、警察派出所の名簿「特視精神病者名簿」より33名、村医の陳述による精神病者10名の家系票作成を村役場に以来、その後、19年に家系票、患者病歴を補正した。

九大の電気痙攣療法

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安河内五郎・向笠廣次「精神分離症の電撃痙攣療法について」『福岡医大誌』vol.32, no.8: 1939, 1437-40.

1930年代は、精神分裂病の治療における大きな転機が準備されはじめた時期であり、基本的には不治であると考えられていた分裂病に対して、効を奏するいくつかの療法が開発されて、戦後の向精神薬革命の前兆が現れている。1935年にメドゥーナが発見したカージアゾル痙攣療法は、「痙攣」という現象が分裂病を治療することを示唆し、より安全で使いやすい痙攣方法を見つけるレースが展開した。その中で、電気を用いて痙攣を起こす療法は、1939年にローマのチェルレッティとビニが開発した。

チェルレッティ・ビニとは独立に、九大の安河内と向笠も電気痙攣療法の方法を開発しようとして試みていた。彼らがまず行った方法は、患者の頭蓋に小さな穴を開けて注射針を挿し込んで脳髄表面に接触させ、その針を電極として交流電気を通して痙攣を起こすというものであった。これが非常に手間がかかり危険も多いなあと思っていたところ、ドイツの精神医学雑誌でチェルレッティらの論文を読み、そこから大きなヒントを貰ったという。チェルレッティの論文には、具体的な方法や装置の記載がなかったので、安河内らは自作することになったが、「大体において似たようなものではないかと思っている」と書いてあるのは、彼らがチェルレッティの記述からイメージを作り上げて、それに従って自分たちの電気痙攣の装置を作ったことを意味する。安河内・向笠に電気痙攣療法を発見したプライオリティを唱える人、あるいは独立発見だったと主張する人もいるようだが、この安河内・向笠たちの記述は、彼らはチェルレッティが発表した論文の示唆に従って自分たちの方法を作り上げたことを意味している。プライオリティはもちろん、独立発見の主張もできないことを確認しておく。これについては、私自身、詳細が分からないまま、独立発見であるかのように書いたこともあると思う。お詫びする。

電気痙攣療法の最大の利点は簡便なことである。変圧装置、電圧計、電流計、刺激導子だけでよい。できるだけ削減するとしたら、電流計もいらないし、電圧は100Vだから交流電源から直接とればよい。硬直、振顫のあと、痙攣が続き、これが40-50秒くらい続く。その間は意識を喪失している。痙攣が終わると、軽い朦朧や睡眠がある。導入時に、頭の中にかなり苦痛な電撃様の感覚があることがあり、この苦痛感のために治療を拒む患者もいる。しかし、カルジアゾールのように「アウラ」と言われる痙攣の前兆のような苦痛感はない。

外傷性神経症と労災とキリスト(笑)

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高橋正義、水町四郎、高臣武史、宮司克己「外傷性神経症」『日本医師会雑誌』35巻10号,1956: 539-552.
「外傷性神経症」は日本では1920年代から既に議論の対象となっていた疾患であったが、戦後になると、その存在自体を否定する声は少なくなり、労働災害にまつわる疾病の一つとして確立したという印象を持っている。これは日本医師会雑誌が特集した4人の医者による懇談会である。高橋は東京労災病院の院長、水町は横浜大学の教授、宮司は日本鋼管鶴見病院の院長、高臣は東京医科歯科の精神科の助教授であった。

ここでの焦点は労災であり、労災患者のほうは補償が問題になるからノイローゼになるが、スポーツ外傷では、好きなことをやってけがをしたのでノイローゼにならない、苦痛はあっても我慢して、双黒山、輝昇などはアキレスけんを切ってもつないでいたという。

労災のあとの後遺症や外傷性神経症について、迷信邪教は相変わらず敵とされていて、これにひたっているのが半分以上である、ここに医療が入って医者の「新しい猟場」にならなければならないと言っているのは興味深い。

「外傷性神経症」と大戦中の戦争神経症の関係だけれども、一度だけ出てくる。国府台で行われていた電気療法は、低電圧を何回もかける。どんどんかけると、意識はなくならないけれども、とても痛いんです。棍棒で殴られたように感ずるそうです。それをどんどんかけるような残虐なまねをしました。完全に強圧的な治療法ですね。そしてそれでたしかに症状はとれるのです。これは軍隊のシステムで、軍医は絶対に権力をもって患者をおさえて監督できますし、逃げるところがないし、またぎりぎりまで追い詰めちゃうというようなファクターが非常に多いためでもあると思う。(547)

高橋: [腕が上がらないという患者に対して] いったん訴えを全部受け入れる、入れてやると上がる。その上がった場合に恥をかかしちゃいかん。「おれがやったんだから上がるのは当然だ、おれはキリストだ、キリストがやったから動くようになったんだ、明日から働けるぞ、お礼をいいなさい」こうやると喜んじゃう。このコツがね。
杉:新興宗教が起こせるじゃないですか(笑)

岡西:我々は、そういうことなしに、科学的根拠をもって説明しなければならぬから、新興宗教よりももっとむつかしくなる。新興宗教のさらに新興宗教でなければならぬ。
高橋:水町さん、組んで一つ新興宗教をやろうか(笑)
水町:労災教というのでもやりなさい。
高橋:僕はそれよりも恐妻教のほうがいい(笑)

第二次大戦時ビルマにおける精神病調査

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加藤正明「ビルマ民族の精神医学的考察」『精神神経学雑誌』vol.49, no.6, 1947: 112-115.

短い論文だが、重要な意味を持つ。日本の帝国精神医学はのちに東大教授となった内村祐之が1930年代にアイヌを対象として始めて、進化論的な症状の解釈方法を確立した。それと並行して精神病一斉調査という形で、日本の孤立的な僻地・遠隔地を対象にして、ある人口集団における精神病の罹患率を計測し、その家系図を調べて人口における精神病の重積を測定する方法を編み出した。これとまったく同様に、内村の弟子が、軍医として駐留したビルマにおいても、帝国主義精神医学を実施し、精神病一斉調査を行っていること。

加藤がビルマに滞在していた間の、正式な精神医学的な研究の成果をまとめたもの。理論的な準備としては、レヴィ=ブリュールの「集団表象」の考えから、ビルマの特にビルマ族については、小乗仏教と精霊 Nat 崇拝の共存が重要である、精霊崇拝は、万物に生命があると考える瀰漫的な神秘主義ではなく、個別化され人格を持つ精霊を崇拝するものになっている。

ビルマでは智能検査が行われ、またビルマ巡査を対象に性格検査が行われた。その結果が報告されている。

最も興味深い点は二点。一つが内村が八丈島で行ったような精神病一斉調査を行ったことである。昭和18年の10月20日から11月5日にわたって、イェナンジョン市(Yenangyaung)より40キロほど離れた地点にある二つの農村(ボートン、センダジン)で精神医学的調査を行った。男679名、女735名、自作農が45%、農業労働者が37%、砂糖製造が10.2%である。ここで内村たちが行ったような精神病調査を行おうとしたが、村長、通訳、衛生兵の努力にもかかわらず、その結果は極めて寂寂たるもので、脳溢血の後の症状、アルコール中毒、分裂病がそれぞれ一件ずつしか発見されなかった。これを加藤は強気に解釈して、精神病そのものが少ないのではないかと論じている。P. Bailey が15民族、患者7万にわたって調査して言うように、「精神薄弱が多い民族に精神疾患は少ない」ことを示すのだろう。

もう一つはアイヌの「イム」と同系列の文化精神医学の研究を行っていることである。「ヤウン・ディー」「ヤウン・ダ・チン」と呼ばれる症状で、もともとの意味は「ねぼける」という意味。アイヌのイムや、ジャワのラターなどと同様に、反響症状、従命自動、抑制喪失などの症状が出る。加藤は3人の中年以降の女性の患者をみた。しかも、これが油田都市のイェナンジョン附近で発見されるということが、ビルマの文化水準の低さを語っている。なお、飛行機の爆音を聞くたびにヒステリー弓をなす18歳の「ビルマ人慰安婦」にふれて、通常のヒステリーも存在すると主張していた。



ビルマは、仏印、シャムとともに、湿潤的文化圏を形成し、これは温帯のエストニア・ラトビア・リトアニア、乾燥的なイラン・イラク・シリアに対応する。ビルマ、仏印、シャムは、三国共にアジア人種、モンスーン的風土、南方に流れる川、農業を主産業、人口は近代国家形成の一要素たる5000万人を超えず、多民族で貿易額5億―7億円で、植民地的経済状態から脱していない。ビルマを含めて、これらの社会・歴史的条件が、素質が低いからそうなったのか、それとも社会・歴史的な条件ゆえに素質が低くなったのかは、我々にとって素質と環境の相関関係として常に提起される問題である。

日中戦争下の廣東における精神病一斉調査

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笠松章「廣東地方に於ける比較精神医学一資料」『精神神経学雑誌』vol.46, no.4, 1942: 188-194.

東大精神科を卒業した内村祐之の弟子で、軍医として応召されて南支の廣東地方の一部落に2年半駐留した。笠松が「B郷」と呼ぶこの部落は人口は7,000人ほどだが、男500人、女150人が華僑として出稼ぎしており、100名の富裕な階級は事変のあとは香港に逃げている。日本との戦争は、日本が意図しなかった壊滅的な打撃をこの地域にも与え、過酷な環境をそのまま直接に浴びる子供にその被害が鮮明に出て、乳児死亡の高さ、子供の少なさ、あるいは意図的な子殺しすら存在した。(この部分の笠松の台詞回しには、日本軍に対する批判が見え隠れする)

もともとはこの地域に特殊な精神病を探したのだが、これが存在しなかった。内村のアイヌのイムや、クレペリンのジャワのラターのように、系統発生学的に一民族の精神分化を図る尺度としての原始反応を見つけられないか、あるいは低い宗教形態である呪い、祈祷、憑依などがないかと思って探した。男でも女でも占い師(ナムロウ、オニババと読むのだろうか?)はいたが、彼らにしつこく神の声を聴いたことがないかと聞いても否定され続け、しまいには、そんなものは存在しないと冷笑される始末。日本では、いまなお狐憑きなどの低級の宗教憑依が存在するのに較べて、中国の貧困な農村にはそれがないという発見は、笠原に日本の文化のあり方を反省せしめた。日本が文化を急速に進歩させ、中国に対していつのまに軽蔑的な態度をとるようになっているが、日本ではその進歩が急速だったため、取り残された下限も存在する。一方中国においては、全体に貧しく水準は低いが、その下限は(日本よりも)高い。

笠松が発見できたのは、通常の精神病の患者だけで、分裂病3、躁病1、GPIが1、てんかんが1 である。

驚くべきなのは、たったこれだけの発見から、笠松は内村が八丈島で行ったような精神病一斉調査の研究になだれ込ませようとすることである。年齢階層別の人口が分かる事から、堂々としてワインベルクの簡便法を用いて補正頻度を計算しようとする。その結果は、このB郷は、精神病が圧倒的に少ないということがわかる。八丈島の分裂病頻度が0.91であるのに対し、B郷は0.08、三宅島の躁鬱が0.57だったのに対し、B郷は0.03 という数値である。

さらに驚くべきことは、笠松はこの数値の妥当性にこだわることである。戸別訪問はしていないし、言語が普通であり、軍の通訳は「機関銃」という言葉は知っていても精神病一斉調査には役に立たない。だから、この調査が不完全なものであることは認める。「しかし」と笠松は続ける。自分は2年半にわたってこの地に住み治療もしてきたから、この数字の少なさは、現実にこの地には精神疾患が少ないことを意味しているにちがいない。この地では精神病の患者を家門の恥と考えないから、隠蔽されるわけでもない。それなら、なぜ少ないのか。彼が言うには、まず結婚様式である。つまり、この部落では、同じ姓のものとは結婚しないというルールがある。これは「近親結婚が禁止されている理想的な状態」であるという。笠松が近親婚、特に日本の近親婚を悪遺伝を偏在し集積させる悪しき社会装置として不安に思い、それを禁止している中国に精神病が「少ない」のをうらやましく思っていることがよくわかる。

もう一つが、精神病を遺伝的に考える傾向が低いので、患者でも当たり前に結婚して、拡散されてしまうということである。

都会と田舎とヒステリーと神経衰弱

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井村恒郎「都市と農村における神経症の比較調査」『精神衛生研究』vol.2, 1954-2: 21-29.

国府台の精神衛生研究所の井村と、群馬大学の精神科のチームが協力して行った、都市部と地方部における神経症の比較である。国府台病院と群馬大の外来の二つの組織をベースにして、大都市の患者と純農村の患者をそれぞれ224名と190名だけ選び出して、二つのグループの比較調査を行ったものである。大都市といっても、国府台の立地上、東京の東側の戦災地に居住しているものがメインとなり、ここは戦災地で人口移動が激しく、経済的にも不安定な、中層以下のものが多く、その中でも国府台で受診するものは、生活程度が低いものが多い。

神経質・神経衰弱が農村に多い
不安神経症が都市に多い
ヒステリーは農村に少なく都市に多い
農村と都市は特に女子において異なり、男子には有意の差はない

不安発作のような急性の不安は都市の家婦に多く、近代社会では増加する。都市の家婦にヒステリーが多いことは、戦後のこの地域の生活が、社会的・経済的に不安定であり、道徳、習慣の拘束力が弱いことと関係が深い。

ヒステリーと神経症の比について。彼らがH/N比と呼ぶ指標があり、これが、戦中の市民、戦時神経症の兵士、そして今回の研究と、連続して使われている。今回のH/Nは、都市部では55.9. 農村部では19.1 であった。この55.9という数字は、H/N比としては、戦争末期の東大病院の外来が示した高い数値となる。ちなみに、戦争中の陸軍では100-264という異様に高い数値を示した。

井村恒郎「戦争神経症の印象」

西内啓『統計学が最強の学問である』(東京:ダイヤモンド社、2013)

石橋俊実他「アイヌの性格」『民族衛生』(1944)

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石橋俊実・岡不二太郎・和田豊治「アイヌの性格―青少年における調査にもとづいて―」『民族衛生』vol.12, no.6, 1944: 339-352.

北大精神科の石橋俊実は1942-3年にアイヌの青少年150人程度に性格検査を行いました。内村祐之の時代の梅毒検査・分裂病等の検査、そして有名なイムの検査に加えて、性格検査も行われたわけです。英語でのコメントです。

富岡直方『日本猟奇史』全4巻再刊

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富岡直方が1932-33に出版した一連の日本の猟奇関連の著作のリプリントです。江戸から明治・昭和へと並べてみると、「猟奇」における連続と不連続がわかりやすく浮かび上がってくる気がします。英語のコメントです。


小泉和子『家で病気を治した時代

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小泉和子『家で病気を治した時代』に英語でコメントです。とてもいい本でした。

結核が家で「治されていた」ことが詳細に触れられていますが、同じ時期にはもちろん精神病も家で治されていました。そのイメージを造るためにも、私がもっとすぐに読んでおかなければならない本でした。

茨城県浮島地方における精神疾患一斉調査(1959)

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FB更新。1959年出版の東邦大学精神科による精神医学一斉調査。秩父地方で血族婚と精神分裂病の集積について重要なデータを得たチームでしたが、次の調査地として選定した茨城県浮島は、調査の期待を裏切られました。彼らが期待していたのは、孤立した集落で血族婚の割合が高い集団でしたが、浮島は、道路の開通、水上交通の発展などで、かつでの孤立性をすっかり失った地域になっていました。この社会的な変化、即ち人口移動と婚姻パターンこそが、当時の優生学と精神医学の大きな背景でした。

16世紀ロンドンのペストと富裕層向けの演劇

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Smith, Milissa, “Personification of Plague in Three Tudor Interlude: Triall of Treasure, The Longer Thou Liueth, the More Foole Thou Art, and Inough Is As Good As a Feast”, Literature and Medicine, vol.26, no.2, 2007: 364-386.

後期中世から近世にかけて流行したペストは、もともと文学作品にあまり現れるものではないが(面白いポイント!)、1563年のロンドンのペストは、その数年後に書かれた interlude に盛んに取り上げられる。議論の核となるポイントは、interludeの社会階層の問題であって、このジャンルの演劇は、富裕層たちが私邸の宴会などで行うものであり、富裕層が持とうとしてペストに対する「ファンタジー」であると読めるということである。1563年のペストは、ロンドンの人口の1/4にあたる17,000人を斃したが、それが重要であるのは、いつもの流行と違って、ロンドンの中心部という社会階層が高い人々が住む地域で流行が激しく、いつもは多くの被害者が出る低階層者が住む周辺部の被害は小さかったことである。この状況に対して、interlude の上演を観るような富裕層は、ペストは悪しきものを処罰する存在であるというファンタジーを表明した。ことに、interlude においては、劇を上演する俳優(といえるのだろうか)は、観客たちの中をかきわけるようにして舞台に現れたので、大流行のあとで、死と処罰の擬人化が自分の傍らを通る経験は、このファンタジーの形成と深い関係があった。

大正期感化院収容児童の精神医学的調査

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FB更新。大正末の感化院収容児童の精神医学的調査。著者は後に名大教授となった杉田直樹。ヘッケルの進化論を用いて感化院の児童青年は、社会への深化の途上で制止させられた原始的な精神状態であると議論します。

台湾高砂族の精神病調査(昭和17年)

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FB更新. アイヌにはじまり、八丈島、三宅島、五家荘、東京池袋、小諸などのさまざまな地域で実施された精神病一斉調査。戦前で最も野心的なものは、1942年に台湾の高砂族を約4,000人にわたって調査したもの。

最大のポイントは、高砂族(特に対象となったブヌン族)の精神疾患、特に分裂病が著しく少ないことである。精神病一斉調査においては、総じて、未開民族がもっとも罹患率が低く、次いでヨーロッパ人、一番高いのが日本人の順という結果が明らかにされていた。日本の精神病医たちは、その科学的な調査によって、日本人は他民族よりも精神病学的に劣性であるという結果を次々に明らかにしていたことになる。しかも、西欧よりも優れた大東亜の盟主であり、大和民俗の優秀性が絶叫されている時代に。
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