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Channel: 身体・病気・医療の社会史の研究者による研究日誌
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精神分裂病に対するカンフル痙攣療法

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高瀬清・松下兼知・中江三郎「精神病、殊に精神分裂病の<カンフル>大量療法(第一報)」『日本医事新報』no.898(1939), 4195-4201.
高瀬清は長崎医専の精神科の教授である。この論文は、メドゥーナがカルジアゾル痙攣療法を開発する途上で試した「カンフル痙攣療法」を改良して試した実験を行ったものある。高瀬の業績について、もう一つの論文を知っているが、それは「硫黄療法」というもので、マラリア発熱療法を改良して硫黄を注射しても発熱する原理を精神病の治療に応用したものである。日本人の科学者や医者は、欧米人の発見の真似が得意だと言われて軽蔑されることが多い。私は、日本語でも英語でも凡庸な学術論文を仕事でたくさん読むから、どちらが特に真似が多いかということはあまり分からないけれども、長崎の高瀬先生については、工夫がない真似がお好きな先生だなという印象をもっている。

カンフルを大量に服用させて、分裂病や強迫神経症やモルヒネ中毒が治るかという実験。カンフルは経口で服用させていて、一回に最大で6グラム服用させている。このカンフル6グラムという数字は、たしかに「大量服用」と呼べる。昭和21年の薬剤一覧でしらべたところ、通常服用させるカンフルは、一回0.05-0.3グラムを一日三回というから、6グラムという数字は、20倍から400倍にあたる。これはたしかに多い。心配になるけれども、患者の多くはよくなっている。とくに強迫神経症とモルヒネ中毒には著効があるらしい。

・・・患者がよくなったのは喜ばしいけれども、どうも、高瀬の論文には、センスの良さを感じない。

クラフト・エヴィング商会『猫』

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クラフト・エヴィング商会『猫』
猫についての短い随筆を集めて一冊の書物とした本。1955年に『猫』として単行本になったものを、クラフト・エヴィング商会がすっきりとした本にプロデュースしなおして中央公論新社から再刊したものである。著者は、有馬頼義、猪熊弦一郎、井伏鱒二、大佛次郎、尾高京子、坂西志保、瀧井孝作、谷崎潤一郎、壺井栄、寺田寅彦、柳田國男。どの随筆も、猫が持つ気品と優雅さと寂しさが漂っている。このことは、これらの随筆が書かれた20世紀前半のころの猫は、現在とは違う生活をしていたことと関係あるのだろう。現在との決定的な違いの一つに、猫のバースコントロールの問題がある。現在の飼い猫たちとちがって、この時代の猫は、牡でも牝でも避妊手術がされていなかった。生殖のためのいわゆる夜遊び、そのための牡同士の争い、妊娠と出産。これらは、猫を飼うことの重要な一部であると同時に、猫を飼う初心者を驚かせるものであった。寺田寅彦の猫(「三毛」)が、はじめての発情期を迎えたとき、寺田はこのように書いている。

私は何となしに恐ろしいやうな気がした。自分では何事も知らない間に、此の可憐な小動物の肉体の内部に、不可抗な「自然」の命令で、避けがたい変化が起こりつつあった。さういふ事とは夢にも知らない彼女は、唯身体に襲ひかかる不可思議な威力の圧迫に恐れ戦きながら、春寒の霜の夜に知らぬ軒端をさまよひ歩いているのであった。私は今更のように自然の法則の恐ろしさを感じると同時に、その恐ろしさをさへ何の為とも自覚し得ない猫を哀れに思うのであった。141

この本を読み始めるときに、そんなことをもちろん考えていたわけではないが、寺田の時代の知識人が、知性を持たない動物の生殖と性について、どのような漠然とした恐怖を持っていたのか、それが優生学の言説にどのように滑り込んだかを鮮やかに教えてくれる。身体と性の魔性の力に突き動かされて、自分に何が起きているかが分からないまま、住むべき家を離れて夜の軒端をさまよって生殖をはじめる牝。その自覚のなさを「あわれ」に思うこと。戦後の話になるけれども、猫の避妊手術がマストアイテムになったことが実感としてよくわかる言葉だった。

近藤麻理恵『人生がときめく片づけの魔法』

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近藤麻理恵『人生がときめく片づけの魔法』(東京:サンマーク出版、2011)
アマゾンか何かで推薦された。失礼な言い方をすると、もともとあまり期待していなくて、「広告に引っ掛かってしまったなあ」くらいで終わる本だと思っていた。私自身は、物の片付けで困ったことはなく、書物の片づけも上手なほうだと自負しているから、この書物に書いてあるプラクティカルな内容の多くは、それほど目からうろこが落ちるようなものではなかった。

ところが、それとは別な意味で、この本は、意外な発見がある良い書物だった。この書物で語られているのは、片づけする「私」の発見である。片付けとは「自分のあり方」を確認することであり、片付けられるべきもの・残されるべきものとの間には、それが心に触れるかどうか(「ときめきを感じるかどうか」)という基準で選ばれる。その意味で、ビジネス書において進行している回心譚とファンタジー的なヴィジョン化と同じリズムが流れている。これは「ビジネス書」というよりも、家事関係の「実用書」という分類になるのだろうけれども、現在の回心譚でありファンタジー小説としての性格が全面に出ている。

松本清張『砂の器』

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松本清張『砂の器』
有名な長編推理小説。殺人事件の犯人を中年の刑事が追い詰めていく話で、何度も映画化・TVドラマ化されている。ストーリーの重要な部分で、ハンセン病の話題が出てくるので、何年か前のドラマ化では、患者団体などの抗議か、製作者側の判断か自己検閲かで、その部分が変更されたことが話題になった。恥ずかしながら、当時は、私はこの作品も読んでおらず、映画もTVドラマも観ていなかったのに、反差別を標榜する団体の言葉狩りくらいにしか思っていなかった。これは、不明と怠慢を深く恥じなければならない。今回、原作を読んで、非常に強い印象を受けて、この問題について、もっと深く考えなければならない視点が見えてきたと思う。

ネタバレ含みでストーリーを紹介すると、主人公である殺人犯「和賀」は、ハンセン病をわずらって諸国を放浪していた乞食の子である。父は、中年期に発病し、妻と離縁して故郷を追われるように離れ、諸国を浮浪して巡礼したハンセン病患者であり、その父と一緒に主人公は浮浪していた。この父子は、ある島根の田舎で親切で人格者の巡査につかまり、父は療養所に送られてしばらくして死に、和賀は篤志家に預けられそうになるが出奔して再び浮浪の生活をはじめて大阪に流れつき、大阪が戦争末期の大空襲で区役所も焼けて戸籍の類がすべて失われたことを利用して、戦災で死亡した夫婦の子供であるという虚偽の申告をして、別の名前と戸籍をもつ人物に生まれ変わった。彼には音楽の天分があり、上京した東京で才能を発見されて、先端的・前衛的な作曲家として著名となり、富裕な大臣の美しい娘の婚約者となって、田園調布の豪邸でテクノロジーを駆使して現代音楽を作曲している。そこに、彼の写真を見て、幼少時の面影を見て取った島根の元巡査が東京に訪ねてくる。抹殺した過去から、自分の真のアイデンティティを知っている男が来たのである。和賀は、これを扼殺し、顔面が分からなくなるまで鈍器で殴り続けて顔をつぶす。この殺人の秘密を守るために、さらに殺人を重ねていくが、最終的に、その秘密が見破られて逮捕される。

この作品は、読みながら深くて暗い恐怖感がこみあげ、その恐怖感が胸の奥に沈んで凝っていくような、特有の恐怖感を感じた。その恐怖の核にあるものは「顔のなさ」である。主人公である殺人犯は、ハンセン病患者の乞食の息子という過去を、大阪の大空襲の炎で抹殺して別の人間になりすまし、絵に描いたような成功と幸福を手に入れた人物である。その二重性を示唆するものが、テキストの中に全く存在しない。彼の心理がどのように屈折しているのか、成功の表面の奥には何があるのか、何を思って殺人を繰り返していったのか、いっさい描かれていないのである。この、「なりすまし」の殺人者が何者なのか、まったく存在しないのである。この欠如を対照的に浮かび上がらせるのが、知人で友人の評論家「関川」の存在である。関川も、和賀と同じように、一方で既成の権威を否定し、もう一方で成功に飢える若い文化人である。関川も和賀と同じようにマスコミに注目された評論家であり、和賀と同じような二重生活を持っている。関川の場合は、銀座のバーの女給と寝ているという程度だが、それをみじめなほどひたかくしにする。彼女のアパートを出るときに隣人に見られたといって引越しさせ、彼女が妊娠すれば中絶させる。二重生活を隠し通そうという強迫的な心の歪みは、関川において徹底的に描かれる。その意味では、関川は和賀のドッペルゲンガーであるといってもいい。しかし、ドッペルゲンガーの苦悩を描くのと、主人公の苦悩を描くのは、決定的に違う。和賀の「顔のなさ」は、関川によって強調されこそすれ、補われはしない。

この「顔のなさ」こそが、冒頭に触れたハンセン病問題のコアであると思う。これは、ただ、昔のハンセン病についてネガティヴなイメージを描いた作品ではない。ハンセン病患者の放浪からはじまった主人公の人生が、まったく顔を持たないものになってしまったこと。他人になりすまし、きらめくような成功をとげた人物の背後に、ただの空虚が存在すること。その空虚が象徴する「人格の不在」こそが、この小説が与えた恐怖感の核心だと思う。まだ気が付いたばかりで、考えを深めておらず、うまく表現できないけれども、メモしておく。

遺伝子工学における「自然」と「人為」

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遺伝子工学における「自然」と「人為」
未読山から読まなければならない論文を読む、基礎トレーニング。文献は以下の通り。
Rheinberger, Hans-Joerg, “Beyond Nature and Culture: Modes of reasoning in the Age of Molecular Biology and Medicine”, in Margaret Lock, Allan Young, and A. Cambrosio eds., Living and Working with the New Medical Technologies (Cambridge: Cambridge University Press, 2000), 19-30.

1970年代以降に発達した「遺伝子組み換え」(recombinant DNA)の意味を分析した優れた論文である。必読文献の一つだろう。

ブルーノ・ラトゥールの「フランスのパストゥール化」になぞらえて、現代の先端の遺伝子医療を位置づけている。ラトゥールによれば、パストゥールの細菌学は、医学・公衆衛生全体を変革した。一方には「フランス」という国家・人口があり、もう一方には実験室で微生物を研究する実験室の研究者たちがいた。その間に、無数の公衆衛生官たちが存在し、実験室の成果で病気の予防の仕方を変えようとしていた。それと同じように―と著者は言う―、この数十年の医学も、一方にはヒトの染色体があり、もう一方には無数のバイオテクノロジーの企業があり、その間に、遺伝子を通じて健康と病気と医療を変更しようとしている医者たちがいる。この構図における誤解の連鎖の中で、医学の「モルキュール化」が進行しているという。(それが科学者と医者たちの間の「誤解」の連鎖体であるかどうかという問題は、筆者がラトゥールから引いてきたものだから、議論しても無駄だと思う。)

ウィーナーが『サイバネティックス』で示したように、20世紀後半の生物学は、「情報」という概念を中心に動くようになった。免疫や遺伝子は記憶や転写といった読み取りといった情報の言葉で理解されている。ここでは、コンピューターなどのハードでメカニカルなテクノロジーによって、それによって細胞の内部で起きていることを表象することが目標であった。前者を「人為・技術・文化」、後者を「自然」と呼ぶことにすれば、そのプロジェクトの基本は、自然を技術で表現するという、啓蒙以来の基本であり、ヴォーカンソンの機械仕掛けのアヒルが餌を食べて糞をするのと同じであった。しかし、1970年代以降の遺伝子工学とともに、状況が根本的に変わってくる。そこでは、DNAシーケンスや組み合わせなどが行われているが、それらの技術を行う「工具」は人為的に作られた「ドライな」機械ではなく、酵素という「ウェットな」生物の環境の中で働くものである。これらの酵素の働きは、生命の長い歴史の中で作られてきたものである。遺伝子工学のテクノロジーは、まさしく生命の一部であり構成要素であり、それを用いて生命に介入しようとしているのである。ここでは、かつてのような、人為・技術・文化と自然という二元論に基づいた構造になっていない。このように、人為が、自然・生命の一部を道具にして、自然・生命を書き直すようになったことは、人為と自然が存在論的に異なったものではなくなっていることを示唆する。

ニカラグアの鉤虫症

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Torres, Ligia Maria Pena and Steven Palmer, “A Rockefeller Foundation Health Primer for US-Occupied Nicaragua, 1914-1928”, CBMH/BCHM, 25(2008), 43-69.
ニカラグアは、1914年から28年の15年ほどの期間にわたって、ロックフェラー財団の鉤虫症コントロールのプログラムを受け入れた。この時期は、いわゆるニカラグア革命の時期であり、アメリカの帝国主義的な外交政策がニカラグアに大きな影響を与え、国家の方向性をめぐる激しい争いのあと、親米派の政権が権力を握った時期であった。かつては、このエピソードを、人道主義の偽装をしたアメリカ帝国主義の道具であると捉える見方が優勢であったが、この30年ほどの研究においては、そういう性格も確かに存在したことを認めたうえで、このような単純な見方ではなく、国際的なバイオポリティカルなコントロールのモデルは何か、それがどのように形成されたか、どのような政治・外交的な力がはたらいていたか、熱帯医学が持っていた人種論的な前提がどのように再生産されたのか、そして、民間医療に対してどのような戦いが仕掛けられ、バイオメディシンに移行していったのかという、多様な問いが問われている。一言でいうと、医療が、帝国主義的の道具かそうでないかという二元論で裁断することができない複雑なものであることを認め、その「類型学」を研究する方向に移行したのだと私は思っている。

この政治的な力学の中で形成されたニカラグアの鉤虫症コントロールは、のちにロックフェラー財団が行った、メキシコ、ブラジル、スリランカなどのより大規模な国家における鉤虫症対策の原型として働いた。重要なポイントは、鉤虫症コントロールがロックフェラーによって導入されることで、バイオメディシンを基本に持つ、社会政策・医療政策を実施する構造が、現実の社会に結晶させることができた。これは、まだ弱体であったニカラグア国家にとって、それだけでは実施することができなかった、地方・地域にいきわたった一貫した政策であった。ロックフェラー財団は、地域を統治するシステムをニカラグア国家が持つことを可能にしたのである。

ちなみに、ロックフェラー財団がアメリカ南部で行った鉤虫症対策については、見市先生の紹介がある。

予防接種と免疫学の「モーバイル」

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Martin, Emily, “Anthropology and the Cultural Study of Science”, Science, Technology, & Human Values, 23(1998), 24-44.
エミリー・マーティンがSTSの学会に招待され、人類学者としてはじめて当学会のプレナリーで講演したものを原稿化した論文。マーティンは、人々に自分の免疫について図版を書いてくれと頼み、その図版を分析して議論をした面白い著作である『免疫複合』が翻訳されている優れた人類学者で、この論文もとてもよく分かる優れたものだった。

ラトゥールやフレック、クーンなどの科学論の大物との対話の中で、科学がどのように社会の中に浸透していくのかを、免疫学を素材にして議論している。重要なポイントは、実験室で作られた科学的な知識が社会に広がっていくときに、それは単に難しい知識を分かりやすくして実用に供するというだけでなく、「モーバイル」という新たな性格を帯びて、社会と人々の生活に新たな組織と意味を与える。このプロセスを研究するのに、科学の研究の拠点を「城壁」、モーバイルとなったものを「リゾーム」、組織化を「ストリング」と呼んで、それぞれが科学と社会との関係でどのような役割を果たすのかを議論している。わりと面白い。

予防接種は、もともと実験室で研究され、社会に取り出されて「モーバイル」となって接種が行われる。免疫学においては、免疫システムが「学習する」という比喩を用いており、これが社会に出てモーバイルになると、一般の人々が持つ「学習能力」という概念に組み込まれて、異なった意味を持つ。そこでは、よりフィットで適応力があり身体のケアをしている優れた人間は免疫力もあるというようなイメージが作られる。そのため、アメリカでは教育水準が高い人々の間で、予防接種率が高くない。フィットになるために身体のケアをするということでは、さまざまな代替療法を受けるということも含まれており、1990年には、代替療法を受けた人は4億2500万人で、一次医療に来診した3億8800万人よりも多く、前者は私費で103億ドル支払っており、後者の私費の128億ドルとあまり変わらない。

国民が医学知識を持っているはずの先進国で、何かのきっかけでかえって予防接種率が下がるというのは、国家にとって頭が痛い問題であると同時に、それはなぜかと問うのはとても面白い問題である。予防接種のメリットをきちんと伝え、リスクを的確に伝えれば、問題が解決するかのように思っている人もいるのかもしれないが、予防接種を受ける受けないというのは、深いブナ的な側面も持っていることが示唆されている。このあたりに、医学史・STSと、厚労省の保健医療科学院などが、エキサイティングな共同研究をする余地があるような気がするのですが、どなたか、研究しませんか?人を紹介することならできますよ(笑)

“metaphors both enlighten and blind at the same time”便利な表現だからメモしておく。

高林陽展「精神衛生思想の構築」

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高林陽展「精神衛生思想の構築―20世紀初頭イングランドにおける早期治療言説と専門家利害―」『史学雑誌』120(2011), no.4, 461-495.
必要があって、高林陽展の論文を読み直す。
19世紀末から20世紀前半にかけてのイギリスでは、精神病患者が受ける「スティグマ」を取り除かなければならないという議論がされ、この議論の一つの主体は精神科医たちであった。これを、称揚するべき人道主義的な思想の発露であると表面的に取るのではなく、精神科医たちは、なぜこの時期にスティグマ言説を組み立てたのかということを問う、すぐれた論文である。

その答えは、「早期治療言説」と高林が呼ぶものにある。これは、1890年の法律が精神医療に課した法的な監督制度に対する批判であった。1890年法は、精神病者という名目のもとの不法監禁を大きく問題化し、それが防止されるような制度を設計することを重要な目標としており、すべての精神病院の入院に、治安判事の法的な証明書が必要な仕組みであった。これは、精神科医たちにとって窮屈な制度であり、それ以上に、入院についての医療専門職の権威に抵触する制度であるとみなされた。精神科医たちがこの制度を批判するとき、法的な証明書の発行は精神病は他の病気とは違う特別な病気であるという観念を人々に持たせる。これが「スティグマ」である。この議論は、同時代に救貧法が批判されるときに、「ワークハウス・テスト」が貧困に対するスティグマを高めるという批判と共鳴し合っている。この、同時代の言語を使って、1890年法は精神病に対するスティグマを高めるものとして、精神科医たちは批判する。

もう一つ用いられた同時代の言語が、国家・国民の効率という優生学・精神衛生の言語であり、その中で作られたのが「早期治療」である。スティグマをなくし、法の監督を緩めて、精神病の徴候が現れたらすぐに自由に受診できるようにすれば、精神病はすぐに治療されて国民の精神能力も高まる。これは、悪いものを減らす消極的な優生学ではなくて、良いものを増やす積極的な優生学の言語を組み込んで、戦間期の社会の強力な言説となる。

最も重要なことは、この、人道主義と公衆衛生・優生学の言語で編み上げた早期治療の言説の社会的背景である。これは、精神科医たちが一般医のように開業して利潤を得る可能性を開く、サーヴィス産業としての医学の関心の中で形作られた。この病気からスティグマを取り除き、人々の精神を健康にしつつ、精神医療を市場経済の中で利益を上げられるようにすることが、基本的な戦略であった。

ヒステリーの治療

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Scull, Andrew, Hysteria: the Disturbing History (Oxford: Oxford University Press, 2009).

アンドリュー・スカルの「ヒステリーの伝記」を読む。ちょっとみると、注や史実も少なく、シンプルなつくりの本に見えるけれども、もともと一般向けの本でもあるし、また、気をつけて読むと、さすが大家だけあって、随所に明晰な洞察がある。

たとえば、次の議論の流れは、ヒステリーという疾病概念の複雑さを、とても的確に捉えているように思う。

ヒステリーに対しては、無数の薬が処方され、転地療法が勧められた。転地療法の中では、特に水浴や鉱泉などが中心であった。しかし、患者は、めったによくならず、医者に対する不満を募らせていた。一方で、医者たちも、いつまでも改善せず、永遠に invalid の役割を続けていようとするかに見える患者に苛立ちを募らせていた。

この、双方からのフラストレーションと怒りは、病気の性格の基本的な部分の理解にまで影響を及ぼした。症状は、神経であれ生殖器であれ、現実の身体の変化によって起こされた「真実の」ものなのだろうか。それとも、詐病であり、まやかしであり、状況を操作するためのまやかしなのだろうか。この二つの考えの間で、医者たちは揺れ動いていたが、後者の解釈をした場合には、怒りとフラストレーションを背景に持つ、サディズムの性格を帯びてきた。心理的には、ロバート・ブランデル=カーターの、患者の痛みや苦しみの訴えにいっさい耳を傾けず、患者の詐病を追い詰める冷酷な態度が有名である。身体的には、これは更年期のエロティックな症状についてだが、肛門や膣内に氷を入れたり、瀉血のためという名目で、陰唇にヒルを吸いつかせてそこから血を採る方法がとられた。

もちろん、この構造を、医学における科学と時代的・ジェンダー的偏見の対立として描くことも可能だし、あるいはヒステリー患者をプロトフェミニストとして描くことも可能である。けれども、大切なことは、それが、病気とその治療・治療のための理解という行為を媒介にしていたという視点である。 その行為の中で、あるスペクトラムをもった、病気に対する理解と治療が表れてくるという発想であるといってもよい。

イスラムの巡礼

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大英博物館で、「ハッジ」(Hajj) と呼ばれるイスラム教徒が行うメッカへの巡礼についての展示を見る。もともとは特に期待して行った展示ではなかったが、空間認識が変わるような素晴らしい内容だった。

ハッジは、すべてのイスラム教徒が一生に一回は行わなければならない義務のひとつであり、イスラム月の12月に、カーバ神殿があるメッカとその周辺で一連の儀式をすることである。神殿の周りを7回まわること(タワーフ)、二つの丘の間を7回往復すること(サーイ)、ザムザムの井戸から水を飲むこと、アラファト山で過ごすこと、大きすぎもせず小さすぎもしない小石を49個拾い集めること、壁に向かってその小石を投げること、動物の犠牲をささげることなどが、ハッジを構成する。

この、メッカとその周辺における儀式も面白かったけれども、イスラム教の広がりとともに、広大な領域から人々がメッカをめざしてやってくること、そのためにさまざまな機能が発達していることが実感できる展示になっていた部分が素晴らしかった。その領域は、メッカがあるアラビア半島を中心にして、西の方には、アフリカのツンブクに始まり、モロッコなどの北アフリカ、エジプトと東地中海があり、東の方には、ペルシア、インド、東南アジアを経て中国南部にいたる地域である。この広大な地域からメッカに来ることを可能にする街道が整備され、巡礼が飲む水を確保するために井戸が掘られる。この巡礼には女性も当たり前のように参加するから、女性が巨大な距離を旅することにもなる。メッカのお土産として珍しい物品がもたらされ、中継地点の学問の中心のあいだの交流が促進される。移動中にもメッカの方角を向いて祈りが捧げられるから、どこにいてもメッカの方角がわかる洗練されたキブラのコンパスが発展する。19世紀には、巡礼の移動によってコレラが流行しないような国際衛生が行われ、トマス・クック旅行会社がインドからの巡礼のためのツアー・パッケージを準備し、オランダの植民地では国境を越えて旅行する巡礼の身分証明書を発行する。ハッジに出発するまえには、それぞれの街で壮麗な送り出しの行列が行われ、京都のお祭りで出る「山車」のようなものが街を練り歩いたあと、メッカに向けて出発する。江戸時代のお伊勢参りと街道整備が巨大な規模でアフリカからユーラシアにかけて広がったと考えてもいい。

この広大な地域をカバーして充実した展示をする実力は、さすがに大英博物館だなあと実感する。

ヒステリー治療とクリトリス切除

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産婦人科医とヒステリー
Scull, Hysteria から、有名なクリトリス切除手術の話をまとめておいた。
ヒステリーはもともと子宮を意味する言葉から派生した病名であるし、17世紀以降、子宮ではなく神経が原因であるという説が受け入れられたあとでも、神経は子宮を含めて全身にはりめぐらされているので、子宮や女性の生殖と性を焦点にした神経系に起源をもつ病気であると考えれば、それは産婦人科の医者の領域にもなりえた。つまり、産婦人科は、それでなくても複雑なヒステリーという病気の「領域分け」をさらに複雑にした。もともと、それは精神科と神経科の間の境界に位置していた。前者は、地方部に位置した貧民用のアサイラムにベースを持ち、「暖房と農園と下水の専門家」と愚弄されていたのに対し、後者は、大都市の富裕な階層の治療にベースを持ち、神経学の科学的な発展はめざましかった。

産婦人科は、もともとは近世の「男産婆」に発し、19世紀には、麻酔と消毒という巨大なブレークスルーをいち早く体現した、先端技術志向を強く持っていた分科であった。一方で、それが女性患者を扱うからこそ、「騎士道精神」を気取って、名誉ある職業倫理に敏感な分科でもあった。この二つの潮流が出会ったのが、アイザック・ベイカー・ブラウンによる、ヒステリーは性的な興奮の産物であり、「クリトリデクトミー」によってクリトリスを切除する治療であり、ブラウンに対する厳しい産科医たちの拒絶であった。ベイカー=フラウンは、もともとは外科―産婦人科の中のエリートであった。彼は、フランスの生理学者であるブラウン=セカールの著作から、中枢神経の損傷は、末端神経の過度の興奮によってもたらされるという説を読み、ヒステリーという中枢神経の病は、性器付近の神経の過度の興奮を引き起こすマスターベーションによって生ずると考えた。だとしたら、ヒステリーを治療するためには、根源的には、クリトリスそのものを切除して、興奮の源を断ち切ってしまえばよい。この発想のもと、1858年以来、ベイカー=ブラウンは、麻酔をかけたうえで、灼熱した鉄でクリトリスを焼き切るクリトリス切除手術を実施した。

ベイカー=ブラウンがこの方法を公表したときに、産婦人科医たちから、激しい反論の声が上がった。この反論は、この手術自体の残虐性そのものを問題にしたのではなかった。ベイカー=ブラウンが、この手術の成果を公表し広告していることが、職業倫理にもとるというのが、彼らの反対の理由であった。男性の産婦人科医は、「弱き性」を相手にしているからこそ、一転の曇りもなく倫理的にふるまうべきであり、広告によって取り込むという卑劣な振る舞いを断じて許してはならないというのであった。

同じように、アメリカでは、産科医であるGeorgia Battey が1873年に、病変を起こした卵巣ではなく、正常な卵巣を切除する手術を行った。これは、医者にも患者にも人気があった治療法であったが、神経科の医者には軽蔑され、1890年代には衰退した。

この、女性の性器に対する直接の暴力を産婦人科の問題と考えるという見方は、確かに面白いかもしれない。その暴力のかたちもたしかに外科的だし、それに対する批判の「騎士道精神」も、むしろ「紳士らしさ」があやうい分科であることを感じさせる。

ドイツの「男性ヒステリー」論

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Lerner, Paul, Hysterical Men: War, Psychiatry and the Politics of Trauma in Germany 1890-1930 (Ithaca: Cornell University Press, 2003)

ドイツにおいても、第一次世界大戦は愛国的な興奮の中で始められたが、すぐに、前線の兵士たちの間に奇妙な病気が広まっていった。いわゆる「負傷」はしていないのに、頭痛、手足の震え、麻痺、痙攣、不眠、情緒の不安定などをともなった病気が、あたかも感染症であるかのように広まった。これらは最終的にはある種の「ヒステリー」であると判断された。もちろんヒステリーというのは長いこと女性の病気であったが、すでに、19世紀の末には、シャルコーなどによって、男性がヒステリーにかかることもあることは論じられていた。この病気に対しては、患者は精神に問題を持ち、恐怖やストレスが直接の原因となり、催眠、隔離、暗示などが治療に用いられた。

この病気は、それが「シェルショック」「戦争神経症」と呼ばれるように、もちろん第一次大戦の過酷な環境と深い関係がある。しかし、だからといって、近代戦争とともに突然生まれた診断ではないことを本書は強調している。(非常に優れた書物だが、ここが一番優れている部分だと思う。)大戦中に形成された診断「男性ヒステリー」は、1880年代以降のドイツにおいて、急速な工業化・都市化・近代化の激動の中で実施されたビスマルクの社会保険政策が生み出した、労働者の心理的な障害についての医学と社会の論争を背景として持つ。この論争に核にあったのは、「外傷性神経症」(traumatic neurosis) であった。

工業化(第二次産業革命)が生み出した鉄道や重工業は、鉄道員や労働者が鉄道事故や機械の落下などの大きな事故にあい、その後、目に見える傷がないにもかかわらず不眠・頭痛・麻痺などの症状が続くケースを生み出した。イギリスで「鉄道脊髄」と呼ばれたのと同じ病気である。これらの病気の訴えは、決して多くはなかったが、数量的な意味というより、むしろシンボリックな意味があった。この病気を、真の疾患として認めて補償をするか、それともこのような訴えは真でないかという問いは、これからの産業を支えるにふさわしい精神をもった労働者をドイツが持っているかどうかということと直結していたからである。労働災害のあと、いつまでもよくわからない身体の不調を訴え続ける労働者は、資本家たちにとっては産業の発展を阻害するような怠惰な労働者であり、障害の見返りの補償ばかり狙っている寄生者であった。このような人物は産業の裏切り者であり、断じて許してはならない。ビスマルクによる一連の社会保険立法のあと、1889年に、外傷性神経症を補償の対象にしたときに、医者たちの多くは、このような疾患を「保険神経症」「年金神経症」などと言い、年金を狙いにした詐病であるという態度を示した。

この資本家の発想を、多くの医者たちは医療と診断の体系に取り込んだ。彼らの医学は、19世紀末ドイツの階級闘争の中に組み込まれていたのである。外傷性神経症の責任は、資本家が責任を負うべき労働事故や環境整備に原因があるのではない。その原因は、患者の側の心理の問題なのであり、脆弱な心理を持つ人間がこの病気にかかりやすいのである。この結果、精神医学は、人々の心理の価値をさだめ、その道徳的な価値を判断し、最終的にはそれを経済的な価値がある人口であるという発想を基礎において、このような病気の診断を行うようになる。

夢遊病の研究(1884)

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Tuke, Daniel Hack, Sleep-Walking and Hypnotism (London: J. & A. Churchill, 1884).
夢遊病についての文献をチェックした。著者は、イギリスの指導的な精神科医。

An automaton is substituted for the true volitional self. The will is the slave of a dream or a suggestion. 4

この著作は、大きく二つの部分に分かれており、前半ではテュークが息子とともに6年前に夢遊病についての質問表を作成し、それを医師などに配布して(配布と回収の仕組みはよく分からない)、夢遊病についての情報を集め、それを分析している。後半の冒頭で、テューク自身が観察したガイズ病院の16歳の患者で夢遊病の症状を示す16歳の女性患者の、自発的な夢遊病と、催眠をかけてさまざまな行為をさせたことが記される。後半の次の部分では、「引き起こされた夢遊病」として、催眠をかけられた人々の報告などが記されている。最後の章は、シャルコーの好意で、サルペトリエールで行われた催眠による夢遊状態を観察した記述である。

夢遊病についての質問表を作って配布し、その結果をまとめて調査しようと思った原因は、夢遊状態を引き起こす催眠の流行である。具体的には、イギリスでは医学でも医学の外でも催眠が流行し、同時代のフランスでシャルコーが催眠を利用したヒステリーの研究を進めて注目を集めていたからである。シャルコーの研究は、単にフロイトの無意識研究に影響を与えただけでなく、当時脚光を浴びていた神経学における意思によらない筋肉の運動(反射)と一緒になって、医師たちにとって魅力的な主題であった。

戦争神経症から優生学へ

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Lerner, Hysterical Men の重要な指摘のひとつが、第一次世界大戦の戦争神経症をめぐって、ドイツの国民の間に現れた不満が、精神科医たちを優生学へと向かわせたという議論がある。

第一次世界大戦後、精神科医に対する信頼は失墜した。戦時中の神経症について、医者たちは患者たちが裏切った兵士ではないかと疑い、厳しい治療のプログラムを組んで治療センターが戦闘を放棄した卑劣な臆病者を受け入れないようにした。これらは、患者が精神科医に対して怒りをもつ原因となった。戦後、精神科医たちは、旧制度の象徴であり、直接的な不満と怒りの相手として、さまざまな形で攻撃された。のちにノーベル賞を受賞したワグナー=ヤウレックも戦争神経症の治療において無能であり、患者を非人道的に扱ったとして裁判で訴えられた。(1918年12月)肖像画を焼かれた精神科医もいたし、「カリガリ博士」のように精神科医を主人公としたホラー映画も作られた。

このように、医者-患者関係のトーンが戦争を経て激変したため、ドイツの精神科医たちは、自らの役割を作り変えなければならなかった。それが、危機に陥った国民を守る守り手としてだった。つまり、患者-クライアントの側から離れて、患者を敵視しながら国家に接近することが、人気を失った精神科医たちが取った手段であった。その結果、国民の健康を高めるためのテクノクラシーを、官僚的なメカニズムを通じて確保することが、精神科医の主たる関心となる。この傾向自体は戦前・戦中も存在したが、戦後により鮮明になった。この道筋をとったのが、ガウプやボンヘファーであり、ビンドゥングと共著で安楽死を正当化する書物を書いたホッヘであった。

たぶん重要なポイントを突いている指摘だと思う。これは、いつでも念頭に置くべき意見だと思う。

蔵書の荷ほどきをすること

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Unpacking My Library: Architects and Their Books [2009]は,10組12人の建築家の書棚の写真を撮った美しい書物である。その冒頭に、ベンヤミンの「蔵書の荷をほどくこと」という美しい小文があった。恥ずかしながら、私はこのベンヤミンの文章を今まで知らなかったが、心に沁みこんでいくような名文であると同時に、あたかも私自身がこの文章を書いたかのような錯覚をするような文章だった。

“I am unpacking my library. Yes, I am.” という印象的な文句で始まっている。開けたばかりの荷物、ほこりが部屋の空気の中を舞い、包み紙はまだ床にちらかっている。そこには、書物を並べてしまったあとの、秩序という退屈の香りはない。

引越しをして新居に移り、梱包した蔵書の荷をほどいている真っ最中に、蔵書について心に浮かぶことを語ろうという設定で書かれた文章である。引越しの時の蔵書の荷解きというのは、特有の感覚を持たせるものだろう。私自身も何度も引越しをして、そのたびに多くの本をもち運んでいた。新しい部屋で本の荷解きをしてそれを書棚に並べるときは、自分のまわりに世界を作るような、同時に世界の中に自分を挿し込むような、不思議な感覚がある。空間だけでなく、時間についても、将来この空間で自分が営む知的な仕事がたどる道標が配されるような気分、ベンヤミンがいうanticipation がある。

「書物は自分自分の運命を持っている」(Habean sua fata libelli)という言葉があるが、一冊ずつの書籍も、それぞれの運命を持っている。どこで、どのようにして出会い、なぜ買ったのか。特に古書の場合は、以前の所有者は誰か、どこの街で買ったのか、どの古書市や古本屋でどのようにして買ったのかという、それぞれの歴史と出会いを持っている。そういう書物を所有することは、書物に新しい生命を与え、その書物の運命の新しい章を開くことである。書物の荷をほどくことは、そういう所有物を自分の周りに並べる営みなのである。

ある俗物がアナトール・フランスの蔵書をほめちぎり、「これをすべて読んだんですか?」というお決まりの質問をした。フランスは、「いいえ、十分の一も読んでいませんよ。あなたは、セーヴルの磁器を毎日使って食事をするのですか?」と聞き返したという。

In Time (2011) 映画

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『ガタカ』(1997)という、アンドリュー・ニコル監督の傑作がある。近未来SF映画が、遺伝子を操作する生殖医療が広まって、遺伝性の疾患を予防することができるようになった世界において、普通のセックスをして生まれたために「疾患」や「障害」を持つ人間の生き方を描いた作品である。生命倫理の教室ではもちろん、医療人類学や医学史の教室でも必ず勧められる映画で、道徳の教材の性格を帯びているといってもいい。

このアンドリュー・ニコル監督の新しい作品である、In Time (2011)を飛行機の中で上映していたので、喜んでみた。同じような発想の近未来SFである。映画としての出来が優れているかどうかは別にして、発想としては、In Time のほうがはるかに面白く深い。『ガタカ』が遺伝子操作を問題にしているとしたら、In Time は、寿命(余命)と貨幣を問題にしているからである。

未来の社会では人間は誰でも25歳までは必ず生きて、その時に自分の「余命」をもらい、それがデジタル表示で腕に浮き上がる。これは、何年から月、日、時間、分、秒単位まで、合計13ケタで表示される。この余命が、貧困層と富裕層では大きく異なる。貧困層は一年しかもらわないが、富裕層は何百年・何千年という余命を貰う。この余命がゼロ秒になると、同時に死が訪れる。この腕の表示に長い時間があり、何千年という寿命を持っていることが、富のシンボルである。

富の「シンボル」という言い方は正しくない。富「そのもの」というべきだろう。この社会では、余命はまさに貨幣そのものであるからである。貧困な労働者は、日雇いで仕事をして日給で時間をもらい、その時間が、余命が何日伸びるということになる。賃金のかわりに「余命」を貰う。同じように、アパートの家賃を払ったりバスに乗ったりすると、自分の余命から一定の時間を差し引くことが支払いになる。物価が上がると、貧困層にとって、それはまさしく余命を文字通り直撃するダメージとなる。賃金として払われる。大金持ちは、高級ホテルに泊まって数か月分の余命で払ったり、あるいは余命をポーカーで賭けたりしている。この状況で、スラム街出身の主人公が、大富豪から長大な余命を贈与されることで、映画の話が始まるが、その内容には触れない。

このストーリーの仕掛けの重要なポイントは、社会格差と健康格差の問題である。上位所得者と下位所得者を較べると、もちろん寿命が違う。この健康格差については、原因が探られ、それを減らすべく努力がされなければならない。ポイントは、この健康格差をどのように評価するかということである。現在の社会においては、所得の上位層の下位層の健康格差は、比較的小さいと言える。これは国別の話だけれども、日本の平均寿命が83歳で世界一位。それから10年低い73歳という平均寿命は、モーリシャス、モロッコ、ルーマニアといった国がならぶ70位くらいの国。63歳は、ラオスやパキスタンなどの142位近辺の国である。この数字の差は、国民所得などの差に較べて、実は小さいということにも注目すると、いま現在は、生物として生命の長さについての平等が比較的実現されている。しかし、「生物性」が克服されるとともに、貧困者の余命は1年で富裕者は1000年というような不平等が現れる方向に向かうだろうという考えは、私には説得力がある。

クレペリンの世界戦略と戦争神経症への嫌悪

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『クレペリン回想録』景山任佐訳(東京:日本評論社、2006)
『クレペリン回想録』をチェックして、二つのポイントをメモ。一つは比較精神医学(多文化精神医学)の構想について。もう一つは、ラーナーが論じていた、戦争神経症にまつわる、患者に対するクレペリンの嫌悪感について。

「早発性痴呆」「躁鬱病」の二つの診断を考案したクレペリンは、ドイツの精神医学を代表する巨人として、その名声は、第一次世界大戦前には絶頂に達していた。あたかもドイツ帝国の帝国主義的な進出に共鳴するかのように、クレペリンも「比較精神医学」の名称で、植民地支配に織り込まれた精神医学を構想していた。1915年にはシベリア鉄道で日本に行って、昔の弟子の協力を得て(呉秀三だろうか?)、日本の精神疾患の頻度と特徴について知ろうというプランを立てていた。また、日本にいったついでに、中国、ビルマ、シンガポールの民族混在地、そして仏教という偉大な宗教を生んだインドにいって仏教と大麻について調べ、エジプトに寄って帰ろうという壮大な計画を持っていた。このような、世界的な規模の比較精神医学研究を始動する計画は、第一次大戦の開始ですべてが吹っ飛んだ。しかし、大東亜共栄圏の成立とともに、この計画の東半分が日本で再開されたと考えることはできないだろうか。

次は戦争神経症。戦争の開始後、すぐに戦争神経症が問題になった。クレペリンは、自伝に次のように書いて、彼と彼の仲間の精神科医たちが、戦争神経症の悪用について嫌悪していたことを示している。

「このころには、戦争神経症の問題が議論されていた。精神科医としてわれわれ全員が、寛大すぎる年金給付に反対していた。というのも、われわれは患者と給付請求の急激な増大を懸念していた。しかし、不幸は避けられなかった。戦争が長引いたため、低格な人格(精神病質人格)がますます新規兵として増え続け、一般的な戦争疲労症が増大した。この結果、不幸にも、多少なりとも明確な神経症的病状があれば、野戦病院へ長期送還されるだけでなく、高額の年金をもらって除隊することさえできるよういな事態場生じていた。さらには、見せかけの手の震えを示す傷痍兵が巷に溢れ、人びとの同情をかい、多くの施しをうけていた。 このような状況にあって、「神経的ショック」とりわけ「生き埋め」された恐怖のために、除隊の権利とさらなる援助を受ける権利とを獲得できると信じる人々が氾濫した。」220-1
「ミュンヘンの近くの陸軍病院には、戦争神経症者が多く送り込まれ、この結果、暴力的な雰囲気の中で、不服従と反抗が生み出されていた。われわれの陸軍病院の(身体的)負傷者たちが、神経症者たちにとって代わられた。この変化は、かなり不愉快なものであった。苦しんでいる者を助け、彼らの回復を見ることは喜びであったが、いまや医療に対するあらゆる抵抗が新たに発生し、静寂を保つことがしばしば困難であった。」 222

・・・なるほど。この表現は、かなり強い印象を私たちに与える。しかし、K は、戦争神経症が、かつてヒステリーに用いられていた心理療法で治ることを目の当たりにして、大きな感銘をうけてもいる。221

夢遊病の医学と文学

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Sadger, J., Sleep Walking and Moon Walking: a Medico-Literary Study, translated by Louise Brink (New York: Nervous and Mental Disease Monograph Series, 1920)

Moon-walking: noctambulism (somnambulism is not so good a term.) a person rises from his bed in the night, apparently asleep, alks around with closed or half-opened eyes, but without perceiving anything, but performs all sorts of apprently purposeful and often quite compicated actions and gives correct answers to questions, without afterward the least knowledge of what he has said or done. Vii

著者は、おそらく、イジドール・イザーク・ザジャー(Isidor Isaak Sadger)である。ザジャーは、ウィーンの医者でフロイトに学び、同性愛が主たる研究の対象であった。ユダヤ人であったため、1942年にテレジーエンシュタットの強制収容所に送られて死亡した。なお、この書物はリプリントされていて入手することができる。

前半の「医学編」は、合計八つの症例とその分析からなる。自分が観察した症例を五つと、実在した人物で、自伝に夢遊病の経験を記しているものを三つ。自伝の中には、解剖学者・生理学者のブールダッハのものも取られている。19世紀には自伝に自身の夢遊病を記すことが多かったのだろうか。後半の「文学編」は、ハインリッヒ・フォン・クライストや、オットー・ルードヴィヒなどの文学者の作品における夢遊病を分析している。文学編の最後は、シェイクスピアの『マクベス』を議論している。20世紀初頭に活躍したデンマークの作家Sophus Michaelis による Aebeloe (1895)という作品では、両手を前に伸ばして歩いているという記述があった。

著者の結論は、夢遊病は、性的・エロティックな性質を帯びており、夢と同じように、隠された欲望を実現することと深い関係がある。この欲望の背後には、幼少期の願望、特に両親のベッドに入って、欲望を持っている親と一緒に眠って性的な満足を得る経験がかかわっている、というものである。

著者のことを何も知らずにある書物を請求し、その著者の伝記情報を調べたら、強制収容所で死亡したことが分かったという経験は、生まれてはじめてである。私はもちろん戦後生まれだけれども、とてもシンボリックな経験だった。一言でいうと、とうとう「自分の時代」の歴史を研究しているんだという思いがした。身が引き締まった。

男性ヒステリー

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Micale, Mark, Hysterical Men: the Hidden History of Male Nervous Illness (Cambridge, Mass.: Harvard University Press, 2008).
マーク・ミケーリの男性ヒステリー論をチェックする。

19世紀の後半は、ヨーロッパの産業が急速に発達すると同時に、その植民地支配が広まった時期であった。ヨーロッパの理念は、世界の各国で模倣された。ヨーロッパに黄金時代があったとしたら、それはこの時期をおいてほかにはなかった。しかし、その黄金時代と並行して、近代社会の問題が可視的になり、自らの時代が深い混乱と転換を迎えていることも意識され、議論され、激しい対立を呼んでいた。激しい議論の対象となったもののひとつが、女性の地位であり、男性のありかたであった。女性の参政権がひろまり、男性の同性愛が明確に懲罰の対象になると同時にその是非を議論する知識人や芸術家もいた。「その名前を言わぬ愛」(ワイルド)は、実はそこら中で語られていた主題であった。

この中で、1880年代から、パリのシャルコーらは、「男性のヒステリー」の疾病が存在するといい、それを研究し始めた。それは労働者にも農民にも発見され、それまでヒステリーに罹患する男性などほとんどいないと思われていたが、実は女性と同じくらいいることがわかった。ヒステリーの前に男女が平等になったのである。しかし、この診断は、シャルコーの仲間たちには認められたものの、なかなか広まらなかった。そのひとつの理由は、新しい病気の発見がもたらす、「これは、診断が正確になったのか、それとも、この病気が新たに現れたのか」という問いである。診断が正確になったのなら、これは医学の進歩を意味するから、何の問題もないし、シャルコーたちはもちろんそのつもりであった。しかし、「男性ヒステリー」という病気が、この時代に、新しく現れたとすると、そのことは、19世紀の世紀末は、男性がそのヴァイタリティを失い、まるで女性のようになっている時代であるということを意味するのではないだろうか。折悪しく、フランスを1870年の戦争で完膚なきまでに打ちのめしたドイツの医者たちからは、「それはフランスでだけ見つかる病気ではないのか」という声が上がっていた。戦争に敗れたフランスの医者にとっては、傷口に塩をすりこまれるような意味をもった「科学的な」指摘であった。ドイツの医者がドイツにも男性ヒステリー患者を診たという論文を書いたときに、フランスの医者たちは大喜びした。

いっぽうで、フランスの医者たちは、ヨーロッパ以外の地域では、男性ヒステリーが多いということを指摘していた。インドシナ、中国、アラブ、アフリカ、ところかまわず、男性が女性のように理性を失い感情的になって正常を失う病気であるヒステリーにかかるとされた。アルジェリアでは食べ物がスパイシーだから男性はヒステリーになり、グリーンランドでは人口の十分の七がヒステリーにかかっているとされた。

男性ヒステリーは、精神医学が古典古代以来の診断のくびきから自由になり、正しい診断ができるようになったことだけではなかった。近代化する世界において、どの国家に男性の危機が濃厚になり、その命運が危機に瀕しているのかという問題をめぐる不安が交錯する問題であった。

Unpacking My Library

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Unpacking My Library

この題名で、建築家編と作家編の二冊がイェール大学出版局から出ている。私がこのシリーズに気がついたのは、作家編が出た2011年で、建築家編は2009年に出ている。どちらもコンセプトは同じで、有名な作家・建築家の書斎を見せることである。本棚をアップで見せた写真が何枚もあって、本のタイトルまでよく分かることがミソだろう。私がよく知っている作家や学者はいなかったけれども、プリンストンの英文学の先生で本人も小説を書くSophia Gee さんは、どんな本を持っているのだろうと、興味を持って本の表題だけが並ぶ写真を丁寧に見てしまう。この写真集が商品として成立するとは、たしかにいいアイデアである。人の本棚を覗き見ている、それほど高貴な趣味じゃないんだけど(笑)
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