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Channel: 身体・病気・医療の社会史の研究者による研究日誌
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ライヒと「オルゴン仮説」

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Christopher Turner, Adventures in the Orgasmatron(2011)

1月4日のTLSで、フロイトの弟子でアメリカに行ったヴィルヘルム・ライヒの伝記が書評されていた。伝記の一つの中心は、ライヒの「オルゴン仮説」である。「オルゴン説」というのは、私は詳しくは知らないが、体内のオルゴンがなくなると性的不能を含むさまざまな病気になって、宇宙から飛んでいるオルゴンを集めて浴びると万病治癒であり回春であるという、精神分析学派の基準で言っても馬鹿げた仮説である。これが、なぜ、性の革命に向かって進んでいたアメリカの知識人たちに受け入れられたのだろうか。これは、きっとこの本を読まなければ分からないだろうけれども、この書評によれば、ターナーは20世紀に性が政治化されたことと関係があった。何よりも、性を「脱道徳化」して個人を解放しようとする強い動きがあったことが論じられている。

TLSの書評とアマゾンのサイトは以下のとおり。


大阪で二つのシンポジウム(3月9日・17-18日)

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大阪市立大学・経済学研究科から、二つの大きなシンポジウムの案内があります。

3月9日 重点研究「健康格差と都市の社会経済構造」シンポジウム

日本における福祉国家の原型
――格差をめぐる医療・社会政策――

会場:大阪市立大学文化交流センター・ホール(大阪駅前第2ビル6階)
  アクセス:http://www.osaka-cu.ac.jp/info/commons/access-umeda.html
日時:2012年3月9日(金)13:00-17:00

高岡裕之(関西学院大学)
  20世紀日本における「社会国家」化
鈴木晃仁(慶應義塾大学)
  戦前期東京における精神医療と社会階層
     -王子脳病院の患者記録の分析から
玉井金五(大阪市立大学)・杉田菜穂(同志社大学)
   日本社会政策論史上における社会衛生学の位置
     -暉峻義等の所説をめぐって

現在、日本では「福祉国家の危機」が叫ばれ、社会保障の改革が求められている。
その一方で貧困や格差の拡大が進みつつあるという現実もある。このシンポジウ
ムでは、現在の格差をめぐる医療・社会政策について考えるために、福祉国家の
原型が成立した20世紀前半に焦点をあてる。

主催:大阪市立大学経済学研究科
共催:医療・社会・環境研究会

3月17・18日 環境史シンポジウム「災害・周縁・環境」

日時:2012年3月17日・18日
場所:エル・大阪(大阪府立労働センター)501・504号室
京阪・地下鉄天満橋駅から300m
http://www.l-osaka.or.jp/pages/access.html

主催:環境史研究会、大阪市立大学経済学研究科重点研究「健康格差と都市の社
会経済構造」
共催:身体環境史研究会、医療・社会・環境研究会

近年、環境と人間のかかわりをめぐる歴史研究が盛んになりつつあります。本シ
ンポジウムでは、森林史・農業史・科学史・日本史・中国史など多様な分野で活
発に研究をすすめている方々に報告していただき、「環境史」の現在とこれから
を考えていきたいと思います。

3月17日(土)(会場:501号室)
■基調講演(13:00-15:00)
・山本太郎(長崎大学) 感染症との共生・・・生態学的、進化学的視点から
 コメント:藤原辰史(東京大学)・瀬戸口明久(大阪市立大学)・脇村孝平
(大阪市立大学)

■周縁の環境史(15:20-18:00)
・池田佳代(広島大学)アメリカ領グアム島 の水資源問題
・中山大将(京都大学)植民地樺太の農林資源開発と樺太の農学――樺太庁中央
試験所の技術と思想
香西豊子 「島」と疱瘡――伊豆諸島、とりわけ八丈島を事例として
 コメント:山本太郎(長崎大学)・飯島渉(青山学院大学)

3月18日(日)(会場:504号室)
■日本の環境史(10:00-12:00)
・戸石七生(東京大学)前近代南関東山村における飢饉と地域社会――天保飢饉
と上名栗村古組
・瀬戸口明久(大阪市立大学)都市と自然――1930年代日本における自然保護運
動と社会階層
・竹本太郎(東京大学)朝鮮総督府山林課長・齋藤音作の緑化思想

■グローバル環境史(13:10-15:00)
・藤原辰史(東京大学)エコロジカル・インペリアリズム――帝国日本における
水稲の品種改良
・村松弘一(学習院大学) 近代中国における西北開発と環境への認識
 全体へのコメント:原宗子(流通経済大学)・村山聡(香川大学)

カーマ・スートラ

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BBCのラジオのIn Our Time は、Podcast して車の中で聴いているお気に入りの番組である、歴史、文学、哲学、科学と守備範囲も広く、科学史・医学史も充実している。その番組が「カーマ・スートラ」を取り上げて、今回もとても面白かった。


久しぶりに、東洋文庫の『カーマ・スートラ』を読んでみた。BBCの番組では「百科事典的」と言われていたが、なるほど、その通りだなあと思う。次の箇所は、百科事典的であり、ラブレーを読んでいるような不思議な楽しさがある。

しからば、少女の心をいかにしてひきつけるか。そのためには、彼女と一緒に、花集め、花編み、人形遊び、ままごと、賭け事、編み物、じゃんけん、小指あそび、中指つかみ、お手玉、かくれんぼう、鬼ごっこ、塩運びあそび、風打ちあそび、小麦積みあそび、目隠しあそび、などをするべきである。

エロスと権威の道具としての浣腸

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『芸術新潮』の春画特集

2012年2月号の『芸術新潮』は春画と世界のエロティック芸術の特集である。「春画ワールドカップ」などというおばかな企画を組んでいるから誤解しがちだけれども、とても読み応えがある特集だった。日本の春画のほかに、中国、インド、トルコ、アンデス、古代ギリシア・ローマ、そしてヨーロッパという6つの区分けで、エロティック・アートを論じている。

田中雅志さんという美術史家が、ヨーロッパ編で、ワトーの素描で浣腸が行われているありさまを描いたものを分析していた。浣腸は当時の上流女性の間で美容法として流行しており、浣腸器は男性器の象徴であったと書いてあった。浣腸と同じく重要な医療の手段であった瀉血についても、サドの作品をはじめとしてエロティックなイメージの一つの素材となっているだけでなく、実際に領地の人々に瀉血をして(あるいは瀉血してもらって)、エロティックな感興にふけっていた貴族がいた(このことについては、小さな文章に書いたことがある)。浣腸について、Wellcome Images で調べてみたら、エロティックなくすぐりを入れた図像がたくさんあった。その中には、医者が美しく若い女性に浣腸をしている絵に、二匹の猿が浣腸遊びをしている図が描かれているなど、日本の春画の技法とも通じるものもあった。しかし、一番面白いのは、女性たちが男たちを圧倒する場面で、女性が巨大な浣腸器をもって男性を脅している図である。これは、ナタリー・デイヴィスが論じた「女性上位」の主題の中で論じられるのが正しいのだろう。浣腸は、女性に対する男性の権威の象徴であって、それが逆転するときには、女性が男性に浣腸をするという想像になっているのだろう。

いくつか図版を添えました。詳細については、Wellcome Images で enema を検索して該当の図版の説明をご覧ください。

レオナルド「新作」

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『ナショナル・ジオグラフィック』に、レオナルドの真筆ではないかという説が提出された作品についての記事が出ていたので、喜んで読んだ。オックスフォードの美術史家で、レオナルドの研究者であるマーティン・ケンプに持ち込まれた小さな肖像画の作品である。ケンプは、この作品を調査した結果、レオナルドの真筆であるという判断を下した。ミラノのスフォルツァ家が、お姫様のビアンカ・スフォルツァの婚礼を記念して豪華な手稿本を編み、その手稿が現在はポーランドの国立博物館に所蔵されている。しかし、その手稿本には空白のページがあり、そこに今回発見された肖像画を入れると、ぴたりとおさまるという。この事実が主たる証拠であるという。あと、この絵画は、左利きの人間に描かれているという。言われてみれば当たり前だけど、そんなことまでわかるのか!という驚きがあった。

確かにすぐれた作品で、レオナルドでもいい。でも、正直なことを言っていいですか。ポーランドの手稿本が一ページ切り取られているあたり、あまりにも話がうまくできすぎている。まるでミステリーで人を欺くために仕掛けられたトリックのような印象すらある。ケンプ先生と現代人が「はめられた」という匂いがしませんか? 

武村政春『ろくろ首の首はなぜ伸びるのか』

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武村政春『ろくろ首の首はなぜ伸びるのか』(東京:新潮社、2005)
「遊ぶ生物学」という趣向で、妖怪や空想上の生物を取り上げ、それらが実在するとしたら、どのような生物学の原理・法則で動いているのかという冗談を大真面目に話した本である。ギリシアの半人半獣のケンタウロスの内臓はいったいどこにどのようにあるのかとか、『平家物語』に登場する「ぬえ」は、狸と猿と虎と蛇のキメラであり、キメラは免疫学的な自己が他者を攻撃して組織が死んでしまうのだが、免疫寛容がはたらくと四種類の動物の混淆も可能になるだとか、そういう冗談である。私が一番面白かったのは、ドラキュラがなぜ太陽の光を浴びると灰になってしまうのかという話で、ドラキュラの先祖はミドリムシで、もともとは光合成をするクロロフィルがあったが、それをドラキュリンというたんぱく質で覆っているのでいつもは光合成しないし、緑色でもない。しかし、太陽光にあたると、クロロフィルが猛烈に光合成するので、その時に発生した酸素が爆発的に燃焼するからだという。

私が書きなおすと全然面白くないけれども、もともとの文章を面白いと思う人は、一定数はいるだろうなと思う。一番不思議なことは、なぜ、この本が to read として積まれていたのかである。

古屋芳雄の日本民族論

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古屋芳雄『日本民族渾成誌―特に大陸との関係について』(東京:日新書院、1944)
戦前日本の健康政策の中枢にいた古屋芳雄は多彩な著作があるが、その一つ。古屋は金沢の医学校の教授となった昭和7年から多方面にわたって精力的な研究を行っている。福井県の結核調査とその分析は、特に水準が高いと思う。その研究の一つに、日本民族の形成の研究があり、その一環でアイヌの人種的な研究を行い、その関連で、日本の他の土着民族を研究するために、津軽から九州にいたるまで、僻遠地の閉鎖的な地域の人体測定的な研究もしている。これらの医学・生物学的な、人体を素材とする日本民族研究とともに、歴史文献に基づいた日本民族研究も行おうとしており、その成果が本書である。みずから、「生物学的な日本民族誌の文献篇」と呼んでいる。つまり、大陸から日本への人口移動を、化石や人体測定と並行して、歴史文献を通じてあとづけようとしている著作である。

<高度の文化の華を他っていた彼の地の人々が渡来し、我が国を刺激した。相当の数の人々が来て、政治・文化的に我が国の中心地で活躍した。それにもかかわらず、我が国本来の文化・精神には、これらの移民は本質的な変化を与えてはいない。これらの人々は日本で結婚して子孫を作ったから血の流入もあった。しかし、文化の方面からみるならば、圧倒的に優秀な大陸文化に直面しつつ我が国の文化はそれに吸収され同化されてしまわず、我が国本来の精神を失ってはいない。要するに、我が国においては、人種的な混血はあっても文化的精神的な混血は存しなかった。> 147-8

血が混じりながらも、日本本来の文化が守られたという、医者であり人種衛生学者であった人物にしては、ちょっと不思議な主張である。古屋は、小熊英二『単一民族親和の起源』でも取り上げられている人物だけれども、戦前から戦中にかけては、情勢と政策が急激に変化していく部分があるので、議論の構造と枝葉を分けるには、ずっと深く理解しないとだめだろうけど。

古屋芳雄と国防国家論

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松村寛之「<国防国家>の優生学―古屋芳雄を中心に―」『史林』83(2000), 272-302.
戦前の厚生省における人口政策や体力政策などにおいて中心的な役割を果たした重要な人物である古屋芳雄を取り上げた論文である。古屋の優生学・民族衛生学を、「国防国家」という概念の中に位置づけるという視点は大いに納得した。古屋が若いころは白樺派の文学者として活動していたという点に着目して、文学の世界で論じられていた近代の自己の確立が、民族の独自性の確立という方向に向かったという議論(おそらく、そのような議論であると思う)については、文学の世界と民族衛生の世界をつなげた議論を試みたのは面白く、結論も一つの面白い仮説であると思う。

この論文は、おそらく著者の若書きの原稿だろうと思う。申し訳ないが、一節を引用させていただく。

筆者はこの、「国防国家」の優生学という「科学」のうちにこそ、「近代」における一つの「正常」性が独自のかたちで「病理」―あるいは「特異」に思えるもの―として表出されていると考えている。

このセンテンス一つに、かぎかっこが六つ用いられている。私には、この六つのかぎかっこは、すべて、批判的な思考を阻害し、分析を深めるのを妨げる役割しか果たしていないように見える。かぎかっこを外したら、この文章をどのように書くべきなのか、それを考える機会を奪っている。

博物館の医療器具は知性に訴えるのか感覚に訴えるのか

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新着のIsis から、医学博物館が、訪問者に何を感じ考えさせるべきかという議論。とても勉強になった。

2nd: Arnold, Ken, and Thomas Soederqvist, “Medical Instruments in Museums: Immediate Impressions and Historical Meanings”, Isis, 102(2011), 718-729.
医学博物館が所蔵する「医療器具」をどう見せるべきか、訪問者に何を感じさせ何を考えさせるべきかということについての挑戦的な洞察を含む議論で、とても面白かった。医学博物館が、医療器具やコレクションを見せるというと、人々を単純に怖がらせたり気味悪がらせたりするのではなく、その器具や標本がもった文化的な意味を教えるべきであるというのが主流の考え方であり、歴史学者たちはもちろんこれに賛成する。彼らの議論のポイントは、それと同じくらい重要なのが「直接の印象」(immediate impression)であるということである。これは、その場で観たり触れたりすることから直接に得られる経験と感覚である。それが芸術作品だと、文化的な意味の解読行為に較べて、作品に直接触れることが持つ「直接の印象」が重要であるというのは、言うまでもない。美術館で作品を観ているときに、美術史の教科書やイコノロジーの本に書いてあることをひっきりなしに話す人は嫌われる。それと医療器具も似た側面を持っていて、美的・主観的・官能的・情感的なアプローチというのは、歴史学的な意味の解読行為と共存し、相互に豊かにしあうことができる。特に、医療器具というのは、直接身体とかかわるものであるという重要な性格を持っている。鋭く研いだメスや、ゆるやかにカーブして鈍く輝くフォーセップス、そして「麻酔ができる前に、尿道から挿入して結石を砕くのに使われた器具」などは、身体を媒介にして過去にそれを用いた・用いられた人とつながる印象を与える。この印象こそ、医療博物館にとって重要な資源であるという。

これは、身体が歴史的に構築されると同時に、身体を通じて歴史的な共有が起きるという、歴史と身体の二重性を医学博物館の展示に反映させようという議論だと思う。学生に授業をする上でも、とても参考になる。

画像は、「かんし」と「結石破砕器」。たしかに、これは、強い仕方で身体に訴えかけるものを持っている。写真の取り方も小憎らしいほどいい。

ネズミの人口密度と大都会の心理学

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同じく新着の Isis から、20世紀中葉の心理学の実験の優れた分析を読む。

2nd: Ramsden, Edmund, “From Rodent Utopia to Urban Hell: Population, Pathology, and the Crowded Rats of NIMH”, Isis, 102(2011), 659-688.
1950年代にボルティモアの国立精神衛生研究所(NIMH)で行われた研究の意味と影響の分析。John B. Canhoun なる生態学者が行った実験は、ネズミの人口密度が高い状態を作り出し、それがネズミの行動に与える影響の分析を通じて、大都市における人間の行動の問題(たとえば、暴力、カニバリズム、性的逸脱、引きこもりなど)を社会病理として捉える視角を作り上げるものであった。この研究に対して好意的に反応して、ネズミの社会から人間の社会への議論を移行させることを許して、人間が高密度で群衆生活をすることの危険を唱えた学者もいたし、単純な同一化をいましめて、大都市の貧民の問題を「密度」という指標で一元的にとらえることに批判的な学者もいた。カルホウンの研究は、技術的な事物を通じて新しい事実を作り上げ、新しい認識論上の事物 (epistemic things) を作り出すことができる、多産な実験システムであった。実験場において作り出されたネズミの「街」の条件を変えることで、新しい状況をつくりだし、それと科学者の認識が常に交錯して新しい問題が作り出されていた。

この実験が公表されると、その成果は、大都市の危険や恐怖が透けて見えるようなどぎつい言葉を用いて取り上げられた。「非母性的な母」「同性愛」「ゾンビ[のように徘徊するネズミ]」「犯罪階級」「アパシーのストリート・ファイター」などである。この時期は、アメリカの大都市の貧困と道徳的退廃が問題になっていた時期であり、その一方、動物行動学においても、ローレンツの「攻撃」がハトの激しい攻撃と禁止の不在を取り上げて、人間の攻撃についての考察を行っていた。ラットという動物の選択も、現代社会のトーテム的な動物がいるとしたら、それは集団行動をして多産なラットであった。この研究は社会学者、心理学者の注目をあび、カルホウンのモデルを使って、学寮のドーミトリーや、刑務所における「群居」が与える影響が研究された。

画像は本論文より。

ウェルズ『タイム・マシン』と優生学

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ウェルズ『タイム・マシン』
必要があって、H.G. ウェルズのSFの古典である『タイム・マシン』(1895)をチェックする。「次元」の概念に時間を導入して、二次元や三次元における平面や空間での移動ができるのと同じ理屈で、時間軸上も自由に移動することができるというアイデアは、その後の無数のSFで利用されることになった。それと同じくらい重要なことが、この作品は、進化論と優生学の思想に大きく影響されていることである。この作品が描くことは、19世紀末のイギリス社会における人間が、どのように分岐して進化していくかである。今まで気がつかなかったが、この作品は教材として最適である。学部1・2年生向けに優生学を教える教材として、ふつうナチズムの素材を使うことが多いだろうけれども、優生学はホロコーストや断種の倫理性よりもはるかに射程が広い思想であったことがよくわかる。

タイム・トラベラーが向かった80万年後のロンドン近郊の未来世界には、文明の活動らしいものは何もなかった。廃墟と美しい草原が広がり、そこに未来人たちが棲んでいた。未来人たちは、子供のように小さく、少女のようにふっくりたそた体つきで、温和であって、男女の区別が希薄であった。文明が進んで、病気も雑草もなくなり、自然の荒々しさが完全に支配された結果、男の闘争心も女の優しさも必要なくなったからである。彼らは知能も高くなく、労働する意思もなく、ただ温和無為の中で過ごしている。「飽和状態に達したエネルギーは活動を止める。それは、最初は芸術とエロティシズムにおもむき、やがて無気力と退廃に終わる宿命なのだ。」

ところが、タイム・マシンが未来世界で何者かに隠されるという大事件が起き、それを探すうちに、未来には別の世界があり、そこには別種の人類が棲んでいることが明らかになる。タイム・トラベラーが最初にあった無為温和な人種は地上に住んでいるが、地下には、違う体つきの人種が棲んでいた。地下生活のために彼らの体は青白くなり、目は闇の中で赤く光るが、これは実は見ることができない。地下人たちは地上人よりも獰猛で攻撃的で、タイム・トラベラーもしばしば襲われ、地上人たちは地下人と暗闇を恐れている。親しくなった地上人から、地上人はエロイ、地下人はモーロックと呼ばれていることがわかる。

タイム・トラベラーは、当初は、この二つの人種は、19世紀末の資本家と労働者が分かれて進化したものであると思っていた。19世紀の末の両者の生活を見れば、この進化も明らかではないか。資本家たちは高等教育を受け、洗練された生活をし、労働者たちを排除して広大な私有地を持ち、異なる階級間の結婚もなくなっていた。「地上では富める者だけが快楽と安寧を求める生活を送るいっぽう、貧しい労働者は地下に追いやられ、そこで労働だけに従事する。」その結果、労働者は地下生活に適応して進化し、資本家は地上で無為の生活に適応した。

しかし、タイム・トラベラーに明らかになった現実は、それよりもどす黒いものだった。モーロックは、単にさげすまれたのではなく、むしろ、無為になったエロイたちを食う人肉食者になっていた。エロイたちは、モーロックに飼育され、餌となり、あるいは繁殖すらさせられている家畜となっていた。資本家たちは、進化が進むにつれて、残忍な復讐をされたのである。「人類は、同胞を搾取し、必要性という言葉をスローガンに、安逸の生活を送ってきた。しかし、やがて、この必要性という怪物に復讐された」のであった。

ヒステリー患者と医学の権力の刻印

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Beizer, Janet, Ventriloquized Bodies: Narratives of Hysteria in Nineteenth-Century France (Ithaca: Cornell University Press, 1993).
1990年代の医学史研究において、もっとも注目を集めた分野の一つはヒステリー研究であった。その中で、文学研究が持つ洗練された視点に、医学史の素材の緻密なリサーチを組み合わせて、高い研究の水準を示したのが本書である。

1980年代までのヒステリー論は、医学系の視点と、ナイーヴなフェミニズム系の視点の二つがあった。前者は、シャルコーたちが記したヒステリー患者の症状の構成に興味を持ち、それが真の病気の現れなのか暗示によるものだったのかに興味があった。後者は、ヒステリー患者の金切声や失神や痙攣などは、19世紀の家長制の社会において自由を奪われ抑圧された女性が、真の願望や抵抗を、通常の言葉によらずに表現しようとして、身体の異常な反応の形を取ったものであると考えていた。この枠組みでは、ヒステリー患者は、当時の体制の被害者たちが、病気の形で訴えていたフェミニズムの原型であると考えられていた。

バイザーは、この二つの考え方の双方から距離をとりながら、両者が接合される力学を描こうとする。彼のモデルでは、ヒステリー患者の身体は、医者たちによる ventriloquism なのである。この言葉は訳しにくいけれども、自分の声が他の人物や物から出ているようにみせる、腹話術のような芸のことである。19世紀末の男性の医師たちは、かつての社会システムと価値観が打ち壊されて、近代化と政治・社会の激動が急激に進行するありさまを前にして、強烈な不安を持っていた。しかし、彼らは、科学的に、事物に即して、ものを語らなければならないという近代医学の要請にも従わなければならなかった。世界が激動し、価値観の急激な変動が起きているという彼らの不安を、科学的に示してくれる具体的な何かが必要であった。その不安を語る役目を担わされた「腹話術人形」にあたるものが、ヒステリー患者の身体であった。彼女たちの異常な症状は、近代世界の混迷のトーテムであり、彼女たちの精神と身体は、医者たちが不安を書き込む場であった。

医者たちによる不安の書き込みを、もっとも雄弁に表すのが、ヒステリー患者の「ダーマトグラフ」である。ダーマトグラフというのは、私たちの世代にとっては、紙巻きの赤鉛筆のことだけれども、この場合のダーマトグラフというのは、ヒステリー患者の症状の一つで、皮膚が過敏になって、指で押すと、押された部分が内出血して、まるで文字が書けるかのようになる症状を言う。(理解が不正確かもしれないです。)このダーマトグラフは、シャルコーのヒステリー研究においては重要な症状の一つであり、医者たちは、ヒステリー患者の身体表面を指でなぞっては言葉を書き、その写真を撮影した。中には、「早発性痴呆」というマニャンの診断をダーマトグラフを利用して身体に描きこまれた患者もいる。(図像参照)

もちろん、ここにあるつながりの一つは、医学が女性の身体に刻印した刺青であり、ロンブローゾたちは犯罪者と売春婦の刺青を夢中になって研究していた。この主題は、カフカの『流刑地にて』で、身体に刻印される権力の象徴として用いられた。

このダーマトグラフへの着目は、颯爽としたカルスタ風の見事な曲芸と言ってしまえばそれまでだけれども、私には、ヒステリーという現象を的確にとらえたモデルの象徴のように思える。

ツヴァイク『マゼラン』

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ツヴァイク『マゼラン』
ツヴァイクの歴史小説の中で、私が一番最初に触れたのは、小学校3年生くらいに読んだ、子供向けにリライトされたマゼランだと思う。「学研」から出ていた少年少女のための伝記シリーズに入っていた。副題は「暗黒の海に挑む」だった。同じシリーズの「風あらきトロイア」と「メンロパークの魔術師」とともに熱烈に愛読した。ちなみに、「微生物の狩人」という副題でパストゥールの伝記もあったが、それはまったく読まなかったと思う。

みすず書房から出ているツヴァイクの全集をいただいて、まず『マゼラン』を読んだ。大人向けの原作だから、もちろん情報は細かいけれども、子供の時の印象と、それほど変わらなかった。無口で、タフで、冷静で、いざという時の果断な行動力。

私が憶えていないのか、子供向けのリライトでは削られていたのか、マゼラン海峡を発見するという、一作のハイライトである一番重要な部分の構成が大きく違っていた。マゼランはもともとポルトガル人だったが、王の扱いが不満で、結局はスペインのために航海をすることになった。アフリカの南端を回って香料諸島に到達する航路は、ポルトガルによって独占されていたので、それと逆の西回りで、アメリカを廻航して太平洋をわたる航路を発見することは、スペインにとって、東洋の富にアクセスする手段を得る重要な企画であった。そこで問題になったのが、アメリカ大陸が、人々が予想されていたよりもずっと広大で、それを廻航して太平洋に向かう航路がまだ発見されていなかったことである。マゼランは、自分はその秘密の航路を知っているとスペイン王に進言し、その結果、スペイン王の出資と援助のもと、大艦隊を率いて世界一周の航海をすることになったのである。ある意味で祖国を裏切って敵国のために働いている者であり、両国から疑いの目で見られていたことはもちろんである。特に問題となったのが、旗艦「トリニダード号」をはじめとする5隻の船から艦隊で圧倒的多数を占めていたスペイン士官たちであった。

マゼランが切り札として使った、彼だけが知っているというアメリカを廻航する航路は、実は現在のラプラタ川の河口のことであった。その河口は広大であり、現在の地図上でモンテヴィデオにあたりは、大陸の岬のように見えるし、これを回ると、実際はラプラタ川を遡っているだけだが、まるで太平洋に出たかのような錯覚に陥るのは確かである。マゼランは、この情報通りにラプラタ川の河口を大陸の果てであると思い、喜び勇んでそこを廻ったが、水はどんどん淡水になり、潮の潮汐がなくなるなど、広大な川であることが明らかになった。1520年の1月のことである。これは、単なる失敗ではなく、マゼランにとってすべてが崩壊することを意味した。自分の見込みの誤りであったというと、スペインの士官たちは絶対に許さないだろう。それまでの航海で、マゼラン自身、スペインの士官たちを厳しく取り扱ってきたしっぺ返しが待っているのは間違いない。マゼランにただ一つ残された道は、自分の過ちを認めることなく、どこにあるのかはもちろん、存在するかどうかわかっていない航路をもとめて、ひたすら前に突き進み続けることであった。気候はどんどん悪くなり、陸地は極地の風景になっていき、人食い人種すら住んでいない荒涼としたものになっていった。それでも、マゼランは、自分の過ちを認めずに、人跡果てた土地を頑固に前進し続け、結局は太平洋に抜ける航路を発見したのである。

「自分の過ちを認めないで、著しく不確かなものに頑固に固執すること」は、確かに、子供向けの伝記に書きやすいことではないだろうな。

ヒステリーと神経症の歴史

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Hustvedt, Siri, The Shaking Woman or a History of My Nerves (New York: Picador, 2009).

著者は、英文学の博士号を持ち、小説などを書く人気が高い文学者であると同時に、共感覚者(synesthesia)であり、また、父親の死後に、人前で話す時に激しく痙攣するようになったという病気の経験を持つ。この経験を生かすと同時に、文学と哲学という人文系の学問と、医学という理系の視点の両者を共存させることができる主題が、神経症の問題である。医学の中でも、神経学、精神医学、精神分析の三者が、それぞれ異なる理解をしているから、全体としては高度に学際的な議論になっている。また、シャルコーやフロイトはもちろん、ジャネなどの精神分析・力動系の医者や、ソ連の心理学者であるルリヤなど、精神医学や神経学の歴史の話題もふんだんに盛り込まれ、現代との重ね合わせも上手にされている。アカデミックではないけれども、個人的なナラティブの要素も入った、とてもすぐれた一般書だと思う。

大正7年の保健善悪番付

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大正7年の『変態心理』の投書欄より、身体によい健康的な生活と、むしろ体に悪い不健康な生活を対比させて、相撲の番付の形で表現したもの。「体に悪いもの」を見ると、あまりに最先端の科学技術を求めた医療や衛生をもとめて、過剰な健康と医療への信仰を持ってはいけないという哲学が見えてくる。悪いものとして、「ラジユムレントゲン治療」や「分析表による食物」「1000倍の顕微鏡」などが現れているのは、淡路島の三宅なにがしという人物が、科学技術と健康の関係を、争点の一つとして持っていたということになる。一方で、「体に良いもの」を見ると、質実剛健でシンプルな生活、寒暑や空腹や苦労を通じた鍛練がよいということになるだろう。

アッシャー館の崩壊

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E.A. ポー「アッシャー館の崩壊」『ポー名作集』

丸谷才一の翻訳で、アーサー・ラッカムとハリー・クラークの挿絵が入っているけれども、これらのことに過度な期待をしないほうがいいと思う。『ボートの三人男』の丸谷の訳は素晴らしい出来栄えだけれども、この訳は、あまりよくない。文体が向いていないのかな。挿絵のほうも、岩波文庫だから仕方がないけれども、サイズはごく小さいし、画質もあまりよくないように思う。あとは、この取りあわせについては、すでに多くのポーのファンから、批判があると思う。

「アッシャー館の崩壊」には、「ミアズマ」についての毒々しくてわかりやすい記述がある。

館と周囲の地所全体が、それらおよびそれらに近接したものに独特の大気―天空の大気とは全く異なる、朽ちた樹木や灰色の壁や静寂きわまる湖の臭いを帯びた大気―仄かにしか認めることのできぬ、鉛色に淀んだ、悪疫をもたらす恐れのある謎めいた瘴気によって覆われているのではないかという想念に私は耽り、また、それを信じかけていたのである。」288

「先祖代々の館の形と実体の特異性が、久しきにわたって放置されていたため彼の精神に及ぼした魔力であり、灰色の壁と尖楼、それらが影を落とす幽暗な沼の容姿(フィジーク)が、ついに彼の気質(モラ-ル)にもたらした影響であった。」294

画像は、ハリー・クラークがポーの「落とし穴と振り子」につけた挿絵。この文庫には入っていない。

三宅鉱一とヒステリー論1

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三宅鉱一『精神病学提要』増訂第七版(東京:南江堂、1944)
20世紀に入って、ヒステリーというのは疾病そのものとしての地位を失って、ヒステリー状の症状群や、ヒステリー様の反応という形で、あるパターンの症状や反応を名づける言葉となった。その根本にある概念は、ヒステリー性の性格が、外界や自分自身に対してどのように反応するかという、自己の核としての性格を基調にした考え方であった。ヒステリーを論じることは、性格の問題であり、the self の問題であり、その自己が他とどのように関係するのかという、人間と環境、人間と家族・共同体などの大きな問題に設定された。三宅は、ヒステリー性格を、自己顕示性、自己中心性を基調とするもので、一方で暗示性に富むがゆえに、容易に移り変わる気分に支配されて、精神症状や身体症状が次々と現れるのだと考えている。この症状としては、おどろおどろしい幻視を見たり、夢遊病の症状が出たりと、話題性が高い。

このヒステリー性格が激しく、一生続く場合にはヒステリー性変質となり、変質者・精神病質者となる。そこには、性的倒錯、悖徳症、虚言症などの人格障害が含まれ、二重人格、交互人格などとなる。これらの精神病質は、巫女や透視術者などがそうである。三宅『医学的心理学』(東京:南江堂、1939), 390も参照のこと。

画像は、三宅が掲げる、ヒステリー性幻視のときに見られて記録された図。

三宅鉱一とヒステリー論2

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三宅鉱一『精神衛生』(東京:帝国大学新聞社、1936)
「ヒステリー」147-193.
もとは昭和9年8月、「花嫁学校講義録」第二巻に所収したもの。この「花嫁学校講義」というのは、なんだろう。

フーフェランドなどはヒステリーは女のみであると言っていたが、現代では、ヒステリーは男にも起きるし、兵士や筋骨隆々たる男性労働者にも起きるものであると知られている。148-9

私は元来、素人の方に病の徴候をあまり詳しくお話しすることを好みません。あまり病気の症状を細かく通俗雑誌、ころに婦人雑誌などに書くと、時には、その読者、ことに気の弱い婦人は、そのため徒らに無益の心配をなし、不安の念を醸すことが多いからです。ことに、神経質な婦人などであるとこれを読んで、自分にもそういう症状があるから、何病ではないか、或は「ヒステリー」ではないかと心配し、それが甚だ気になり、終には甚だしき不安を感じ苦労の種となる場合が頗る多いものであります。殊にその書き方が、親切のためか、又は、自己の博識を誇るためか、普通の医書にもない程度の詳細さにおいて記述し、そしてその書き方が、気の弱い人を如何にもおどすように、又、心配せしむるように書く人がある。150-151

152 ヒステリーは感情の病気、あるいは表情の病気であって、人が悲しいと思わないことを悲しいと思い、人がきたないと思わないことをきたないと感じて、はげしく興奮し、それが身体症状となる。

154 同病で病勢が盛んとなると、平素は隠れおる不良な性格が露骨になるための病状とすべき症状があらわれてくる。一般に、病気になると、平素の嗜みがなくなって、本能的となるのは多い現象です。

158-9 妙齢の婦人においては、感動の変化がはげしく、センチメンタルであるから、ヒステリーを起こしやすい。また、内分泌の関係から、年が進み、4、50歳となって月経の閉じる頃になれば、再びその体にも変化が来るものである。そのため、その頃にも、また、此の病に侵されやすいと言われる。 

163- ヒステリーは悧巧なもの、文化の進んだ人にのみくる病気なのか、野蛮人にはない病気なのか。そのように考える人もいるが、いずれも間違った考えである。実際、この病気は昔からあったもので、古い歴史にある奇跡は、大概、これに属したものである。いざりが祈祷で治り、めくらが神仏の力で治り、眼が信仰で開き、見えるようになったなどという例は、多く、この類のものである。お経の文句のありがたさで狂人が静まったなども、多くはこの病気。 欧州もおなじことである。尼寺や、女学校の寄宿舎内などにも、甚だ多数の少女が同時にこの「ヒステリー」に罹り、伝染病のごとく、この変態状態が急に現れたごとき感を呈したものもある。また、未開地の人民には、その土地の風土病として、この病に似たものが往々あります。 しからば、ヒステリーは、決して近年になって現れた文明病ではないのであります。むしろ、近年になり、かえって西欧州では減ったとさえ言われているものです。従って、本病は、決して文化の進んだために生じた病ではなく、また、知識の進んだ人の間にのみ起こる病気でもないのです。 163-4

182 己のことのみ考え、人のことを考えぬため、わずかのことから不平を感じ、我慢が出来ぬようになりやすい人は、「ヒステリー」となることが少なくないのであります。世間には夫の不品行であるため、妻が「ヒステリー」になったということをよく言いますが、その実、夫をして何故に不品行ならしめたかというと、妻が「ヒステリー」であって、家庭的に夫の慰安がないため、夫が、自然、他に遊びに出るようになった例も少なくないのです。心から貞淑な妻女には「ヒステリー」は起らぬものです。要するに、我があってはいけませぬ。 

183 姑や、他人の多い家では、それらの人の陰口などをきいても、なるべく、これに捕われぬように心がけ、練習し、修養することが必要です。何にしても、すなほであること。つらいとか、憎らしいとか、ねたましいとか、ああして欲しいとか、こうして貰いたいとか、自分はこれほど努めているのに報いがないとか、いうような考えは起こしてはいけぬ。起こさぬように努め、馴らしましょう。すべてこれらの自己本能はすべて自我中心となり、「ヒステリー」の源となるものであります。「嫁しては夫に従ひ、老いては子に従う」という昔の人の教えは、特に婦人の「ヒステリー予防のために書かれたものではないかと / も考えられる点があります。西洋人にはこの教えがないのと、「ヒステリー」の多いのとは、多少関係がないのでもありますまい。人に従うことは、人を御することでありと考え、また、それによって、真に精神上の快味を味わうことができるような、広い心となすことを念ずることが、一般の人、ことに婦人には甚だ必要な点でああります。

188 「不潔な所のお掃除は我を去るによいと言われます」

狂人の霊魂が、他の人の身体を乗っ取る話

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ウェルズ「盗まれた身体」

『タイム・マシン』に入っていた短編。霊魂が身体を離脱することを主題にして、催眠術、降霊術、伝心と身体幻像の伝送など、当時流行していたオカルト的な事柄を背景にしている。

ネタバレしながらストーリーを紹介すると、ベッセル氏という人物がいて、彼の自己催眠の結果、霊魂が身体を遊離してしまう。それは、まるで自分が拡大したかのような感じを与え、霊魂が身体の外に出て、身体にまとわりついた状態になっているかのようだった。その間、自分の身体は、他の霊魂に乗っ取られて、部屋を荒らし、家具を壊し、大声で叫びながらロンドンの街を走って、奇行の限りを尽くしている。この、別の霊魂というのは、異次元に数多くひしめいている存在で、この霊魂たちはいつでも他の人間の生命と身体を占領しようと狙っている。これらは、死者の霊ではなく、「この世で狂気に陥った人の理性的魂である」と考える医者もいる。

・・・なんだって?精神病患者の霊魂が空中に浮遊している?(笑)

江戸川乱歩『人間椅子

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江戸川乱歩『人間椅子』角川ホラー文庫・江戸川乱歩ベストセレクション1(東京:角川書店、2008)
研究している時代の小説はたくさん読むことにしている。19世紀半ばのイギリスの精神医療の歴史の研究をしていたときは、ディケンズやギャスケルやブロンテなどをたくさん読んだ。江戸川乱歩の小説を読むと、同時代の精神医療のことが分かる理解度が増すのではと思って、たくさん読んでみることにした。「角川ホラー文庫」に収録されているベストセレクションは薄い文庫で8冊だから、造作ない量である。

「人間椅子」「目羅博士の不思議な犯罪」「断崖」「妻に失恋した男」「お勢登場」「二廃人」「鏡地獄」「押絵と旅する男」が収録されている。このうち「人間椅子」と「鏡地獄」は読んだことがあったが、あとは初めて読んだものばかりである。暗示をかけあって、お互いに何も話さなくても了解のうえで完全犯罪が進んでいく話(「断崖」)や、まさしく夢遊病を扱った話(「二廃人」)などがあった。主要な登場人物のほとんどは精神異常であるか、ストーリーの中で精神異常が進行する。「鏡地獄」は主人公が発狂して終わる。

「押絵と旅する男」は、私は初めて読んだが、傑作の部類に入るだろう。浅草の十二階、遠眼鏡、覗きからくりの押絵の中に主人公が「入っていく」という、ドリアン・グレイを思わせる趣向になっている。
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