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Channel: 身体・病気・医療の社会史の研究者による研究日誌
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クレッチマーのヒステリー論

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Kretschmer, Ernst, クレッチマー『精神医学論集』湯沢千尋訳(東京:みすず書房、1991)
クレッチュマー『ヒステリーの心理』吉益修夫訳(東京:みすず書房、1953)
「ジャネ・フロイトと並び、ヒステリーについての世界の三名著」と訳者は紹介している。たしかに、素晴らしい洞察を持つと同時、フロイトに顕著に見られる、自分の理論の中に現象と症状の観察を流し込み、場合によっては患者を誘導していくという不安感がない。これについても、訳者は、フロイトの名前は出していないが、「ヒステリーの心理学が不可解なXを仮定することによって科学性を失うことこそ著者の最も恐れたことであろう」と高く評価している。


「もし一人の乙女が望まない結婚を強いられたならば、彼女にはこれを逃れる二つの道がある。すなわち、計画と熟慮をめぐらし反対者の弱点を利用し、あるときには強く抗い、あるときには賢明に避け、そしてあらゆる境遇の言かに適応した抜け目のない談話と行為によってついにその目的を達する。そうでなければ彼女は或る日突然卒倒して痙攣的に打ち、或いは震え、或いは急動し、或いは転倒し、或いは突っ立ち、かかる運動を彼女がその嫌いな求婚者から逃れるまで繰り返して止めない。また二人の兵士が戦争の恐ろしい体験に適しなかった場合を考えてみよう。一人は自己の美しい書字や、技術的能力、郷里における関係を熟考して、彼の味方と反対者をしらべ、幾多の巧みな手段を講じて終に静かな事務室の中に落ち着いた。他の一人は、ある朝、猛烈な砲撃のあとで塹壕の中を無茶苦茶に右往左往に駆け巡っているのを発見され、そこから連れ去られた。激しい戦慄性振顫を突然おこして神経病者収容所に運ばれ、続いて守備隊勤務のために事務室へ移送された。そしてここで彼は偶然彼の賢明な同僚がすでに書記に従事しているのに邂逅した。」14

ヒステリー反応はいわば地下道であり、地上の道は熟慮的な選択行為である。地下道は深い刺激から出発して表象に乏しい瀰漫性の情動の緊張状態を通り、直接運動性発散に終わる。その発散は、系統発生的に固定したひな形として準備されていて、個々の境遇の特性に特殊な適応をなすことなく行われる。地上の道は不快な刺激に出発して情動の付随した表象系列を通り、精神内において運動性衝動をふるいわけて十分選択され境遇に適応した運動系列に到達する。それだからヒステリー性の反応が人間の常態の反応に対する関係は、ちょうど本能の知力に対する関係になる。 19

アンデルセン『影』

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ハンス・クリスティアン・アンデルセン『影』長島要一訳(東京:評論社、2004)
二重人格について基本的なことを知っておく必要があり、『ジキル博士とハイド氏』をはじめとする古典を読もうと思っている。アンデルセンの『影』は、言及されているのはよく目にするが、実際に読むのは初めてである。

長さといい、みかけ上の話の単純さといい、子供向けの童話の形式をとっているが、訳者が「解説」で的確に指摘しているように、この作品は大人向けの寓話であると考えるのが一番いい。特に、主人公は若い学者であり、彼とその影との間の物語だから、学者としては一番わかりやすい形で心に入ってくる。北国の学者が南の国に行く。その国で、彼の影が彼から離れ、影だけで一人立ちして、人間世界に入っていく。影は人間の扮装をして、人間の美しさと醜さの双方を見て、人間社会で成功していく。その間、学者は北国に帰り、真善美について調べたり考えたり本を書いたりするが、だれも聞こうとしない。「学者が語っていた真善美は、たいていの人たちにとって、[そして学者自身にとっても]、まるで牛にバラの花をやるようなものでした。」そこに、影が帰ってきて、逆に学者を自分の影にして奴隷扱いし、最後には学者を殺して、自分が本物であるといって王女様と結婚するという話である。おそらく、この寓話から引き出される教訓の一つは、「学者の自己憐憫のふりほど醜いものはない」だろう。

影に本物が乗っ取られるという構造を一番痛切に感じているのは、Dropbox などの、クラウドを用いたファイル管理だと思う。便利だから大いに愛用して、人にも進めているけれども、自分のPCが、自分のPCではなくなってしまい、ウェブ上の本物の影になったということを実感する。

というわけで、この話は、大人の寓話として、学会のあとの懇親会の立食パーティなどで、ちょっと実がある談話に最適の話だと思う。次の学会の懇親会にもし出たら、この話をしますので、よろしく(笑)

腰痛

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昨日から、人生最悪のぎっくり腰です。

インフルエンザとその対策の長期変動

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逢見憲一・丸井英二「わが国における第二次世界大戦後のインフルエンザによる超過死亡の推定―パンデミックおよび予防接種制度との関連」『日本公衆衛生雑誌』58(2011), 867-878.
国立保健医療科学院の逢見憲一は、現在注目されている論客である。視点が広いというだけでなく、長期変動の視点から疾病と公衆衛生を見ることができる、待望の公衆衛生学者である。その逢見先生から日本における戦後のインフルエンザについての論考をいただいたので、喜んで読んだ。鮮やかな手さばきと、そのデータの結果の意味を問うている、社会科学者としての視点をそなえたすぐれた論文である。

この問題について何も知らない学者として、まずインパクトがあるのは、インフルエンザによる超過死亡という指標を取ってみると、予防接種の効果である。インフルエンザの予防接種が強制であった1976-1987年には、年齢調整をしたうえでの平均死亡率は6.17(10万人あたり)、保護者の意向を配慮する1987-94年には3.10まで下がった。70年代中盤から90年代中盤まで、インフルエンザの超過死亡についていえば、日本は黄金時代を迎えていたといってよい。それ以前の死亡率がより高い数値を示すというのは当然あが、面白いのは、1994-2001年の任意接種期には、これがインフルエンザの死亡率が急反転して、9.42 まで上昇する。その後、高齢者に接種するようになったこと、抗インフルエンザ薬などの導入により、2002年からの死亡率は2.04に急低下する。つまり、「失われた7年間」を持ったことになる。だから、抗インフルエンザ薬が劇的に効いて死亡率が下がったように見えることが事実であると同時に、その効果が引き立つような状況、インフルエンザでの死亡率が高い状況が、90年代の半ばにいったん作られたということにも注意しなければならないだろう。

この論文では取り上げていないが、この、1994年からの「失われた7年」は、いったい、なぜ作り出されたのだろう。このあたり、絶好のSTSの論文の課題であると同時に、スリリングな医学ジャーナリズムの素材だとも思う。

江戸川乱歩『孤島の鬼』

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江戸川乱歩『孤島の鬼』角川ホラー文庫・江戸川乱歩ベストセレクション7
『孤島の鬼』は1929年から30年にかけて雑誌『朝日』に連載された小説。主題は「退廃芸術」を体現したかのように、男性同性愛と遺伝性の身体障害という要素を濃厚に含んでいる。主人公の若い男性は狂言回しで、その周りに強烈な個性の人間がそろっている。主人公を同性愛として愛する人物は、大学での若き外科医で、当時のヒロイックな外科手術を体現して、蛙にもう一つ頭をつけるだとかその手の奇形を人造的に作る研究をしている。この外科手術と深くかかわるのが身体障害の問題で、紀伊半島の孤島にすむ「せむし」の人物が犯人であるという設定になっている。そのせむしの人物はその島の大家の主人が、せむしの下女を犯して産ませた子供だが、「不具」を理由に母子とも追放されたため、それを恨み、ついにはその大家を乗っ取って健常者に復讐をするために生きている。その復讐とは、身体障害者を人造的に作成するというどす黒い計画であり、赤ん坊を箱に詰めて小人を作り、顔の皮を剥いで「熊女」を作り、そうやってできた畸形な人間を見世物小屋に売りさばくということになっている。

・・・江戸川乱歩の著作集も、これでやっと読み終わった。なるほど、こんな作品を大正・昭和の人々は読んでいたのか。

画像は、アレクセイ・キャレルが臓器移植を試みていたころの「キャレル博士・モンスターを作る」のカリカチュア。

佐藤浩章編『大学教員のための授業方法とデザイン

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佐藤浩章編『大学教員のための授業方法とデザイン』(東京:玉川大学出版部、2010)

学者・大学の先生向けのビジネス書で、私はビジネス書を読んだときの、虚偽の明るい希望に満ちた感覚が好きだから(お酒を飲んだときの気持ちに似ていませんか?)、この本もとても楽しく読んだ。

シラバスをわかりやすく書き、一回ごとの講義を合理的に設計し、学期全体の構成の中の位置を明示し、授業のはじめに学生と椅子取りゲームをやって仲良くなると、素晴らしい講義を作ることができるかのように書いてある。

もちろん、それこそが優れた講義の本質であると誰もが知っている、「自らがすぐれた学者であり、その問題を深く理解していること」が必要であるなんて、どこにも書いていない。そして、それを書かないことこそが、学者向けのビジネス書やマニュアル本のキモなのだろうなと思う。講義を作るマニュアルというのは、私は見よう見まねでやっているけれども、きっといい本を一冊探して、それに従うべきだと思う。しかし、うまく説明できなかったときには、それをマニュアルで解決するのではなく、この問題を自分はずっと知っていたかのようなふりをして、そう思っていたけれども、実は正確に深く理解できていなかった、自分の人生はすべてそうではないか、言われてみれば、私が好きな精神病院のカルテに記載された患者の台詞に「私はずっと詐欺師だった」(I have been an imposter all my life)のがあったが、その言葉は私を狙い撃ちにしたのではないかという深い自己嫌悪に陥るのが正しい方法だと私は信じている。

その回のキーワードを書きだしておいて提示するというのは、これはいいと思う。さっそく来年度からやってみよう。

江戸川乱歩『パノラマ島綺譚』

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江戸川乱歩『パノラマ島綺譚』角川ホラー文庫・江戸川乱歩ベストセレクション6

「パノラマ島綺譚」と「柘榴」という二つの中編を収めている。前者は、1926年から27年にかけて雑誌『新青年』に連載された作品。ミステリーとしては、あたかも双子のようによく似た人物が入れ替わるというおそらく簡単な構成だと思うけれども、犯人=主人公が、白昼夢の中で妄想的に描いていた「パノラマ島」を、巨額の資金を投資して実現する部分の記述が圧巻である。主人公が妄想に取りつかれているだけではなく、乱歩自身も、この世界を描きつくすことに囚われているような雰囲気が漂う。

この、<妄想を実現する>という基本テーマは、芝居・からくり・映画などが象徴するような、リアリティ・エフェクトの娯楽と深い関係があるのだろう。これが、実際の精神病患者の妄想と、どのような関係を持ったのかは、とても難しいリサーチけれども、手がかりがないわけではないと思っている。

料理と家庭薬のレシピ・ブック

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世界の有力な図書館では電子化の作業が進んでおり、ロンドンのウェルカム図書館も、しばらく前からコレクションの電子化に取り組んでいる。活字の書籍だけでなく、手稿類の電子化も進んでいる。その中には、ペルシャの美しい占星術の書物など、美しさを基準にして選ばれたものもあるが、いまのところ、もっともサブスタンシャルな電子化は、いわゆる「レシピ・ブック」の電子化である。レシピ・ブックは、女性を中心として、それぞれの家庭で作られ、数代にわたって使われたこともある、料理と家庭薬の作り方を記録した手書きのノートである。これは、出版文化の形成にともなって発展した手書き文化の一部であり、出版が手書き文化をむしろ助長したと考えられる一つの根拠になっている。合計で70点あまりのノートがみやすく電子化されている。

こういう資料を使って、読みすすめながら考察を深めていく、集中的な大学院の演習を行うことができた、一昔前が懐かしい。 というか、大学院の演習とは別の枠組みでやってみようかな。 


画像は、ペルシャの占星術書から。

戦前日本の精神医療について

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これまでの日本の精神医療の歴史記述の枠組みにおいては、ある制度の是非を論ずる視点が前面に出ることが多く、その制度の中の「格差」が問題にされることは少なかった。たとえば、呉秀三『精神病者私宅監置の実況及び其統計的観察』(1918)は、私宅監置のうち、不良のもの、甚不良のものだけでなく、佳良のもの、普通のものもあったことを認めている。それにも関わらず、私宅監置制度全体を「わが国十何万の精神病者は実にこの病を受けたるの不幸の外に、この国に生まれたるの不幸を重ぬるものというべし」と批判する。あるいは、近年の成果だと、兵頭晶子『精神病の日本近代』(2008)は、「治癒可能な病から危険かつ不治の病へ、あるいは取りつかれる身体から監禁される身体へ―このように、狐憑きの意味が大きく書き換えられたとき、病者をめぐる処遇も大きく変化した。民間治療場での治病や一時的な監禁の代わりに、精神病院への収容や恒常的な監禁が取って代わったのである」(34)として、近代における監禁制度を批判する。いずれも、ある時代やある制度を一つのものとして批判し、その内部の複層性を問う方向に議論を進めていない。

しかし、呉や兵頭が問題にしている戦前期日本の精神病院の患者は、単一の集団ではなく、大きく分けて、公費・私費という二つの集合で形成されていたものであった。当時の精神医療・精神病患者へのケアは、患者の家族を別にすれば、主として精神病院によって担われており、精神病院は圧倒的に私立が多かった。1940年の状況を例にとると、府県立が7院で2,500人の患者、私立が152院で17,000人の患者をみていた。これらの私立病院のうち約半数は、精神病院法(1919)で定められた制度である「代用病院」であり、私費の患者だけでなく、公費の患者を受け入れて公立精神病院の代わりをする機能を持っていた。代用でない私立病院も公費患者を受け入れ、公立の精神病院も私費患者を受け入れていた。全体で、公費の患者と私費の患者は、それぞれ約一万人ずつであった。すなわち、日本の精神病院は、公費・私費という、財源を異にする二つの種別の患者を収容しており、「戦前の日本の精神病院における精神医療」というのは、公費患者に対するものと、私費患者に対するものの二種類が複合したものであったと捉えたほうが、より適切に実態を把握することができる。

精神病患者は死なない

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Andrews, Jonathan, “'Of the Termination of Insanity in Death', by James Cowles Prichard (1835)”, History of Psychiatry 23(2012), 129-136.

History of Psychiatry には、「精神医学の古典」というコーナーがあって、重要なテキストなのに、初版の事情で手に入れにくいものを活字に起こしたり、英語ではないものを翻訳したりするコーナーがある。このコーナーがもう89回目を迎えたとのこと。同じような企画が、1970年代から80年代にかけての日本でも行われていた。雑誌『精神医学』の古典紹介のコーナーである。この『古典紹介』で翻訳された精神医学の古典は、『現代精神医学の礎』として、全4巻本にまとめられて、時空出版から出版された。

最新号のHistory of Psychiatry の古典紹介コーナーは、1830年代にイギリスの精神医学に重要な影響を与えたJ.C. Pritchard の著作の一節。精神病と死亡との関係について論じた部分である。

精神病は人を他の病気にかからなくさせるから、精神病患者はむしろ長生きであるという思い込みを、精神医学が持っていた時期があった。いま、ぱっと思いつくかぎりでは、イギリスでは18世紀半ばの William Battie などがそう言っているし、19世紀に入って、精神病院において長期にわたる観察ができるようになってからも、医者たちは精神病患者の長命を主張し続けた。1822年のビセートルには、長寿の患者が数多くいたという。プリチャードも、基本的には同じスタンスで、精神病は生命に危険な病気ではないという。確かに脳が異常だからその機能が乱れて精神が狂うのだが、脳に依存しているほかの機能は正常に機能つづけるのだという。

その中で、注意点という感じで、精神病院においては、脳(中枢神経)の状態に依存する痙攣や卒倒などのほかの病気による疲労・消耗が患者の死亡の一つの原因である、エスキロールもいうように、結核も重要な死因である、ほかには心臓病や胃腸病なども原因であるという。

精神医学の古典論文の翻訳集成

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昨日言及した『現代精神医学の礎』は、時空出版から出た4巻本で、現代精神医学の古典的な論文を集めたものである。これらの論文は、もともとは雑誌『精神医学』の「古典紹介」のコーナーで、翻訳と解説をつけて紹介されたものを、主題別に分類しなおして書籍の形にしたものである。「古典紹介」というコーナーは、1974年に開設され、それから98年まで存在したが、実質的には、80年代の中ごろまでが最も充実していた時期であった。(『精神医学』に掲載された論文の一覧表が付されていたので、PDFで添付した。)

「古典紹介」という重要なプロジェクトが書物の形でまとめられたことで、重要な論文がより身近になった。私自身のドイツ語やフランス語は、歴史学者の実用の水準には達していないし、ロシア語やイタリア語は、そもそも読むことができない。「古典紹介」で訳されているかもしれないと思っても、それをチェックする手間が、重要な仕事との距離を遠ざけていた。しかし、この書籍化によって、正直、私も驚くような仕事が多く翻訳されてきたことが分かって、恥ずかしく思っている。一番恥ずかしかったのは、電気痙攣療法を発明したチェルレッティの「電撃」は、80頁もある大きな仕事で、ぱっとみたところでは、水準が高い仕事である。(私は、チェルレッティに対して、漠然と低い評価を持っていたから、いっそうおどろいた。)あるいは、ヒステリーに随伴する「ガンゼル朦朧状態」のガンゼルによる記述が訳されていたり、1895年のシュトリュンベルの外傷性神経症の問題を論じた論文の翻訳など、私が知っていて、入手して読んでいなければならない論文が数多くあった。(目次のPDFを添付した。)

欠点は、価格が「医者価格」になっていることだが、図書館や研究室は、この4巻本を必ず買うべきだし、個人の研究者でも、科研費が余ったときには、とても良い買い物だと思う。




式場隆三郎と精神病患者の芸術

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大内郁「日本における1920~30年代のH.プリンツホルン『精神病者の芸術性』の受容についての一考察」『千葉大学人文社会科学研究』(16), 66-79, 2008-03.
19世紀の中葉から、精神科医たちは精神病患者の「作品」に大きな興味を持っていた。それは、彼らが語った言葉であり、記録した文章であり、描いた絵画であった。多くの精神病院で、精神病患者が描いた絵は保存されており、その中でも20世紀初頭のハイデルベルク大学は、精神病患者が描いた絵を大規模に収集し始めていた。プリンツホルンは、そのコレクションを受け継いで発展させ、1922年に『精神病患者の芸術的創造性』を出版した。この書物は、マックス・エルンストやシュールレアリストなど、当時の多くのアヴァンギャルドの芸術家に受容され、精神病患者が造りだす芸術という概念を確立した。一方で、1930年代からは、ナチスの「退廃芸術論」が強力に展開され、1937年にドイツを巡廻した「退廃芸術展」においては、モダニズムの絵画が病的であるというプロパガンダがされた。この状況を著者は「二つの引き裂かれた局面」と呼んでいる。

日本においてもプリンツホルンは紹介され、それとともに精神病患者の芸術という考え方も導入された。ここで重要な役割を果たしたのが、戦後の山下清の「発見」で名高い精神医の式場隆三郎である。式場は、昭和7年のゴッホ論や、昭和12年の二笑亭論などで、精神病と芸術について発信する知識人・文化人としての地位を固めつつあった。しかし、昭和13年以降、式場は精神病者と芸術との関係について沈黙するようになり、これは、ドイツの退廃芸術論が日本に受容されたのと軌を一にしていた。

前衛芸術と精神病患者の関係について、多くの重要な文献、特に美術史関連の資料が調査されていて、とても参考になった。

画像は、プリンツホルン・コレクションよい。

松岡弘之『隔離の島に生きる』

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松岡弘之『隔離の島に生きる―岡山ハンセン病問題記録集 創設期の愛生園』(岡山:ふくろう出版、2011)
ハンセン病患者自身の声を記録したものとしては、徳永進『隔離』という優れた書物があるが、この書物は、より歴史の実態に沿った素晴らしい記録を翻刻したものである。一つは、1931年から36年までの「舎長会議事録」という簿冊で、それぞれの病舎の長として一部の患者によって互選され院長に任命された「舎長」たちが、院長らとの会議の記録である。編者の松岡が解説に書いているように、患者統制と患者自治の間のせめぎあいが、実際の生活の上で議論されたありさまを記録した、素晴らしい資料である。ラジオが賭博の対象となるので(野球や相撲などで賭けをしたのだろうか?)、ラジオを一元管理しようとした院と、それに抵抗した患者側の争いは、情報統制の問題そのものである。収容型病院における賭博の問題は、考えたことがなかった。私の病院の患者は公然と花札をやっているが、あれは賭博なのだろうか?

もう一つは、より素晴らしい資料で、このせめぎ合いの最中の昭和12年に、「最近の愛生園」という題で患者の意見などを自由に聞き、その回答を一冊にまとめた簿冊である。120点近くの感想文に、150点近くの詩歌・短歌・俳句・都都逸、川柳などの韻文形式に分かれている。かなりの数の韻文を含んでいること、点数で言うと韻文の方が多いこと、内容においても韻文はとても面白いことには、注意しなければならない。「闘病記研究会」などでは、散文だけが取り上げられ、文学であるという理由なのか、韻文を排除した素材が分析されることが多いので、これは闘病記の実態をゆがめてしまう。

「最近の愛生園」を見ると、園や園長(光田)や職員に対する感謝から、痛烈な批判にいたるまで、広い幅を持った愛生園への評価がつづられている。これは、感謝と批判が対立しているという構図で捉えるよりも、感謝の言葉の中にも深い葛藤が込められているものが多いと捉えた方がいい。たとえば、「小山善々子」と署名された文では、「欲を言えば私にも一つ二つの希望もあります、否、数限りもなく出てくるかもしれません。しかし、真に私たち一人ひとりが自分を振り返り、癩という字について認識を深めれば、今の愛生園に療養していては、おそらく一点の非難すべき点もなければ、不服を申し述べる必要もないと思います。要はただ「自己を知れる」という一語によって、最近の愛生園生活は感謝であると思います」と述べている。この感謝の中核にあるのは、「癩病患者としての自己」という捉え方である。そこに視点を置き、そこから愛生園を見たときに、愛生園に感謝すると言っているのである。同じ事態を、別の患者は、当時の心理学の用語を使って記述している。すなわち、癩者は人生の悲惨であり、癩療養所は陰惨の極みと考えられているし、自分も入園する前はそう考えていた。しかし、入園してみると、ここには明朗で明るい雰囲気があり、意外に感じた。この理由は何かというと、文化設備や職員の親身の世話だけではなく、その根源は、「癩者なるがゆえに忍ばなければならない悲痛深刻なる数々の強迫観念から完全に解放せられて、狭いながらこの天地に全人格的に行動しうる再生の歓喜」であるという。隔離の空間が解放の空間であるという矛盾は、癩病患者として社会に疎まれた強迫観念からの解放という、彼の自己の中での物語においては解消されているのである。

一方で、批判も根源的であり、そのいくつかは根源として同じ問題をついている。たとえば、「愛の島という美名をかかげていながら、それが実態に即していない」という批判がされている。「職員方の偽(うそ)を言うのには閉口する」というのは、隔離の空間が解放の空間であるという矛盾を、ありのままに言ってみたにすぎない。次の都都逸も、同じ二重構造と矛盾を言っている。

島で生まれて島育ち
島と名がつきやどの島も可愛い
備前長島尚可愛い
殉国民の住む処
愛の衣きたおにが居る

変態心理学講習会

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第一回変態心理学講習会記事『変態心理』2(1918-9), 220-222.

大正期の日本においては、精神病への興味が高まり、精神病院を訪問して患者を鑑賞することも行われていた。その一つが、変態心理学講習会が主催した「実習」である。

最後の実習は、根岸病院で開かれた。患者の製作品、奇妙な手紙、文字などが供覧され、精神分裂病の患者のデモンストレーションが行われた。さらに、患者が最後には20-30名そこに集まって、思い思いのふるまいをするという、「浮世離れした百花狼藉」が現出した。そして、実習生たちは、根岸病院の中を廻っていった。奇妙な精神病者たちはみな記憶に残り、特に鉄窓の中で、頭を床にたたきつけて号泣しているうら若い女患者は胸を打った。この第一回の実習には日本女子大学から多くの参加があり、卒業生の宮本百合子(当時は中条百合子)も参加していた。

この実習の成功に心をよくして、第二回は、さらに実習の範囲が広がり、根岸病院に加えて、巣鴨家庭学校と、監獄所内見学が付け加えられた。監獄については、「特にその名を秘す」とされている。

『変態心理』よりメモ

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諸岡存「ヒステリーと迷信」『変態心理』1(1917-8), 62-63
狐憑き、千里眼、魔術、降神術、こっくりさん、地獄極楽図などは、みなヒステリーの現象であり、一種の催眠状態である。聖母マリアも立派なヒステリー患者であり、人をだまし、人にだまされる。妖僧とか怪僧などに騙される貴族の女性もみなヒステリーであり、これらの病気は、家を滅ぼし国家や社会を破滅させる。「独探」のごとき。

上野陽一「正態と変態」『変態心理』1(1917-8), 81-86.
人々は少数をきちがいといって、座敷牢や病院にいれるが、両者の間に判然たる区別があるわけではない。精神病患者の症候は、吾はキチガイではないとうぬぼれているものにも現れている。自分を研究しようと思ったら、精神病院に行って、自分に似た奴を探せ。精神病は、まるで顕微鏡のように、我々にもある精神病の徴候を拡大するものだから。

森田正馬「迷信と妄想(一)」『変態心理』1(1917-8), 87-98.
渋沢の青渕百話
15歳のときに姉が発狂し、遠加美講の修験者が三人来て祈祷をした。そこに神が降りて話すための「中座」というものが必要な儀式だった。渋沢少年は、嘘を見破ろうと思って、その場にいた。儀式が進行すると、注座は神の声になって、この家には無縁仏がいて、それがたたっているという。渋沢の叔母は信じたが、渋沢は、「神ならば知っているだろう」と言って、それはいつか、その年代は何かと中座を問い詰めて、70年余り前と言っているのに、23年年前でしかない年代を出してきたといって、神様なのに年代も計算できないのかといって、中座と修験者をやりこめた。
精神活動は、蒸気が機関車を廻すように、電流がダイナモを廻すような、エネルギーの回転である。

ウェルカム博物館『脳』

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ウェルカム博物館『私たちが脳にしたこと』

ウェルカム博物館の新しい展示 Brains のサイトのイメージ・ギャラリーをゆっくりとみる。いつものように素晴らしく高い水準の展示にため息が出る。
http://www.wellcomecollection.org/whats-on/exhibitions/brains.aspx

ゴルトンが頭蓋骨を測った器具。1825年に作られた小頭症の白痴の石膏像に骨相学の図式が描かれたもの。20世紀初に「骨相学のリバイバル」で刊行されたものにいくつか面白いものがあった、ラファエルの頭蓋骨、売春婦の頭蓋骨、チャールズ・バベッジが遺言で寄贈した自らの脳、女権擁護者であり、男性と女性の脳は違うかという論争にもかかわった Helen Hamilton Gardner の脳(どうやって手に入ったんだろう?)、1900年くらいに発掘された、前2010年くらいのエジプトの脳のミイラは、普通は脳を重視なかったエジプトでは例外的な発見で、我々が持っている最古の脳全体の標本だという。

医学関係では、人種平等主義者が描いた黒人の脳(1908)、19世紀から20世紀にかけての医学書における脳の解剖図もいくつかあり、どれもインパクトがあった。頭蓋骨をあけて行う手術について、前2000年ほどの頭蓋骨で頭に穴が4つほどあけられていたもの、18世紀の美しい手術のセット、そしてイェール大学の現代の手術の写真を三つ並べたところが素晴らしかった。19世紀後半には有名な蝋模型の作成者がいたそうで、彼の作品もいくつかあった。医学生用もあり、これは一般向けに作られたのではないかと推察されているものもあった。

一つ気が付いたことは、国内の医学史コレクションや海外のコレクションから魅力的な展示物を借りてくるということである。国際的な美術館のように、医学史の展示において世界的なネットワークが作られて、より大がかりなグローバル産業になっているということだと思う。出版された大きな書物においても、すでに、グローバルな枠組みで仕事が行われているものに触れている。いま、日本語訳の話が検討されているダウン症の歴史の書物は、優れてアカデミックな研究者が書き下ろしたものだが、最初からグローバルな書物にしようとして、各国の研究者にコンタクトをとり、助手を雇用してリサーチをさせてから執筆していた。はしゃぐ必要も焦る必要もなく、落ち着いて仕事をしていればいいのだけれども、その落ち着きとともに、世界ではこのようなグローバルな戦略が進んでいるのだということを意識して、その流れの中で仕事をすべきだと思う。

画像は、バベッジの脳。 この、コンピューターの創始者といわれている人物の脳をじっと見ると、私たちはキリストの心臓や聖遺物を見たときのキリスト教徒のような気分になるのだろうか。それが聖遺物と同じかどうかわからないが、たしかに、不思議な気持ちが起きてくる。

アジア医学史学会演題募集

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第六回・アジア医学史学会・Call for Papers
2012年12月13・14・15日に慶應義塾大学・日吉キャンパスにて、第六回・アジア医学史学会を開催いたします。演題・パネルの募集を行います。学会の公用語は英語となります。みなさま、ふるって英語のアブストラクトをお送りください。主題は、“Medicine, Society and Culture in Asia and Beyond”と、広くとってありますので、時代・地域・主題は、さまざまなものに対応することができます。

パネル・個人報告・学生報告の三種類の報告があります。
いずれも、akihitosuzuki2.0 <atmark> gmail.com にお送りください。


パネル
この学会の主力になる形式です。パネルとは、ある共通のテーマのもとに、オーガナイザーが4つ程度の報告をまとめたもののことです。1つのパネルの時間の長さは、90分から120分程度を考えています。パネルのオーガナイザーは、個々の報告を行うスピーカーの一人であってもかまいません。また、この報告の中に、個々の報告を全体的な視点から議論する、ディスカッサント的なものが入っていてもかまいません。パネル全体の主題についてのアブストラクト(350語以内)と個々の報告のアブストラクト(350語以内)をとりまとめ、1つのファイル(Microsoft Word)にまとめてお送りください。パネル全体のタイトル、オーガナイザーの氏名と所属、個々の報告のタイトル・スピーカーの氏名と所属などを必ず記してください。

個人報告
個人報告は、個人による報告の応募です。時間は20分程度になります。350語以内のアブストラクトを、Word のファイルでお送りください。タイトル・スピーカーの氏名・所属を必ず記してください。なお、個人報告として応募されたものを、こちらのほうでまとめてパネルとして組織することを提案する可能性もありますので、その際にはご検討ください。

学生報告
12月13日は、「学生報告」という企画を試みます。大学院の修士・博士課程に在籍中で、英語による学会発表などの経験を積みたいという学生のために、インフォーマルな雰囲気で報告とディスカッションの練習をしようという企画です。学生演題の参加者のほか、ほかのカテゴリーの学会参加者、PD、教員、英語がネイティヴの学生も参加します。「個人報告」の場合と同じように、350語以内のアブストラクトを送ってください。また、学生報告に応募する場合には学会発表などの記載を含む業績一覧をお送りください。業績一覧は、すでに経験を積んでいると判断される学生につき、「個人演題」のカテゴリーに移っていただくことをこちらから提案する際の資料にしたいと思います。

なお、英語版のウェブサイトは、こちらをご覧ください。

http://user.keio.ac.jp/~aaasuzuki/BDMH/ASHM/ASHMFirst.htm

松原洋子「優生保護法という名の断種法」

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松原洋子「日本―戦後の優生保護法という名の断種法」
米本昌平他『優生学と人間社会』(東京:講談社, 2000)に所収された、松原洋子「日本―戦後の優生保護法という名の断種法」を読み直す。
いまから12年前の2000年に出版された書物である。2000年というのは、1996年に優生保護法を大幅に改正して母体保護法となったときの流れがまだ生きている時期であり、戦後日本でも優生主義のもとで不妊手術が行われていたこと、そしてその法律がまだ生きていることに対する驚きのようなものがあった。優生手術のピークは50年代後半から60年ごろで、90年代になると手術の件数も少なくなり、当時外国で優生保護法の存在が諸外国のマスメディアや障害団体に暴かれた現場にいた人に聞いたのだが、そこでは他の省庁の官僚たちはその法律の存在を知らず、厚生省の官僚ですらどのような法律なのかファックスを送ってもらって確認しなければならなかったほどだったという。日本で85万件の不妊手術が行なわれ、1万6000件の強制不妊手術が行われるときの法的根拠であった法律は、90年代にはその存在すら知られていない法律になっていたという。

本書にもどって、1940年の国民優生法と、1948年優生保護法という二つの法律がどのように対比されているかチェックした。前者については、それ以前の長い優生学運動を背景にしたものであったが、より直接的には、1938年の国家総動員法が国民の体位・体力の向上を求めたことと関係がある。この結果作られた厚生省は、民族優生のための調査研究も行ったが、結局は、戦中の人口政策の多産奨励が重要であった。もともとは「断種」の考えを強く持っていた一群の議員たちによって提案されたものであるが、この考えは、結局戦中はほとんど実施されなかった。1941年から48年までのあいだで、538件の不妊手術という数値が、この法律がいかに無力であったかを物語っている。その理由は、天皇を頂点とする家族国家主義や家制度を基軸とする当時の国体主義が、人類遺伝学、民族生物学に基づく人口管理をめざす官僚たちの方針となじまかったこと、強制断種はむしろ凍結されたこと、精神病院患者の収容率が当時は著しく低かったこと、そして戦況が悪化したこと・戦後の混乱は、同法の施行を難しくしたことなどがあげられる。

一方で、1948年の法律は、人口思想・人口政策でいうと、まったく正反対の状況で作られた。多産ではなく、産児制限を認めていくことである。しかし、産児制限を認めると、戦前からヨーロッパの状況から「逆淘汰」として恐れられていたこと、すなわち、優れた資質を持つものが出生率をさげ、そうでないものが出生率を上げることになって、国民の質が下がることが起きるのではないかと危惧されていた。質をさげないためには、遺伝性の疾患とされたものが生まれないようにする優生学的なことが必要であった。特に、51年・52年の改正で、精神病や精神薄弱のなどに対する処置が詳しく定められた。

全体としては、人口政策の大転換、そして松原は詳細には述べていないが終戦に伴うイデオロギーの転換に応じて、1948年法は、優生の規定がより強化されたものになったということになるのだろうか。まさか、法的な規定が強化されると、500件の手術が80万件になるような大革新が起きると主張しているわけではないだろうけれども。

ハッキング "Making Up People"

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Hacking, Ian, “Making Up People”, London Review of Books, vol.28, no.16, 17 August 2006.

イアン・ハッキングの「ループ効果」(looping effect) は、人間科学の歴史を研究しているものにとって、とても重要な主題である。私はMad Travelers の外に、ハッキングがこの理論を丁寧に論じた素材を知らないが、この小文は、わかりやすく議論の概論を提示していて、いくつかの部分はよくわかった。一言でいうと、人間科学においては科学とその対象の間に相互作用があるという指摘であり、科学によって記述され治療の対象になるカテゴリーが作られると、人々はそのカテゴリーによって影響を受けるというのが最も重要な概論になる。「多重人格」「フーグ(遁走症)」「肥満」「自閉症」「自殺―うつ」などについて、人間についての科学的な記述によって、あるカテゴリーを作り出すと、そうやって記述されるべき人々に影響を与える

一番分かりやすかったというか、これまでの疑問が少し解けたのは、この部分である。
A. 1955年には多重人格症は存在しなかったが、1985年にはたくさん存在する。
B. 1955年には、多重人格は、ある person になる方法ではなかった。人々はそのように自分を経験しなかったし、周囲の人々・家族・雇用主・カウンセラーとインタラクトするときにも、そのように振る舞わなかった。しかし、1985年には、これが一つの person になる方法になり、自らを経験する方法になり、社会で生きる方法になった。

このA と Bの二つの言明を較べて、Bのほうがハッキングが主張することであり、これを通じて「ループ効果」が起きるという。特に、Bでまとめた「そのように自分を経験する」という部分が頭によく入った。「そのように振る舞う」などの部分が、まだイメージが掴みきれていないけれども。

このループ効果が起きるためには、発見のためには、7つの鍵が重要になる。1. 数える 2. 数量的に表現する方法をみつける 3. 規範をつくる 4. 相関関係を見つける 5. 医学モデルで記述する 6. 生物学化して、道徳的な批判の脈絡から外す 7. 遺伝子を見つける 8. ノーマライゼーションする 9. 行政のメカニズムの中に、それを取扱い治療する方法を作り上げる 10. それに抵抗する人々が現れる このあたりの記述も大枠を的確に捉えていると思う。

統計を用いて、ある現象に定義を与え、数量化して規範を定め、医学的・生物学的な問題として定義し、それを解釈し治療する手法を作り出し、その手法がルーティンとして流れるようなメカニズムを社会の中に作り出す、ということになるだろう。

『トップ・ハット』(1935)と反騒音同盟(1933)

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飛行機の中の映画の中で「クラシック」という分類があって、その中にチャップリンなどと並んでフレッド・アステアとジンジャー・ロジャースの『トップ・ハット』(1935)があった。もちろんダンスが中心の白黒のロマンチック・コメディで、デートにぴったりの映画だった。ウッディ・アレンの『カイロの紫のバラ』でも言及されている作品で、昔を懐かしみながら観ていたら、冒頭にちょっと興味が深い場面があった。ロンドンにおける静寂の要求の問題である。「絶対静寂」が規則になっているロンドンのホテルの談話室で、アステアが咳払いをしては紳士たちに睨まれるという場面である。この「くすぐり」の場面は、きっと、1933年に発足した Anti-Noise League に関連があるのだと思う。20世紀の初頭に誕生し、1930年に国際会議が開かれた精神衛生運動の一環として、大都市の騒音問題が取り上げられていた時期であった。

また、精神衛生が批判した騒音の対象のなかに、自動車、バス、鉄道、ラジオ、ラウドスピーカーなどとならんで、ほぼ間違いなく映画が存在したというような事情もあって、映画業界としては、この運動を意識せざるをえなかったということがあったのかと想像している。ちなみに、そのシーンの締めくくりは、咳払いをしては睨まれていたアステアが「絶対静粛室」から出ていくときに、ステップを踏んで派手にタップを鳴らして紳士たちに報復するというカットになっている。

ちなみに、1933年のBMJに Anti-Noise League の呼びかけがなされている。これも面白いけれども、同じページに掲載されている、蜘蛛の毒の研究もすごい。
http://1.usa.gov/GNRo5W
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