Quantcast
Channel: 身体・病気・医療の社会史の研究者による研究日誌
Viewing all 455 articles
Browse latest View live

18世紀の自画像とコンドーム

$
0
0

イメージ 1

ロンドンのRAでゾファニー展をしていて、イギリスのメディアは、この18世紀の画家の話題で満ちている。その中で、RA友の会の機関誌もTLSも取り上げていた見逃せないエピソードが、ゾファニーが自分の自画像の中にコンドームを描きこんでいたことである。これはイタリアの美術館にあった自画像で、ゾファニーが修道士の僧衣を着ようとしている姿が描かれている。これは修道士のふりをするような、あくどい宗教への皮肉であり、そこにコンドームが描かれているのは、宗教の偽善性だとか、まあその方向のことを示唆しているのだろう。

しかし、私は、18世紀のコンドームが描かれた絵画というのは、実はあまり見たことがなく、これは授業で見せる資料として素晴らしいので、ちょっと資料を作ってみた。

内村祐之「アイヌのイムについて」(1)

$
0
0
内村祐之・秋元波留夫・石橋俊実「アイヌのイムに就いて」『精神神経学雑誌』42(1938), 1-69.
20世紀の初頭から、ドイツ精神医学において「比較人種精神医学」が成立した。精神疾患の発生とその現象は、外因と個人の要因だけでなく、人種、民族、文化、時代相などによっても影響されるという枠組みのもと、世界のさまざまな人種・民族における精神病の現れを研究しようという視点である。これは、かつての精神医学が持っていた精神病院に収容される患者を診察するという狭い行為を大きく超えて、世界のさまざまな民族を対象にした学問へと精神医学を空間的に広げただけでなく、歴史上のさまざまな精神病の現れを研究することも含んでいたから、時間的にも拡大した視点を精神医学に与えることになった。

内村祐之は、内村鑑三の息子であり、一項の野球部の投手から東大医学部に進学して精神医学を学んだ。昭和2年に北海道帝国大学の精神医学教室を設立することとなった。ベルリンで2年間学んだのち、北海道に帰って選んだ主題のひとつがアイヌの精神病学研究であった。アイヌにおいて「イム」と呼ばれる精神病の一種があることは以前から知られており、明治22年の小金井良精などの解剖学者・人類学者の言及や、明治34年に精神病学者に榊保三郎が行った調査報告などがある。これらを踏まえて、独自の大規模な調査を行ってまとめられたのがこの内村の研究である。

イムという現象は、当時のアイヌの間では減少しており、当初は内村たちはこれを発見することができなかったが、昭和6年に秋元が日高平取地方に多数のイムを発見してから調査は軌道に乗った。昭和8年には十勝アイヌ、釧路アイヌにも発見され、昭和9年からは日本学術振興会の事業の一つとして調査がすすめられ、日高平取、室蘭附近の膽振アイヌ、樺太アイヌ、上川、浦河、静内などで調査を行った。これらの地域で採集されたイムのうち、多数存在はしたが実数を確定できなかった浦河、静内を除き、直接観察80例、伝聞31例の合計111例を確定し、これを基礎とした研究である。

これらの111例のイムは、アイヌの集落に広く見られるが、その分布には鮮明な濃淡がある。たとえば、樺太には5例のイムしか見られず、内村は、これは「樺太における絶対数と言い得るくらい正確に近い数字である」と言い切っている。この5例という数値を、樺太アイヌの人口1,433名で除すると、人口比0.33%である。これに対して北海道アイヌに見られる106例を人口で除すると、0.66%となる。しかも、内村の推算によれば、この106例という数値は真のイムの数の60%くらいであり、実際の比率はもっと高くなる。北海道の中においても、日高アイヌにおいては1.19%、膽振アイヌにおいては0.62%である。また、日高の集落は特別高い数値を示し、3.91%という高い数字を記録している地域も存在する。

この地域分布から、内村は、イムはアイヌがその集団としての固有性を濃厚かつ緊密に保持しているかが、その出現を左右する主要な因子であると主張する。イムが濃厚に存在した日高は、アイヌの固有の伝統習俗がもっとも良く保持されている地域であるのに対し、室蘭、樺太、白老などは、たしかにアイヌの部落は存在しているが、それらは形骸的なものであり、「生きたアイヌ的精神は漸次その影をひそめ、周囲にみなぎる和人的習性の影響が著しく瀰漫している」と述べている。一方で、孤立した小さな集落においても、イムは希薄になっている。アイヌの集団が、ある程度の大きさを保ち、その固有性を保っていることこそが、イムという精神病が現れる重要な因子であるという。(続)

内村「アイヌのイムについて」(2)

$
0
0
内村祐之「アイヌのイムについて」(2)
111名の患者のうち、1名を除いて全員が女性であった。男性のイムについては十分に調査したが、北海道にはついに一名も発見することができず、逆に樺太では、5名のイムのうち1名が男性であるということになった。年齢分布から言うと、最も多いのは50歳代、60歳代であるが、これは、イムが最近減少しているために若い患者が少なくなっているということが貢献している。発病年代でいうと、20歳代が多い。しかし、20歳代の女性のイムは、まだイムとして弱い症状しか示さず、壮年期に典型的な強い症状がみられ、老年期に達するとまた症状が弱くなるという盛衰を示す。

イムの核心は、一定の刺激が与えられた時に、反射的に起きる驚愕反応 (Schreckreaktion)である。この驚愕は、その程度が刺激に比して異常に強いだけではなく、一時的な驚きではなく、ある時間的な連続を持って精神症候が集団となって伴われるものである。多数のイムを観察した結果、これが定型的に現れるときには、四つの要素からなると考えられる。その四つの要素は、1) 躁暴状態、2) 反響症状、3) 反対行動、4) 理性抑止的退行(性的言動)
(ここで、内村の描写は、医学的というより、迫真性と臨場感をもった、あるイムの女性の記述となる。「彼女は薄暗い小屋の中にあって炉の脇で億年と座っている」という文章ではじまり、「そのとき、我々の中の一人が突然『とっこに』と声をかける」で終わる文章は、ルポルタージュのようにも、あるいは脚本のようにも読める。)
1) 躁暴状態。叫び声をあげ、傍らの棒切れをとって検者に打ちかかるなどの、暴行をする。刃物などが近くにあると危険である。のちに、このような醜状を示したことを悔いる。
2) 反響症状。躁暴状態が鎮静すると、イムの特徴として有名な反響症状が起きる。これは、まるでこだまのように、相手に問いかけられた言葉をそのまま返答したり、相手の動作を自動機械のように模倣することである。その言葉を理解しない場合であっても、それを模倣する。「ヒコーキ」―「ヒコーキ」、「バカ」―「バカ」、「サッポロ」-「サッポロ」という具合である。また、命令を与えると、それが難題であっても無批判に実行する、「命令自動」も起きる。踊れと言われれば踊り、男に組み付けと言われれば、老婆であっても屈強な男に打ちかかる。酒宴の席で、イムを起こして座興の対象となって飲酒を命じられ、飲めと言われるままに飲んだために死亡した例もあるという。また、全身に強硬症が起きる。これは、イムではないアイヌ婦人や非定型で反響症状を起こさないイムにも見られる現象である。
3) 反対動作。反響症状と一見すると矛盾するようだが、根源においては同じ現象が、「反対動作」である。これは、命令の意味と反対のことをすることである。近寄れと命ずれば遠ざかり、遠ざかれと命ずれば近寄るという行動である。これは、相手の命令を拒絶するようでいながら、分裂病の拒絶症のような盲目的な拒否、外部からの刺激の遮断ではない。むしろ、外界からの刺激(命令)の影響のもとにあり、それを反対の方向に転化するのである。つまり、相手の意志の影響下にあるという点で、命令自動と等しく、ただ実現の方向が異なるのみである。
4) 理性抑止的退行(性的言動)。これは、他の三つほどは広く見られず、特殊な状況でのみ発生する。典型的には、部落の老若が集まった酒宴の席において、イム患者が座興の的になり、反響症状や反対動作を利用した悪ふざけをうけているときに、患者がいつもは慎み深いアイヌ女性なのに、著しく卑猥な言動を示すことである。若い男に飛びかかったり、自己の性器を露出したり、淫語を放ったりするのである。

イムの誘発刺激として有名なのは、蛇(蝮)を意味する「とっこに」という言葉である。「とっこに」と言うと、患者はイムの症状群をはじめる。言葉が似ているから、「とっくり」(徳利)といっても発作が起きる場合もある。初発動機としては、蛇を見て驚いたなどという、蛇と関連する驚愕があげられる。別の初発動機としては、加持祈祷の中で、病気を治癒してもらう代わりにイムを与えられたということも挙げられる。華族の中に強い集積を示し、イムは遺伝すると考えた学者もいたが、内村は、遺伝というよりも模倣によるものだと考えている。すなわち、若い娘が、祖母や母親などがイムを示すと、それを模倣するというのである。(続)

内村祐之「アイヌのイムについて」(3)

$
0
0
内村祐之「アイヌのイムについて」(3)
イムは、クレペリンやクレッチマーが言うところの、心因性反応である。驚愕、破綻、災難その他の機会に対して、人間は自己防衛の反応をする。これは、生物一切に通じる反応であり、「運動暴発」と「擬死反射」である。(これらは、第一次世界大戦後のヨーロッパの医者たちにとっては、自分たちが目撃して身近に感じた「死」とそれからの逃避を問題にしていた。)人間においては、こういった死の危険に対して、理性によって処置することが多いが、このような上部構造が抑制されたり麻痺したりしたときには、下部構造である本能的反射的機構が発動される。イムは、まさしくこの運動暴発と擬死反射である。文化人の心因反応に見られる、複雑多岐な痙攣・運動麻痺・感覚障害とは違い、イムの反響症状や強硬症などは、下等動物の反応に近似している。しかし、もちろん、下等動物は反響症状を行えるわけではない。それは、高等な生物の単純な形の心因反応がある。ヒステリーのような複雑性を持たず、個人的な色彩も薄くてどのイムバッコも似た症状を示す。また、ヒステリーのような疾病利得の意志が薄い。すなわち、個人的な差異が極めて狭く、動物における本能に基づいた運動暴発や擬死反射のような現象面が露骨に現れてくる。イムは、戦争ヒステリーが戦争を忌避し、災害ヒステリーが賠償金を期待するような、利得への欲求に欠けている。しかし、ここで重要な点は、イム患者に個人としての疾病への意志が欠けているかもしれぬが、それにかわって民族的・団体的な疾病への意志があるのである。イムであることは、それは不治であり、そのままでいなければならないという、アイヌ社会全体の通念を受け入れることである。つまり、団体として「病気のままでいなければならぬ」という意志があるといっていい。

ヒステリー性格のものには、「顕揚欲」というべく、目立ちたがり、利己的、誇張的、気まぐれ的、感情的、演劇的、虚栄的な特徴がある。しかし、アイヌのイムにはこれが一切ない。そのかわり、ヒステリーと関係をもつもう一つの重要な特徴である「被暗示性」がある。アイヌのシャーマンである「つす」は、自己催眠にかかって術を行い、被暗示性が高い人々であるが、彼女たちの多くがイムでもあることは偶然ではない。この被暗示性の高さが、蒙昧未開で原始心性をもつ人々の特徴である。だから、かつての中世ヨーロッパや現代のヨーロッパの山間部でヒステリーが流行したように、イムも流行するし、日本の地方ではヒステリーも流行する。

ヨーロッパの周縁の民族、すなわちユダヤ人、北スラブ人、チェコ人、ボスニア人たちにヒステリーが多いという報告がある。これは、比較的未開な民族において、外来の刺激に対して感受性が高いとヒステリーになりやすい。

アイヌにおいては、蛇のトーテムやタブーがあり、この集団意識と「イム」がかかわりをもつことは疑いない。これがあるからこそ、迫力ある暗示になるのである。(続)

内村「アイヌのイムについて」(4)

$
0
0
「イムの話―アイヌの奇病」(昭和8年 東京朝日新聞)
アイヌのイムバッコ(イムを起こす老婆)は、普段は普通の人々と少しも変わらないと周囲が口をそろえて言い、性質などに偏ったところは全然ない。むしろ、内村らが観察した範囲では、有能多才の婦人が多く、男勝りの寡婦や、品の良い一家の良妻などがいる。昭和13年に『精神神経雑誌』に掲載されることになる大論文と言っている内容はほぼ同じであるが、昭和8年の10月21日から24日まで『東京朝日』の科学・文化欄に連載された記事では、論文では触れていないとても重要なことを言っているのでメモした。

イムをアイヌの民族と社会によって形成されたヒステリーと考えることは問題がない。イムをアイヌのヒステリーたらしめているのは、アイヌの精神生活の原始性であり、被暗示性である。もう一つ重要なことは、アイヌ社会の中での女性の地位である。アイヌの女性は、屈従的な生活をしているという定評がある。イムではない一老婆が、酩酊した男性のアイヌによって土手下に蹴落とされたが、それに一言も文句を言わなかった。この取扱いによって蓄積されているものは、どこかで発散されなければならない。内村は、イムがその場であり、イムは抑圧された女性の不満が発散する仕掛けである。イムを発作させた後の「躁暴状態」において、亢奮して我を忘れてしまった女性のアイヌが、屈強な男性に立ち向かい打ちかかっていく様子を見ていた内村には、何かがひらめいたらしい。「温良にして慎ましやかな態度から放たれて、男子に向かい、足をとりこれを芝生の上に押し倒して快哉を叫んでいる」。これを見て、内村はなるほどと思ったらしい。「イムも、ヒステリーの発作も、天然が弱者のために備えた防衛機構、保障機構である」という。

内村「アイヌの内因性精神病について」

$
0
0
アイヌのイム論のまとめの前に、その他の精神病についての論文をまとめます。

内村祐之・石橋俊実・秋元波留夫・太田清之「アイヌの内因性精神病と神経系疾患(アイヌの精神医学的研究 第3報)」『精神神経学雑誌』45(1941), 49-100.
昭和9年から12年にかけて、日本学術振興会の第8小委員会のアイヌの医学的研究のプロジェクトに基づいて調査をした結果をまとめたものである。精神分裂病、躁鬱病、癲癇などの内因性精神病や、酒精中毒など他の精神病を調査し、その出現と病像について野心的なまとめをした論文である。昭和11年に樺太のアイヌの調査の折に、同地に住む蒙古系のギリヤーク、オロッコ、サンダーなどの民族の精神病も調査した。

酒精中毒については、アイヌは愛酒民族として有名であると同時に、和人によってもたらされた酒によって民族は衰亡に向かったとされる。しかし、実際に調査してみたところ、酒精中毒はむしろ少なかった。しかし、これはアイヌが多量の酒に対して抵抗力を持っているからというより、むしろ貧困のために酒を飲み続けるだけの資力もなく、それを生み出す財産を作るための勤勉さと意志力もないということを考慮に入れなければならない。

分裂病と躁鬱病については、興味深い議論をしている。分裂病については、ドイツで研究された発生率や内村自身が八丈島で調査した発生率に較べて、アイヌの分裂病ははっきりと数が少ない。また、分裂病患者の転帰をみると、末期的な痴呆に至らず、寛解したり作業可能な状態になるケースが目につく。アイヌは分裂病についてのある種の抵抗性を持っているのだろう。躁鬱病についても、数も少なく、また、非定型なものが多い。具体的には、憑依症状などが現れたりする。これは、ヨーロッパで、ユダヤ人の躁鬱病が非定型であると報告されていることを思い起こさせる。

すなわち、アイヌは、分裂病や躁鬱病という内因性の精神病に対しては、むしろ有利な特徴を持っている。そして、アイヌ民族の原始心性に由来する「推感性」(被暗示性)がはたらくために、これらの病気はその色彩を帯びる。この被暗示性は、イムの基盤ともなっているから、アイヌはほかの精神病にかかった場合でも、その病像にはイムの影がさすことになる。

内村祐之『精神医学者の滴想』

$
0
0
内村祐之『精神医学者の滴想』(1947; 再刊 東京:中公文庫、1984)
内村が昭和22年に刊行した。一般の人々や医学生のために専門に関することがらを書いたものが少したまったので一書に纏めたものである。「序」によれば、通俗的なものから半ば学術論文のようなものもあって、硬軟が一様ではないが、一貫して真面目に題目に向かったつもりであり、自分の専門や医学に対する自分の立場、さらには人生に対する自分の立場をはっきりと示し得たと思う者も一、二に止まらないと記している。狂気と天才、脳、精神病室における患者による詩作、精神鑑定、ドイツの知己の学者たちの回想、父内村鑑三のこと、精神病の遺伝のこと、優生法の過去と将来のことなどが記されている。

まず、このリストだけでも、日本の精神医学が発展するときに、社会の中でどのような問題が配置されていたのかという地図を示している。内村自身は脳神経学を学んだにもかかわらず、ここでは脳への注目はごく小さい。犯罪が占める役割もかならずしも大きくない。そして、やはり優生学と遺伝が大きくなっている。

精神障害の出現頻度

$
0
0
1953年に国立精神衛生研究所が出版した『精神衛生資料』に、精神障害者の出現頻度についてのこれまでの調査の一覧表が掲載されている。この時期は、精神病者への対応が大きく変化する時期であった。1950年に制定された精神衛生法によって、それまで精神病者収容のかなりの部分を担ってきた私宅監置が廃止され、患者を精神病院に収容するシステムへの切り替えが始まった時期であった。さらに、2年前の1948年には優生保護法が制定され、遺伝性の疾患の予防に本格的に取り組む体制ができていた。

精神病院への収容と、精神疾患の遺伝を防ぐ優生学の両者の間に深い関係があることは、すでにナチス・ドイツにおける研究が明確に示している。特に、精神障害者や児童の抹殺計画においては、精神病院などの収容施設は、抹殺の対象を発見する装置であり、抹殺が実際に行われる場でもあった。一方で、同時期の日本においては、精神医たちは、国民優生法に反対し、精神病院の建設を唱える傾向が非常に強く、ナチス・ドイツのような傾向はみられない。

一方で、国民優生法に対して慎重な態度を示しながらも、「断種などによる精神疾患の遺伝を行うとしたら、きちんとしたデータを得て科学的に行うべきである」という態度で、精神疾患の疫学調査を行った精神医たちがいる。この立場のリーダーは、当時東京帝国大学の教授であった内村祐之であり、彼の研究室が主体となって1939年から42年に行なわれた現地調査が、この表の中心となっている。

・・・このことは、何を意味するのかなあ。

日の当たる道を歩いた精神医学教授

$
0
0

イメージ 1

台弘「内村祐之―臨床家、研究者、指導者―」『臨床精神医学』13(1984), no.10, 1259-1265.
「日本の精神医学百年を築いた人々」というシリーズの中の一つ。東大精神科の教授職を追われた台弘が、先々代の教授である内村を語るという「濃い」企画であって、冒頭は、1950年代のことだとおもうが、台が内村に面と向かって建て付いたときに、当時の教授であった内村が台に向かって「君のような人の心のわからない者は精神科医の資格がない」と叱責するシーンで始まっている。ある意味で、一定の限定の中で、台が本音を語っている文章だと思う。

内村は内村鑑三の息子に生まれ、一高時代は野球部の名投手として鳴らし、東大の精神科を卒業後は、クレペリンのミュンヘンのもとで学んだあと、1927-36年は新設の北海道帝国大学の教授となり、1936-58年は東京(帝国)大学の教授となった。東大退職後はプロ野球のコミッショナーにもなった。精神医学者としては初めて学士院の会員にもなった。まさに輝かしい成功の人生であった。「我が国の精神医学の表街道を歩いた人」という評を台が紹介しているが、まさしくその通りである。

東大教授になればだれでも表街道を歩いたというわけではない。内村には「表街道を歩いた」という言葉がよく当てはまる。この点で台が比較しているのは、呉秀三である。呉秀三には、日本の地方部で私宅監置されている者たちを観察した『精神病者私宅監置の実況』という重要な著作があるが、これは、日本の精神科医療体系の後進性、特に地方部における惨状を告発する、アクティヴィストの書であった。その告発のベースには、当時の西欧ではすでに時代遅れになりつつあった精神病院至上主義に対する無邪気な信仰があったことも事実であるが、呉の著作には、精神病者が置かれている惨状をなんどかして改革せねばならないというアクチュアルな理想が溢れている。内村には、呉と似たような仕事をしている場合でも、そこには精神病者が取り扱われている現実を変えようという使命感がないというのが台の観察である。アイヌや八丈島・三宅島の精神病を観察すれば、そこにはみじめな小屋に監置された精神病者がおり、薄暗い部屋で呪術師が祈祷をするようなおどろおどろしい光景がある。呉秀三であったならば、この惨状に立ち向かわなければならないという状況においても、内村は冷静な学問的な分析に向かう。そこには、日本における劣悪な現実の改革よりも、アイヌのイムをクレッチマーのヒステリー論で分析して、ドイツの学界でクレッチマーに握手を求められる栄光を志向する学者らしさがある。精神医療が政治的にラディカルな改革の主戦場となった時代が来る前に東大を去った内村は、きっと、そのキャリアの終わり方においても日の当たる道を歩いていたのだろう。

画像は70歳にして投手をする内村。

内村『日本の精神鑑定』

$
0
0
内村祐之他『日本の精神鑑定』(東京:みすず書房、1973)
内村祐之と吉益脩夫が中心となって、世間の耳目を集めた事件を選び、被告の精神鑑定に若干の手を入れて掲載した書物である。同様の精神鑑定書は、内村の前の東大教授である呉秀三も三宅鉱一も編んでいるが、事件の著名な程度という点では、この書物は違う次元に属しており、「昭和史に残ると思われる重大事件」が選ばれている。内村自身が鑑定書を書いていない事件からは、大本教事件や阿部定の事件が選ばれている。内村自身が鑑定書を書いたものの中では、帝銀事件における平沢や、極東軍事裁判における大川周明のもの以外には、鉄道省電気局長が執務中に日本刀で刺殺され、犯人は旧部下でで帝大出の工学士であった事件(昭和11年)、中野区で商務省勤務の技師の妻(20歳)が、同郷の出身で中学を退学した少年(17歳)に全身をめったつきにされて殺害された事件(昭和11年)、市立浜松聾唖中学の生徒(21歳)が、刺身包丁から作った短刀様の凶器で、1年にわたり4か所において娼妓を中心に殺人を繰り返して9名を死亡させ6名に重軽傷を与えた事件(昭和16年)、昭和20年の戦争末期に食糧不足を背景として俳優片岡仁左衛門一家の5人を手斧で斬殺した事件、そして終戦前後に、食糧の不足につけこんで、食べ物の買い出しに婦女子を誘って、10人の女性を強姦・殺人したいわゆる小平事件などがならんでいる。確かに耳目を集めた事件ばかりであろうし、呉や三宅の、日常的な小事件を多く含むテクニカルな精神鑑定書とは大きく性格を異にしている。凶悪犯罪への注目、それを起こした犯人の精神を知りたいという欲望、あるいは精神(鑑定)医のセレブ化も関係あるのかな。

内村「アイヌの潜伏梅毒について」

$
0
0
内村祐之・秋元波留夫・石橋俊実・渡辺栄市「アイヌの潜伏梅毒と神経梅毒(アイヌの精神病学的研究 第2報)」『精神神経学雑誌』42(1938), no.11, 811-848.
内村によるアイヌの精神医学研究の一つであり、クレペリンの帝国精神医学の関心が最も鮮明に表現された論文である。

クレペリンが死の直前に発表した最後の論文は、神経梅毒と人種の関係を対象にしたものであった。19世紀の末から20世紀の初頭にかけて、進行麻痺の原因が梅毒にあることが明確にされると、梅毒に感染して発病するもののうち、どのくらいが進行麻痺などの神経梅毒を患うかという問いが浮かび上がった。進行麻痺はもともと鮮明な症状を持っているし、梅毒への感染を「客観的に」示すワッセルマン反応も利用できるようになっていた。

アイヌにおいて梅毒が最初に発見されたのは1800年前後である。19世紀の末から20世紀の初頭においては、明確な症状の現れがある「顕性梅毒」が非常に多いことが医者たちによって報告されていた。おそらく和人からアイヌに梅毒が侵入し、それが蔓延して発病して大きな被害が出た時期であった。しかし、昭和9年から11年にかけて内村たちが行った検査では、それとはまったく違った梅毒の姿が明らかになった。それは、ワッセルマンなどの血清反応を通じて調べることができる梅毒に感染している割合が非常に高いにもかかわらず、実際に症状として現れた症例は少ない、その中でも進行麻痺などの神経梅毒のかたちをとるものは割合として少ないということである。内地や北海道の和人においては、梅毒の感染率は10%内外であるが、アイヌにおいては、この数字は30%から40%という非常に高い数値を示す。GPIなどの神経梅毒は確かに存在するが、これが数的に言うと意外に少ない。

この所見は、クレペリンの帝国精神医学以降に焦点となった一つの重要な問題、すなわち文化が低い民族における梅毒の現れ方の違いと関係がある。たとえばボスニヤ人、アルジェリア人、マレー人、南アフリカのトランスヴァール人、そしてモンゴル人などの研究は、文化的に未発達の民族においては、梅毒の罹患率が高いにもかかわらず、進行麻痺が現れないという事実が報告された。アイヌにおいて観察されたことは、アイヌにおいても進行麻痺が存在し、彼らが進行麻痺に対して完全な免疫を持っていないということと同時に、その病型が現れる度合いが低いという、この枠組みに合う発見でもあった。

感染症の歴史を研究において、人文社会系の歴史学の研究者は、「感染するから隔離した」という主題を取り上げることが多い。その通りであって、その主題の枠に当てはまる重要な現象は確かに存在した。しかし、細菌学にせよほかの感染症を扱う学問にせよ、20世紀のごく初頭から、それよりも複雑な現象が学問的な関心の中心になっていることも事実である。健康保菌者が隔離監禁された例は、「タイフォイドのメアリー」をはじめ、確かに存在する。しかし、それと並行して、健康保菌者が本当に感染症を起こす同じ可能性があるのかという問題は、常に議論されており、日本では健康保菌者の隔離については否定的な見解が取られたという印象を私は持っている。(リサーチはしていないけれども。)梅毒や結核についても、それがどのように発病するのかという問題は、人種や性や移民や生活の型などの社会におけるさまざまな問題に結び付けて議論されていた。ハンセン病についても同じことが言えるだろう。感染症対策の歴史において、隔離したかどうかという問題は、当時の人々が持っていた関心の一つであって、唯一の重要な論点であったわけではない。

アンジェロ・モッソ『恐怖の生理学』

$
0
0

イメージ 1

恐怖の生理学
Mosso, Angelo, Fear, translated from the 5th edition of the Italian by E. Lough and F. Kiesow (London: Longmans, Green, and Co., 1896)
著者、アンジェロ・モッソ(1846-1910)はイタリアの生理学者で、トリノ大学の教授をつとめた。Wiki によると、精神活動の際に脈動が変化することを測定することに成功し、現在の脳神経学を支えている測定器具の fMRIやPETの原理がよって立つ原型を作ったという説明がされている。

この書物は一般向けに恐怖という感情を生理学の視点から語ったものである。ときどきギリシアの彫刻の傑作や、レオナルドの絵画論などからも引かれている。どちらかというと散漫な著作だけれども、その中で、進化論が果たしている役割が特に重要であった。ダーウィンに人間と動物の表情の有名な研究があり、そこに人間と動物の恐怖の表情の分析がある。それをうけて、人間における恐怖を、動物と人間が共有している生理学の視点から分析し、それを生存の確保という進化論の視点と結びつけたものである。処女が含羞をたたえて頬を赤らめることは、いくらそれが無垢と純粋の象徴であっても、いくらそれが美しく道徳的に好もしいものであっても、それが生理学上の現象であることには変わりないという意見で始まっている。

生理学系の学者がこういうことを書きたがるのは昔から変わらないのか、それとも、最近ではそういうことを言わなくなったのかもしれない。しかし、現在でも、生物学者は、求められてもいないのにその手の話を始めることが多いのは、生物学者以外の人々は誰でも気が付いていることだと思う。このあたりが、生理学者と生物学者の違いかもしれないし、患者を治療することを目標にしている医学と、その目標を持たない生物学は、やはり大きな違いがあるのかもしれない。

それはどうでもよくて、含羞が生理学的な現象であるということは正しいことだから、19世紀末の猪生理学者がそれを喜んで言うのはいいのだけれども、このトリノ大学の生理学教授がその次に記した冗談の趣味の悪さが、この時代の生理学者が敵意と軽蔑の対象となり、最終的には『モロー博士の島』にはじまる一つの伝統を生んでしまった理由だと納得した。「奴隷市場では、顔を一番赤らめる女性が優れた商品として買われるが、それと同じように、耳を一番赤くするウサギを実験用に私は買い求めた。」

画像は、モッソのエルゴグラフィ。

外須美夫『痛みの声を聴け』

$
0
0
外須美夫『痛みの声を聴け―文化や文学の中の痛みを通して考える』(東京:克誠堂出版、2005)
著者の外先生(「ほか」と読み、鹿児島ではそれほど珍しくない名前とのこと)は、現在は九州大学の麻酔科の教授である。著者とは、ある闘病記関連のシンポジアムでご一緒してお話を聞き、その瞬間に、先生のご著書は買って手元に置かなければならないを確信したほどの書き手である。やっと時間ができたので、この書物を読んで、やはりいい本だったと思う。

書物自体の成り立ちに、この書物の魅力の秘密がある。この書物は、著者が学生の頃から、優れた言葉に触れたときに、それを書き写して思いをめぐらしてきたことの蓄積に基づいている。備忘録とか commonplace book と呼ばれている習慣の生き残りであろう。当初は、大江健三郎やサルトルなどの言葉を切り取っていた。ゲーテやリルケの詩集からラブレターに役立たせようという魂胆で書き写したが、結局成功しなかったという。医者になってからは、痛みをめぐる表現者のノートが増えてきた。ノートに書き写し、色々と思いをめぐらし、考えを深めてきたのだろう。このノートをもとにつくられた50程度の短い章が、本書をかたちづくっている。主題は、 commonplace book の伝統そのままに、きわめて多様である。フリーダ・カーロの絵画を論じたかと思うと、大江健三郎から学んだル・クレジオを語り、トルストイの『イヴァン・イリッチ』を論じ、生物学者の柳沢桂子に触れる・・・というようになっている。短い随想をまとめた形式になっているといってもよい。

ポイントは、この書物は、まさしく「余暇」に営まれた思考を記したものであるということ、医学人文学の一つの形を鮮明に示しているということである。医者の優れた趣味として、医療をめぐる思索を継続していくことである。医者が、このような余暇を持っているということは、社会にとって望ましいことではないか、患者としてそのような医者にかかりたいのではないか、ということである。「医者の趣味」というのは、古いタイプの医学史に対して、人文社会系の若い研究者や大学院生から軽蔑的に投げかけられる言葉である。私自身がその軽蔑を共有しているかのような誤解のもと、この言葉をさんざん耳にさせていただいた。私は、医学史の学問的な水準を上げる努力をする一方で、医者や医療者が、医学の歴史なり医学と文学なりの「趣味」を持っていることは素晴らしいことだと思っている。

精神病患者の絵画

$
0
0

イメージ 1

イメージ 2

野村章恒「非定型性診断不明の中酒性精神病の精神病理学的考察」『神経学雑誌』34(1932), 374-398.
精神病患者の絵画研究で著名な野村が書いた本格的な研究。松澤病院に入院した患者が、現在で言うアルコール依存症である「中酒性精神病」の症状であった。たまたまその患者が、名のある画家であったので、患者に絵を描かせて、それを病気の研究に用いたものである。退院後も日記をつけさせ、一か月に一回か二回送らせていること、これは、患者の異常行為を綿密に観察した記録に加えて、全治したあとの患者の追想を照合して精神病理を研究するためである。

この患者は、野村の記述から、どの画家であるかが簡単に特定できた。ちょっと追跡して調べてみようかな。

論文に掲載されていた画像。画質が悪くてごめんなさい。特に、身体が収縮して頭と四肢が中に入って卵のようになり、そこからまた身体が生えてきて仏様になるという主題の連続画が面白い。

倒錯の歴史

$
0
0

Roudinesco, Elizabeth, Our Dark Side: A History of Perversion, translated by David Macey (Oxford: Polity Press, 2009).
ルーディネスコは、フランス革命期の女性の政治運動家で精神病患者の生涯を描いた『革命と狂気』の著者として知っていた。歴史学教授だというが、著作では必ずしもオーソドックスな歴史学の洞察を見せる学者ではなかった。その彼女がPolity から『倒錯の歴史』を書いたというので、あまり期待はしていなかったが、目を通してみた。

予想が当たった部分と外れた部分があって、全体に良い本だったという印象を持っている。予想が当たった部分というのは、歴史学の書物としての質の問題である。この書物全体として、中世から20世紀までをカバーしている本なのに、数えられるほどの倒錯者しか論じていないし、分析されている資料や二次文献はごく少ない。とても「軽く」書いた本である。しかし、失礼な言い方だけれども、予想が外れた部分というのは、それにも拘わらず、とても的確なことを言っているということである。たとえば、これはル・ゴフの引用だけれども、「キリスト教徒の身体は、生きているときも死んでいるときも、栄光の身体を待ち望んで存在している」などという台詞は、とてもエレガントで的確な洞察だと思う。本格的な研究書でも概説書でもないけれども、読むととても勉強したような気になる書物である。後半に、ナチスや現代のテロリズムについての評論もついていて、このあたりが、はたして Perversion という枠組みで論じることに意味があるのか、よくわからない。本の表紙が、圧倒的におしゃれなのも、ちょっと得をした気になる(笑)

植木哲也「隠された知―アイヌ教育と開拓政策」

$
0
0
植木哲也「隠された知―アイヌ教育と開拓政策―」『苫小牧駒澤大学紀要』no.12, 2004, 17-32.

大正から昭和戦前期のアイヌの窮状を救うための政策の背後にある思想を分析した論文。1918年の『調査』などを素材にして、二つの互いに矛盾する思想が併存していたことを示す。アイヌの窮状は和人たちの目に火のように明らかであった。諸民族の生存競争と優勝劣敗というダーウィニズムと優生学の原理がもっとも鮮明に示されたのは、アイヌの衰亡であったに違いない。問題は、その原因は何かという問いであった。それはアイヌの無知に原因があるのか。あるいは、アイヌは本当に無知なのか。むしろ、アイヌの衰亡の原因は和人の侵入と圧迫にあるのではないか。アイヌが和人のようになることは、問題の解決なのか、それとも問題をさらに困難にすることなのか。極端に言えば、アイヌがアイヌのままでいて、そのため無知であったことが問題の根源で、アイヌを教育すれば窮乏から救われるのか、それとも、アイヌ社会に和人が入ったことが問題であって、むしろアイヌだけの生活圏・文化圏を作り上げるほうが、アイヌが持っている「知」が生きるのか。このような一連の問いに対して、いずれの側にも一定の理があることが認められていたが、最終的には、アイヌの無知が問題の根源であり、教育、それも和人と同じ学校で教育を受けることが求められて、和人による圧迫と開拓政策がアイヌに与えた打撃が覆い隠されることがあった。

植木哲也「児玉作左衛門のアイヌ頭骨発掘」

$
0
0
植木哲也「児玉作左衛門のアイヌ頭骨発掘」(1)-(3) 『苫小牧駒澤大学紀要』no.14, 2005, 1-27;『苫小牧駒澤大学紀要』no.15, 2006, 119-152; 『苫小牧駒澤大学紀要』no.16, 2006, 1-36.
必要があって、昭和戦前・戦後期にアイヌの人骨を学術研究の目的で発掘した児玉作左衛門の仕事を研究した文献を読む。

児玉作左衛門は解剖学者であり、北海道帝国大学・北海道大学の医学部の教授をつとめた。彼は、当時新設された日本学術研究会の「第八小委員会」の研究課題としてのアイヌ研究に力を注ぎ、1934年にはじまり、北海道と樺太などの各地でアイヌの墓を発掘し、そこから人骨を研究用に大学に持ち帰った。発掘はおもに30年代に行われたが、その後も断続的に行われ、合計では1,000体ほどが収集されて大学の標本室に収納されていた。この人骨・遺骨をめぐっては、発掘の当初から発掘場付近に住むアイヌの抵抗と、それを無視したり懐柔したりしながら学術研究を進める児玉らの間には態度の懸隔があった。1980年代には、北海道ウタリ協会(現在の北海道アイヌ協会)の批判と抗議に対して、北大医学部が一定の譲歩をして、構内に「アイヌ納骨堂」を設立して慰霊祭を行うようになった。

研究や学問が社会としての規範を超え、これを抑え込むほどの力を発揮していたこと、ここには民族差別だけでなく知の権力作用が働いている。

児玉以前にアイヌ人骨が発掘されたケースもあった。明治初期に北海道を訪問した外国人による発掘は、犯罪行為として告発され、人骨は返還されるように求められた。解剖学者の小金井良精や京大の清野謙次もアイヌの人骨を発掘したが、これはアイヌの目を盗むようにして行われたものであり、小規模なものであった。しかし、児玉の発掘は、日本学術振興会の事業であり民族衛生学会の関係者の参加とともに行われ、北大の医学部の主要メンバーが参加する大事業であった。


児玉は、アイヌ、特に純粋なアイヌがその数を減じているので、できるだけ広く純粋なアイヌについての研究をするために骨格を蒐集しなければならないという強い義務感を持っていた。学術振興会の事業となって、骨格蒐集は劇的に進み、1934年5月の八雲町ユーラップ浜での発掘にはじまり、1939年までに500近い頭骨を発掘することができた。この急速な発掘と人骨収集の背後には、これが「公然と」行われた営みであったことがあげられる。児玉は、小金井や清野の、アイヌの目を盗むような発掘の仕方を非倫理的であると批判している。この「公然」には二つの意味があり、一つは、発掘地の近くに居住していたアイヌは、発掘が行われていることを知り、それに抗議し、その抗議に対して児玉は何らかの形で対応していることである。最初のユーラップ浜の発掘の時には、児玉らが発掘をはじめると、その地のアイヌ部落に住んでいるものが三名やってきて、不平を述べたり供養をはじめたりして、発掘の妨害となるようなことをした。そのため、児玉は町長と交渉してアイヌの墓地に供養の墓碑を立てることを約束し、ユーラップのアイヌはこれに納得して、その後も大規模な発掘を行うことができた。中には、この供養の墓碑に感謝して、後には遺体を積極的に北大に寄贈するアイヌすら現れたと児玉は書いている。これが「公然」の一つの側面であり、アイヌと交渉してなんらかの合意を取り付けたうえでの発掘であったということである。このことは、死者の子孫が居住している土地で墓を暴くという行為に対して児玉が感じたに違いない倫理的な曖昧さを回避する役割を果たした。

もう一つが、この論文では軽くしか触れられていないが、警察の積極的な関与や協力であった。最初の発掘のあと、児玉は警察に呼ばれて取り調べを受けている。詳しくは書いていなかったが、この行為は、いわゆる「墓荒らし」の犯罪が成立するのであろう。児玉はこれに憤るが、しかしこの機会をむしろ利用して、警察にアイヌの遺骨の発見の通報があった場合には、児玉にも知らせて学術的な発掘に協力してもらえるように告げる。児玉自身の回想によると、警察の刑事課の協力で400の遺体が集まったと言っている。母数が1000なのか500なのか分からないが、簡単に計算すると、4割から8割の人骨は、警察の協力のもとでの発掘のもとで得られたことになる。これが「公然」のもう一つの側面である。(続)

アイヌ頭骨の損傷の原因

$
0
0
植木哲也「児玉作左衛門のアイヌ頭骨発掘」(1)-(3) 『苫小牧駒澤大学紀要』no.14, 2005, 1-27;『苫小牧駒澤大学紀要』no.15, 2006, 119-152; 『苫小牧駒澤大学紀要』no.16, 2006, 1-36.

連作論文の(3)で論じられているのが、アイヌ人骨にある割合で発見された損傷の問題である。この損傷の割合は、地域によって違うが、10%台から30%台の頭骨に見られた。これは、なぜ損傷されたのか、人為的なものだとしたら、誰が、どのようにしてつけたのかという問題であった。頭骨に開いた・開けられた開口は、ヨーロッパの医学者・人類学者にとっても興味の対象であり、アイヌの遺骨にしばしばそのような損傷があることも、すぐに注目の対象になった。日本の研究者のあいだでは、小金井と清野が正反対の見解を示していた。小金井は、これは和人がアイヌの墓をあばき、頭蓋骨を割って脳髄を取って梅毒の薬を求めたという説を立てた。清野は、アイヌ自身が埋葬の前に行ったことであるとした。児玉は、これはアイヌに残存している原始的な信仰の産物であり、巫術によって秘薬を死体の各所に求めた行為の証拠であると結論した。損傷がどれだけ頻繁にみられるかを、継時的に見ると近年の遺骨には損傷が少なく、空間的に見ると和人との交渉が早く始まったところにおいては損傷が少ない。このようなことを論拠にして、文明化の進展とともに消えていくアイヌの原始性の記号であった。つまり、児玉は、自分がまさしく求めていた目的そのものである、消えていくアイヌ特有の文化の記号の収集・研究・保存の枠組みの中に、頭骨の損傷を位置づけたことになる。

この論文には、話自体がまるでミステリーのように面白い部分がある。それは、児玉が、北大を退官した後に、死の直前にアイヌの頭骨の損傷はアイヌが行った行為であるという考えを変えて、動物が埋葬した死体を齧ったものであるという考えに切り替えた部分を語る部分である。この死の直前の変節の背後にあるのは、児玉の息子で北大教授であった児玉謙次である。おそらくその息子の助言に基づいて、死の直前に児玉は自分の原稿に大急ぎで手を入れ、旧い自説を撤回して新たな説を挿入した原稿を書いて出版した。児玉の娘は、これを知っていたのか知らなかったのか、死後にも旧説に基づいた原稿を再刊したが、息子の方は、亡父の新説の原稿を再刊するといった乱れもあった。いや、この部分は、話自体が面白かったです。

ベリオス先生の講演(5/22)

$
0
0
5月22日の5時から、慶應義塾大学三田キャンパスで、ケンブリッジ大学の精神医学の教授、ハーマン・ベリオス先生にご講演をいただけることになりました。

ベリオス先生は、ペルーに生まれ、オクスフォードで精神医学と哲学を学ばれました。特に、チャールズ・ウェブスター、A.C. クロムビーらの医学史・科学史家、ロム・ハレなどの哲学者・心理学者に学び、現在の医学・哲学・歴史が高い水準で融合された「ダ=ヴィンチ型」の学識の基礎を築かれました。 この学識は、14冊の書籍と400点以上の論文にいかんなく発揮されています。また、雑誌 History of
Psychiatry の創刊以来の編集者をつとめられ、現在の精神医学史が、臨床の経験をもつ精神科の医師たちに高い水準で研究されているのは、何の誇張もなく、ひとえにベリオス先生のお力によるものです。 

ベリオス先生は、5月に来日され、慶應義塾大学の医学部などを中心に精力的に活動されます。その忙しい一日の中から、三田でご講演をいただけることになりました。(以上、鈴木先生より) 皆さまのご参加をお待ちしております。

演者 Professor German Berrios (Cambridge University)
演題 The History of the Philosophies of Psychiatry: A New Field of Study?
日時  5月22日(火)17:00~19:00
場所 慶應義塾大学三田キャンパス 東館6階 G-SEC Lab

東京都港区三田 2-15-45
JR線田町駅、都営地下鉄三 田線・浅草線三田駅、もしくは都営地下鉄大江戸線赤羽橋駅より徒歩10分
<http://www.keio.ac.jp /ja/access/mita.html>(キャンパスマップ、3番の建物です)

ラインベルガー「自然と文化を超えて」

$
0
0
Rheinberger, Hans-Joerg, “Beyond Nature and Culture: A Note on Medicine in the Age of Molecular Biology”, Science in Context, 8(1995), 249-263.
必要があって、ラインベルガーの有名な論文をもう一度読む。「自然」と「文化」の存在論的な違いと、両者の対立という図式とは異なった図式が、現代の遺伝子工学のリサーチにおいて機能しているという明快な議論は分かるのだけれども、それを展開して、現代の文明についての大きな議論に行く部分がよく分からなかったので、もう一度読んだ。

基本的な議論をもう一度復讐すると、1970年代に分子生物学という営みの基本的な枠組みが変化した。かつては、細胞内で起きていることを細胞外で表現する技術を作り出すことが分子生物学の目標であった。これは生命を理解することであった。しかし、DNA組み換えによって、新しい技術が現れ、この技術によって、かつてとは違うモデルで研究が営まれることとなった。それは、細胞の外のプロジェクトを、細胞内で表現すること、即ち「生命を書き換えること」を目標にするようになった。この部分はOKである。

問題はここから。これによって、「自然」と「社会・文化」(この論者は両者を等価に使っている)が存在論的に異なっているという図式が崩れた。遺伝子工学は、細胞の内部にある遺伝子という自然を用いて、そこに介入することを行うのだから。このことは、「歴史」というか「時間の経過」のスケールも変えた。かつては、進化という長い自然の時間にだけ許された行為であった、人間の存在(遺伝子)を書き、書き換え、変更するという営みに、科学技術がアクセスすることが許されたのである。このあたりはついていける。

しかし、ミシェル・セールを引いてエコロジーと地球の話が始まると、正直言って私にはついて行けない。分子生物学のテクニック上の変化という、重要な意味があっても基本的にはテクニカルな話と、地球環境の議論をつなげることに対する違和感が邪魔をして、頭に入らない。
Viewing all 455 articles
Browse latest View live