植木哲也「児玉作左衛門のアイヌ頭骨発掘」(1)-(3) 『苫小牧駒澤大学紀要』no.14, 2005, 1-27;『苫小牧駒澤大学紀要』no.15, 2006, 119-152; 『苫小牧駒澤大学紀要』no.16, 2006, 1-36.
必要があって、昭和戦前・戦後期にアイヌの人骨を学術研究の目的で発掘した児玉作左衛門の仕事を研究した文献を読む。
児玉作左衛門は解剖学者であり、北海道帝国大学・北海道大学の医学部の教授をつとめた。彼は、当時新設された日本学術研究会の「第八小委員会」の研究課題としてのアイヌ研究に力を注ぎ、1934年にはじまり、北海道と樺太などの各地でアイヌの墓を発掘し、そこから人骨を研究用に大学に持ち帰った。発掘はおもに30年代に行われたが、その後も断続的に行われ、合計では1,000体ほどが収集されて大学の標本室に収納されていた。この人骨・遺骨をめぐっては、発掘の当初から発掘場付近に住むアイヌの抵抗と、それを無視したり懐柔したりしながら学術研究を進める児玉らの間には態度の懸隔があった。1980年代には、北海道ウタリ協会(現在の北海道アイヌ協会)の批判と抗議に対して、北大医学部が一定の譲歩をして、構内に「アイヌ納骨堂」を設立して慰霊祭を行うようになった。
研究や学問が社会としての規範を超え、これを抑え込むほどの力を発揮していたこと、ここには民族差別だけでなく知の権力作用が働いている。
児玉以前にアイヌ人骨が発掘されたケースもあった。明治初期に北海道を訪問した外国人による発掘は、犯罪行為として告発され、人骨は返還されるように求められた。解剖学者の小金井良精や京大の清野謙次もアイヌの人骨を発掘したが、これはアイヌの目を盗むようにして行われたものであり、小規模なものであった。しかし、児玉の発掘は、日本学術振興会の事業であり民族衛生学会の関係者の参加とともに行われ、北大の医学部の主要メンバーが参加する大事業であった。
児玉は、アイヌ、特に純粋なアイヌがその数を減じているので、できるだけ広く純粋なアイヌについての研究をするために骨格を蒐集しなければならないという強い義務感を持っていた。学術振興会の事業となって、骨格蒐集は劇的に進み、1934年5月の八雲町ユーラップ浜での発掘にはじまり、1939年までに500近い頭骨を発掘することができた。この急速な発掘と人骨収集の背後には、これが「公然と」行われた営みであったことがあげられる。児玉は、小金井や清野の、アイヌの目を盗むような発掘の仕方を非倫理的であると批判している。この「公然」には二つの意味があり、一つは、発掘地の近くに居住していたアイヌは、発掘が行われていることを知り、それに抗議し、その抗議に対して児玉は何らかの形で対応していることである。最初のユーラップ浜の発掘の時には、児玉らが発掘をはじめると、その地のアイヌ部落に住んでいるものが三名やってきて、不平を述べたり供養をはじめたりして、発掘の妨害となるようなことをした。そのため、児玉は町長と交渉してアイヌの墓地に供養の墓碑を立てることを約束し、ユーラップのアイヌはこれに納得して、その後も大規模な発掘を行うことができた。中には、この供養の墓碑に感謝して、後には遺体を積極的に北大に寄贈するアイヌすら現れたと児玉は書いている。これが「公然」の一つの側面であり、アイヌと交渉してなんらかの合意を取り付けたうえでの発掘であったということである。このことは、死者の子孫が居住している土地で墓を暴くという行為に対して児玉が感じたに違いない倫理的な曖昧さを回避する役割を果たした。
もう一つが、この論文では軽くしか触れられていないが、警察の積極的な関与や協力であった。最初の発掘のあと、児玉は警察に呼ばれて取り調べを受けている。詳しくは書いていなかったが、この行為は、いわゆる「墓荒らし」の犯罪が成立するのであろう。児玉はこれに憤るが、しかしこの機会をむしろ利用して、警察にアイヌの遺骨の発見の通報があった場合には、児玉にも知らせて学術的な発掘に協力してもらえるように告げる。児玉自身の回想によると、警察の刑事課の協力で400の遺体が集まったと言っている。母数が1000なのか500なのか分からないが、簡単に計算すると、4割から8割の人骨は、警察の協力のもとでの発掘のもとで得られたことになる。これが「公然」のもう一つの側面である。(続)