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Channel: 身体・病気・医療の社会史の研究者による研究日誌
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ユイスマンス『スヒーダムの聖女リドヴィナ』

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J.K. ユイスマンス『腐爛の華―スヒーダムの聖女リドヴィナ』田辺貞之助訳(東京:国書刊行会、1984)
恥ずかしながらこの作品を知らなかった。中世の身体の歴史に学生が触れることができるすばらしい素材の一つであることは間違いない。リドヴィナについては、トマス・ア・ケンピスなどの著名な人物による聖人伝もあって、こちらのほうが歴史的には正確らしいけれども、日本語への翻訳を見つけられなかった。

ユイスマンスの作品は1901年の出版で、ユイスマンスが改宗して熱烈なカトリック信仰の書を創作するようになった時期の作品である。スヒーダムの聖女リドヴィナは、1380年に生まれて1433年に生まれた実在の女性である。ハーグの近郊のスヒーダムの庶民の子に生まれ、15歳のときにアイススケートをしているときの事故をもとにして進行性の病気が始まった。ユイスマンスの記述を読むと、まさしく「腐爛の華」という言葉がふさわしい、「おぞましくも美しい」病気で、身体が腐乱し続けていくようなありさまである。体中に壊疽ができてその中には蛆虫が発生し、内臓に膿がまわり、激痛が走り、顔には血の溝が走り、腹は滑稽にドームのように膨れ上がった。だいたいこのような状態で、寝たきりになった状態が30年続く人生であった。ウィキペディアによると、現代の診断でいうと、多発性硬化症ではないかとのこと。 キリスト教的には、彼女はスケートと慢性病人の守護聖人だという。

ハンセン病の位置づけについてのメモ。ユイスマンスの説明によれば、神は、中世の三つの病気のうちの二つをリドヴィナに与えた。それは丹毒とペストである。丹毒は、隠れた火のように四肢の肉を焼きつくし、骨からはがした。ペストは大きな<よこね>を作ってすみやかに人を殺していった。髪が彼女に与えなかったのは、ハンセン病であった。この欠如は、一見すると不思議なことに見える。聖書からも明らかなように、神はハンセン病患者に明らかに興味を持ち、これを利用し、人々に憐れみの念を起こさせるのに使ってきた。ハンセン病というのは、罰として送ったり、ヨブの信仰を試したりするときに用いられる、神が人間と関係を持つときによく使う道具であった。あらゆる病気にさいなまれたリドヴィナが、そのハンセン病だけを送られていないのは奇妙である。しかし、このことは不思議ではないとユイスマンスは言う。なぜなら、当時、ハンセン病患者は社会と家庭から追放されており、病気になると市や町の外にある収容院に追われて、生きた死人として人々の注目を集めずに死ななければならなかったからである。神は、聖女リドヴィナがあらゆる病気で苦しみ、内臓が飛び出し、肉が剥がれ落ちてばらばらになり、膿が腹の孔からほとばしるようになりながら、人々の中で暮らすことを選んだのである。

画像は、この苦悩と汚辱と栄光の人生の発端となったスケートでの事故を描いた版画。 

スヒーダムの聖女リドヴィナ

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Bynum, Caroline Walker, Holy Feast and Holy Fast: The Religious Significance of Food to Medieval Women (Berkeley: University of California Press, 1987)
いくら豊かな資料でも、さすがに小説家のテキストだけを裸のまま学生に提示することはできないから、キャロライン・バイナムがリドヴィナについて何を言っているかチェックする。この聖人について数ページにわたって説明している箇所があった。この書物全体で言っている主張を、リドヴィナの事例で確認している議論が大部分だった。中世の食事と拒食について、当時の人々と社会が食物に与えていた意味が重要であったということ。慈善の行為として食物を分け与えることが重要であったこと。聖書に描かれているキリストの奇跡として、ごくわずかの食物で多くの人々の飢えを癒すという主題がリドヴィナの聖人伝にも現れること、一方で断食の主題も重要であること、この断食において、キリストの身体そのものである「聖体」が、ごくわずかの量でありながら聖人の生命を支えるものとして重要であること、その「聖体」だけが聖人が食べることができる食物であったこと、この聖体は聖職者によって聖別されて作られ、特に女性の聖人にとって生存が教会と男性聖職者に依存するという状況が作られること、しかし、それと同時に、女性聖人が聖体が真正のものなのか、それともふさわしくない聖職者が作った虚偽のものかを区別して聖職者に挑戦する仕掛けも作られること。こういったことがらに触れられている。特に最後のポイントは、聖人伝に二章をかけて論じられている、スヒーダムのよこしまな司祭がもってきた聖体のパンと、彼女自身のもとにキリストが現れて与えた聖体のパンをめぐって、彼女と聖職者が争って結局は彼女が勝利したというエピソードをめぐって詳しく説明されている。

ユイスマンスのテキストで最も蠱惑的な箇所の一つが、リドヴィナが恍惚状態になってエデンに行き、そこで処女(童貞女)の群れに混じってキリストの降誕を祝う箇所がある。天使たちの詠歌隊の唄、立ち上る香料、弦楽器のしらべが切迫していく中で、光り輝くイエスが聖母の膝の上に現れる。歓喜の叫びが香炉の聖なる煙と竪琴のざわめきを横切ったとき、処女たちの貞潔な上衣の胸が開いて、まるで波のように乳がほとばしり出た。リドヴィナは至福のなかで、同じように胸から乳を噴き出した。その乳は、むろんキリストを養うための乳であり、それは、夜の空に、無限の星に照らされて、放物線を描いて広がっていった。リドヴィナの世話をする女であったカタリナ・シモンは、下界に帰ったリドヴィナの乳房からほとばしった乳を三度も飲んだ。彼女はその後数日間、どんな食物をとることもできなった。すべての自然な食物は、この乳に較べたら、気の抜けた薬味程度にしか思えなかった。

『最高の人生をあなたと』

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イザベラ・ロッセリーニは、『ブルー・ベルベット』と化粧品のランコムのコマーシャルで、私が20代だったときの憧れの女優だった。彼女が40歳になったときにランコムから契約を打ち切られたことが話題になったときに、ランコムの仕打ちに怒るというよりも、彼女が「40歳を過ぎた女性が美を定義してはいけないのかしら?」と問うたのが鮮明に印象に残った。彼女は、あのランコムの仕事は、美を定義することだと思っていたのか、と納得がいった。

ずっと彼女の話題を聞かなかったけれども、家に送られてくるミニシアターの映画の案内の中に、『最高の人生をあなたと』というタイトルのちらしがあって、そこに老いたロッセリーニの写真を見た時には、この映画は観なければならないと決心した。吉永小百合やイザベル・アジャーニのように、昔とあまり変わらないまま50歳や60歳を迎えた美人女優とは違い、ロッセリーニは、首筋には皺が目立ち、顔の周りには肉がだぶつくようについて、はっきりと老いが刻まれていた。映画の中の印象に残るシーンの一つに、ロッセリーニが鏡を見ながら顔の周りの肉をうしろに引っぱる場面がある。その時に、昔の美を定義していたロッセリーニの顔が現れた。そういう映画だからこそ、見なければならない作品だった。

実際の映画は、ロッセリーニと同じくらい、建築家の夫を演じたウィリアム・ハートがよかった。自分が独創的な仕事は30年前なのに、今でもそれができると思っていて、若者と一緒に仕事をして美術館の設計コンペに出したがる初老の男を演じている。奥さんのロッセリーニが、功績をたたえられて何かの金メダルをもらった亭主にむかって、「あなたが起こした革命は30年前なの。あなたの金メダルはあなたの墓標よ。」とののしるシーンがある。これは、初老の亭主に向かって決して言ってはいけない真実である。ロッセリーニに、「あなた、太って顔の周りに肉がたぷたぷするようになったね。美を定義していたころとは、だいぶ変わったね」と言わないことで世界が成り立っているのと同じである。建築家ではなくて、学者にもこれは言わない方がいい。彼や彼女が必死で書いて、できはともかく大いに誇りにしている書物が墓標に似ていることも、大いに関係ある。

脇の役者たちも、素晴らしかった。


http://saikou-jinsei.com/pc/
公式サイトの予告編は、ロッセリーニの顔伸ばしのシーンがあって、じっくり観るに値する。でも、私は二回は観ないことに決めた。

敬虔な優生学者 アレクシス・カレル

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Reggiani, Andr?s Horacio, God’s Eugenicist: Alexis Carrel and the Sociobiology of Decline, with a foreword by Herman Lebovics (New York: Berghahn Books, 2007).
アレクシス・カレルはフランスで生まれて医学教育を受け、カナダとアメリカに移住してニューヨークのロックフェラー研究所に勤め、1912年にはノーベル医学・生理学賞を受賞した医学者である。受賞の対象となった業績は、血管の縫合と、臓器移植についての実験である。アメリカが初めて自国に迎えた医学賞の受賞者であったという。カレルがロックフェラーで行った一連の実験とその内容・発表は、科学者らしい抑制を取り払ったド派手なもので、実験室での助手にすべて黒衣を着せるだとか、自分の達成を劇的に見せるために実験の難しさを強調するといった、「科学の進歩の劇場」のテクニックをふんだんに使ったものであって、他の医学者たちには不評であった。

1930年代には、カレルは医学研究の第一線を退いて、1935年にはMan, the Unknown(『人間―この未知なるもの』)という一般向けの著作を書いた。これは、19世紀の科学の一般化のパターンである、基本的には素人の書き手が一般向けに書いた科学啓蒙書とは違う20世紀のパターンに沿ったものであって、ある専門的な分野で傑出した業績を上げた科学者が、学生や知識人に向けて書いたという性格を持っていた。それにもかかわらず、アメリカとフランスでこの書物は大成功し、すぐに世界の各国語に訳され、1990年代初頭までに20か国以上で200万部以上を売り上げている。

この書物は、フランスの田舎で育ったカレルがニューヨークに来て経験した現代文明を批判して、西欧文明の没落を医学的に説明し、その処方箋を書いたものであった。西欧文明の没落を医学的に説明すること (a medical model of cultural decline)は、19世紀の変質論以来の伝統をもち、それほど特徴的なことではなかったが、その処方箋は、民主主義を批判し、優生学の政策を語り、最終的にはナチスの政策を称賛するものであった。この著作の内容を象徴するかのように、カレルは第二次世界大戦でフランスがナチスに占領されると、ヴィシー政権の協力者となった。

このカラフルな医学者は、もともと敬虔なキリスト教徒であり、19世紀末のフランスの科学・医学に満ちていた反教権主義に反発していた。当時、シャルコーが批判し、ゾラがその「真実」を暴露する小説を書いていた巡礼地のルルドが、カレルの一つの出発点となっていた。彼は、ユイスマンスなどによるゾラへの反論に共感し、ルルドを訪問した時の宗教的な感動を記した自伝的な文章を若いころに執筆している。カレルの生涯と医学研究には、宗教性が大きな影をおとし、このことは、カレル(と同時代の医学)が主張した、還元論的な医学から脱皮してホリスティックな医学を作ろうという思想に影響を与えた。また、文明を医学的な手段によってすくうことを叫んだ『人間、この未知なるもの』にも、保守主義とキリスト教信仰が影響を与えている。

20世紀の後半になって、カレルは不思議な「復活」を果たし、再び話題の中心になった。フランスの極右の政党はカレルを称賛してたたえ、一方で、左翼からは激しく批判され、かつての偉大な医学者の名を冠してつけられた研究所や通りの名前から、カレルの名前は削られた。なお不思議なことに、イスラム原理主義もカレルに共感を示した。(ついでにいうと、カレルの日本語訳は、1938年に桜澤如一というホリスティックな医者によって行われているが、それに加えて、2007年には右翼と優生学の論客の渡部昇一によっても行われている。

ギリシアにおける身体の発見

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Holmes, Brooke, The Symptom and the Subject: The Emergence of the Physical Body in Ancient Greece (Princeton: Princeton University Press, 2010)
必要があって古代ギリシアにおける「身体」と「主体」の形成についての傑作を読む。古代ギリシアにおいて、ホメーロスの時代の人々はひとまとまりの「身体」という概念も持っていなかったし、さらに重要なことに、人格の中枢をなす「精神」「魂」という概念を持っていなかったという、有名なブルーノ・スネルの主張(『精神の発見』がある。今年の「身体の歴史」は、この説明から入ってから、ホームズの議論につなげようと思っている。そのために、2章・3章をチェックした。

スネルらが、ホメーロスにとっての身体は「四肢」であったとか、別の学者がホメーロスにとっての人格は、神々が干渉する開かれた場であったと論じているように、主体としての統一を持つ人格の概念はどのように作られたのか、そのうえで「身体」についての概念の変化がどのような役割を果たしたかというのが本書の主題である。それを論じるうえで、「見られた統一」と「感じられた統一」seen と felt という二つの概念を使い分けて論じる。

スキンによって囲まれている「見られた」人物は、人格の境界を想像する一つの方法であったが、それがただ一つの方法ではなかった。神やデーモンなどの力は、この領域に侵入する。それは力や勇気や苦しみを与える「息」としてでもあり、槍のようにも侵入したし、怒りを送ることでもあった。ここで重要なのは、「感じられた」統一である。しかし、それにもかかわらず、空間的な境界と身体化されたものというのは、人間と神々の間のインタラクションにとって重要であった。神々というのは、人間の国家に介入し、その運命を決めるという社会的な役割をはたし、もちろん人格的な性格を持っている。この身体の周りと内部と、外部の神々とのインタラクションが、「身体をもっている」という主体的な経験となっていたのである。

このパターンが、科学的な思考とともに「見られる」身体へと変わっていく。見られる身体が従う原理は、「熱・冷・湿・乾」などの自然の力であって、人格化された力がない、脱人格化されたもにになる。

これは、後にキリスト教や古代後期の社会で重要になる悪魔や悪霊などによる possession の概念とは大きく異なっている。そこでは、デーモンは身体という空間に「宿る」何かになっている。(bodily habitation) この憑依の概念が可能な一つの背景は、身体が、ある境界で区切られた、統一性を持った何かになっているからである。一方で、ホメーロスの身体は、比較的自由に神の息が入ったり出たりする場である。

この議論は、ヴァレリーが論じている「三つの身体」に少し似ている部分がある。ヴァレリーは、直接的な身体、形を持つ身体、そして科学が探究する皮膚の下の身体という区分で考えた。これを学生レポートで出そうかな。

国立療養所史研究会編『国立療養所史』

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国立療養所史研究会編『国立療養所史』(東京:厚生省、1975)
明治以降の日本の医療や病院は、西洋の病院と大きく違って、もともと民間が担い手であった。公立といっても府県立や市立などの地方自治体が主力であったため、国立の病院や療養所の誕生は非常に遅れ、やや特殊な成立の過程をたどった。結核は、昭和12年以降に各地で急激に建設され開設された傷痍軍人向けの療養所が、戦後の軍の解体にともなって国立に切り替えられること、また、日本医療団が管理していた結核療養所が、戦後の日本医療団の解散にともなって、国立に切り替えてつくられたものである。日本医療団の管理下のもののうち、どれだけが法律で定められた公立(府県立)の収容所であり、そうでないものはどのくらいかということは、きちんと調べないとわからない。らいは、昭和6年の癩予防法が定めた国立の療養所群が、戦後の療養所の主体であった。

一方、精神医療・神経障害の国立療養所は、ほぼ純粋に軍の起源からなる組織であった。もともとは、軍人のうち神経・精神障害を病むものを後方に送った病院として国府台の病院があり、そこからさらに傷痍軍人として療養するべき存在として送った施設が武蔵療養所であった。この武蔵野療養所に、昭和20年の10月にできた肥前の精神療養所をあわせて、精神病の国立の療養所が作られた。いずれも軍の施設であった。

目を通していたら、大都市が必要とする望ましくないものを周縁地に押し付けるという事態があったので、メモしておく。「大正3年の結核の療養所の設置および国庫補助に関する法律で人口30万以上の市に対して、1/6から1/2の補助を国庫から行うことと定められたのを受けて、大都市は結核の療養所を設置した。これはもちろん開明的で、貧困のために私立の療養所などには入れない患者に対する人道主義的な配慮を持つ動きである。しかし、療養所の設置は、都市を維持するのに必要なのぞましくない施設を、都市の外部や郊外に設置することと並行して行われていた。大正5年6月の『東京朝日』は、東京府の多摩郡野方村(現在の江古田の附近)の農民の不満を掲載しており、そこでは、まずは落合に火葬場が作られ、次は上高田に、寺院や市ヶ谷の監獄が移転し、さらには塵芥焼却場が作られるという話もあったが、そこに、今度は市の結核療養所ができるというので、農民たちは強い不満を著したという。

チャールズ・C・マン『1491 – 先コロンブス期アメリカ大陸をめぐる新発見』

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チャールズ・C・マン『1491 – 先コロンブス期アメリカ大陸をめぐる新発見』布施由紀子訳(東京:NHK出版、2007)
アメリカの優れたサイエンス・ライターの一人で、アスピリンの誕生から100年をまとめた『アスピリン企業戦争』という優れた著作もあるチャールズ・マンの傑作が翻訳されていて、喜んで読んだ。この書物の評判が高かったため、続編として1493という書物も書いている。

コロンブス以前のアメリカについて、アズテカ文明やインカ帝国などの例外を除いて、総じて原始的・プリミティヴで歴史的な変化に乏しかったというステレオタイプが受け入れられているが、現実はそうではなく、アズテカやマヤ以外にも、各地において、きわめてダイナミックに変化していた文明圏が存在していたという新しい姿を伝えている書物である。近年の考古学と生態学の研究を縦横無尽に使って、この姿を伝えている。特に、南北アメリカの各地に、コロンブス以前の原住民が手を加えた形で、自然と人間の活動の双方が織り込まれたランドスケイプが存在しているという議論は面白かった。もともとは授業で使えないだろうかと思ってみた本で、確かに事例などは面白いけれども、私の専門との距離がありすぎる話である。

一つ面白かったのが、「ホームバーグの誤り」と題された節で、アメリカの原住民に「非歴史性」「受動性」を読み込んでしまう力学を説明した部分であった。ホームバーグというのは、アラン・ホームバーグという人類学者で、1940-42年にかけてボリビアのベニ地方のシリオノ族をフィールドワークして優れた著作を書き、後にコーネル大学の人類学科の主任となった人物である。ホームバーグは、シリオノ族の飢え、貧困、衣服も家畜もない状態をみて、彼らは世界でもっとも文化的に遅れた人々であると断じた。ここには、先住民を救い難い凶暴な野蛮人とみるか、あるいは高貴な野蛮人として理想化して黄金時代の素朴さを発見するか、いずれにしても彼らに歴史がなく、白人だけが歴史を作ることができる行為者であったというモデルに基づく断定があった。

こういう理念の問題だけでなく、ホームバーグがこの観察をしたときに、シリオノ族は最悪の状態にあったということにも留意しなければならない。1920年代に天然痘とインフルエンザがシリオノ族に襲い掛かり、人口の95%が死んだ。また、白人による搾取も存在した。1940年のシリオノ族の生活は、難民のようなものであり、ホームバーグはそれを目撃して、シリオノ族を原始のままでいたと想像したのである。しかし、現実には、その地域は約1000年前に黄金時代を迎え、広範な地域に整然とした村や町を建設していた発展した文明であった。

それから、185ページから展開している議論は、フランシス・ブラックの有名な研究を引用したもので、これは、授業でも少し説明することにした。アメリカの原住民は、ユーラシアからわたってきた少数の人々の子孫なので、全体として見た時に、遺伝的な均質性が高い集団となる。そのため、ヒト白血球抗原(HLA)のプロフィールが単調で、ヨーロッパでは35以上のタイプが観察されたのに、インディオの集団では17以下にとどまった。(このあたり、自分で何を書いているのかよく分かっていませんが。)南米のインディアンでは1/3がほとんど同じHLAプロフィールを持っているのに、多様な集団による混血が繰り返されたアフリカを例にとると、この割合は1/200 になる。アメリカの原住民は、病気にかかったときに、同じような経過をたどってしまうのである。だから、死亡率が高くなるという議論である。

ロンドンの公衆衛生資料の決定版のデジタル化

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ウェルカム・ライブラリーが、ロンドンとその近郊の保健医官 (Medical Officer of Health) の報告書をデジタル化する計画を発表した。これは、1848年から1972年までの、約7,000点の報告書をデジタル化し、約40万ページのテキストをOCRしてダウンロード・検索できるようにするものだという。この手の報告書には必須の統計表も使えるようにするとのこと。以下のサイトをご覧ください。
http://wellcomelibrary.blogspot.jp/2011/12/medical-officer-of-health-reports-to-be.html
http://www.jisc.ac.uk/media/documents/programmes/digitisation/mohprojectplandec2011.pdf

ポール・ヴァレリー「身体に関する素朴な考察」

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ポール・ヴァレリー「身体に関する素朴な考察」『ヴァレリー・セレクション』上・下巻、東宏治・松田浩則訳(東京:平凡社、2005 )、下巻237-253ページ。
「血液と私たち」という表題を付されたひとまとまりの内容を持つ断章群が一つ、「三つの身体の問題」という小文が一つからなる文章である。「血液と私たち」は、生命機能を人工的に代替する操作を通じて、生命体の本質は何かという問いを立てたものである。生物の組織や機能を人工的に外から供給したとき、生命の内部にある数多くの装置のうち、なしですませることができるものがかなりあるだろうということから出発した議論である。もう一つの「三つの身体の問題」は、それに加えて仮想できる「第四の身体」がおそらくもっとも有名な部分なのかもしれないが、前の三つというのは、スネル『精神の発見』や、Brooke Holmes の身体と症状と主体の議論と直結する重要な議論である。ヴァレリーによると、身体には三つの意味があり、第一は、我々が生きるそれぞれの時間ごとに、我々がそこにあることを前提としている身体である。これは、他人に聞かれると「私の身体」と答えるが、どちらかというと、「私が、その身体に属している」という性格のほうが強いほど、「私」という現象に密接に結びついている身体である。第二の身体は、人の視線に対する外見としての身体であり、それは鏡を通じて私にも観察される身体である。表層において成立する身体である。

自意識であれ外観であれ、どちらの身体についても、実は皮膚の下に存在する何かが存在すると考えさせる理由は何一つない。しかし、皮膚の下に複雑な組織があり、それらは精巧な装置であることが分かっている。これを第三の身体と呼ぶとすれば、これは、「第三の身体というものがあることになる」。この第三の身体の記述の仕方が的確である。そこから色々な色の液体が流れ出してしまい、さまざまな大きさの内臓があり、スポンジや壺や管のような組織がある。こうしたものをすべて薄い切片にして顕微鏡でのぞくと微粒子の姿が見えるが、「それは何にも似ていない」。

解剖学的・生理学的な身体の位置づけは、「あることになっている」という部分がキモである。その解剖を微細にしていって見えるものは、「何にも似ていない」ということも大切である。

キリスト教社会の形成と身体

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必要があって、『私生活の歴史―古代からビザンティンまで』の中のピーター・ブラウンによる章を読む。文献は、Brown, Peter, “Late Antiquity”, in Paul Veyne ed., A History of Private Life I: From Pagan Rome to Byzantium, translated by Arthur Goldhammer (The Belknap Press of Harvard University Press: Cambridge, Mass., 1987), 235-311.

ブラウンの The Body and Society は、私が最も好きな書物の一つで、いつかは、あのような本を書きたいなと思っていると同時に、彼が一つの章を書いている『私生活の歴史』の5巻本は、通史の中で私が一番熱心に読んだものである。授業の準備のためにいろいろな通史を持っていて、たとえばケンブリッジの日本の歴史6巻本や、ケンブリッジの図説中世史の3巻本、オクスフォードの10巻本の簡略ヨーロッパ史のシリーズなどをときどき授業の前に読むけれども、これらは背景の知識を仕入れるために読むのに対して、『私生活の歴史』は、どの巻も熱心に読みふける愛読書である。

ブラウンの議論は、ローマ帝国の衰退期に広まったキリスト教を、新しい信仰を与えたと捉えるだけでなく、時間と空間を包含した中での個人の身体と自己を捉えた、素晴らしい広がりと深みを持っている。すなわち、キリスト教が示した世界の創造から最後の審判という時間的なヴィジョンを、これまでの都市文明とは異なったトポグラフィを持つ「修道院」という形での空間的な位置づけを持っていたものとして捉え、修道院のキリスト教が提示した夫婦・家族・共同体・人類といった社会関係の新しいモデルを分析し、それを通じて新しい身体と自己の実践を記述するというものである。この修道院のモデルを、ブラウンは「砂漠のモデル」「砂漠の挑戦」という。修道院は、都市や街などの都市共同体の外の人里離れた場所にできた拠点であった。かつては、都市における同胞との交流の中で道徳が形成された「恥の文化」であったのに対し、修道院においては、そこで神と自己が向き合う「罪の文化」が形成された。「砂漠の挑戦」は、さまざまな宗派によるヴァリエーションはあったが、全体として、性と結婚と家族と人間社会に疑問符をなげかけ、再検討をせまるものであった。ポイントになったのは、原罪以前のアダムを、人間と人間社会と人間の歴史の一つの原型として明確に設定したことであった。彼にイヴが与えられ、そして彼女に言われて知恵の木の実を食べたあとに発生した、性、夫婦、生殖、出産、労働は、人類の歴史が<偶有的に>持っている要素にすぎず、本質的な流れは、アダムから最後の審判に向かって流れている歴史であった。「砂漠の挑戦」は、都市の外に作られた修道院と、その周囲に形成される社会関係と、そこで語られる思想、行われる実践が、真の歴史に踏み出す一歩であるという、都市型社会の思想と身体実践に対する歴史的・空間的なアンチテーゼであった。

アウグスティヌスの結婚と性の思想

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Peter Brown, The Body and Society のアウグスティヌスの部分を読み直す。アウグスティヌスは、ブラウンが言うところの「砂漠の思想」に向き合って、結婚を正当化する一方で、性の快感に心理的な深い不安を与えた。即ち、初期キリスト教が持っていた、人間社会の根本にある結婚とセックスへの疑問に答えて、アダムとイヴの性交を肯定して、結婚を正当な人間社会の中に位置付けたと同時に、セックスの快感を、人間がそれとともに生きねばならない原罪の徴であると考えた。

a) 彼以前の禁欲派とは違って、アダムとイヴは楽園追放以前に性交を行う可能性があったか?という問題にイエスと答える。このことは、結婚の中での性交という重要な社会制度を正当化する役割を果たす。
b) 楽園追放以前にアダムとイヴがもし性交したとしたら、彼らの意思に従って愛情に満ちたものであり、そして子供を作ることができるセックスである。我々が感じているような情欲や快楽の奔流に我々の意思が流されるセックスではない。このように、アウグスティヌスは、結婚―性交―生殖という行いを、キリスト教の人間の本質に近い部分においた。
c) 一方で、この快楽は神が人間に与えたものであり自由意思によってコントロールできるというオプティミスティックな態度をとった他の著作家とは異なり、アウグスティヌスはアダムの原罪の結果、我々人間は全て、性の快楽と自由意思の深い裂け目とともに生きなければならない、と主張した。
d) 即ち、我々の理性と自由意思に反して我々の身体が振舞う性の快楽の頂点こそが、我々にはどうにも乗り越えられない深い原罪の結果を我々に強烈に思い出させる特権的な事例である。

アウグスティヌス、および彼の影響を受けた後のキリスト教会においては、結婚内における性交は、重要なものとして認められ祝福され、社会の中で安定した役割を与えられる。しかしその一方で、結婚の中でさえも、a) 性は他の身体過程とは異なった特別な原罪のしるしが現れる場であり、b) 性交の快楽の罪深さは乗り越えること、消し去ることができないものであり、我々はそれとともに生きていかなければならない、という緊張した心理的な過程が性をめぐって想定されたことになる。

原武史『可視化された帝国』

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原武史『可視化された帝国』(東京:みすず書房、2001)
精神医療の研究のヒントを求めて、近代の天皇の行幸を素材にして「視覚的な権力」を論じた書物を読む。素晴らしいヒントをもらった。

タカシ・フジタニが日本における「想像の共同体」の成立について論じた議論を批判して、新しい理解の枠組みを提示した書物である。フジタニは、日本における国民国家と想像の共同体の成立を論じる中で、明治初期の天皇による巡幸・行幸にふれ、これは時代遅れの仕掛けになっていったという。天皇の身体が動くことで、日本全国を領土として空間的な連続体として形成した仕掛けにおいては、違った時間に違った町や村を訪れるという形で、儀礼の中心が移動するから、別の町や村に住む人たちを、同時に、定まった点に凝集するのには不都合である。それにかわって、明治後期から中心的な役割を果たした「御真影」や帝都での儀礼やパジェントが、個人個人と空間を超えて同時的につながり合うことを可能にする仕掛けとなったという。

この議論は、明治後期以降も、天皇の巡幸・行幸や、皇太子の巡啓・行啓が頻繁かつ盛大に行われ、その演出が設計され、人々が熱狂的に参加したという現象を完全に見落としたものであり、本書は、この現象を主軸に据えて、「視覚的権力」を再構築しようとする。

明治後期から、当時の皇太子(のちの大正天皇)は、さかんに巡啓・行啓をするが、彼は、明治天皇とは異なった、きさくな性格の持ち主であり、積極的に一般民と会話をかわした。(トラホームが法定伝染病に入っていないのはなぜかと金沢医専の校長に尋ねたりしている。)天皇になってからは病気が進行し、当時の皇太子(のちの昭和天皇)が摂政となって、天皇のかわりに巡啓などをするようになる。この儀礼装置は、近代的なテクノロジーによって支えられていた。皇太子はさかんに活動写真にとられ、移動は鉄道を用いて行われた。鉄道は定められた時間に従ったため、列車が通過する時間には、線路の方角にむかって沿線住民が最敬礼するということも行われた。昭和になると、大礼にあわせて急ピッチで進められたNHKのラジオを用いて、さまざまな国家儀式の様子が報道され、国民はそれらにあわせて天皇の臣民として一体化した。

のちに青年将校として二・二六事件に加わった大蔵は、現実の天皇に、水を打ったように静かな会場で最敬礼したときに、これは間違っている、天皇を雲の上におく妖雲が存在する、この妖雲をはらったその日には、国民と一緒に天皇を二重橋の上で胴上げしようではないかと考えたという。

・・・天皇を胴上げ、ですか。私個人としては、見たことがないどころか、思いついたこともない儀礼で、自分が持っている天皇制への姿勢の形が、一瞬、おぼろげながら見えた気がしました。

1949年の学生性行動調査

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朝山新一『現代学生の性行動』(京都:臼井書房、1949)
朝山新一は大阪市立大学の教員で、関西地方の大学予科、高等学校、専門学校などを中心にして男子約700名、女子約300名を選んで詳細な性行動調査を行い、1949年に出版した。この調査には、京都大学の動物行動学のスタッフと協力したとあり、協力者には、今西錦司、梅棹忠雄などの有名人の名前も見える。

ページをめくるのがまだるっこいような面白い本で、しばらく読みふけってしまった。自慰とキスと性交についてだけメモする。自慰は、男子学生のうち経験ありと答えたものが90.8%であるのに対し、女子学生は経験ありと答えたものは9.8%にとどまる。ただ、女子学生の中には回答しなかったものが58.7%存在する。

キス(接吻)は、男子学生が29.4%、女子学生は25.1%が経験している。なお、キス経験率において、女子学生の中で学校別に大きな差があり、9.1%から53.3%までの開きがあった。この学校別の差のために、特定の学校に悪い評判が立つのを恐れて、学校名はこの書物では公開されていない。(おそらく、すでに歴史学者が明らかにしていると思うけれども。)

キスの経験率が男女の差があまりないのに対し、性交については男女の差がかなりあって、男子学生の13.8%が性交を経験しているのに対し、女子学生は4.9%にとどまる。しかし、男性の経験のうち4割以上が接客婦、公娼、私娼といった売春なので、これを除くと男女差は小さくなる。性交の経験ありと答えた男子学生のうち、7人が近親者と関係していて、これはすべていとこである。「肉親」というのが2人いたのでぎょっとしたが、これは、いずれも「あによめ」であるとのことで安心した。いや、安心していいというわけではないのですが(笑) 女子学生の相手のほとんどは学生である。避妊については、女子学生は5割が実施しているのに対し、男子学生は「答えなし」が72.3%で、「考えなかった」が10人、「無関心」が10人であり、「実行した」のは1人である。

同性に性的な興味を持ったと答えたのは男性が132名で19.4%、女性が63名で22.3%で、だいたい同率である。実際に性関係をもったのは、男性が36名で、女性は12名、ただこのうち6名は「S の範囲に入るもの」だから、「軽度の接触」である。

右田裕規『天皇制と進化論』

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右田裕規『天皇制と進化論』(東京:青弓社、2009)
戦前における天皇制と進化論の複雑な関係を論じた書物である。着眼もよく、すぐれた書物だと思う。基本的な軸は、皇国史観と進化論は対立する可能性がある思想であり、実際に対立したということである。いわゆる皇国史観は、天皇は天照大神の子孫であり、現人神であるという教義をもち、一方で進化論はヒトを含めてすべての生物は進化の産物であるとしたから、この両者は当然のように衝突する。事実、不敬事件においては生物学者が「天皇も人間なり」と書いたビラを張ったとか、飲み屋で「天皇だって血や肉がある人間だ」といったとかことも立件されていたし、生物学に共感するものたちは、天皇は現人神であるという思想を迷信であると感じていた。左翼たちは確信犯的に進化論を語り、彼らの書籍などは検閲された。さらに、この天皇が生物学者であり、行幸のおりに臨海試験場などを訪れたことは、問題を複雑にしていた。

一番おもしろかったのが、優生学の位置づけである。1932年に設置された文部省の国民精神研究所は、人文系・社会科学系の学者を集め、熱心に国体論を論じたが、その中で紀平正美は進化論を積極的に攻撃し、皇国史観を守ろうとした。しかし、それと並行して、1935年に設立された青年学校や、1938年、42年の教授要目の改訂などでは、公式に進化論が教えられた。この進化論の導入は、優生学への理解を深めるためであると論じられている。

ナチズムの思想

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アルフレット・ローゼンベルク『20世紀の神話―現代の心霊的・精神的な価値闘争に対する一つの評価』吹田順助・上村清延訳(東京:中央公論社、1938)
必要があって、ナチスの論客による文明論を読む。ローゼンベルクはバルト地方のドイツ人の家系の出身で、1893年に現在のエストニアで生まれた。ナチス党の初期からヒトラーと知り合い、ナチスの重要な思想を表明した。1946年に戦争犯罪人としてニュレンベルクの裁判で処刑されている。本書は原著は第一次大戦中に構想され、1930年に出版され、すぐに激烈な論争を引き起こした。著者によると、50万部売れたとのこと。

1930年に執筆された原著の序文が、まるで教科書の記述のように、ナチズムが現れた背景を説明している。1914年にはじまった第一次世界大戦は、国家の体系だけでなく、社会・宗教・世界観における認識と価値を破壊した。人々は、最上の原則や理念がなくなった精神世界に住むようになった。しかも、そこには、集団・党派の対立や、国民的理念と国際的理念の対立、帝国主義と平和主義の対立が妥協なしに争う世界であった。「無価値」がおおう、闘争の時代が現れたのである。その世界において、大戦での戦死者を殉教者として、新しい価値観を立ち上げようとした。それは、殉教者を思い起こされる「血」という言葉によって民族を表すことをイメージの中心においていた。Rによれば、いったん死んだ血が生命を盛り返しはじめることであった。あるいは、「血の深秘的な標徴のもとに、ドイツの民族魂の、新しい細胞組織が行われるようになった」とも表現される。これによって、歴史と未来は、社会主義者が語るような階級と階級との闘争でもなく、キリスト教が語るような教義と教義との抗争でもなく、血と血の、人種と人種の、民族と民族の間の離合と折衝となる。そして、血や人種は魂の表現であるから、これは魂と魂の間の争いになる。<魂とは内面から見られた人種であり、人種は魂の外側面である>とローゼンベルクはいう。

「世界大戦において名誉と自由との・ドイツの生活とドイツの国とのために戦死したる200万人のドイツの勇士の記念のために」という献辞が付されている。

昆虫の性の魅惑

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北野博美「性欲衝動の精神生活に及ぼす影響」『変態心理』2巻8号(1918), 522-531.
下等生物における心理や運動は、20世紀の前半には精神病を理解する重要な鍵となった。この論文は、昆虫や魚類や鳥類、そして「野蛮人」から話を始めて、その性が精神にどのような影響を与えるかを論じている。ファーブルなどから引いた蝶についての記述が、あまりにも美しく説得力があるので、メモする。

昆虫にとって、生存上唯一の、しかも最高の目的としているものは「恋する」ことである。そして、彼らにとって多くの場合、恋をすることと死ぬこととは殆ど同意義なのである。ポンビシット種のナハト・バウエンアウゲン(孔雀蝶の類)の体内には、ただ巻縮した腸管の痕跡があるばかりで、蝶となって後の生活中には、ただ一度の食事を摂ることさえ不必要で、その生涯の全部を恋に費やしていい。それを構成する身体の各部位は、すべて恋の道具となっているのは極めて当然のことである。オスが持っている多毛の触角はメスを嗅ぎ知るための羅針盤であり、美麗な羽根はメスを追うための道具であると同時に、誘惑すべき装飾でもある。羽根をかざる鱗粉は一種の香気を発してメスの心を刺激するようになっている。かくてオスはメスをたずねて森を超え、野を飛び、ついにメスに達すると数時間の恋の享楽が続いて、オスまず疲弊して斃れ、メスも卵を産んでその生涯を終える。

多くの高等動物および人類にあっても、性の衝動のために全感覚や全精神の刹那的魔酔に陥る。しかし、この魔酔に陥ってしまうことも人類にはできないので、複雑な心的現象が現れる。

「身体の各部位がすべて恋の道具になっている」という表現は、「虫の詩人」と呼ばれたファーブルの影響なのだろうか。どうであるにせよ、この蝶の記述は、エロティックな文章として磨き抜かれた感性を持っていないだろうか。昆虫学というのは、全身が恋の道具である昆虫に魅惑されて、官能的な視線を持っているのだろうか。何が言いたいかというと(笑)、『キンゼイ・レポート』でアメリカ人の性の規範をくつがえしたと言われるアルフレッド・キンゼイについて、学生を驚かせようとして、<実は>昆虫学者であるという説明をしてきたけれども、昆虫学者だからこそ、人間の性の多様性に魅惑されたのだろうか、という思いが頭をよぎった。たしか、数年前に書評だけ読んだ伝記でも、そのようなことが書いてあったのかもしれない。

大正の少年受刑者の夢

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苅谷哲公「少年受刑者は如何なる夢を結ぶ乎」『変態心理』2巻7号(1918), 455-461.
著者は福岡監獄の教授主任とある。18歳未満の少年105名の夢を調査し、287件の夢を得た結果の分析である。多い夢をメモするだけにする。

放免されて家郷にいる―20
帰宅して親に叱られる―17
餅菓子をたくさん食う―6
活勉写真[ママ]を見る―7
蛇に追われる―5
火事にあう―6

一位も二位も家に帰る夢なのですか。囚人にとって帰郷の夢が多いのは避けがたいですし、「思い出のグリーングラス」がそういう歌でした。一方、蛇と火事の夢が断然多いことが、当時の恐怖の構造について何かの意味を見出したくなります。

大正の未亡人の心理とヒステリー

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Y婦人「未亡人の心理―現実界を離れて」『変態心理』4巻4号(1919), 387-394.
「婦人は、ヒステリーか、結婚か、宗教(信仰)かによらなければ生きてゆかれないものだという婦人についての批評をいつか聞きました。本当に当たっているかもしれません。前に私は自然で自由でありたいと申しましたが、ヒステリーはたしかにこの自由なところがないから罹る病気だと存じます。そして子供のない未亡人がもしその後独身で通そうとする場合には、よほどの信仰を持つ人でない以上はヒステリーにもなりやすいと思います。(中略) こう考えてきますと、未亡人に最も大切なのは信仰に生きることです。ヒステリーは絶対に避けなければならぬもの。結婚はその場合と其の人によりけりで、一口に申せば浪漫的愛からの成立は許してもよいと思いますが、純なものは殆ど有りえないことと思います。多くは日向きむ子のように打算的の結婚になります。」、

ちなみに「日向きむ子」というのは、Wikipedia によると、代議士の夫の死後、若い詩人で9歳年下の林柳波と結婚してスキャンダルとなった美人であるとのこと。いや、それは、当時の女性に妬まれるでしょうね。

明治・大正の女工の結核と賃金の上昇

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速水融・小嶋美代子『大正デモグラフィ―歴史人口学で見た狭間の時代』(東京:文芸春秋、2004)
速水先生が学生と共著された『大正デモグラフィ』をチェックする。基本的に駒場の科学史で育った私が、イギリスに留学して一番驚いたことは、イギリスにおいては医学史とデモグラフィ・歴史人口学はとても深い関係がある学問領域として理解されていることであった。私が学生のころは、オクスフォード大学の医学史セクターは、歴史人口学の領袖であったリチャード・スミスがセンター長をしており、イギリスの歴史人口学(いわゆるケンブリッジ・グループ)の方法は、医学史研究に大きな影響を与えていた。思想史・文化史や医療倫理の脈絡で<発見された>歴史資料である患者のカルテ(症例誌)という資料は、医者と患者関係の権力の微視的な物理学が刻まれた資料であると同時に、歴史人口学者たちが「個票」と呼んで、個人の属性をベースにした計量的な分析を可能にする資料でもあった。当時の医学史研究、特に精神医学史研究は、症例誌の記述を使って医の権力分析をする私のようなタイプの学者と、それをデータベースに流し込んで分析するデイヴィッド・ライトのような学者が、相互に視点や方法論を交換し合っていた。日本に帰ってからも、経済学部には同僚に友部謙一さんという優れた歴史人口学者がおり、彼を筆頭に速水先生、斎藤修先生、浜野潔先生、鬼頭宏先生などには大いに勉強させてもらった。

この書物は、大正期のさまざまな人口学上のデータがわかりやすく書いてある一般書で、つい便利で利用してしまうが、実は、医学史上の問題についてはあまり利用してこなかった。医学史に直結する話題としては、結核とスペインかぜがあり、それぞれ1章ずつ合計2章が割かれている。結核については、日本の紡績工場は成長し、明治43年には大阪の19を筆頭に、日本中で大小合わせて88の紡績工場が存在した。第一次世界大戦の好景気で、生産が上向きに転じ、女工の奪い合いとなる状況がおきた。こういう条件では賃金が上昇した。しかし、それにもかかわらず、長い労働時間と寄宿舎生活のために、仮に賃金が高くなっても女工たちは結核に感染し、それを田舎に持ち帰った。女工として帰省したものの死亡率は、女工に出なかったものに較べて3-5倍になったという。大都市の工業化のマイナスの影響、柳田國男の言葉を借りると「忌まわしい無形の形見」が地方に持ち帰られたことを示している。

この記述のポイントは、「賃金が上昇したとしても」という部分である。これまでの女工の結核の議論は、「寄宿舎における劣悪な生活環境」という言い方で済ませてきて、その劣悪さを分節化することをしなかった。速水がここで試みていることは、賃金の水準が上がったとしても、女工たちが、あのような労働時間と居住環境のもとに置かれているかぎり、結核罹患には関係なかったという議論である。何を細かいことを言うのか、どのみち結核に罹ったんじゃないかという人もいるかもしれないが、帝国陸軍の兵士の脚気と較べてみると、共通点が浮かび上がる。よく知られているように、兵士の脚気の原因となったのは、兵士たちが喜んで貪り食っていたぜいたく品である白米であった。白米を三食摂取できる生活というのは、そのまま農家にいた場合よりも間違いなく水準が上昇した生活である。しかし、その上昇した食生活が脚気を招いたのである。

女工の結核にも、同じ部分があるのではないだろうか。彼女たちの寄宿舎という空間は、兵士たちの兵舎という空間と同様に、近代化の前進線に沿って現れた新しい生活と環境の空間の疾病であった。その空間では、生活水準が下がることもあり、上がることもあったが、そのエコロジーを利用した疾病が現れたと考えられないだろうか。

北米の優生学

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Dowbiggin, Ian Robert, Keeping America Sane: Psychiatry and Eugenics in the United States and Canada 1880-1940 (Ithaca: Cornell University Press, 1997).
アメリカとカナダの精神医学と優生学の複雑性を、実際に精神病院などにおいてワゼクトミーなどの断種手術に携わりながらその実用性・実行可能性・当時のさまざまな水準と意味における道義性に着目しながら記述した著作。アメリカやカナダでかつての優生手術の倫理性が疑問に付され、施術を受けた患者が賠償を求めて訴訟するなかで、優生学がナチスと結び付けられて「批判しつくされるべき過去の悪」として注目を集めていた時期に、優生手術をめぐる事態の複雑さを、アーカイヴのリサーチに基づいた歴史研究で明らかにしたのは、「玄人受け」と言えばそれまでだけれども、私は非常に重要な仕事だと思う。

主人公の一人が、ブルーマー(George Alter Blumer)という、イギリス出身でアメリカで成功して精神科団体の長にまで上り詰めた精神科医である。彼は公立の精神科病院で、医療によって何もできず、ただ慢性化して蓄積されていく公費の患者の群れを見る精神医療を経験すると同時に、私立の精神科病院で裕福な患者のアルコール依存症などを治療するというような、別の社会的な構造の上で成立した二つの精神医療を経験していた。彼の優生学と断種に対する態度は、この二つの精神医療のどちらを重視するかによって変化してくる。彼が公立の精神病院をもとにして語るときにはロンドンのモーズリーやエディンバラのクルーストンに賛成して断種にシンパシーを示すが、富裕なアメリカ人の家庭の将来について発言するときには、断種に反対の態度を示す。たとえば、彼自身が1914年に講演をしたときにそのイラストレーションに配った風刺漫画があるが、そこでは、「愛に基づいた結婚」に、医学と健康に基づいた結婚が取って代わった様子が漫画にされて風刺されている。精神科の医者にとって、優生学への態度というのは、もともと大きく変化する可能性を含むものであったのである。
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