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Channel: 身体・病気・医療の社会史の研究者による研究日誌
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横溝正史『迷路荘の惨劇』と沼正三『家畜人ヤプー』

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今日は無駄話。

ある個人の「文体」の問題は、文学を研究している人たちはよくご承知だと思うし、もっと深く・的確に説明すると思うけれども、歴史学者もときどき資料の著者の問題を中心にして文体とはなんだろうと考える。文学研究者に較べて著者の同定は上手でないと思うけれども、その中で、一度文体研究の専門家の意見を聞いてみたいと思っているのが、沼正三の『家畜人ヤプー』である。

『家畜人ヤプー』は長期にわかって覆面作家(たち?)が描いてきた作品であって、どの部分を誰が書いたかを特定するのが非常に難しい作品である。私は真剣に考えたり分析したことはないけれども、臺28章までの『奇譚クラブ』に連載された部分と、そうでない後年に発表された部分の二つに分けて考えられることは確かだろうなと思っている。この「確かだろう」というのは、実に偉そうな言い方だけれども、実は著者である沼正三自身が「すべて私が書きました」と言っているのを否定した発想であって、まるで確かな証拠を持っているかのようだけれども、特に確かな証拠はない。ただ、小説の構成の仕方、ストーリーの展開の方法、ひけらかす知識の分野、物語の口調、登場人物の性格の造形、ギャグの<つぼ>など、文体と呼べるものを考えたときに、『家畜人ヤプー』は二つのセットに分かれると考えるべきだろうという、まさしくナイーヴな直観的なものである。 このナイーブな直観から始まって、偉そうな理屈や歴史学的なこねくりを披歴しろと言われたら、優生学とか外科手術とか排泄物の処理とか得々と話すと思うけれども、実はその基本にあるのは、文体の違いについてのただの直観にすぎない。

横溝正史の文庫本が杉本一文の表紙絵を復刻して出始めたので、どちらかというとその表紙が欲しくてかなり買ってしまった。 買ってしまうと、それを読まないのももったいないので(笑)、『迷路荘の惨劇』を読んでみた。そのときに、『家畜人ヤプー』の後半を読んだときのような印象を持った。 これは、横溝正史の有名な傑作を書いた人物の筆になったものではない!という印象である。横溝作品にはいろいろな欠陥があるのだろうが、『悪魔の手毬歌』『獄門島』『犬神家の一族』などは傑作だと思う。その作品と『迷路荘の惨劇』が、同じ著者の筆になったとは思えない。登場人物の人物模様とその動かし方や性格の造形など、こう、作品としての基本的な部分が違う。金田一耕介の性格も違い、まるで別人のように見えるほどである。横溝正史が忙しくなり、この作品はゴーストライターが書いたのだろうか?といぶかしく思うような違いである。それとも、やはり横溝が書いたのかなあ。

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